Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.11訂正
2000.9.16
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「洗心洞通信 26」
『大塩研究 第32号』1993.1 より◇禁転載◇
◇大塩中斎忌と研究会総会
九二年三月二八目、成正寺において大塩父子及ぴ関係殉難者怨親平等慰霊法要が住職有光友信師の読経によって営まれ、本堂前の大塩父子の碑にも展墓の後、樟蔭東女子短期大学教授森田康夫氏の講演「隠岐・五島に生きて−河内弓削村西村履三郎の子常太郎・謙三郎−」が開催された。
前夜五島の調査から帰られたばかりの森田氏は、長年にわたる左殿正昭氏文書の調査・研究をふまえて、平明に流刑地先の西村履三郎の二子について講演された。履三郎の長子常太郎は、一五歳になった弘化三年五月に隠岐島後(どうご)の有木村(あらき)へ流される。伴林光平が、門人であった常太郎に和歌を記して送ったという。
隠岐では有木村の庄屋黒坂弥左衛門預けとなり、また回船業・酒造業を営む岡部清助の庇護をうけ、村上良準に医学・漢学を学んだ。父の逃亡時に頼った伯母の夫松浦寛輔に因んで名を松浦貫輔と称した。やがて慶応期の打ちこわし、文武館設立の動きを経て松江藩政と島民との深刻な対立が生じ、同四年山陰道鎮撫使西園寺公望管下の公聞役に隠岐の村役人から提出した調査書(一国明細書か)を藩が開封したため激しく島民は藩と対立し、隠岐騒動となった。この事件は早くハーバード・ノーマンが注目し、コンミューン政権として革命的民兵の出発と位置づけた井上清氏らの研究がなされている。そのさなか常太郎は赦免されて同年八月河内へ向うが、その時隠岐騒動関係の文書の写しを持ち帰っている。帰郷後、姓を中世の「里野」に囲んで左殿と改め、今日に及んでいる。
次男謙三郎は、嘉永二年五月肥前五島の吉田村に流され、京都浄土宗の僧で遊興のゆえをもって五島に流刑されていた僧全正に引きとられ、かれとともに五島侯の庭師として邸に出入りし、間もなく役所の書記にとり立てられた。驚くべきことに、大坂との便船福栄丸によって船頭が弓削村を訪ね、母由美を五島に迎え、滞留一年に及んだという。慶応四年謙三郎も赦免されて帰国するが、五島藩に改めて召し抱えられ、一旦五島へ戻ったのち大坂江戸堀の藩蔵屋敷に二○石扶持で抱えられた。この間の事情は、明治一五年三月に半痴居士(宇田川文海)が左殿家の用箋に墨書でしるした「在りし吾家乃面影 浪華異聞 大潮余談」に詳しい。講演のあと、島根大学松尾寿氏・井形氏・向江氏等から質問が出された。
小憩のあと、総会に入り、酒井会長挨拶、井形副会長による会務報告がなされた。会計年度の改正、会誌発行のおくれを挽回したこと、例会、毎回盛会ぶりをしめす「よむ会」(月一回)、仲田正之氏のまとめた「建議書」の検討会、会員の動静などである。ついで久保委員の会計報告・相蘇監査委員による会計監査報告があり、いずれも承認された。
九二年度の行事計画については、向江委員から来年一月二二日に中斎生誕二百年を迎えるのでそのための記念行事の提案がなされた。(1)連続講座(約五回、講師検討中)、(2)記念展示会(大阪城天守閣・市立博物館等と協議する)、(3)記念講演会とレセプション、(4)檄文の複写コピーの作成、(5)大塩関係史料集の刊行(当面ワーブロに入っている資料を吟味して稿本をつくる。他にも史料を精選して加える)(6)大塩事典の作成(長期にわたるが、全委員と「よむ会」有志による編纂とし、人物・事件・時代背景などを盛込む)、以上の計画を発足させたい旨提案された。その他恒例の例会については、新会員も増えているので大阪市内の事件関係地の見学を行なうこと、会誌も三二、三三号を発刊する。「よむ会」も「吟味伺二」を終り、八九年七月以来実に三三回を重ねてきて、今暫くは檄文の検討・古文書の解読を行ないたい旨提案され、承認された。
