Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.11訂正
2000.9.8

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「洗心洞通信 25」

大塩研究 第31号』1992.3 より

◇禁転載◇


◇大塩中斉忌記念行事と研究会総会

 九一年三月二三日(土)午後、成正寺において恒例の大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要が有光友信住職の回向によって営まれ、その後、京都大学名誉教授島田虔次氏の「陽明学の概要」と題する講演が行なわれた。

 王陽明(一四七二−一五二九または二八)、名守仁、字伯安、号陽明、諡文成。中国浙江省紹興府余姚県に生まれ、三七歳のとき「龍場の大悟」(貴州省龍場駅の丞を勤めていたとき)〃心即理〃の考えに至り、〃性即理〃の理気論を唱える朱子に対する新しい理論をうちたてた。心は一つで性と情にわける必要はなく、程明道の「徳 性之知」(生まれつきの知)「聞見の知」の理論にいたる。陽明学は大別して、良知と万物一体の仁とから成る。良知(知とも略称される)は誤解されやすいが、知識とは別で、「良心」、heartというべきものであるとされた。

 陽明の拠って立つ「古本大学」(朱子による大学集註本に代って 元どおりの「大学」に戻す)の特徴を示し、中国哲学が世界的にも進んだ思弁哲学であり、日本では陽明学が中江藤樹・熊沢蕃山から大塩中斎に継がれて行き、さらに幕末期の志士の心をとらえたことにも触れられた。吉田松陰は李卓吾(李贄)を愛読し、西郷隆盛らも陽明学に傾倒するが、これは理論をつみあげる煩雑な朱子学に対して陽明学が易簡であったため下級武士をとらえたのではないかと示唆された。

 平明に陽明学のポイントを講演され、名著のほまれ高い氏の『朱子学と陽明学』(岩波新書、六七年初版)を改めて学ぶ好機会となった。大塩研究上思想の分野が本会としておくれているので、今後も専門家の話をきく必要が痛感される。

 小憩のあと午後四時から大塩事件研究会総会が開かれ、会務報告と会計監査報告(相蘇一弘氏)が承認された。副会長として会の創設・運営について多大の功績を残された西尾治郎平氏が一月二八日に逝去されたことが報告され、追悼の意を表した。

 新年度の活動方針として、見学会・『大塩平八郎建議書』をよむ会・大塩生誕二百年(一九九三年)に向けての計画の策定など、また会活動の充実のため、現行役員のほかに、「よむ会」から野市勇喜雄・渡辺和男の両氏を補充すること、会計年度について監査および総会での中間報告と三月末の正式の年度決算報告のズレで長年不便を生じているので、会則第九条(会計年度は毎年四月一日に始まり、翌年三月三一日に終ります)を「毎年二月一日に始まり翌年一月三一日に終ります」と変更するが、本年に限って四月一日から翌九二年一月三一日(十か月間)とすることが諮られ、承認された。

◇六月例会

 九一年六月八日(土)午後、成正寺において、同志社大学教授井ケ田良治氏の「近世の法制と大塩の乱」と題する講演が行なわれた。氏は法制史の立場から、江戸時代の刑事裁判の制度と実態を史料に基づいて紹介された。江戸幕府の裁判制度では、裁判管轄の問題として、区域・事物・身分、支配地違いの裁判などをとり上げて、大坂町奉行の管轄の特徴、大坂町奉行は手限仕置(自らの裁判権)について大坂城代に伺うので京都や他の遠国奉行より狭いこと(平松義郎『近世刑事訴訟法の研究』、『御仕置天保例類集』3−8)、裁判の原則は、御定書百ケ条(奉行以外他見を許さず)を筆頭とする先例主義をとり、伺・評議による法曹法の統一の努力をしているが一種の裁判準則をつくるにとどまって「理論」が形成されなかったこと、「罪刑法定主義」という考えには、法律が公開されていることが前提で、近世期はそれにあてはめにくいこと、その他天明七年の口丹波騒動など氏の得意とする地域の具体的な吟味筋=刑事裁判過程をも示された。大塩とのかかわりでは、三浦周行『法制史の研究』上巻にみる、弓太郎を永牢に処することを至当とする方針の決定の様子、身分法のもとでの「賎民仕置」の問題点などにも関説された。

