Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.21訂正
1999.9.15

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「洗心洞通信 23」

大塩研究 第28号』1990.3 より

◇禁転載◇

 

◇十二月例会

 例年より少し日程がずれこんだが、八九年十二月九日、京都へ調査出張された東京大学史料編纂所助教授・藤田覚氏を迎えて、成正寺において例会を開いた。同氏は「天保期の社会−大塩事件に触れて」と題して朝幕関係を考える上でも大塩事件は重要な画期をなすと注目すべき内容を示され、参加者の関心を集めた。おもに「公武御用日記」「実久卿記」「基豊公記」など公卿日記を使い、また「天保雑記」「甲子夜話」なども援用して、天明七年(一七八七)六〜七月の京都の千度まいりとともに、それが天保八年(一八三七)の大塩事件にも関白と所司代との示談に先例となり、朝幕間係を画期づける要因となっていること、大坂・京都の市中の出来事を江戸へ伝奏することは未だなかったのに、大塩事件が報告されていること、また事件後大塩余波がつづき、乱を正当とみる考え方が存在したこと(大名をふくめて)、家斉の死後大規模な政治改革が進んだことにも一定の大塩の影響が考えられることなど、事件の果した役割を政治史の観点から照射された。(本号掲載)

◇小西利子さんからの相次ぐ通信

 東京都稲城市在住の小西利子さんからここ数年長文の研究成果が、会事務所や委員等に送られている。すでに本誌第26号にも令息小西慧氏が「我が家の大塩平八郎伝承−霧の中のルーツを訪ねて−」を発表されているが、利子さんは伝承解明のため、徳島や伊豆半島方面へ調査に出かけておられる。

 小西さんの実家、伊東市の小川家が大塩平八郎中斎とつながるという伝承がある。利子さんの母の話に曽祖父(利子さんの)にあたる戸嶋屋政兵衛が実は大塩その人で、事件後ここへ落ちのぴてきたという。問題はその伝承の発端であろう。沼津市にある本光寺住職であった日舜大僧正が、一九三五年一月に利子さんの父にあたる小川三千作のために古い過去帳を改めて与えたときの発言から始まっているようである。この過去帳には、沼津小川家の始祖とある小川政兵衛について、戒名本妙院宗信日観居士・阿州那賀郡大京原理三右衛門二男、弘化二年八月九日没、四十三才と記されている。戸嶋屋の姓が小川にあたるが、文面どおりによむと、この人物が阿波の那賀川町から沼津へ移住して新しい商売をはじめたことになる。

 高僧がどうしてこの人物を平八郎とみたのであろうか。糸のほぐれをとくには、糸口を探すことが第一である。この発言が正しいかどうかを解くことがカギのように思われる。

 それにしても、大塩ほど各地に末裔説・生存説や潜伏説の伝わっている人物も珍しいのではなかろうか。そのことの意味は大きい。

◇東京都世田谷区の大塩関係史料

 先年国立史料館教授森安彦氏から、世田谷区立郷土資料館に寄託されている文書のなかから大塩関係史料を教えていただいた。おそくなったが、ここに紹介して同氏への謝意にかえたい。

 第一点 森忠左衛門氏所蔵(世田谷区太子堂 森教授の生家)の「大坂元町奉行(所)与力大塩平八郎落書之写」で、「天保九年戌四月写之 太子堂村 此主森氏」の奥書がある。内容は、檄文・矢部駿河守意見書と大坂大変風説書からなっている。とくに興味深いのは、乱寸前の天保八年二月十七目夜に跡部山城守役所へ密告した平山助次郎に関するもので、かれは同十八日暁に跡部からの江戸の勘定奉行矢部駿河守定謙あての書状を携えて急遽東へ向い、二十三日に遠州今切の渡しで大坂表大火の報せに接して、二十九日夜江戸に到着している。

 この間の事情は、森教授が中心になって編集された国立史料館『大塩平八郎一件書置』(東京大学出版会)にくわしいが、この公式文書の平山関係をまとめるのに役立ったのが、森家に写しのある矢部駿河守の意見書とみてよいだろう。平山は事件時すでに小者二人をつれて江戸へ下向中であり、跡部からの指示で失部が平山から直接事情を聴取している。ちなみに、矢部は堺奉行(その→父定令も同奉行経験者)・大坂東町奉行を歴任し、事件時は勘定奉行の要職にあった。かれはその後天保十二年に江戸町町奉行をつとめたが、鳥居耀蔵に貶されて、伊勢桑名藩に預けられ食を絶って憤死した。明治三十年に出版された川崎三郎『幕末三俊』(春陽堂)をはじめ、新しいところではこの通信でも以前紹介した秦達之氏の論文があるが、大塩人物評や乱の処断についても一見識を示した人物で、さらに研究を深めるに足る人物である。なお桑名市立博物館には矢部護送行列図が所蔵されている。

