◇禁転載◇
展墓のあと、会の主催で作道洋太郎氏(大阪大学名誉教授・大阪国際大学教授)の「天保期大坂の社会と生活」と題する講演が行われた。
氏は、(1)天保期の危機的様相、(2)大坂市場の成り立ちとその変貌、(3)天保期の社会と生活、(4)近代への展望の四本立てで大坂を中心に政治・経済・文化・社会など多様な側面から天保期の特徴を描き出した。大塩の乱がある意味で天保改革の引き金になり、経国済民から救民の段階へ移る社会事情が醸成されたとし、この時期に必要とされた大革新を大塩の乱が示したと結論づけられた。大塩の乱は大坂でなければ起らない事件とよくいわれるが、氏は専門の経済史研究の蓄積にもとづいて平明適確に説明された。
小憩のあと本研究会の総会が開かれた。酒井会長挨拶のあと会務報告(井形正寿副会長)では大塩に始まり 大塩に終った一年をふり返り、リバティ・おおさかでの大塩生誕二百年記念特別展と二回にわたる文化フォーラム、大阪市立福島図書館におけるミニ大塩展と講演会(九三年一一月六日)、九三年九月一二日の「大塩勢の進路をゆく」(パート2)、檄文の原寸(成正寺所蔵)どおりの復刻、大塩ビデオの完成(島田耕監督)、大塚製薬のPR誌『大塚薬報』第四八○号にカラー写真入りで紹介された大塩の乱、図録『大塩平八郎と民衆』の発刊など多忙だった一年間を総括し、とくに展示に当っては各方向の協力を仰ぎ、関係者が身銭を切って奔走されたことに感激したと結んだ。
会計報吉(久保在久事務局長)として、九三年一月から九四年一月までの会計が報告され、会員は一五○名、退会・死亡・会費滞納などで楽観が許されないことが指摘された。特別会計(檄文の復刻・ビデオ)のうちビデオについては、建碑時の残額で本会に引継がれた百万円近くと成正寺からの寄付百万円、同寺からの借入金百万円でとりくみ、販売に努めている現状および九三年度中に大阪市教委買い上げ分一三〇本の代金納入の予定があることが報告された。
会計監査については、大和浩氏から三月二日大阪市立博物館で相蘇一弘氏とともに会計担当の久保氏の説明をうけて実施し、正確かつ適正に処理されていると報告された。(詳細は本誌34号に掲載)
新年度の活動方針(向江強副会長)については、(1)例会の開催、(2)大阪市教育委員会文化財保護課の意向をうけ、講演会やウォークを開催すべく、市の担当者と交渉中で、本会としては市民の関心を集める好機会なので積極的にとりくみ、ウォーク第一回を五月二八日「上町台地の寺々めぐり」にきめ、大塩を軸に大阪の歴史を学ぶ企画とすること、第二回目のウォークおよび秋の成正寺での講演会も予定されていること、(3)徳島県脇町への研修旅行を実施して同町と史料および意見の交換を行い、大塩出生地説にかかわる調査をすること、(4)パンフ『大塩平八郎と民衆」(仮題)の発行計画、(5)史料集の発刊、「塩逆述」のワーブロ入力が協力者の手で終了しているので、稿本として百部を目標に印刷し、史料集刊行のきっかけにしたいこと、(6)会誌三五・三六号の発刊計画、(7)史料を読む会が毎月一回「建議書」を検討しているが、原本写真版を参考にして刊本のミス・脱落を確認していること、会は三年ほど開いてきたが継続して充実してきたことなどが報告された。
討論として、会の会計状況をめぐって、一月に始まった郵送料の値上げとの関係で、会員への年賀状の省略、会費の値上げなどの声があり、来年度までに改めて検討することになった。会員増、とくに若手の参加の必要、大塩に関する情報の交換などの指摘・要望もあり、報告・提案を拍手多数で承認した。
説明を酒井・井形・向江・中瀬の各委員が順次担当したが、大倫寺では缶ジュース・ウーロン茶の施行をうけ参加者一同一息つくことができた。同寺およぴ見学を許可された関係寺院のご好意に感謝する。
翌一二日午前中脇町長南充明氏らに表敬訪問し、三宅家の墓所最明寺(重文・昆沙門天像あり)・山彦神社(山彦大明神の社殿前の燈篭銘に山口善郎らの名あり)を見学、昼には一同岩佐氏宅で半田そうめんの接待に預った。午後一時三○分から脇町福祉センター三階で検証集会を開いた。岩佐氏の司会のもと、冒頭に水不足による急務で欠席された町長に代って教育長笠井重幸氏の挨拶があり、ついで向江強「大塩檄文の思想」、井形正寿「最近の大塩研究」、酒井一「大塩平八郎に学ぶ」の三報告が行われた。