◇一二月例会

 九一年一二月七日(土)午後、成正寺において、三重大学教授水越允治氏の「天保期の気候について−畿内を中心に−」と題する歴史気候学上の講演があった。氏は畿内・東海をはじめ各地の町や村方の日記・記録を追って近世期の気候の再現につとめておられ、詳細な天候ダイアグラムを作成されている。それに基づいて、大塩事件の前提としての気象概況を説明され、一八三六年は異常な気象の年で、夏に低温不作、暮れから翌三七年春にかけて近畿地方は低温で寒かったこと、事件前数年は異常性がみられ気候の不安定な変動期であることを論証された。事件当日二月一九日(太陽暦三月二五日)は全般によく晴れ、但馬豊岡の例では、日本海低気圧のため南から強い風が吹いて空気が乾燥しており、今日なら火災警報が出てもよいような状態で、二○日間ばかりの晴天のあと乱→火事→大火に発展したと興味深い 指摘をされた。

◇『大塩平八郎建議書』研究会

 九一年七月一三日〜一四日、奈良県平群町の信貴かんぽ加入者ホーム・平群荘で静岡県韮山町の江川文庫で発見・刊行された『建議書』(仲田正之氏編・文献出版、九○年)の合宿検討会が開かれた。

 向江強氏は、建議書の内容を逐一検討した上で疑問点を提示し、仲田氏の論点の当否、大塩が建議書を書いた背景と彼の思想・信条からくる当然の帰趨からする反論を示した。中瀬寿一氏は、化政・天保期の幕府収納金渡金高などについて報告し、村上義光氏は、建議書の主文をなす文書が欠落しているのではないかという仮説に立って問題を提起し、仮説の根拠を挙げ、抜取られたと思われる文書の残存文書だけからくる意外性から、殆ど「児戯にも比すべき」ものとなったとした。島野三千穂氏は、大坂における宮津藩の借入金と無尽などに言及し、公金貸付が不正かどうかを問い、数々の史料を示して仲田氏の評価がいかに大塩の人物像を歪曲しているかを論証した。以上四氏の報告をもとに、翌日集約討論を行なった。(井形正寿)

◇計報

 謹んで哀悼の意を表します。

 西尾治郎平氏 本会副会長、会創設の原動力となり氏を欠いては会の誕生は考えられない人物で、大黒柱として会の運営を支え、会の方針についても絶えず適確な判断、財政的配慮などをされた。会員の多くは氏に教えられ啓発された思い出が尽きない。九一年一月二八日大阪日赤病院で八三歳をもって逝去。同月三一日の葬儀には役員が会葬した。本誌三○号を追悼特集にあてた。『日本社会運動人名辞典」(青木書店)にその名を記録されている。巨星墜つ。

 森杉夫氏  大阪府立大学名誉教授・大阪経済大学教授、近世貢租・被差別部落史に大きな業績をあげられたが、九一年四月一九目、堺市の病院で逝去、七三歳。七七年六月二十日入会。

 宮本武氏  八九年五月一一日逝去、六七歳。福島区歴史研究会会長として活躍、同会事務局長で本会副会長井形氏の縁で入会された。逝去後長男の隆正氏が引継いで入会されている。

◇豊岡藩士の日記にみる田結荘天民・千里

 但馬豊岡藩の江戸藩邸詰の武士舟木老之助の日記に、但馬出身の田結荘天民・千里父子の名がみえる(『豊岡市史 史料編上巻』、九○年三月刊)。嘉永六年(一八五三)六月、ペリー浦賀来航の直後老之助は八月にかけて豊岡に一時帰国したが、その折大坂で父子に会っている。七月九日大坂に着き「但馬天民へ罷越、金百疋持参(中略)藤沢先生へ罷越、従君公御口上申述」、翌十日朝伏見に着船、京着し「田結庄斎治面会、西洋煩術申談」とある。斎治は千里のことで、西洋砲術について話をかわしている。乱後の千里の足跡の一端を伝えるものである。

