Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.10.30

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「洗心洞通信 32」

大塩研究 第38号』1997.3 より

◇禁転載◇

 

◇九六年七月例会

 七月六日午後に大阪市旭区清水五丁目北会館で同五丁目北町会主催、本会協力の形で例会を開いた。ここは近世期摂津国東成郡般若寺村に属し、有数の大塩門弟と多くの乱参加者を生んだところである。本会と乱関係地の連携で開催された。般若寺村を精査された井形正寿副会長の尽力の賜物である。

 始めに町会長東野(ひがしの)富三郎氏(清水町四丁目)の挨拶があり、正月十五日に町会で門松たきをしていたとき,調査に来た井形氏から橋本忠兵衛のことなど大塩関係の話を聞き、会場の依頼があって、今日に至った旨話された。ついで井形氏が「橋本忠兵衛・柏岡伝七・源右衛門の屋敷跡」について当日発行された本誌第37号の「京街道から般若寺村を行く」を使って詳しく報告、向江強氏が「大塩檄文の思想」を檄文の複写コピーを前に解説、酒井一氏が「般若寺村橋本忠兵衛をめぐる人々」について、村況、同村の参加者の特徴を基礎に報告し、門真三番村へ養子に入って事件を起した弟利右衛門について忠兵衛が三番村庄屋野口五郎兵衛に宛てた書簡のコピーを示した。忠兵衛自筆の数少い史料の一つである。

 この後旧般若寺村内の忠兵衛屋敷地跡、柏岡伝七屋敷地跡や墓所の護念寺(守口市)をめぐり、古くからの住民の方から貴重な話をうかがった。村内を水路が縦横に通じ、三枚板といって巾三尺の板(一尺板三枚、約一メートル)に長さ五メートルほどの舟が家ごとに前の水路に置かれ、この舟で寝屋川へ出て、天満や野崎観音へも行くことかできたという。土地を深く掘るとよし(かや)の根っこがよく出てくる低湿地であつた。付近にいくつか池があり、家の正面に地蔵さんを祀る東野芳一氏宅(清水町五)の裏にも元は一二○坪ほどの池があり、 今の市営住宅付近にも大きな池があった。

 東野会長の話では、「ほおづき忠兵衛」の名は小さい時から親から聞いており、この地区のほとんどの人がその名を知っていて、「橋本忠兵衛」よりこの呼び方で伝わっているという。忠兵衛屋敷に当る川西佐一氏(清 水町五)では、その父が神がかりになって「忠兵衛」と名乗ったことがあり、そのため過去帳に「橋本忠兵衛」名を書き入れたりしたが、それも今は処分して無いとのことであった。

 護念寺のあたりにもと両国橋(摂津と河内の境界)が架っていて、その橋柱が現地や近くの八幡官に残っている。京阪千林駅の京都寄りのガードは、「野崎ガード」とよばれ、旧野崎街道で護念寺の横を通って野崎観音に行く道筋である。

 散会後、北会館で町会のご配慮で本会委員との軽食、懇談があり交流を深めた。万端お世話頂いた東野会長初め町会の皆様に厚く御札申し上げたい。

 地元町会の参加者で記帳を失念された方もあり、実参加者は八○名に達した。

◇九六年十二月例会

 歳末に入った十二月一日に例会「大塩父子終焉の地と西区を歩く」を開いた。来年は乱一六○年目に当るので大塩中斎終焉地に建碑をという願いをこめた歴史探訪であった。午後一時に大阪市立中央図書館正面入口(地下鉄西長堀駅下車)に集合し、この冬一番の冷え込みとなって寒風にいちょうの落葉が舞う道筋を約三時間史跡に富んだ西区を歩いた。

 土佐稲荷神社→木村兼葭堂邸跡→あみだ池和光寺→間長涯観測の地→角藤定憲改良演劇の地→永代浜→美吉屋五郎兵衛屋敷跡(大塩終焉地)→頼山陽生誕地をめぐり、ここで解散した。すっかり変貌した町の中に西区が近世に豊かな文化を育てていた面影をさぐったが、とくに美吉屋旧跡(もと靫油掛町、現西区靫本町一丁目一八−二一・石本ビル・日紅商事)では井形正寿氏の詳細な説明があり、南側にある背割水道を確認して、建碑へ の取り組みを訴えた。解説は、井形氏のほか、酒井一・志村清・向江強の三氏が担当した。

◇知ってるつもり!?

