Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.3.18

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「洗心洞通信 30」

大塩研究 第36号』1995.11 より

◇禁転載◇


◇大阪市教委「天満かいわいを歩く」

 九四年一一月一九日(土)午後一時から三時一五分にかけて、市教委文化財保護課主催のフィールド・ワークが開かれ、大塩ゆかりの地を中心に天満界隈を歩いた。本会の例会をも兼ねる形で、市民や本会会員ら五十数名が参加。まず定刻に天満橋マーチャンダイズマートビル南側男子像前に集合。市文化財保護課鈴木氏の司会で木岡清課長と大塩事件研究会会長酒井一氏の挨拶があったあと、比較的暖かな秋陽のもと、天満橋を渡り、川崎東照宮跡の滝川小学校前を経て、大阪造幣局構内に入り、与力役宅門(志村清氏説明)、洗心洞跡(向江強氏)、国道一号線沿いの「大塩の乱槐(えんじゅ)跡碑」(井形正寿氏)を見学した。志村氏の調査ではこの付近には明治初年に十軒ほど与力屋敷が残っていて明治新政府の官舎に利用されたという。大塩ゆかりの槐は五年前の三月三○日に内部の腐朽による倒壊をおそれて伐られたが、井形氏によると、そのとき分株した一つが子孫の和泉市の朝岡三治氏宅では三メートルほどに育っていまは紅葉中という。このあと東寺町を歩き、竜海寺(緒方洪庵墓碑)・天徳寺(篠崎小竹墓碑)・善導寺(山片蟠桃墓碑)を寺の門前から説明(酒井一)、あと谷町筋を越えて蓮興寺(大塩政之丞・敬高関係墓碑、境内に入って井形氏説明)、さらに大阪天満宮を見学(向江強氏説明)、ここで解散した。

◇ビデオ文相賞受賞パーティ

 同一一月一九日ウォーク終了後、午後四時〜六時三五分、大阪駅前の阪神百貨店地下二階のアサヒビヤレストラン「スーパードライ阪神」」本会制作のビデオ「大塩平八郎と民衆」が九四年度優秀映像教材選奨教養部門において最優秀作品の一つとして文部大臣賞を授与された(本誌35号)のを祝して、監督の島田耕氏ら制作に直接当られた方々ヘの慰労と受賞の披露をかねて、パーティが開催された。

 初めにビデオを上映したあと、松浦由美子氏の司会で、酒井会長から関係者への謝辞、ビデオの販売に尽力された太田勝義市議と木岡市教委課長の挨拶、受賞式に参加した本会事務局長久保在久氏の報告があり、渡辺武大阪城天守閣館長による乾盃発声により、懇談に入った。島田氏の映画界での活躍を反映して友人が相次いでエールを送り、映画の現状の問題点などを指摘した。当日の受付は島田氏のかわいい令嬢二人が担当された。このお二人とカメラ担当の(株)パンクリエイトの山添哲也氏とともに挨拶に立った島田氏は、大塩建碑以来のビデオの取り組み、嵐寛寿郎主演の「天満風雲録」からあとの研究成果をどうもり込むか、映像と研究者の文字表現中心とのズレをうめる苦労、大阪でピデオを成功させさらにユニークな発展を期待したいが、黒沢明監督以後の優れた映画製作への思いを抱いていることを語った。最後に病気加療中の島田夫人へ花束を贈って、温く楽しい雰囲気の祝質会を閉じた。島田さん・山添さん、本当に乏しい資金で、魂のこもった作品を有難うございました。

◇大阪市教委講演会

 「天満かいわい」ウォークにつづいて、九四年一一月二六日(土)午後一時〜三時、北区成正寺において大阪市の文化財保護課主催、本会協賛の講演会が開かれた。酒井一氏が「時代を揺り動かした大塩平八郎の乱」と題して、(1)時代とともに大阪に生きる大塩像(幕末から明治の自由民権期・大逆事件後の幸田成友と森鴎外の代表的な大塩作品、「大塩さん」とよばれて今もことあるたぴに想起されている事実)、(2)大塩の生きた時代(化政−天保期、一九世紀前半の民衆の成長と領主反動、官財癒着の新たな進行)、(3)農業と哲学の前進(「洗心洞箚記」と檄文にみる政治と民衆、治政者たる武士階級と村落の責任者である豪農にとくに「仁」を説く意味)、(4)政治責任と政治改革の方法(「建議書」にも触れ、大塩が下級幕吏として藩単位の「国家」でなく責任政権として幕府に「国家」からナショナルなあり方を求めていたことの意味)、(5)大塩が遺したもの(広義の明治維新論を大塩の乱から始めるとき、儒学の枠にありながらも「国家」像をめぐる発言したことの重視)を語った。

