Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.3
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「洗心洞通信 28」
『大塩研究 第34号』1994.3 より ◇禁転載◇
◇九三年六月例会
六月一九日午後成正寺において例会が開かれ、向江強氏が「大塩の漢詩を読む」と題して熱弁をふるった。
今回の「大塩の漢詩を読む」は、一九八七年九月に『歴史科学』No110に執筆した「大塩中斎の漢詩を読む」や新しく発見された大塩の掛軸〈七絶二首〉などをテキストや素材にして報告したものである。中斎の漢詩は難解なものが多いが、とくにこの七絶二首は読みにくく、且つまたその真意を伝えること遠きにあったという外はない。後日この詩には再挑戦してみたい。尚この掛軸の詩は江湖逸人の署名があり、たまたま中斎が摂州車村の門人文太郎の家を訪れたとき揮毫したものとみられる。文太郎は車村の百姓藤右衛門の孫で、天保五年柴屋長太夫(兵庫西出町の家持、中斎のために多額の書籍費を支弁した)の世話で入門寄宿し、天保七年一二月二三日祖父老衰のため退塾した(以上は幸田成友『大塩平八郎』による)。したがってこの七絶二首は、祖父藤右衛門(霜居亭主人と号したか)在世の折のものと思われる。中斎の政治への並々ならぬ関心を伺わせるものであることはたしかである。
例会のあと、リバティ・おおさかで約二か月間開かれ盛会裡に幕を閉じた大塩平八郎生誕二百年記念特別展「大塩平八郎と民衆」、をふり返り、とくに開催に普って格別のご尽力を頂いたピース・おおさかの岡本知明館長とリバティ・おおさかの今井健嗣学芸部長を囲んで本会委員等が想談会をもち、歓談した。
◇九月例会大塩ウオーク
九三年九月一二日(日)に前年の大塩見学ウォークのコースに引続く形で、今回は船場を歩いた。一二時三○分に成正寺に集合、同五○分定刻に出発して、天満天神宮・天満惣会所跡・天満青物市場跡、今にのこる古い天満の蔵や家並みを見学して、難波橋を南下、船場に入り、要所々々を確認しながら、十兵衛横町(天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛屋敷跡)・平野橋界隈・激戦地淡路町を歩き、薬屋小西商店・炭屋彦五郎邸などの話を聞き、少彦名神社(神農さん)を経て、旧鴻池本店跡(大阪美術倶楽部)前で一六時一五分解散した。
参加者が実に多く家族づれをふくめて七○名をこえる盛会で、「救民」の旗をひるがえして歩く様子は、乱当日を彷彿とさせた。火縄銃も成正寺のお世話で壇家から借り出され、雰囲気ももり上がり大成功であった。安藤・井形・酒井・中瀬・向江の各委員が随所で解説を行った。この日の様子は、生誕記念ビデオに一部収録されている。
◇一一月に福島区歴史研究会と共催例会
生誕二百年記念として大阪市立福島図書館が福島区歴史研究会の協力をえて、九三年一○月七日から九四年一月三○日まで福島区民センター三階にある福島図書館の郷土資料室で「大塩平八郎と民衆」展を開いた。リバティ・おおさかの展示会につづくミニ大塩展ともいうべきもので、地元の井形氏の尽力で親しみやすい大塩展となった。この行事の一環として、同センター三階三○一号室で記念講演会が一一月一六日午後開催され、本会も共催の形で参加した。始めに福島区歴史研究会会長羽間重光氏から大塩を身近かに感じるという挨拶があったあと、完成したばかりの生誕記念ビデオ「大塩平八郎と民衆」を上映、感銘をもって大塩の乱の全貌を観賞したあと、講演に入った。井形正寿氏「大塩の乱と福鳥区」、向江強氏「大塩平八郎・檄文の思想」、酒井一氏「大塩の乱と市中周辺の村々」の三本で、井形氏は最近まとめた『福島区史』の成果に立って、所蔵の「洗心洞連斎」の文政一三年与刀辞職時の「昨夜閑窓夢初静」云々の書軸を背に、野田・上福島との関係、間重新の祖は浦江出身でないか、その観測日記の乱れ(当日展示中)、上福島村砂町の名のある施行札、森小路の横山文哉の妻を下福島村横超寺の娘とする史料、整理中の円満寺文書に檄文・判決文・高札の写しが多くあることなどを説明した。