 九六年九月十五日午後九時十五分から日本テレビの標記の番組(IVSテレビ制作株式会社制作)で「大塩平八郎」が一時間にわたって放映された。司会関口弘、ゲストに加山雄三・東ちづる・綿引勝彦・トミーズ雅、本会から酒井一氏が出演した。他に相蘇一弘、仲田正之氏がフィルム出演。取林はかなり綿密に行われ、史実をふまえて史料を活用し、東大阪市の政埜圭一家や守口市の白井孝彦家も取り上げられた。飢饉・大塩建議書・明治維新への引き金などが示され、ゲストが大塩に共鳴する率直な意見を吐露していた。視聴率一四・七%、本会からも「救民」の旗、成正寺檄文レプリカ、酒井氏所蔵の津藩津阪貫之進宛大塩書簡、「箚記」などがスタジオに展示された。

◇滋賞県栗東町で大塩展

 会員の馬場宏三氏らの尽力で、九六年十一月二・三日栗東町文化協会主催の文化祭の一環として栗東古文書研究会の古文書展のコーナーが設けられ、大塩事件の紹介や同氏も遠路参加している成正寺での月例「よむ会」学習中の「塩逆述」の一部が展示された。

◇山本正「田中藩儒官石井縄斎と大塩平八郎の乱−農学者大蔵永常書簡」

 「地方史静岡」第二四号(九六年三月)に静岡県立中央図館蔵の石井縄斎宛大蔵永常の書簡四通を取り上げたもので、うち三通は早川幸太郎「大蔵永常」に掲載されているが、のこりの一通(三月七日付日田喜太夫→石(井)璋吉宛、大塩の乱直後と推定)を釈文と影印で示してある。これには「御地者大塩御引合之衆中も有之候事故」とあり、田中藩(藤枝市)に大塩と交流の人物が何人かいたことがわかる。

 永常は同藩には登用されず三河田原藩に迎えられて行くが、天保八年(推定)七月十六日付の永常から縄斎宛書簡では、縄斎が永常に手持ちの大塩の書簡を所望したのに対し、「文中に柴田君之御名有之」そこを切りぬいて献呈しようと「山の神」に相談したが、不承知で、いずれ盗み出して進呈したいと記されている。「妻も彼宅(大塩邸)へ参り、塩氏はよく存知罷在候」とある。縄斎の大塩への関心、永常と大塩との交際を物語っている。文中の「柴田君」は柴田勘兵衛のことだろう。(兵庫県史編集室庄洋二氏の提供)

◇「兵庫県史」史料編近世四の大塩史料

 九五年三月刊、西摂地域の大塩平八郎関係史料と摂津能勢騒動の史料八点が紹介されている。なかでも檄文配布の馬借油屋善右衛門についての昆陽口村石橋屋善右衛門口上書案は今回初紹介で、「一件吟味書」の背景を考える手がかりになる。

◇藪田貫氏「御館入与力」について

 「日本史研究」第四一〇号(九六年十月)に、大坂町奉行所与力がその支配国内の領主制との間で結んだ関係を示すものとして、「御館入与力」という論点から論じている。河内在の旗本石川氏(本藩は常陸下館)の代官をつとめた塩野清右衛門(石川郡広瀬村、現羽曳野市)の記録を通して、独自に館入与力を分析している。近年進んできた与力研究に新しい視角から一石を投じたもので、同旗本の館入の一人東町奉行所与力萩野勘左衛門、西町奉行掘伊賀守ら大塩研究上なじみの役人の名も見える。与力が藩と多様な形で結ばれている実態が示されている。

◇柴田勘兵衛屋敷図

 志村清氏からの教示で、改めて「大阪春秋」第十一号(一九七六年八月)所収の渡辺武氏「大坂城玉造口定番与力 柴田氏の屋敷図について」をよみ返した。大塩の佐分利流槍術の師匠にあたる。摂津国西成郡十八条村(大阪市東淀川区)の庄屋藻井家に伝わる文書にあり、同家に勘兵衛の娘が嫁入りした縁に因る。

 渡辺氏によると、柴田家の屋敷図は三枚あり、その一つは詳細な平面図で天保十年ごろの作成と推定され、ほぼ一間を一寸五分に縮尺しているという。屋敷の総面積を試算すると、約四二〇坪、建坪約八〇坪となり、部屋数一六室、井戸二、便所四、土蔵一などである。天満与力大塩家は五百坪といわれるが、与力の宏壮な屋敷がしのぱれる。

 なお、志村氏によると、柴田家の所在地は今のピース・おおさか付近に当り、大坂与力の屋敷図の判明するのは、大野正義氏「大坂町奉行与力史料図録」(八七年、発行者大西経子)が紹介した西組の天満与力早川家の大塩焼けの前と後の二図面だけという。