 なお同書には、二人のルーツである但馬国城崎郡田結村の明和九年(一七七二)明細帳も収められている。

◇尊延寺の田結荘千里の書画

 九○年一月早々枚方市大字尊延寺の深尾武氏を政野敦子氏と酒井が訪い、「大塩と私」の取材を行なった。子息正氏も婚約中で同席されたが、はや一子を儲けられている。原稿を温めたまま申訳ない。会談中座敷に置かれていた貼屏風を写真にとり、あと襖の絵も部分撮影した。千里というサインが気になったからである。

 その写真を島根大学内藤正中教授に送った。教授夫人が千里の末孫にあたるからで、氏から早速手元の書画をみて、落款とその下の「千里」は所蔵の千里のそれと同じものであるとの返事を頂いた。千里が明治一九年に著した『行雲流水』にみるサインも深尾家の襖絵のそれと同じである。

 襖絵の左下に「三思之図 明治十四年降霜節撫古為深尾氏雅嘱 千里印印」とある。大阪市立博物館蔵で、去る九○年二月−三月の特別陳列−浪華人物誌−「大塩平八郎の手紙」でも展示された「大塩と門弟詩会作品」(目録31番)には、「夏月山居即事」として「時寓北河尊延寺村深尾宅五月十八日也」とあり、「洗心洞主人連斎」の詩に続いて、得陽・白井尚賢(孝右衛門)・窪田之中・白井後行(儀次郎)・橋本含章(忠兵衛)らの七言絶句がそれぞれの自筆で記されている。尊延寺村深尾宅でのこ の詩会に若き日の千里も同行したのであろう。事件後四十余年を経て万感の恩いで尊延寺を訪ねてゆかりの深尾家で揮毫したのが、この襖絵ではないか。史料は思いかけぬ形で伝えられるものである。

 その後この年五月野田昌秀氏と尊延寺を調査したが、翌九一年八月の盆に野田氏は両親の墓参の析、深尾治五平(事件当時の庄屋、深尾武氏の祖、才次郎の姉がその妻)が建てた道悦塚の石碑を発見し、正太郎屋敷(治兵衛・才次郎の家跡)の一部に実兄が新築された家の座敷で、松の墨絵に田結荘千里の署名のある扁額を見つけられた。深尾武氏の祖父が野田氏の兄の新築祝いに送られたものである。

 天民(田結荘斎治)は大田垣蓮月の子という(杉本秀太郎『大田垣蓮月』、淡交社刊、一九七六年、のち中公文庫)。天民の子、千里の蔵書は、大阪府立中之島図書館 に郷里但馬に因んで玄武洞文庫として保管されている。

◇日経新聞の研究会紹介と会員拡大

 日本経済新聞の九一年九月三日夕刊、「アーバンnow」の「同好同志」に本会が紹介され、かなりの反応を生んだ。同社文化部の坂本憲一記者が事務局担当の久保在久氏に面談、取材し、酒井にも電話で問合わせがあったもので、全国版に掲載されたので、遠方から二、三人の入会があった。東京の経済界の知人からも新聞をみたというニュースが二つほど入った。

 会員拡大を願いながらなかなか実現しないときだけに会にとってもこの紹介は大助かりであった。

 会員各自がもう一人ずつ会員を増やそうというのが、九○年三月総会での故西尾治郎平副会長の呼びかけであった。この提案に応じて、野田昌秀氏(枚方市尊延寺の大塩門人深尾家の末孫)が勧誘されたのが、大塩和男氏で、大塩氏は九一年八月に「五党相乗り」で見事枚方市長に無投票当選された。また同志社香里中・高校教論・近代史研究者萩原俊彦氏の紹介で、新井正明氏(住友生命名誉会長・京阪神群馬県人会長)が入会された。萩原氏と同郷上州人で大塩の行動に以前から共鳴され、成正寺前住とも交流があったと聞く。一九三九年五月のノモンハン作戦に参加して負傷されたが、住友生命の社長・会長を歴任され陽明学にも造詣が深い。