 この中で、大塩余波にも触れ、天保九年三月の江戸西の丸城燃上を大塩与党の仕業とする風聞(三上参次『江戸時代」、山田忠雄氏の研究)や「天保雑記」にみる同十年五月の小姓頭内藤安房守への美濃部山城守名の手紙に、大塩一党の処分後大塩残党一八七三人が江戸近在に住居し、跡部山城守・水野越前守へ矢玉・刀剣を差し向け、在館を見はからって西の丸を焼打ちにする噂、大塩残党七千人余が西の丸下へ向うという内容を紹介し、大塩余燼に幕府がおぴえている様子も指摘した。

 たまたまこの講演の前日が、NHK総合テレビ「ひるどき日本列島 京・大阪淀川紀行」の最終日で、大阪天満宮正門の南にあるとりい味噌店のおかみさんが、「三百(ママ)年前に大塩さんが味噌を買いに来はりました」と語っていて、まるで大塩が今も天満界隈を歩いているような雰囲気で、大阪的な語りが紹介されていた。

 講演のあと、檄文について向江氏が、成正寺の奥にある大塩関係の先祖の墓およぴ本堂前の大塩父子の墓と乱の記念碑を井形氏がそれぞれ説明した。

◇中斎忌・記念行事

 九五年三月二五日(土)午前一一時から成正寺において住職有光友信師の回向により同寺主催の「大塩父子及ぴ関係殉難者怨親平等慰霊法要」と展墓が行なわれた。小憩のあと、午後一時から、奈良教育大学助教授の本城正徳氏が「大坂周辺の米穀市場と大塩の乱」と題し講演を行なった。一一年前の三月にも講演されたことがあるが、その後大著『幕藩制社会の展開と米穀市場』(大阪大学出版会、九四年一二月)をまとめ、その研究成果とさらなる米穀市場論の深化をめざした内容で、大塩の乱を軸に論旨を展開された。

 はじめに、天保期の飯米市場研究はさらに検討を要するテーマであるとした上で、農村部に米穀=飯米市場の一般的成立、都市=堂島に依存した実態を示し、具体的に天保期における市中飯米維持政策、米穀市場問題からみた大塩の乱を論じた。大塩の個人的思想・行動や門人たちの結合のあり方が重要なテーマであり、乱全体像の把握のためには、乱があのような結果に終ったこと、大塩の乱と打ちこわしの民衆運動との接点を求めて、さらに多角的な分析が必要で、この日の講演はその一視点として米穀市場論からの問題提起であると結ばれた。

 討論では、国訴にみられる消費市場論との関係、農村部で銀納と米納をめぐる領主との対立を考える必要(酒井氏)、動員の仕方や引札などの乱の行動と市場論理との接点、天明−慶応期で大塩の乱がなぜ「突出」したかを考えること(向江氏)、米穀市場と豪商住友・鴻池との関連(中瀬氏)などの質間・意見が出された。

 休憩を経て総会に入り、会員拡大を訴える会長挨拶のあと、会務報告(井形氏)があり、会誌三四、三五号およぴこの日発刊された別冊『大塩平八郎を解く−二五話−』、月一回開かれて六年以上続いている「資料をよむ会」が「一件書留」「建議書」を終えて古写本「塩逆述」に入ったこと、ビデオが文部大臣賞を受賞したお陰で好評で、全国的に関心をよんでいること、大阪市教委の文化財講演会として、フィールド・ワーク二回と講演会が開かれ、本会も実質共催として全面委任の形で実施されたこと、八月に徳島脇町へ検証旅行に一三名が出かけ、その様子が四国放送テレビで約二五分放映されたことが説明された。

