Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.11訂正
2000.9.4

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「洗心洞通信 24」

大塩研究 第29号』1991.3 より

◇禁転載◇


◇九○年三月の中斎忌・記念行事

 九○年三月二四日(土)午後、恒例の中斎忌記念行事と事件研究会総会を成正寺において開催した。まず住職有光友信師による大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要、展墓のあと、静岡県立三島北高校教諭仲田正之氏の「新発見の大塩平八郎建議書−伊豆韮山の江川文庫から−」と題する講演が開かれた。

 仲田氏には「江川坦庵」(吉川弘文館・人物叢書、八五年)の著書があり、伊豆韮山の代官江川家の古文書の整理・調査に専念され、江川太郎左衛門坦庵研究の第一人者と目される方であるが、厖大な江川文書のなかから発見された大塩関係文書をこのたび発刊され、当日出版社の文献出版から「大塩の蜂起直前幕閣等に宛てた書簡の全貌!」と記した帯つきの本が会場に届けられ、一同の関心を高めた。

 この史料はすでに一部青木美智男氏によって初めて公開されたものであるが、今回はその全関係史料を刊行したもので、大塩事件研究の基本史料であり、乱直前の大塩の動きを知るきわめて貴重なものである。

 仲田氏は『坦庵』を刊行したあと疑間として残した大塩との関係を中心に、新史料の紹介と問題点の指摘という形で講演された。大塩が無尽問題から大坂関係役人を老中と結んで告発した。矢部駿河守を「国を乱す」人物と見ており、彼は鳥居耀蔵に追い落されたのではなく、信じていた大塩に落され、これで従来の矢部観は変わるだろう。不正無尽については老中から大塩は文政十三年に捜査を命ぜられたと思われ、建議書の宛先も大久保忠真と脇坂安董になっている。事件直後、大塩の建議書を発見した江川は、大塩の富士登山を知っており、斎藤弥九郎を派遣して大坂の状況をしらべさせた。大塩かえ玉説もあり本人が生存していると見ていたこと等々、数々の興味深い論点を示された。最後に平常時の大塩と乱を起こしたときの大塩とにギャップを感ずること、建議書には「政道」に触れるところがないので、蜂起との関連は考えられぬこと等に触れてまとめられた。

 なお八九年六月にNHKテレビ番組「歴史誕生」でこの史料は紹介されたが、『歴史誕生2』(角川書店・九○年二月)に「配達されなかった三通の密書」が収められている。また仲田氏は、この建議書との関係で「新発見の大塩平八郎建議書類について」(『日本歴史』第五○九号、九○年一○月)と「江川坦庵の甲州微行」(同誌第五一○号、九○年一一月)を併せて発表されている。江川側からの大塩観を示したものである。論議を呼ぶだろう。

 一旦休憩後、研究会総会を開き、八九年度会務報告・会計中間報告・会計監査報告(相蘇一弘氏)が行なわれた。大塩関係史料の「よむ会」は毎月開催し十数名の出席があって新しい雰囲気が育ちつつあるが、会員は死亡や会費滞納により一六六名から一五四名に減少して財政難であり、賛助会員(年会費一万円、現在一六名)と会員の増加をはかる必要があること、監査委員からも会員増、とくに若年の入会をはかる手だての努力や会誌に力作をのせる必要性などの意見がのべられた。

 大塩研究はあいついで新しい基本史料が公刊され、新たな段階にさしかかったが、会としては、会員各自が一人ずつ新入会員の拡大を!という西尾副会長の訴えでしめくくった。

 会計上では、先年西尾副会長の尽力で史料集刊行のためよせられた一○万円の資金を一時的に通常会計に充当することが認められ、委員としては八九年の総会で就任された村上義光氏について、その後間もなく辞任を申出ておられた件を正式に承認し、「よむ会」のメンバーから補充することを委員会に一任した。なおその他の委員は二年任期で在任中である。

◇伊勢路見学会

 九○年七月二一日〜二二日大塩とゆかりの深い伊勢路にその足跡を求めて見学会を開催した。二一日に先発の有志九人が伊勢古市の旅舘麻吉に泊り、昔の遊廓界隈の風情をたのしみ会食した。真夏ながら窓をあけ放った二階の古風な大座敷は涼しいかぎりであった。翌朝麻吉所蔵の古文書を拝見し、近鉄五十鈴川駅で大阪から当目参加されたグループと合流した。

