◇禁転載◇
「大塩の林家調金をめぐって」と題して相蘇氏は、幕府儒官林大学頭述斎への一千両の調金が、その家政改革のために文政一○年に行なわれ、見返りとして珍書の拝見を願うこと以外何も求めず、決起直前にその借用書を返したことなどを『建議書』から論証し、また元大坂町奉行新見正路の家宰武藤休右衛門宛の多くの大塩書状から、大塩が新見の町奉行時代の借財清算のため一千両を調達し、その見返りは要求せず、新見も大塩の林家調金に準じたいと考えていたことを示した。こうして、相蘇氏は、大塩の献金を自ら告発した無尽仕法によるものとした仲田正之氏の計価に批判を加え、林・新見両家への調金を矛盾なく解明した。仲田氏の『建議書』にかかわる評価は、大塩の人物像とも関連するので、一つずつ反論の必要があると結んだ。
内田九州男氏は「『建議書』にみる非人問題について」報告し、元中国筋の浪人である番人弥助による「元矢部駿河守組与力内山彦次郎身分捨訴写」を分析して、西町奉行所与力・同心の腐敗・不正、長吏・非人頭の横暴を 説明し、あわせて、盛田嘉徳氏の史科紹介『部落解放』五)や岡本良一・内田九州男『悲田院文書』にみる長吏格吉五郎一件、藪田貫氏の明らかにした勧進等への村方からの訴え{『国訴と百姓一揆の研究』)など、他の史料とこの訴状の整合性を証明した。その上で内山・弓削にみる与力・同心の実態、役人支配の腐敗が引きおこす非人の実態を解明する必要を提示した。
最後に、「大塩建議書の政治史的意義」と題して藤田覚民は、時の老中であった大久保忠真・松平乗寛・松平宗発(むねあきら)・水野忠邦の四名とかって大坂町奉行を勤めた内藤短佳・久世広正・矢部定謙の三名を建議書が糾弾していることを、度し難い幕府中枢の「政治的腐敗」ヘの告発と読みとった。大塩らによる上方の武家無尽の調査に対して違法を認識していた老中ぐるみで証拠隠滅工作が行なわれたが、これは文政・天保両期の改鋳とも合わせて、「不正行為」なしに財政を維持できない「腐朽」した幕藩制国家の危機的状況を物語るもので、これへの告発が「建議書」であるといえると結んだ。
三氏の報吉をめぐって、会場からは、多岐にわたる意見が出された。建議書と檄文との関連をどうみるか(相蘇氏「ストーリーとしてはつながる」、藤田氏「檄文は綱領的文書」で、建議書は老中らの不正を事実をもって示し、その政治を否定したかったのではないか」)、大塩決起の理由は何なのか(藤田氏「難問、幕政腐敗のひどさからその不正の事実を他者の目に触れさせ、決起は当り前であることを示したのではないか」、相蘇氏「仮説だが、勝算をもって行動し、密書を通じて幕府の動きに期待をもったのではないか」)、大塩の考えていた理想社会は清い形での資金調達をイメージしていたのではなかろうか、昭和前期の二・二六事件と類似した行動とみれないか等、重要な論点が明らかにされた。
とくに、大塩の献金と漁官運動説についての質問もあった。相蘇氏は、伝聞史料による議論に疑問を示し、大塩は天保二〜三年に江戸へ出かけており、同六年江戸へよばれそうだったことを武藤宛や高槻藩の高階・芥川宛の書状から指摘した上で、漁官について否定的な意見をのべた。
なお、本号に相蘇・藤田両氏の報告を別途本号に掲載してあるので、詳細についてはぜひ参照されたい。内田氏については原稿依頼中。
このあと、同会場を仕切って懇親会が開かれた。出席者全員が一言ずつ大塩研究への思いを語り、研究会二○周年を迎えて一層の発展を期した。なお余興として「おたのしみ 大塩クイズ」があり、島野三千穂氏が最高点を獲得、上位入賞者には檄文復刻版・絵ハガキ等の景品が進呈された。なおクイズはつぎのとおり、( )内は答。
1、 | 大塩平八郎の乱が起ったのは、今から二○○年前のことである。 | (X) |
2、 | 大塩平八郎の父の名も平八郎であった。 | (○) |
3、 | 当時、町奉行所の役人(与力・同心)は百姓身分の女性とは結婚できなかった。 | (X) |
4、 | 檄文の文字は、大塩が書いたものである。 | (○) |
5、 | 将軍も檄文を読んでいた。 | (○) |
6、 | 大坂の町奉行には、代々譜代大名が就任した。 | (X) |
7、 | 大坂の町奉行所は、南と北の二つがあった。 | (X) |
8、 | 大塩のライバル・内山彦次郎は新選組に殺された。 | (○) |
9、 | 大塩の建議書のことは、戦前全く知られていなかった。 | (X) |
10、 | 大塩平八郎は、奥さんを〃ナンパ〃した。 | (○) |