 会員の高齢化・滅少がみられるなかで少しでも増加をはかり、せめて一七○名ほどまでもり返したいと思っている。皆様のご協力をお願いする次第である。

◇隠岐流刑の宮脇辰三郎の子孫

 九一年十一月に角新圭司氏から会あてに、隠岐に流刑された宮脇辰三郎(志津摩)の末裔であることか判明した旨お便りが届いた。その要点をご紹介し史料発掘の手がかりを捜したいと思う。    貴重なお便りで会として追跡調査の要を感じる。なお小石房子「流人100話」(新人物往来社)に、「宮脇志津摩(天保二−大正四)ー七歳の流人、〈大塩平八郎の乱・縁坐〉」が、宮脇志摩の三男で隠岐の西ノ島の浦之郷請けとして庄屋渡辺家に養われ、のち門脇姓を名乗り、〈角新〉を屋号としたことが説明されている(井形正寿氏教示)

◇秋篠氏余聞

 大阪の城南寺町の龍渕寺境内にある秋篠昭足の墓は、大塩の清国逃避説を刻んで注目されるが、これについては井形正寿氏の文献博捜の成果をまとめた秀れた論文が、本誌二七号に収められている。秋篠姓は珍しい名字であるが、偶々『田能村竹田全集』(早川純三郎編、国書刊行会、大正五刊)に「答秋篠清臣」という漢詩が掲載されているのを知った。秋篠清臣と竹田の交流を示すもので、この清臣と碑文の昭足とのかかわりはもとより不明ながら、気になる記事である。

◇池田草庵聞書

 石崎東国の『大塩平八郎伝』に、但馬聖人と評される養父郡宿南の青谿書院、池田草庵の聞書なるものが引用されている。かねがねその出典を知りたいと思っていたが、幕末文久三年(一八六三)の生野の変についてその関係係者である但馬養父郡能南村の北垣国道にかかわる重要な古文書を井形正寿氏が所有されていたので、その解読につとめられた野市勇喜雄氏と酒井と三人が九一年八月に養父町の故地を訪れたついでに、八鹿町の青谿書院を地元宿南保氏の案内で見学した。北垣もこの書院に学んだからである。その折末孫で記念館館長である池田粂雄氏にこの件でお尋ねしたところ、程なく左のコピーが届けられた。まさしく石崎東国が引用した部分の原典で、こちらは漢文になっている。長年の思いがみのり、喜びに堪えない。大塩の性格・生活を示すものとしてよく引用される箇所だけに注目されよう。出典は「陽明学」第三九号(明治四五年一月一日発行)、漢字は常用漢字に改めた。

 筆者の池田盛之助は、草庵の兄孫左衛門(保助)の子で当時十八歳。恒(粂次郎)は、草庵の二人の実子が死去したので明治三三年入嗣した。林良斎は讃岐多度津藩士、陽明学者、四二歳で早世。天保六年秋二八歳のとき中斎を訪ねて洗心洞に三、四十日滞在し、翌七年再びここに遊んだ。木南卓一 『林良斎研究」(一九八三年九月、自費出版)が詳しく、氏が「帝塚山大学論集」に発表した一連の論文を合冊して出版したものである。以前木南氏宅で多度津の林家から借用中の書簡を見せて頂いた記憶がある。この本には、さきに引用した『陽明学』の部 分が掲載されていることに後日気がついた。

 なお「陽明学」八○号には、石崎東国氏の「自明軒林良斎先生伝」という労作がある。また良斎・草庵の往復書簡が『幕末維新陽明学者書簡集』(陽明学大集第一一巻、明徳出版社、一九七一年)に収められている。