 タクシーに分乗して朝熊山全剛証寺を見学し、大塩がその著作を焼いて天に訴えようとした場からその思いを推察した。以前は、ここから富士山が望見でき、いまも富士見台とよばれる展望地がある。ここで三重大学学生の車に迎えられ奈良から車で参加された久保在久氏を加えた三台で下山し、昼食のあと神宮文庫で史料を閲覧した。団体による調査のため史料はガラスケース内に展示されていて直接手にとることはできなかった。展示品は、「古本大学刮目 大塩平八郎自筆題言付」一冊(天保四癸巳秋八月 窪田良政盥手焚香謹書、京都書肆二条通衣棚風月荘右衛門)、「儒門空虚聚語」(天保四)二冊、「洗心洞箚記」(天保四)二冊、「洗心洞箚記付録」(天保四)一冊、川北重憙「温山文」(嘉永三)巻上中下、三冊、「豊田貢罪案」(文政十二)一冊である。史料の閲覧・文庫の説明をお願いした文庫長心得の大垣豊隆教学司および文庫関係者、現地で合流された皇学館大学上野秀治氏に御礼申し上げる。

 その後神宮徴古館を見学し、学生一人を加えて車四台でさらに内宮宇治橋の手前山手にある林崎文庫を外から拝観、暑さの折柄名物赤福本店で小憩したあと散会した。
(本号前田愛子氏の報告をご参考下さい)

◇訃報

会員で永眠されました方をお知らせいたします。ご生前のご協力に感謝し、謹んでご冥福を祈念申し上げます。(順不同)

 西尾治郎平氏 九一年一月二八日逝去、八三歳。本会副会長として七五年一一月の創立以来無類の組織力と指導性をもって会の運営に尽力された。『日本の革命歌』(一九七四年、一声社)などの著書があり、戦前全国農民組合の書記として小作争議を指導した若き日の情熱とロマンを生涯貫かれた。平和と民主主義を身をもって訴えつづけてきた氏は、いま中東で起きている湾岸戦争を憂いつつ他界された。葬儀もまことに感銘深いもので委員ら多数が会葬した。次号に追悼特集号を組む予定。

 松下和雄氏 九○年三月逝去。会創立以来の会員。美代子夫人からご通知。

 藤山光志氏 九○年四月二九日逝去。創立峙以来からの会員で、大塩家に最も血縁の深い摂州般若寺村橋本忠兵衛の子・大塩格之助の妻の弟松次郎が屋久島に流された後の末孫にあたる。会にも小柄なお姿を時折みせておられた。八九年八月仕事を退いてから大塩研究を志しておられたが、骨髄腫を病んで一旦回復のきざしがみられたのに、五九歳で永眠された。五人兄弟の末子。雪子夫人からのお知らせ。

 和島岩吉氏 九○年五月一三日八四歳で逝去。創立以来の会員。元日本弁護士連合会会長で、徳島ラジオ商事件など数々のえん罪事件の弁護に活躍。また日本人に人権意識を根付かせることが法曹人の使命と考えて、同和問題、国際人権法の啓発など人権擁護にも大きな足跡を残された。大塩関係の史料も収集されていた。羽曳野市名誉市民で、没後生前収集された古書・刀剣などの遺品と三千万円が同市に寄付された。

◇ウメチカ壁新聞に大塩平八郎登場

 ハナ博にともなって九○年四月「ウメチカ」にあった新聞売店が強制撤去された。さきに天王寺博にともなって公園の木を切り倒しここを寝ぐらにしていた人たちを「美化」を口実に追い出した後、公園を有料とした大阪市役所が、戦前からの長い歴史をもち庶民に親しまれてきた梅田地下の新聞売店を一斉に撤去した。ここに市役所がらみの不正問題とからんで大阪市民の怒りが爆発し、壁新聞が登場。もともと夕刊紙などが張り出されていたコンクリートの円柱にあいついで市民の声が書きつらねられた。 九月三十日まで予定されたハナ博について事故つづきや「緑残酷博」の実感をふまえて「恥博は苦月惨渋日まで」とあるのをはじめ、大阪市役所内の不正・腐敗とこの「暴挙」にそれこそ上方近世以来の伝統をくんだ川柳・狂歌・風刺があいついだ。見事なものである。

 これら数々の「名作」をさらにパンフや本にまとめたり(梅田地下街売店の「撤去」に反対する売店のみなさんを応援する会『人情の灯り消されし地下迷路−ウメチカニュースの収録版』、ウメチカフォーラム「あんたもわたしも被害者の会」編『浪速っ子 そこのけそこのけ大阪市役所が通る』)果ては売店主を支援する若者グループ「ウメチカ人情ねっとわ−く」による壁新聞の優秀作晶コンクールまで登場、通りがかりの人に投票を求め、グリコ・森永事件の容疑者の似顔絵をもじり「私も悪事を働きましたが、大阪市役所には負けました」というのが第一位になった。