会計監査のうち大阪城天守閣の内田九州男氏が四月から愛媛大学法文学部教授に転出されるので、その労に謝し、代って大和浩氏を加えること、会誌編集に「よむ会」の松尾浩・山本章の両氏の協力を仰ぐことにし、いずれも承認された。
なお関係者遺族の紹介も久しぶりに行なわれ、白井(守口)・野田(尊延寺)・左殿・岩崎・神谷(以上弓削)・角新(吹田・宮脇家、隠岐)・和久田(星田の本家筋が関係)の各氏(括弧内事件当時の村名)各氏が披露された。とくに今回初めて出席・入会された角新氏からは挨拶がなされた。また松江や福岡から新入会の大塩氏ら遠来の出席もあった。内容的にもり上がった一日となった。
◇西尾治郎平氏を偲ぶ会
本会副会長西尾治郎平氏が逝去されて一周忌も済んだところで、九二年二月二三日ひらおか山荘で有志と親族による偲ぶ会が開かれた。参会
者約五○名で、故人を偲んだ。発起人は、荒木伝(日本社会党大阪府本部副委員長)・安藤重雄(大阪商業大・本会委員)・稲次直己(医師)・加藤充(弁護士元衆議院議員)経塚幸夫(元衆議院議員)・酒井一(三重大・本会会長)・中瀬寿一(大阪産業大・本会委員)・中村勝一(近畿大)・伏見格之助(元東大阪市長)で、中瀬氏の司会で、経塚氏の経過報告のあと、参会者それぞれ思い出を語った。幸徳秋水に忘れ形見の娘があることを発見し、大逆事件調査に大きな足跡を残されたこと、山本宣治の天王寺公会堂での演説の「山宣ひとり孤塁を守る」が「赤旗を守る」であったとして、羽原正一氏らと奔走されたが、まだ市民権を得ていないこと、『日本の革命歌』調査の様子など、感銘深いものが多かった。『革命歌』の共著者である矢沢保・元上二病院院長桑原英武・三宅製粉の三宅一真・本会副会長井形正寿氏ら、故人の幅広い交流を物語る出席者で、インターナショナルを合唱して会を閉じた。
なおこの席で、西尾氏の遣稿ともいうべき『日本の革命歌・労働歌の心を求めて』が刊行、配布された。偲ぶ会の世話万端を担当された久保在久氏(本会委員)が、生前聞取りして版下をつくられたもので、その労に厚く感謝したい。会の経費についても遣族およぴ久保氏のご援助を仰いだ。
◇久しぶりの見学例会
九月二○日久しぶりに天満を歩く見学会を好天気のもと開催した。当日午後一時天満橋橋上の東側歩道中央付近に三三五五集まった。なじみの顔・新聞でみたというニューフェイスを含めた盛会で、新会員の意向にこたえたフィールドワークは大成功だった。最初大阪合同庁舎の旧東町奉行所跡を見て、大阪城堀端を歩いて京橋を渡り、ヤジロベー型の川崎橋を川風に吹かれながら通って、大阪造幣局前ヘ。国道一号線を一旦こえて泉布観・桜宮公会堂を見学。明治四年建造で大阪最古の洋風建築。旧造幣局正面玄関をとり入れた公会堂前で参加者の記念撮影。再び元のコースに戻って、ゆかりの槐樹跡をみる。ここに古槐を切ったあと新樹を植えたはずなのに見当たらず、建設省工事事務所が建てた碑があるだけになっている。旧洗心洞跡には、銅板の説明書がつくられていた。もと元与力の長屋門を見て滝川小学校(川崎東照宮跡)を経て、東寺町を西へ。竜海寺で中天遊・緒方洪庵夫妻・大村益次郎髄骨碑などを展墓し、天徳寺(篠崎小竹墓)・善導寺(山片蟠桃墓)を門前からみて成正寺へ到着。ここで小憩ののち檄文について学習をし、大塩中斎生誕二百年を前に行事を策定中であることを報じて散会した。久しぶりに新入会者七名を数え、みのりのある見学会となった。
○訃報
会員の御逝去に謹んで哀悼の意を表します。