向江氏は大塩決起の理由はまだ結着がついていないとした上で、建護書にみる文政期からの不正追及、現代とのつよい共通性、「仁」を失った者は「一夫」にすぎない等々、儒学の民主主義的要素をよぴおこす思想を熱弁をふるって論じた。
酒井氏は、河内綿作地帯や大坂三郷周辺の村々が米の構入を行う地帯であることを前提にして、飢鮭時の江戸回米の意味を考え、さらに兵庫北風家の回米の動き、内山彦次郎の工作をおさえた上で、檄文の原文の作成が天保七年一二月ごろであろうと推定した。
参加者は約百名で、ビデオの予約など会の活動にとっても有益な一日であった。
講演の合い間に大阪市議で福島区歴史研究会顧問の太田勝義氏から、復刻『鷺洲町史』およぴビデオ購入への協力が求められた。同館館長長山美智子氏には万端お世話になった。福島区歴史研究会の方々とあわせて御礼申し上げたい。
◇生誕記念ビデオ上映の倒会
九三年一二月一八日午後一時三○分から、天満橋西にあるエルおおさか(府立労働センター)一一階の連合大阪の会議室で、大塩平八郎生誕二百年記念ビデオ「大塩平八郎と民衆」を上映し、例会をもった。このビデオにつづいて先年NHKテレビ歴史誕生でとり上げられた「配達されなかった密書」をも上映、その後監督の島田耕氏の「ビデオ『大塩平八郎と民衆』を制作して」の講演があった。島田氏は独立プロの助監督以来四○年の体験の中から、この作品を手がける機会を与えられたことの幸せを語り、さらに出身地淡路の曽祖父が陽明学を志し、今回の取材で訪れた滋賀県高島町の藤樹書院で曽祖父が同書院に一泊したことを確認し、先祖との出会いに感銘が深いとのべ、母から聞いた大塩・陽明学の思い出、能勢町・屋久町での撮影から得た感想などを語った。豊富な取材を三○分にまとめるのは辛い仕事だったようで、リバティ・おおさかでの展示から始まった撮影がここに島田氏の手でみごとにまとめられたことをとくに喜びたい。
参加者からは、動画としてすばらしく、当館としてもビデオを資料として活用したい(リバティ・おおさか学芸部長今井健嗣氏)、取材は大変だったろう、屋久島行きが台風でのぴたり、島田さんの母上のご逝去、夫人入院中の撮影でとくに御礼申し上げたい、正月に近所で上映したい(政野敦子氏)、うまく三○分にまとめられ、担当の島田・山添哲也氏のご苦労に感謝し、これを活用して事件の解明がすすむことを期待したい、大阪の事件だから地元の放送局でもまじめにとり上げてほしい(ABC西山氏)、不動産業界のトップが集まった席で大塩のことが話題になり、講演に行くことになった、バブル経済崩壊、官財ぐるみの腐敗の世情のせいか(井形正寿氏)などの意見が出された。
会としては、今後史料集・大塩事典の作成の意向を示した。さらに大塩の劇映画もほしいという声も出された。
◇森田康夫氏出版記念会開かる
九三年一○月二八日『大塩平八郎の時代−洗心洞門人の軌跡』森田康夫著、校倉書房刊の出版記念会が、弓削村七右衛門ゆかりの八尾市域の教育関係者を中心に、アベノ東海クラプで開かれた。当日は樟蔭東女子短大学長・伊賀節郎氏や元東大阪市長・伏見格之助氏をはじめ二百数十名を数える盛大な会となり、大塩事件に参加した門人の出身地での関係者に、改めて事件の意義を理解していただく機会となった。