 ついにわれらの主人公大塩も登場した。「親が借金もつれになると子供が不幸だが、市役所が税金のネコババをすると市民はもっと不幸だ。市役所には大塩平八郎はおらんのか」

 ついでに同じ頃みられた壁新聞には、OSAKAハゥマッチ〃とテレピ番組をもじって(1)中之島の市役所の建築費は? 三○○億円 (2)市役所が市民の血税で買った絵の代金は? 一九億円とある。

◇新聞にも大塩の名

 九○年七月一三日の毎日新間「みんなの広場」に会社員(42)の名でつぎのような投書が掲載された。

 このあと「公僕」を忘れた役人がはびこる国は亡国の運命をたどるとし、もっと怒りの声をと訴えている。大阪の人たちは社会や公的機関の不正・腐敗に大塩を想起する。この長い歴史の流れに私たちは学ばねばならないだろう。嬉しい大塩待望論である。

◇九○年一二月例会

 一二月一日に成正寺で例会を聞き、門真市史編纂室長大野正義氏が「大坂町奉行与力西田家文書について」と題して、ユニークな大塩像を自らの役所勤めの経験をふまえて披露された。氏はすでに門真市史資料集第一号『野口家文書大塩事件関係史料』(門真市市民部広報公聴課編、八四年初版)、同氏編『大坂町奉行与力史料図録』(発行大西経子、自費出版センター 八七年刊)など影印本を世に問い、大塩事件ゆかりの地で独自の研究活動を積みかさねてこられた。

 講演は、大塩格之助の実家西田家の人物情報、大塩事件を画期とする罪刑法定主義、与力の金貸し活動と富裕ぶりの三点を軸にすすめられ、基底に大塩を「碌でもない人間」「人格高潔とみるは眉ツバ」「内部告発をした落ちこぼれ役人で自己顕示欲の強い人間の行為」とのべるなど、刺激的な内容を「予断と偏見による大塩観」としてまとめられた。また檄文の伝写の多いことに時代批判を評価しながら大塩個人の評価とは別とされた。出席者からは種々異論が提示された。詳細は同氏の本号掲載論文を参照。

◇会員大島正信氏から「わが家の大塩伝承」

 八六年三月三○日大島氏から寄せられた伝承を、おくればせながらここに紹介し、同氏のご好意に謝したいと思います。お便りの要点を左に紹介する。 中内公子(大島正信の伯父の長女、八六年三月現在八四歳)の話
○私の父は、大島いくとその養子松本岩吉の長男で、故あって松本姓を名乗り、大島家は次男が継ぎました。(大島末三郎=正信の父)
○私の父松本伊太郎は画家で号を公素と称し、洗心洞画塾を天満に開き、また茶商を営んでいました。
○大島いくの代まで、ウシヤ町(牛屋町?)の大きな家に住んでいて、蔵が八つもありました。―天満の天神さんに初めて大きな太鼓を作ったとき収納する場所がないのでウシヤ町の蔵を貸した。その御礼で天神さんのお渡りは天満から空心町→ウシヤ町へと必ず通ることになった―
―ウシヤ町の屋敷には空かずの部屋があった―
○大塩平八郎の末娘を桜宮から山科へ脱出させ、山科のお寺にかくまってもらった。私どもはその子孫である。
○私が娘の頃天満の浜であるおばあさんに会った。その人が大塩さんの粥施行にあずかったといっていた。
○松本伊太郎は、大島家の先祖は大塩平八部であるという系図を末三郎に渡しました。

◇中瀬寿一・村上義光『民衆史料が語る大塩事件』刊行さる。

 大塩事件について精力的な調査をつづけておられる中瀬教授が古文学研究の篤学の士村上氏の協力をえて、九○年七月晃洋書房から情報伝達の日時を確定する仕事をまとめられた。事件の「世界史的」にみる上での歴史学方法や史料処理・評価など論議を呼ぶだろう。幅広い調査の成果をぜひご一覧下さい。

◇石渡博明『民の理 世直しへの伏流』

 社会評論社の『思想の海ヘ〔解放と変革〕』全三一巻の第四巻に、大塩平八郎「施行札」「檄文」が石渡博明氏の解説つきで収録された(九○年一○月)。ほかに安藤昌益・田中丘陽・食行身禄・吉田松陰の文章や生田万「触れ書」などがある。


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