 第二点 田中重義氏所蔵(世田谷区上野毛)の史料二点。一つは「天保八年酉二月 摂津国聞書」で、「逆徒方」の陣立、大坂出火悪党由来およぴ悪党落シ文から成っている。もう一点は田中弁之助「大坂騒動書付写」で、檄文の写しである。

◇『悲田院文書』

 岡本良一・内田九州男両氏の編集で大阪府立中之島図書館およぴ難波村戸長文書のうち、悲田院長吏の下にあった天王寺垣外関係の史料が、昨年清文堂から出版された。非人研究の貴重な内容が盛られているが、このうち難波村戸長文書に含まれている「道頓堀垣外 文政七年申年垣外一件」には、与力在職中の大塩が処断した与力弓削新右衛門と結ぴついていた長吏別格吉五郎一件の史料がある。吉五郎が処刑される前に竹林寺に自分と妻・妾のため建てた墓石(図あり)を、文政十二年に東町奉行所盗賊方であった大塩が「こぼち埋」めを命じ、十月二十日に実行し同心衆が見届けている。またこれに先立って吉五郎の二階座敷・土蔵も取り払われ、十月八日には大塩自らが坦外四力所内を見分し、高い上蔵の取り払い、腰板を焼板にかえ、瓦昔きの分は瓦を取り除かせ、その後同月二十八日に大塩が直接見届けている。

◇大阪市立博物館で特別陳列「大塩平八郎の手紙」開催

 本年二月十日から三月十一日まで、大阪市立博物館で特別陳列−浪華人物誌−の一環として、大塩平八郎の手紙を中心に展示が行なわれた。現在大塩の手紙は、同館主任学芸員相蘇一弘氏の調査で一五○余通が確認されているが、七六年秋に同館で開かれた特別展につづいて、それ以後の収蔵品を軸に味わい深い企画となった。

 とくに注目されるのは、明治民権期に活躍して大塩に私淑した中尾捨吉の子孫から、同館に寄贈された手紙で、天保六年陽月(十月)二日付で大塩が安芸三原の藩儒者吉村秋陽にあてたもので、江戸の幕府儒官古賀桐庵との手紙のやりとりのことや、彦根藩家老の弟宇津木俵二(矩之允)の四国遊学の帰路吉村を訪ねることなどに触れている。大塩江戸招聘一件にかかわるものとして注目される。その他、この関係で天保五年十二月十四日付の高槻藩の高階春帆・芥川思軒あての手紙など、興味深いものが多い。

◇『大塩平八郎建議書』

 大塩が蜂起の前日、天保八年二月十八日に江戸の老中大久保忠真や水戸斉昭・林大学頭等にあてた書簡類が、伊豆韮山の江川文庫から発見され、その管理にあたられた仲田正之氏が編集して、このたび文献出版から『大塩平八郎建議書』として公刊された。この種の文書のあることは、すでに青木美智男氏によって一部紹介され、また昨年六月のNHKテレビの歴史誕生−「配達されなかった三通の密書」スクープ 大塩平八郎の乱 大疑獄発見−でもとり上げられていたが、その全貌が今回公刊された。大塩研究の重要な史料がここにまた一つ発表されたことになる。内容については別途改めて検討する予定である。

◇枚方宿日記にみる門人大枝村九兵衛

 枚方で宿場の保存・研究に精力的なとりくみを重ねておられる中鳥三佳氏から、左のような貴重な史料が連絡された。同氏は、枚方宿本陣であった中島九右衛門家(柴屋)の末孫で、所蔵の史料にもとづいて『宿場町枚方とくらわんか』『東海道五十七次』や多くの論文を発表され、また「宿場町枚方を考える会」の事務局長として幅広く活躍されている。

 同氏所蔵の文書のうち、文政十三年の「宿村御用留日記」に、河内茨田郡大枝村(いまの守口市)の九兵衛が大塩門弟で利発者であるが、前年から「度々大金を持出し」て行方をくらましているという記事がある。


 九兵衛は、村役人筋の豪農と思われ、元禄十六年に庄屋を、寛政七年には年寄を勤めている。ちなみにこの記事のある文政十三年七月に大塩は町奉行高井山城守に殉じて与力を退職している。この月紀州侯が守口宿を通り助郷が徴発された。山又助は山番又助の意である。

 中島氏は、この史料をふくめて近く公刊する予定で意欲的に翻字にとりくんでおられる。


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