 会計報告(久保氏)と会計監査報告(大和氏・本号掲載)を受けて一括拍手で承認、ついで活動方針の提案があった(向江氏)。夏・秋の例会やフィールド・ワーク・研修旅行の企画、二千部印刷したパンフの普及活動、本会創立二○周年の催しを一一月一一日に予定する、会誌の発行は会計上苦しいが年二回で努力したく、パンフは会誌の別冊として出したがその間の事情の理解を求める、檄文の複製の製作、史料集の具体化、会員増加の努力の必要、「よむ会」を息長く続けたいので、毎月の会への参加を求めることなど。

 委員の改選があり、会長酒井一、副会長井形正寿・向江強およぴ委員安藤重雄・石橋彦徳・久保在久・島田耕・島野三千穂・中瀬寿一・松尾浩・藪田貫、監査相蘇一弘・大和浩、顧間有光友信の各氏を承認し、最後に井形副会長の、二○周年をめざしてご協力をとの訴えで閉会した。

◇本誌別冊「大塩平八郎を解く−25話」の発刊

 九五年三月二五日の総会の席で、待望の大塩入門パンフが紹介された。さきに文部大臣賞を受賞したビデオ「大塩平八郎と民衆」とセットに大いに活用されることが期待されている。二年近い歳月を要し、本会の中心メンバーが執筆した。一話ごとに四ページ読み切りとし、写真・図などを配し、全部で二五話。これに大塩平八郎関係年表や大塩の有名な「春暁城中」云々の七絶、大塩焼けの地図などを載せている。資料の提供者や協力者に御礼申し上げたい。A5判一○八ぺ−ジ。頒価千円。編集の不手際で印刷担当の耕文社、特に石橋彦徳氏にはご迷惑をおかけした上に、格別のご尽力を頂いた。近年大塩をとり上げる講演会が府下各地で開かれ、その席で向江・井形氏らによって精力的に販売され、好評を博している。

◇『大塩平八部を解く』の反響

 九五年五月九目付朝日新聞「青鉛筆」の欄に写真入りで紹介、五月一七日付毎日新聞夕刊「憂楽帳」の欄に「堪忍難成」という檄文の一節を見出しにして紹介、「現代の『大塩さん』の出現を期侍してもむなしい?」とある。六月二日付の住宅流通新聞(大阪市中央区博労町一−四−一○ ふぁみ−ゆ博労町ビル4F)も「幕府の構造汚職告発 金権腐敗の現代ほうふつ」の見出しで詳しく取り上げ、同紙に「温故知新」を連載している井形副会長の顔写真と発言、パンフの写真を掲載している。

◇日本史研究会例会で大塩

 九五年五月二○日、日本史研究会例会が京都の機関紙会館で開かれた。ビデオ「大塩平八郎と民衆」を上映したあと、島田耕氏が制作の意図、大塩に関心をもつにいたった事情を東宝争議や今井正監督のもとでの映画製作の思い出とあわせ、生家の淡路の豪農島田家と陽明学、日本映画の現状とこのビデオの位置づけを語った。ついで酒井一氏が「最近の大塩研究について」報告した。

 質疑では、村役人の政治責任、村役人と中間層のとらえ方、大塩に影響を与えた呂新吾を陽明学として捉えるか−士太夫の学・東林派の思想であって平民派とは違う(荻生茂博氏)、大砲を放ったことと幕政への働きかけは矛盾しないか、幕政側では緊縮政策をはかる老中水野忠邦と町方を活性化させようとした矢部定謙との間に問題を探れないか、窮民のあり方をめぐって大坂の官僚層と大塩との間に路線の違いがあったのではないか(横田久、彦氏)、建議書や乱を考えると、大塩の行為は不正告発のレベルにとどまったのではないか(具体的政策の欠如)(谷山正道氏)、その他大塩と伊勢神宮・お蔭まいり(岡田精司氏)などが出された。

