◇禁転載◇
仲田氏には「江川坦庵」(吉川弘文館・人物叢書、八五年)の著書があり、伊豆韮山の代官江川家の古文書の整理・調査に専念され、江川太郎左衛門坦庵研究の第一人者と目される方であるが、厖大な江川文書のなかから発見された大塩関係文書をこのたび発刊され、当日出版社の文献出版から「大塩の蜂起直前幕閣等に宛てた書簡の全貌!」と記した帯つきの本が会場に届けられ、一同の関心を高めた。
この史料はすでに一部青木美智男氏によって初めて公開されたものであるが、今回はその全関係史料を刊行したもので、大塩事件研究の基本史料であり、乱直前の大塩の動きを知るきわめて貴重なものである。
仲田氏は『坦庵』を刊行したあと疑間として残した大塩との関係を中心に、新史料の紹介と問題点の指摘という形で講演された。大塩が無尽問題から大坂関係役人を老中と結んで告発した。矢部駿河守を「国を乱す」人物と見ており、彼は鳥居耀蔵に追い落されたのではなく、信じていた大塩に落され、これで従来の矢部観は変わるだろう。不正無尽については老中から大塩は文政十三年に捜査を命ぜられたと思われ、建議書の宛先も大久保忠真と脇坂安董になっている。事件直後、大塩の建議書を発見した江川は、大塩の富士登山を知っており、斎藤弥九郎を派遣して大坂の状況をしらべさせた。大塩かえ玉説もあり本人が生存していると見ていたこと等々、数々の興味深い論点を示された。最後に平常時の大塩と乱を起こしたときの大塩とにギャップを感ずること、建議書には「政道」に触れるところがないので、蜂起との関連は考えられぬこと等に触れてまとめられた。
なお八九年六月にNHKテレビ番組「歴史誕生」でこの史料は紹介されたが、『歴史誕生2』(角川書店・九○年二月)に「配達されなかった三通の密書」が収められている。また仲田氏は、この建議書との関係で「新発見の大塩平八郎建議書類について」(『日本歴史』第五○九号、九○年一○月)と「江川坦庵の甲州微行」(同誌第五一○号、九○年一一月)を併せて発表されている。江川側からの大塩観を示したものである。論議を呼ぶだろう。
一旦休憩後、研究会総会を開き、八九年度会務報告・会計中間報告・会計監査報告(相蘇一弘氏)が行なわれた。大塩関係史料の「よむ会」は毎月開催し十数名の出席があって新しい雰囲気が育ちつつあるが、会員は死亡や会費滞納により一六六名から一五四名に減少して財政難であり、賛助会員(年会費一万円、現在一六名)と会員の増加をはかる必要があること、監査委員からも会員増、とくに若年の入会をはかる手だての努力や会誌に力作をのせる必要性などの意見がのべられた。
大塩研究はあいついで新しい基本史料が公刊され、新たな段階にさしかかったが、会としては、会員各自が一人ずつ新入会員の拡大を!という西尾副会長の訴えでしめくくった。
会計上では、先年西尾副会長の尽力で史料集刊行のためよせられた一○万円の資金を一時的に通常会計に充当することが認められ、委員としては八九年の総会で就任された村上義光氏について、その後間もなく辞任を申出ておられた件を正式に承認し、「よむ会」のメンバーから補充することを委員会に一任した。なおその他の委員は二年任期で在任中である。
タクシーに分乗して朝熊山全剛証寺を見学し、大塩がその著作を焼いて天に訴えようとした場からその思いを推察した。以前は、ここから富士山が望見でき、いまも富士見台とよばれる展望地がある。ここで三重大学学生の車に迎えられ奈良から車で参加された久保在久氏を加えた三台で下山し、昼食のあと神宮文庫で史料を閲覧した。団体による調査のため史料はガラスケース内に展示されていて直接手にとることはできなかった。展示品は、「古本大学刮目 大塩平八郎自筆題言付」一冊(天保四癸巳秋八月 窪田良政盥手焚香謹書、京都書肆二条通衣棚風月荘右衛門)、「儒門空虚聚語」(天保四)二冊、「洗心洞箚記」(天保四)二冊、「洗心洞箚記付録」(天保四)一冊、川北重憙「温山文」(嘉永三)巻上中下、三冊、「豊田貢罪案」(文政十二)一冊である。史料の閲覧・文庫の説明をお願いした文庫長心得の大垣豊隆教学司および文庫関係者、現地で合流された皇学館大学上野秀治氏に御礼申し上げる。
その後神宮徴古館を見学し、学生一人を加えて車四台でさらに内宮宇治橋の手前山手にある林崎文庫を外から拝観、暑さの折柄名物赤福本店で小憩したあと散会した。
(本号前田愛子氏の報告をご参考下さい)
西尾治郎平氏 九一年一月二八日逝去、八三歳。本会副会長として七五年一一月の創立以来無類の組織力と指導性をもって会の運営に尽力された。『日本の革命歌』(一九七四年、一声社)などの著書があり、戦前全国農民組合の書記として小作争議を指導した若き日の情熱とロマンを生涯貫かれた。平和と民主主義を身をもって訴えつづけてきた氏は、いま中東で起きている湾岸戦争を憂いつつ他界された。葬儀もまことに感銘深いもので委員ら多数が会葬した。次号に追悼特集号を組む予定。
松下和雄氏 九○年三月逝去。会創立以来の会員。美代子夫人からご通知。
藤山光志氏 九○年四月二九日逝去。創立峙以来からの会員で、大塩家に最も血縁の深い摂州般若寺村橋本忠兵衛の子・大塩格之助の妻の弟松次郎が屋久島に流された後の末孫にあたる。会にも小柄なお姿を時折みせておられた。八九年八月仕事を退いてから大塩研究を志しておられたが、骨髄腫を病んで一旦回復のきざしがみられたのに、五九歳で永眠された。五人兄弟の末子。雪子夫人からのお知らせ。
和島岩吉氏 九○年五月一三日八四歳で逝去。創立以来の会員。元日本弁護士連合会会長で、徳島ラジオ商事件など数々のえん罪事件の弁護に活躍。また日本人に人権意識を根付かせることが法曹人の使命と考えて、同和問題、国際人権法の啓発など人権擁護にも大きな足跡を残された。大塩関係の史料も収集されていた。羽曳野市名誉市民で、没後生前収集された古書・刀剣などの遺品と三千万円が同市に寄付された。
ついにわれらの主人公大塩も登場した。「親が借金もつれになると子供が不幸だが、市役所が税金のネコババをすると市民はもっと不幸だ。市役所には大塩平八郎はおらんのか」
ついでに同じ頃みられた壁新聞には、OSAKAハゥマッチ〃とテレピ番組をもじって(1)中之島の市役所の建築費は? 三○○億円 (2)市役所が市民の血税で買った絵の代金は? 一九億円とある。
講演は、大塩格之助の実家西田家の人物情報、大塩事件を画期とする罪刑法定主義、与力の金貸し活動と富裕ぶりの三点を軸にすすめられ、基底に大塩を「碌でもない人間」「人格高潔とみるは眉ツバ」「内部告発をした落ちこぼれ役人で自己顕示欲の強い人間の行為」とのべるなど、刺激的な内容を「予断と偏見による大塩観」としてまとめられた。また檄文の伝写の多いことに時代批判を評価しながら大塩個人の評価とは別とされた。出席者からは種々異論が提示された。詳細は同氏の本号掲載論文を参照。