◇高岡市チョンガレ「大塩平八郎」

 「日本庶民生活史料集成」第十七巻(三一書房、七二年)によると、富山県高岡市戸出町のチョンガレに、安政五年(一八五八)の「大塩平八郎」の台本があるという。日付や祭札・盆踊りに歌われた越前・越中・越後のチョンガレ・チョポクレの一つで、越中の戸出町にある嘉永−文久以後の台本の書写の一つである。「おうしやう(大塩)平八郎 初段」が同書に収められていて、「ころ(頃)はてんほ(天保)八年とり(酉)の二月廿三日から廿六日まで、石火や、をづゝ(大筒)てつほうはかりが……」で始り、文末は「こうのいけ善右衛門のやしきをまかりとうりて、平八加」で終っている。文面で見る限り安政期の書写とは明記されていないので、確認の必要があろう。幕末期大塩情報の普及を示すもので、乱直後軍書講談となり、天保九年には中国筋を西へ伝わった大塩主題の芝居(浮世の有様」)や同十二年伊勢古市での上演(吉田映二「伊勢歌舞伎年代記」)のこともあるので、民衆芸能がこれをさらに口承文化として伝えて行ったのであろう。情報文化の一つである。

◇高安月郊と大塩

 たまたま上六の古書店で高安月郊「東西文芸評伝」(春陽堂一九二九年)を入手した。河内高安で代々医業に携わった家筋の人だが、真の系統は安芸藩士北川正方が曽祖父に当り、その子琴橋が大阪へ出て書家香川子硯の養子になり、琴橋の三男杏陰が月郊の父である。琴橋について「思想も性格も不明、大塩中斎とも交り深く、其暴発の夕暇乞に来たのを横堀まで送って行ったとは余り劇的であるが、私が中斎を劇に取る様になったのも縁故があった」とする。明治以後大塩との交流を物語るものが意外に多い。のち月郊は「上方」九七号(一九三九年)の「上方義民号」に小文の「大塩平八郎」を書いているが、そこではこの祖父が大塩を横堀まで送ったという話について「それはどうか」と一定の疑問を自ら示しているが、早くから大塩への関心をもったようで、右の文章をみると、京都の三本木(頼山陽の山紫水明処のあるところ)の瓢箪路次の奥に寓居した明治三十三、四年に大塩を作品にとりあげ、三十五年十二月に京都夷谷座、翌年一月に大阪の弁天座で上演したという。その戯曲は、単行本として出されたが、「今では稀観本になった」とある。

◇緒方竹虎「人間中野正剛」

 中公文庫に収められたこの本に、中野正剛の「大塩平八郎を憶う」(一九一八年八月)がある。「時事日に非にして大塩中斎を憶う。全国各地の米穀騒動は、ようやく危険なる風潮を伴い来りてただに天保八年大阪の変を想見せしむるのみに止まらざるなり。今日この時天下に一人の大塩なきか。吾人は乱徒としての平八郎を幕うに非ず、誠意一徹、死をもって所信を貫くの中斎を仰ぐのみ」で始る名文で、随所に「洗心洞箚記」を引用し「中斎の意気込をもって、学を修め、門人を率い、進んで政治に従う者あらぱ、世人は富岳を雲霧の上に仰ぐ感をなすべきなり」と時世を批判している。

 東条英樹打倒を工作して、代議士在職中に逮捕され、自殺した正剛と竹虎(のち自由党総裁)は、ともに福岡県人で、早大から朝日新聞の記者になった無二の親友であった。九五年十二月二五日付の朝日新聞(タ刊〉の「窓 論説委員室から」にはこの本の解説を書いた竹虎の子息四十郎(元開銀副総裁)から朝鮮独立論をとなえる竹虎と融和論から朝鮮への帝国憲法の適用を主張する正剛の議論を教えられたとする。四十郎夫人は国連難民高等弁務官を務める緒方貞子氏。米騒動や三・一独立運動が日本社会に衝撃を与えていたとき、大塩も想起されていた。石崎東国の「大塩平八郎伝」しかり。

◇春日錦之介「大塩平八郎とえた」

 「大観」一巻七号(一九一八年十一月)に、米騒動当時被差別部落との関係が「風説」として盛んになった頃、坂本鉉之助の「咬莱秘記」を使ってこの一文が書かれた。米騒動が被差別部落へよびかけた大塩を想起させた例で、とくに史実として新しいものとはいえないが、当時の関心事を物語るものである(「近代部落史資料集成」第八巻(米騒動と部落問題U)〈三一書房、八五年)。

◇海軍軍人水野広徳の大塩論

 粟屋憲太郎・前坂俊之編「水野広徳著作集」(雄山閣)が出版された。海軍軍人で平和主義者、一八七五〜一九四五年。松山市に生まれ、第一次世界大戦中長期欧米留学、ユニークな軍縮論を展開した。

 著作集4(評論I)に、「所謂主義者狩りの魂胆か」という文章がある。少し長いが、引用する。

 このような思想を抱くにいたった水野の性格形成を、同著作集8の解説で前坂氏が活写している。大塩や宗五郎に興味と崇敬の念をもつにいたった背景である。乞一読。この資科は村上明弘氏の提供。


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