村上義光氏 船場古文書研究会の代表で、日立造船退職後古文書研究に専念された。本会の熱心な会員で、例会ではいつも鋭い質問を積極的にされていた。九二年四月二○日逝去、七五歳。短期間ながら本会委員も務められれた。中瀬寿一教授との共著『民衆史料が語る大塩事件』(晃洋書房)、『史料が語る大塩事件と天保改革』(同)がある。没後八月に、大阪歴史懇談会の島野穣を責任者として『追悼 村上義光先生を偲びて』が出版され、追憶のよすがとされた。
大岡欽治氏 関西新劇界の長老で、本会創立以来の会員。九二年九月一六日逝去、八六歳。六○年大岡演劇研究会を設立し(のち劇団潮流)、関西新劇の中心として活躍された。戦前の築地小劇場に参加して以来、一貫して民主主義を守り、演劇を通じてその発展を求められていた。本誌にも大塩事件の明治・大正期の上演記録を寄稿され、以前はよく例会に出席されていた。終戦前後の堺刑務所の回想談には胸をうたれた。病気療養中に大著『関西新劇史』(東方出版)をまとめられた。本会委員とはとくに交流が深かったが、文化行政の貧困な日本で劇団を育てられた情熱と人柄には思い出が尽きない。
◇『わかくす』
東大阪市のわかくす文芸研究会発行の雑誌『わかくす』一九号(九一年春季号)に会員荻田昭次氏が「大塩平八郎の乱と大蓮庵寺」を掲載しいまは姿を消した大蓮寺をとり上げ、同誌二一号(九二年春季号)にも「枚岡神社の燈籠」を掲載。枚岡神社の参道にある石燈籠に大坂書林の献燈として、河内屋柳原喜兵衛らの名前が確認されている。
◇『史料が語る大塩事件と天保改革』
中瀬寿一氏と村上義光氏の編者として標記の労作が晃洋書房から出版された。金座・後藤三右衛門の記録(東大史料編纂所)による後藤の動きを軸に、第一章で大塩事件から天保改革へ付録資料を加えてとり上げ、第二章で京都府城陽市寺田の旧家堀道和家に伝えられた天保期の堀鉄蔵の記録をもとに、大塩事件と洛中洛外の動きを分析したもので、豊富な史料に彩られている。史料翻字を主に担当された村上氏にとって、この著は最後の作品となった。相次ぐ両氏コンビの活躍に改めて敬意を表したい。
◇小林茂氏の喜寿祝賀
会員で近世史家として著名な小林茂氏が喜寿を迎えられ、九二年六月一一日になにわ会館で祝賀会が催された。その席は、氏がいままで書かれた論文のいくつかをまとめた、八五七ベージに及ぶ大著『封建社会解体期の研究』(明石書店)の出版祝賀をかねたものである。この中に、かつて『名古屋学院大学論集』二○号に発表され、研究者間で評価の高い「大塩平八郎の乱をめぐる農民闘争」が、第三編に「大塩の乱をめぐって」という題で再録されている。
◇『大阪春秋』68号
枚方市尊延寺の会員貝深尾武氏には本会の見学会でしばしばお世話になり、乱関係者の子孫として何かと御力添えを仰いでいるが、令息深尾正氏が「大塩事件と深尾家について」を標記雑誌に発表された。高校時代国立国会図書館へ祖父の代議士深尾竜三氏の資料を求めて調査に出かけるなど、歴史好きの青年である。大阪歯科大大学院を修了して、京阪枚方市駅に近い地でフカオ歯科クリニックを九月一日に開業された。医療のかたわら郷土の歴史を手がけられ、若手として両面の活躍を期待したい。
なお、この号には会員中島三佳氏の「北河内の私塾『南明堂』と行田家」も収められ、中宮村にあった私塾の寛政三−文化一二年の入塾生一覧表もあり、のちに大塩事件にかかわる北河内の豪農・村役人の子弟の名がみられる。
◇大阪学講座に大塩平八郎登場
大阪市が二一世紀に向つて行なっている「大阪咲かそ」キャンペーンの一環として、九一年七月から九二年三月まで「大阪学講座1なにわを築いた人々」を開催した。その結果内容が同名の新書版の小冊子となって、大阪市・(財)大阪都市協会編集・発行でまとめられた。とり上げられた大阪の近世・近代ゆかりの人物二○人の中に大塩平八郎も挙げられ、作家難波利三氏が本研究会の活動にも触れて庶民の中に生きつづけている大塩に光をあてている。
◇大塩との交流?