◇NHKライバル日本史に大塩平八郎

 九五年八月二四日午後一○時からNHK特集ライバル日本史「大塩平八郎、徳川三○○年を告発す‐官僚組織の功と罪−」が放映された。大塩平八郎と門人宇津木静区の対論を軸に、大塩と幕府側の動きに焦点を合わせてフィクションを混じえて取り上げ、これをめぐって内藤克人と猪瀬直樹の両氏がゲストとして現代とのかかわりを念頭に意見をのべている。大塩を磯部勉が、宇津木を今井明彦が演じている。脚本下川博氏。大阪での取材にも協力し、成正寺、「浪華御役録」を説明する相蘇一弘氏、大塩潜伏地とそのうらの太閣下水を案内する井形正寿氏の姿もある。ディレクターは教養番組部の井上勝弘氏。問題をクローズ・アップしてなかなか迫力があった。乱後三○年を経て明治維新、戦後五○年で果してなにか?官僚組織そのものも時代も問われているのであろう。

◇荻生氏の大塩研究発表

 九五年六月四日大阪経済大学で開かれた日本経済思想史研究会大阪大会で、茂生茂博氏が「大塩中斎における歴史像と『近代』の歴史学」と題して注目すべき発表を行なった。(1)中斎学=王学「左派」=体制変革の学? (2)中斎の学統観……反「左派」、反陸稼書 東林後継(節義の士)、(3)王学「左派」論の系譜(一九三○年代以降)、(4)郷神論、(5)戦後歴史学における中斎論、(6)中国における反陸稼書としての陽明学=東林)の成立、(7)日本における「近代陽明学」、(8)「近代陽明学」の中国への影響 (9)新たなパラダイムの構築に向けて、という壮大な内容で、後半は時間の関係で触れられなかったが、単純に大塩を陽明学とし、維新の志士が陽明学の影響をうけたとする常識を、日中の儒学の流れと研究史をふまえて問い直したもの。論文としてまとめられる予定という。期待される。

◇九五年九月例会

 三月以後久しぶりの例会が、九月十六日(土)に成正寺で開かれた。小雨模様の午後一時からNHKのテレビ・ライバル日本史の「大塩平八郎、徳川三○○年を告発す」のビデオを上映したあと(時間の関係で後半一五分ほどは例会終了後に上映)、大阪市立博物館学芸課長相蘇一弘氏が「大塩平八郎・格之助の養子縁組について」講演した。

 従来、石崎東国氏の『大塩平八郎伝』の説を単純に解釈して、平八郎・格之助の養子縁組みの成立を、文政九年としていたのに対し、大塩関係書状を克明かつ堅実に検討して、文政十一年九月説を示した注目すべき内容であった。細かいようでも年譜の確実な論証を基礎史料からくみ立てたもので、参会者が思わず賛意を表するほどの論証ぶりで、平明な解説を通じて基本問題を解明した。また大塩肺患説への疑問、「中斎」の号の初見を新見伊賀守の武藤休右衛門宛て書状(天保三年八月二日、大阪城天守閣蔵)とすることにも触れた。

 あわせて同氏は、幸田・石崎両氏らの努力で定着した説の訂正がなかなか大変な作業であること、「浪華御役録」(毎年年頭と八朔の二回印刷)についても記載内容が必ずしもその時期のものでなく、それに先立つことなど史料利用のあり方も含めて歴史分析の方法にも触れた。二時間を超える講演だったが、参会者一同充実感を 抱いて散会した。本号所収の論文を参照されたい。

◇訃報

 小堀一正氏 九四年八月三一日に急逝、四七歳、大阪府立大塚高校教諭、八四年一月二一日の人会、夏に微熱を発したあと高熱に見舞われ白血病から肝炎を患ってにわかに永眠された。畿内近世文化史の堅実な研究が期待されていた。

 井上準之助氏 九四年一月一七日に肝不全のため逝去、六三歳。東京国際大学教授、近世経済史の専攻で『近世封建社会の研究』(名署出版、九三年)などの著書があり、関東の頼母子の研究から大塩建議書にある無尽に一定の疑問を提示され、本会へもその解明を求められていた。九一年七月一日入会。