その後本会主催の講演が行われ、広島大学文学部教授頼祺一氏が「大塩中斎と頼山陽の思想研究」と題して、中斎と一三歳年長の山陽との深い交流について詳論した。主に『洗心洞箚記附録抄』を用いて、中斎が山陽を不在其学、而竊取其有胆而識」と評価したこと、文政七年両人が会ったというが、趙子壁の芦雁図に関する詩でみるようにすでにそれ以前から交流のあったこと、昔茶山が尼崎からの船中で紛失した象牙頭の杖を中斎が捜し出したのも、茶山・山陽の師弟関係があったからであること(ちなみに、吉川英治が小説「梅【風思】の杖」で文政七年のこととして、山陽の父春水の杖が三十石船の船中でなくしたと書いている)、大坂西町奉行新見伊賀守が大塩を介して『日本外史』を見たこと等々に触れた。
とくに『附録抄』にある山陽の詩の伏字部分について、『山陽全書』を底本として示し、山陽の子聿庵と大塩との交流にも触れて、最後に大塩の決起は陽明学によるとはいいがたく、時代の中で考える必要があると結んだ。 質問では、山陽の海外観、『日本外史』の明治以後の紹介の仕方に歪曲があったのではないか等々が出された。
小憩のあと、総会が開かれた。酒井会長の挨拶のあと、井形副会長から会務報告があり、(1)史料をよむ会が実に八一回に及ぴ、目下「塩逆述」をよんでいる、(2)パンフ「大塩平八郎を解く−25話−』を「二千部印刷し、好評発売中であるが、販売にご協力を願いたいこと、(3)NHKテレビ、ライバル日本史「大塩平八郎、徳川三○○年を告発す」(95.8.25放映)に会およぴ会員が協力したこと、(4)例会を、九五年九月一六日に相蘇一弘「大塩平八郎・格之助の養子縁組について」、一一月一一日に会創立二○周年記念のシンポジウムと懇親会を開いたことが報告された。
ついで石橋委員から会計報告があり、一般会計の乏しい財政事情も示ざれ、特別会計からの収入で辛うじて支えているが、年二回の会誌刊行の困難な事情、早晩会費の値上げを検討する必要が指摘された。会計監査報告は大和浩監査委員から二月二四日相蘇一弘氏とともに実施した内容が報告され、拍手で承認された。
次年度の活動方針(会長担当)として、(1)例会を年二回開く、(2)フィールドワークを年一回実施する、(3)財政難ながら会誌年二回刊行に努力する、(4)研究活動として、会として共通のテーマを設定してとりくむ、たとえば「般若寺村と橋本忠兵衛」など、(5)史料をよむ会の活動を重視し、引続き「塩逆述」をよむ、(6)滋賀県安曇川町の藤樹記念館にある小川家文書の整理を同町の委託をうけて行うよう取り組む(ニカ年計画)、(7)九七年は「大塩の乱」一六○周年に当るので、行事を企画する、(8)大塩事典・史科集の編集計画を引続きすすめることが提起された。
会員からの声として、高齢化による滅少が目立つので、若い会員の獲得の必要、賛助会員を増やす努力が求められた。
上田いく氏 創立以来の会員であった。大塩門人上田孝太郎の子孫、以前本誌第二七号にその思い出を語っておられる。九五年一月歿。 刀祢浜子氏 七五年一一月九日創立時入会された故浜口政一氏のあとをうけて入会されたが、逝去。没年月不詳。
杉本久氏 創立以末の会員で賛助会員でもあった。成正寺に早くから毎年大塩家の供養をされていたが、九五年八月一五日肺ガンで逝去。同家関係者という。
「江戸幕府儒者林家の位置−将軍家と林家‐」(『米沢史学』第九号(山形県立米沢女子短期大学日本史学科米沢史学会、九三年)。林家の系譜を五期にわけてその特徴を明らかにし、「将軍の人格の政治性がそれぞれの時 期における林氏の在り方を規定しているところに」、林家の特徴を見、幕府の政治に果たした役割を詳述している。
「幕未・明治の陽明学と明清思想史」(源了円・厳紹【湯/玉】編『思想』−日中文化交流史叢書(3)−、大修館書店、中国版は浙江人民出版社、九五年)。日中の儒学史をたどり、自らを清初思想史内に位置づけた大塩中斎にも触れ、中斎学を明末の王学(「右派」)とみて把えるのと、それを批判した東林学から見るとでは、中斎の思想史的仕置が大さく異なってくることを指摘している。
「『幕未・明治の陽明学と明清思想史」補注」(「米沢史学』第一一号(九五年六月)。前稿で簡略化された注記部分について、詳述補足している。
「大塩平八郎」(「民間学事典」、九五年)。大塩の事典的説明で、思想史的に位置づけ、本会の『解く−25話−』も参考文献に挙げて最新の成果を盛りこんだ簡明な記述。
なお平松楽斎文書Bとして八八年三月に『大塩中斎書簡』(楽斎宛)が出版されている。希望者は、〒5l4−91 津市面西之内23‐1 津市教育委員会文化課へ申し込まれたし。『敬所書簡』は七○○円、『中斎書簡』は二五○円、ともに送料二四○円、郵便小為替か現全書留による。送料は切手可。
産経新聞の九六年三月二三日付夕刊に、大阪市天王寺区城南寺町の龍渕寺にある秋篠昭足の墓碑が紹介され、大塩の欧州脱出を物語る碑文から肥後天草の御領村大庄屋長岡五郎左衛門との関連に触れている。このテーマは、 井形正寿氏のロマンに満ちた課題で、その成果を取り上げている。