◇三谷秀治氏『大塩平八郎』出版記念祝賀会
九三年一一月一三日夕方からなにわ会館で三谷秀冶氏の『大塩平八郎』(新日本出版)の出版記念祝賀会が百名をこえる参加者をえて開かれた。丸山茂氏作の河内音頭「大塩平八郎」で開幕、よびかけ人代表の稲次直巳氏の挨拶、酒井一氏のミニ講演、作品の一節の朗読などがあり、立食パーティの最後に三谷氏が小説執筆の意図を、歴史の弁証法を考え民主主義のあり方を示したとのべ、記念に切絵「大塩平八郎」が三谷氏夫妻に進呈された。この会場で本会が復刻した檄文がかなり売れた。
◇ビデオ紹介の新聞記事
本会作成の大塩生誕二百年記念ビデオが新聞に取り上げられた。九三年一一月二三日に共同通信社大阪支社(神谷義夫記者)発信の「現代によみがえる?大塩平八郎」の記事が、日本経済新聞等に掲載されこれを見たという申し込みが、東京・大阪・仙台・宮崎など広域的にあり、会を勇気づけた。引続き産経新聞も一二月六日に「大塩平八郎のビデオ完成」の記事を掲載した。
◇『客人(まろうど)の湊 福浦の歴史』
石川県羽咋郡富来町福浦港といえば、大塩の乱後帰宅才次郎・大井正一郎・新兵衛が船宿喜之助宅へ潜伏したことで知られる土地である。九一年一二月に標記の九百ページの大冊の本がまとめられた。編さん委員長代行を務めた瀬戸松之氏には、野田昌秀・酒井一の両氏がこの地の調査で色々と御案内を得た。この本は、渤海国との交流にはじまり、北前船の寄港地として栄えた江戸時代から、近代に及んでいて、史料編もある。「大塩平八郎の乱と福浦」の項もあり、長山直治氏の論文にもとづいて喜之助とその娘きいに触れている。北前船の貴重な地域史である。希望者は、一万円(他に送料五二○円)を、瀬戸松之氏あてご送金下さい。
◇『大塚薬報』に大塩平八郎掲載
大塚製薬工場発行の『大塚薬報』第四八○号(九三年九月)に「知ってもらいたい」(第三三四回)に「大塩平八郎−小さな乱の大きな意義−」(野村敏雄)が美しいカラー写真をふんだんにもりこんで、大塩建議書・天満与力時代・四海困窮いたし候・八時間の市街戦の四項目で紹介された。大塩の書・著書・檄文・炮烙玉・棒火矢・成正寺と墓碑等の写真は見事であり、文章もいまはやりの掛け声ばかりの「政治改革」と命をかけた大塩のそれとの対比でもりあげている。大塚製薬の社長が徳島出身であることから、大塩もこのシリーズに登場したのだろうか。
◇相蘇一弘氏「大塩平八郎と大阪天満宮」
大阪天満宮史料室編『大阪天満宮史の研究』第二集(思文閣出版、九三年七月)に、相蘇一弘氏が、川崎東照宮の別当・建国寺の文書「天保御遷座一件」と大阪天満宮の記録に基づいて、大塩は建国寺を砲撃したか、二月一九日の大阪天満宮、大阪天満宮の被害と再建への動き、おわりにの四項目にわたって手堅い詳細な事件分析を行っている。産経新聞九三年七月三○日付も、川崎東照宮と建国寺は、砲撃されたのでなく類焼だった、大塩が神仏を攻撃する理由はなく、大塩の神仏観を見直す必要があり、いままでの伝聞史料を改めて再検討することを求めた記事をのせている。
◇森田康夫氏「大塩平八郎と神戸・西村旅館」
九三年八月に「大塩平八郎の時代−洗心洞門人の軌跡」を出版した森田康夫氏は、『歴史と神戸』第三二巻第六号(一八一号、九三年一二月)に河内弓削村の大塩門人西村七右衛門家の親族筋にあたる河内屋小兵衛が兵庫で西村家を興し、やがて西村絹が「一種の女傑」として西村旅館を創始する様子を、氏の精査した弓削村の歴史と『西村旅館年譜」とでまとめている。同氏の前掲書については、本号の藪田貫氏の書評を参照されたい。