 生前の会へのご協力に感謝し、ご冥福をお祈りします。

◇伊勢の津藩士斎藤拙堂伝

 大塩と斎藤拙堂の交流は周知のことだが、拙堂五代目の子孫に当る斎藤正和氏が『斎藤拙堂伝』を出版された(発行所・三重県良書出版会・九三年七月)。三重県の文芸・論索同人誌『桟』に連載されたのをここに一本にまとめられた。大塩についても「救荒事宜」の項で触れ、拙堂あての大塩のサインの影印、「箚記付録抄」に載せられた拙堂の跋文、『古本大学刮目』へ求められた序文の原稿(『大学古本刮目序』とある)の漢文影印などもある。この序文はなぜか刻版されなかった。大塩が天保五年伊勢に来遊したとき、拙堂は大塩を津藩主藤堂高猷(ゆう)に紹介したが、この折拙堂は大塩に自分の差料の斡旋を頼んだと思われ「大塩子起、余の為に古名刀を購う。此れを賦して鳴謝す」と題する七言古詩一篇を作った(三○頁の写真)。

 この名刀は戦災で爆弾の破片が当り二つに切断されているが、斎藤家に伝来し、九三年七月に津市の「ごてんば書店」で拙堂展を開いたとき展示された。津では三重県高等学校国語科研究会主催の拙堂研究会が開かれ、名古屋大学今鷹真教授の指導のもとに有志が拙堂の著作をよんでいる。津の有造館以来の地域文化の流れを思わせる。

 斎藤正和氏は『伝』出版後、「『斎藤拙堂伝』を書き終えて」(『桟』第七号、九四年二月)をまとめ、「古本大学刮目序」の全文(刊本に序文がないため幸田成友以来拙堂が執筆しなかったと推定されていた)を影印で紹介し、大塩研究家に提供された。本号掲載の斎藤氏の文章を参照されたい。

◇会に寄付金

 創立以来の委員である中瀬寿一氏からこの六月、一○万円の寄付をいただいた。相次いで住友・鴻池と大塩の乱、大塩事件の情報伝播の実態を発表されてきた。ご好意に感謝し一層のご活躍をお祈りする。

◇大塩関係新聞記事

 徳島新聞の九四年一一月九日号に、岩佐富勝氏が「大塩平八郎と血族の禍」と題して、八月の検証旅行にも触れ、持論の中斎阿波説をのべている。

 九五年は一月一七日の阪神大震災のあと、オウム真理教事件が明らかになり、宗教の武装化のことが問われている。相蘇一弘氏が日本経済新聞の六月二○日夕刊に「文政年間にもカルト事件」として、大塩の「キリシタン一件」に触れている。

◇大塩をめぐる村況論

 酒井一氏が京大朝尾直弘教授退官記念『日本社会の史的構造』近世・近代(思文閣出版・九五年四月)に、「大塩与党をめぐる村落状況」を発表した。大塩の門人たちが村落でおかれている情況を村方の史料から分析し、とくに門真三番村の利右衛門(岡田姓、般若寺村橋本忠兵衛弟)と大枝村の九兵衛について門真の野口家文書から取り上げ、大塩自らの動きと関連させた。また淀川右岸村々の年貢納入・助郷をめぐる一件をこの地域に大塩門人を広げる背景として位置づけている。

◇星田の大塩の乱

 交野市教委・財団法人交野市文化財事業団編集・発行の『星田歴史風土記』(九五年三月)は、本会会員で「よむ会」の常連、右の事業団理事の和久田薫氏が札埜氏とともに執筆したものであるが、その一項に「大塩平八郎の乱」があり、門真の茨田郡次の紹介で大塩に入門した星田の和久田圧九郎と一件の取り調べに触れている。庄九郎の家の環金具(和久田隆夫氏)の写真もある。

◇『日本通史』月報12

 現在刊行中の『日本通史』の第13巻(岩波書店・九四年九月)所収の月報に、富井康夫氏が「祇園祭・雑色・大塩平八郎」の記事を書いている。京都の「雑色小島氏留書」にみる大塩一件探索に参加する雑色の姿を示している。いずれこれをふくめて朝尾直弘氏が『京都雑色記録』として公刊の予定という。

◇まんが読み物第2弾大塩完結

 伊賀和洋画・伊賀まき作『天満から日本を変えようとした男 大塩平八郎』下(KTC中央出版、九四年一二月)が出版された。天保二年から美吉屋での自決にいたる内容で、「民衆の飢え、官吏の腐敗、汚職。汚れ乱れた日本を救うために、大塩は遂に立ち上がった」とチラシにある。ちなみに第一弾は伊能忠敬。もちろん史実にもとづくフィクションだが、巻末に大塩の正確な説明が二ぺ−ジ分付いている。