向江氏は大塩の最終の思想を示す檄文の要点を政治的な学問として儒学のエッセンス(修身斉家治国平天下)を軸に説き、「天満風の我儘学問」と評された大塩こそ行動を伴う正当な儒学者であり、民主的要素を継承していると指摘した。
井形氏は、母堂が真楽寺前に生まれこの地にゆかりの深いことから始めて、大塩をめぐる最近の研究を紹介し、決起直前に幕閣などに送った建議書のナゾ、不正暴露の理由、学者の信念からの決起等を論じて、大塩の立派さを明らかにしたいと結んだ。酒井氏は、まず乱後一五○年余を経て今も深い関心をよぶことに触れ、ついで大坂都市民の乱における組織化の困難を都市と農村の違いから論じ、大塩をかくまった美吉屋五郎兵衛を阿波との関係で特徴づけ、市中の唯一とみるべき大塩加担の埋由を説明した。ただし大塩平八郎の阿波脇町出生説には疑問を提示し、祖父こそそれに当るとのべた。
この検証集会と調査の様子は、四国放送で取材され、八月一九日午前七時からの同社の「おはようとくしま」で放映された。現地で準備・運営に当られた岩佐氏ならぴに脇町関係者に御礼申し上げたい。
大阪からの参加者は、阿波踊りの雰囲気につつまれながらその見学組や帰路組にわかれて散会した。(詳細は本号向江氏の記事を参照)
この朗報はビデオ作成にともなう労苦を一瞬にふっとばし、会を活気づけるものとなった。改めて作成を決断したことを喜ぴ、名作をまとめられた島田氏の手腕に敬意と感謝の意を表したい。
なお日本視聴覚教育協会から英文タイトル名を求められたので、次のようにまとめて通知した。
Rise up against the Injustice Oshio appeals.
米谷嘉夫氏 内外履物新聞社(大阪市浪連区日本橋東一丁目 履物会館)社長で、九三年七月四日逝去。
氏は本会の前副会長故米谷修氏の長男で、七五年一一月九日会創立のとき事務局を履物会館に設置して、現在の成正寺へ移るまで十年間にわたり、何かとご協力いただいた。事務局に委員が常駐せず、ことに御父君亡きあとは、郵便物・電話や委員への連絡等、履物業界の要職にあって多忙な中ご面倒をかけ、酷暑・厳冬の時期には郵便物を転送してくださったことも屡々ある。会館事務室には父君の遺影が掲げてあり、資料や書類の山、来客や電話の頻繁な中で夫人といっしょに仕事をされていた。お礼をいうと、いつも「親父は大塩の会が好きでしたから、供養や思うてます」といわれた。氏の繁忙な姿を幾年も見てきた者からみると、六五歳の若さで逝かれたのは過労もその一因であろうと推察する。本会を陰で支えてくださったことを改めて深謝し、ご冥福をお祈りします。(政野敦子氏)
春本彰氏 七五年入会、立川市在住、創立以来の会員だった。
時野谷勝氏 創立以来の会員、大阪大学名誉教授、明治維新史専攻、九四年八月二五日逝去、八三歳。
小沢圭介氏 歴史教育者協議会副委員長、八七年五月の大塩建碑に際して同会を代表して東京から参加、挨拶された(本誌23号)。成蹊高校教諭時代から歴教協の中心として活躍され、定年後NHK学園の古文書の講師を勤めておられたが、九一年九月倒れ静養中のところ、九四年五月一五目に逝去、七一歳。本会へは八八年五月入会。若い頃、大塩研究も手がけられた神戸大学の故阿部真琴氏の東京中野区の御宅に下宿されていたという奇しさ因縁もある。
伊藤忠士氏 名古屋大学教授、七九年四月入会。近世史研究者として東海地区の農村調査や名大高木家文書の史料保存などに優れた実績を挙げ、大学の学生部長や名古屋歴史科学研究会の代表委員を勤めるなど貴重な足跡を残された。ええじゃないか運動に晩年精力的に取り組み、その成果の集大成が期待されていたが、九四年五月二六日急逝、六○歳。
岡田誠三氏 朝日新聞社を定年後作家として活躍し、直木賞も受賞、大塩についても土井利位を中心に描いた『雪華の乱』、大塩研究に熱中した父播陽をモデルにした『自分人間』などを著した。本会とは直接交流はなかったが、研究上貴重な方であった。九四年六月二一日逝去、八一歳。
十月一三日には淡路地方史研究会の例会が洲本市情報交流センターで開かれ、このビデオの上映と解説が行われた。講師はビデオにも登場する野口早苗氏(島田耕氏の縁者)。このように各地で上映の輪がひろがり、大塩への理解がひろまることを斯待したい。