◇佐藤克巳氏からの資料提供
桜美林大学名誉教授佐藤克巳氏からは、かねがね大塩や陽明学にかかわる印刷物を会宛て頂載している。同大学経済学部の佐藤教授ゼミナール0Bによる「紫水会」の佐藤先生勇退祝会特集号(八七年一○月)、「一死以て軍閥に抗す 陽明学徒 中野正剛」(陽明義塾 佐藤克巳)−ここには大正七年米騒動時の中野の畢生の名文『時事非にして大塩中斎を憶う』を引用−、「河上肇の陽明学と『タオ』自然学」(同氏『孤鴻万里」所収、人と文化社)、「縦横論議 政治腐敗その極に達す」(東大新報第五六八号)−大塩檄文に触れている−などである。おそくなったが、ここに紹介して御礼申し上げたい。
◇伊勢市に安田図書の墓建立
伊勢外宮師職安田伝太夫の忰図書は、この地の同じく御師の足代弘訓の紹介で大塩門人となった。乱に直接加わったため、天保八年七月江戸の揚屋へ送られ、直ちに細川越中守家来に預けられたが、八月一四日に病死した。死後、判決では中追放の処罰をうけたが、もちろん墓もなかった。その養父母にあたる伝太夫広治と能登子の墓は伊勢市浦日町の天神ケ丘墓地に無縁仏としてひっそりと残されていた。地元の文化財調査委員の間宮忠夫氏からこのことを聞いた同市浦日町三丁目の建設会社社長中村計吾氏は、父母の眠る天神ケ丘に図書の墓を建て、九三年二月一九日(地元の方は図書の正確な歿年月日をご存じなく、大塩事件の日を命日とみて)、その二日前の一七日にかさもり稲荷・法住院の桃尾順大師の読経で開眼供養を行った。
◇天保七年と平成五年の天気比較ぴったり
かねて天候復元の研究にとり組んでいる三重大学教授水越允治氏は「天保飢饉の年と一九九三年の天候にみる奇妙な類似」として、両年の間に梅雨入りが早く、たびたび豪雨があり、九三年の例では梅雨明けの特定できなれと比較、まことにピツタリといつた類似がみられることを図示している(Newton―GRAPHIC SIENCE MAGAGINE 1994.2)。天保期も米の問題から大塩決起の道がきりひらかれたが、平成の今日も、あっという間に輸入米(タイ米・カリフォルニア米)の道がつけられた。おそるべきは米ではないだろうか。心せよ政治担当者!というところ。
◇安藤重雄氏の上方商業資本論
渡辺信夫編『近世日本の都市と交通』(河出書房新社、九二年四月)に、安藤重雄氏「幕末における上方商業資本」が収載されている。氏の大塩事件への思いなどの入ったもので、商業資本独自の分析はないが、大坂北組惣年寄永瀬家の乱とのかかわり、(とくに天保八年の「公用私要目録」―氏の評価では天満惣年寄今井官之助の証言を凌駕するとする、大阪商業大学商業史研究所所蔵)が興味深い。
◇菊池容斎論
大塩の肖像としては菊池容斎画くところという作品が最も有名で、大阪城天守閣・大阪市立博物館にあるが、『日本の美術』第三二五号(至文堂、九三年六月)に、佐藤道俊氏が「江戸絵画シリーズ」の一つとして、最近注目を集めている河鍋暁斎と菊池容斎の作品と評論を収めている。容斎は天明八(一七八八)年幕府御徒の三男に生まれ、西ノ丸御徒を退役後画を修行し、明治九(一八七六)年にはフィラデルフィア万博に作品を出品するなどして、同一一年九一歳で歿した。暁斎・容斎にみられる画号の「斎」には、儒教的イメージや民間信仰化した儒仏神教の混淆的イメージを感じるとし、容斎の勤皇思想・儒学と国学とのかかわりなどにも触れ、数多くの絵画を掲載している。文久三(一八六三)年の自画像画稿もある。この時代の文化や身分制を考える手がかりにもなる出版である。
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