◇大塩の乱と長州

 三宅紹宣氏の『幕末・雑新期長州藩の政治構造』(校倉書房、九三年四月)に、第二部第二章の第二節に「大塩平八郎の乱の伝播と天保八年一揆」として、大塩の乱の長州への情報伝播を取り上げ、二月二六日早くも萩に達していること、下関、三田尻・大島・徳地・美禰・小郡で一揆が勃発し、萩でも蜂起のあったことを藩の日記などから説明している。

◇大坂町人記録に大塩評

 大坂の両替商に勤めていた平野屋武兵衛(難波姓)の日記が、史料の寄贈をうけた大阪大学の脇田修・中川すがね両氏編で『幕未維新大阪町人記録』(清文堂、九四年二月)として公刊された。この年四月二三日の朝日新聞タ刊は古文書をカラーで載せ、大坂町人が激動の幕末維新を活写するとして紹介した。興味深い内容で、文久四年(一八六四)から慶応四年(一八六八)に及ぴ、新選組・ええじゃないかなど市井人の観察が面白い。巻末に「はやりうた留書」もあり、ここには「ばか儒者の 大塩さんは 町はずしなし 焼き放し 好賊浪人鉄砲 同心こんで どっと打ちや ぽんとなる」など大塩を皮肉った例もある。同紙九四年五月九日にもこの記録に触れて、記者が「イデオロギーに曇らされることなく現実を見る視線がある」とし、山片蟠桃らの合理主義精神がこのようなふつうの町人にも共通していることをのべている。乱の評価は当時も今も論議をよぼう。読者はどうみるか。

 なお、この記録にもとづいて脇田修氏が『平野屋武兵衛、幕末の大坂を走る』(角川書店、九五年四月)をまとめている。

◇NHK学園「古文書を読む」

 NHK学園の通信講座の一つ「古文書を読む」の基礎コースの九五年第八回リポートに、大塩の檄文のはじめの部分が出題されている。担当は小沢圭一氏。以前にも静両県韮山町の江川文庫の「大塩建議書」の一部がとり上げられたこともあった。この講座には、本会会員をはじめ自治体史関係者や市民が受講し、基本的な学習を積んでいる。全国の興味ある史料も示され、視野の広い学習にもなっている。

◇大塩の乱の発生時刻

 乱は天保八年二月一九日朝五つ時に起った。この正確な時刻はいまの何時ごろに当るか。大阪府立中之島図書館だより『なにわつ』の八九年七月、一〇八号に大阪府史編集室の蔦野兼一氏が「不定時法とサマータイム『大阪府史』第七巻の作業を終えて」で次のように紹介している。(一部文章に手を加えた)     この文章には、英国公使務員アーネスト・サトウが『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)で日本の時刻制度に触れていることを紹介し、橋本万平氏の研究にもとづいて当時の時刻制度に定時法と不定時法の二系統があることをわかりやすく説明している。

◇大正の米騒動と大塩

 大正七年の米騒動のなかで大塩も想起された。倉敷の米商の記した『鳳尾日記』(疎梅山人録、倉敷市大森有平氏蔵、『岡山県史』第二八巻政治・社会)の興味深い一節に「米一揆実聞録」を設けて全国的に米騒動の様子を記したあと、「天保年中の大阪の大塩騒動、さてハ我地にては五十二年前の百姓一揆の強訴の話ハ、よりより老人より伝へられたり、されと聖代ニかほとの乱暴如何あるへきと思ひ居たり。(八月)十日の夜氏神山の集合、三度の鬨声」とあって倉敷でも大塩と幕末の強訴が伝承されていたことがわかる。森鴎外が大塩を「極言すれば米屋こはしの雄である。天明に於いても、天保に於いても、米屋こはしは大阪から始まった。平八郎が大阪の人であるのは、決して偶然でない」としたこと、石崎東国が名著『大塩平八郎伝』の自序に大正七年「于時八月十三日天王寺村荘の東窓に吾此の稿を終るの日、世は米価騰貴、食糧蜂起各地騒擾、京都、神戸、大阪、次第に焼打起り、軍隊出動、人心恟々、門外頻りに沙上偶語の人あり、即ち慨然として筆を抛つ」(八月十四日洗心洞後学)と結んだことを思い出す。

 


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