NHKで放映された『歴史誕生』11(角川書店)に「北斎と海防問題 モリソン号事件が起こったころ、北斎は名前を変えて、浦賀に潜居していた」が掲載されているが、北斎が数回訪れたという信州高井郡小布施の高井鴻山(一八○六−八三)は豪農・文人で京都や江戸で儒学・国学・蘭学と学び、大塩と交流があったといい、子孫高井家には土壁の中から偶然見つかった、大塩平八郎愛用の刀というものがあり、その写真も収められている。真相はどうか。なお、このデータは村上明弘氏の連絡による。
◇無尽講の考察
会員井上準之助氏はかねて無尽・頼母子講について研究をされていたが、伊豆韮山の江川文庫の『大塩平八郎建議書』が公刊されたのに触発されて、研究ノート「無尽講についての若干の考察」(『東京国際大学論叢 経済学部編』第四号、九一年三月)を発表され、建議書にいう「不正之無尽取調書」にみる、富籤に似た取退無尽は幕府が厳禁していたが、幕閣のからむような、また広範囲・多額の無尽講が果たして行なわれたのかどうか疑問を示している。しかし大塩の指摘する事態はやはり事実とみた方がよいのではなかろうか。
◇島川弁護士裁判官に
会員の弁護士島川勝氏は、森永ミルク中毒事件・西淀川公害訴訟・サラ金など消費者問題にとりくんできた民衆の立場に立った活動で知られているが、開かれた司法をめざす日本弁護士連合会の推薦で、九二年九月一日付で大阪地裁破産部の裁判官に任用された。庶民感覚を生かした、大岡裁き・大塩裁きを期待したい。
◇『燃える近江−天保一揆一五○年−』
滋賀県野洲町立歴史民俗資料館で、九二年一○月一四日−一一月二三日、天保改革時実施された検地反対の一揆の一五○年を記念して秋季特別展が開かれた。ここは銅鐸博物館としても知られるが、今回は天保一揆に絞って飢饉・一揆・改革・検地などを柱に展示がなされた。大塩平八郎の乱もその一環として展示され、大阪市立博物館の「出潮引汐奸賊聞集記」や藤樹書院の史料、東京都立大学蔵の水野忠邦の「丁酉日簿」など一級品が観覧できた。一○月一八日には野洲町三上の天保義民碑前広場で、住民総出の義民祭が開かれ、約五百人が参加したという。
「丁酉日簿」の天保八年二月廿六日の項を示しておこう。
一 大坂表ニ而徒党蜂起ニ付、和州郡山・摂州尼崎・泉州
岸和田・丹波篠山・播州姫路城主へ召捕人数差向候様
書付、帰宅之上、家来呼達之
一 今日西丸へ可致差上処、御用ニ而遅刻相成候間申談
相止、明日可参旨申合候
一 退出七半時の弐寸五分前
一 大坂より去十九日出刻附宿次皮寵状箱ニて到来
但大井川満水ニ付遅滞証文一通・品川宿添証文一通添
二月廿七日(略)
◇現存の大塩平八郎さん
九二年十一月十四日静岡県沼津市在住の大塩平八郎氏が、成正寺を訪問された。NHKテレビで大塩を見て、大阪へ出張のついでにタクシーの運転手に聞いて捜し当てられた。伊豆半島の植物園でたまたま「中斎直系」の人に面談したことが直接の動機のよう。この直系の人はだれだろうか。もう一人、同年五月長崎県島原市へ宿泊して、横山文哉の有明町出生地を調査したとき、井形正寿氏が電話帳でこの名を知り、電話で連絡をとられた。命名については満二歳のとき父を喪いはっきりしないが、長男が病歿したので「強い」名前にしたという。島原本島にはたまに大塩姓があるそうだ。もちろん中斎大塩平八郎については知っていたという。
◇『枚方宿役人日誌』
東海道枚方宿新町村の中島儀輔の文政十三年「宿村御用日記」が九二年十月に、中島三佳・松本弘子両氏の編集で清文堂の史料叢書第63刊として翻刻出版された。閏三月二一日の条に「大坂御与力大塩持ノ門弟ニ而、発明成仁ニ有之」といわれる大枝村(守口市)の九兵衛が前年百三両もの大金を持出したという風聞を書留めている。(一部既報)
◇馬琴書簡の「大塩捨札」
日本大学総合図書館蔵『馬琴書翰集』(大沢美夫・柴田光夫・高木元編校、八木書店、九二年)に、天保九年十一月付で滝沢馬琴が伊勢松坂の豪商殿村篠斎に送った書状の追て書の中で、江戸日本橋に建てられた大塩父子らの捨札に触れ、「見る者堵の如し。写しとり候者も有之候よし」として、大塩平八郎密通説も紹介、「かねて存候より御刑罪軽き方ニて、御仁政り至り」との評価を与えている。
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