 香川県詫間町の続木義雄氏が「大塩平八郎の乱と丸亀・多度津藩」(『ことひら』四二号、琴平文化会発行、一九八七年刊)で多度津藩日記を用いて大塩一堂捜査の様子を説明されている。

◇菊池容斎の軸

 大阪城天守閣蔵の大塩中斎画像は、菊地容斎作といわれる。『渋沢栄一伝記資料』第二十九巻をみると、栄一の義子渋沢平九郎が戊辰戦争で戦死したとき帯びていた小刀が、広島藩神機隊々長川合鱗三の所有となっていたが、明治二六年十二月に鱗三はこの小刀に一書を添えて栄一に贈った。これに応えて翌年六月、栄一は感謝の一文を草し、副申に「高情ニ報スル為、所 蔵ノ菊地容斎画一幅を進呈ス」とある(原典、竜門社編『青渊先生六十年史』第二巻、 一九○○年再版刊)。

◇長山直治『「大塩の乱」と加賀藩(補遺)−「大坂乱 妨大塩平八郎一件」について−(石川県『社会科教育研究会紀要第二三号、九○年三月)

 さきに発表された「加賀藩における大塩の乱の影響について」に続くもので、加賀藩史料を克明に追い、能登羽咋郡福浦村に潜んだ深尾才次郎の自殺の状況、才次郎を止宿させた船宿喜之助(牢死)の口書(大阪城天守閣所蔵文書)、牢中の喜之助 を看病、孝心を尽した娘きいへの一人扶持支給の達書など貴重な史料の紹介と分析が行なわれている。堅実な論証で、福浦へ大井正一郎とともに走った新兵衛が金沢出身であることも証明された。本誌二七号の同氏の論文をも参照されたい。

 九○年三月に才次郎の縁者野田昌秀氏と酒井は金沢の調査の際直接長山氏の教示をうけた。このときの福浦調査の一端は、野田氏「尊延寺村深尾才次郎の逃亡と自殺」(『宿場町ひらかた』 一一号および一二号、九○年六月、九月)に紹介され、才次郎ゆかりの不動尊像は本誌二九号にその調査の折の写真が収められている。

◇『客人の湊 福浦(ふくら)の歴史』公刊

 能登富来町の福浦は渤梅の使節のための客院があったところともいわれ、大塩事件にも縁の深い土地であるが、このたび浩瀚の歴史書が刊行された(九一年一二月)。「大塩平八郎の乱と福浦」(田川捷一氏執筆)の項もあり、金沢市立図書館蔵「毎日帳書抜」の写真もある。同書編纂委員長代行の瀬戸松 之氏には、九○年三月の調査に当って船宿喜之助家旧地や千石船の出入した福浦港の詳しい説明・案内をうけた。発刊をお祝いし御礼申上げる。

◇伊勢戸佐一郎「大阪天満宮史料が語る大塩事件実録」 (一)(『東大阪短期大学研究紀要』 一五・一六号、九○年)

大阪天満宮の宮史編纂に関わる調査をもとに、大塩事件で被災した二月一九日から仮殿遷宮の四月二一日までの天満宮の窮状を史料に基づいて記したもの。続刊が予定されている。

◇多治比郁夫「大塩中斉の奉納本ー事件後の大塩著作書 をめぐる雑考1」(『すみのえ』通巻二○二号、九一年十 月)

 大阪住吉御文庫の目録作成に数年参加されたなかで、大塩が文庫に奉納した『奉納書籍聚跋』『洗心洞箚記』『儒門空虚聚語』について調査、大塩著作書に対する事件直後の詮議、大坂本屋仲間の動きを紹介している。奉納本取次の人名が抹消されていることを示す写真も掲載されている。

◇森田康夫「洗心洞門人西村履三郎における知的形成」 (『大阪の歴史』三四号、九一年十月)

 河内志紀郡弓削村の西村履三郎の学問、自筆の『洗心洞唐宋元明清名家詩選』(左殿正昭氏所蔵文書)などを通して、大塩の学問との関連を示したもの。


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