◇禁転載◇
◇〇四年一一月例会
当初一〇月九日に予定されていたが、台風二二号接近のため、一一月六日に延期された。午後一時半大阪市中央区の天満橋マーチャンダイズマートビル地下入口に集合、志村清氏(本会会員、城郭研究家)の案内で見学会を実施した。志村氏は一九五二(昭和二七)年小学校の遠足で大阪城を訪れたのがきっかけでこの城に魅せられ、以後半世紀にわたり会社勤めの傍ら一貫して城郭や大阪の歴史に関する研究を深めてきた。この日は、所蔵する貴重な古地図、写真をもとに八軒家船着場跡から東に向かい、松の下、大阪城の石垣の残る日経新聞杜、大坂橋、京橋を経て大阪砲兵工廠化学分析場跡、伏見櫓、東町奉行所跡(現大阪合同庁舎)、六番櫓を経て、日本一の規模を誇る多聞櫓、蓮如井戸などを経て城内に入るコースでそれぞれの場所ごとに懇切な案内を受けた。多聞櫓は永年にわたつて
存在しなかつたが、大塩の乱に懲り、この種の再発を未然に予防する見地で幕末に建設されたと考えられること、城内の石垣に第二次大戦中、通信隊が置かれ、その兵士が恋人や妻子の名を刻んでいることなど志村氏ならではの興味深い解説もされた。当日の参加者は、【略】計二四名
◇〇四年一二月例会
一二月四日成正寺において本会会員の山中浩之氏(大阪女子大学教授)が「近世 大坂の学問と思想」と題して講演した。長年にわたって演題のテーマについて研究を重ねてきた成果を、史料にもとづき綿密な論証によって講述された。一八世紀に大坂とその周辺農村・在郷町に豊かな文化的蓄積が形成され、懐徳堂・平野郷の含翆堂や混沌社が西日本における学術ネットワークの中心的役割を果たしたことを、詳細に紹介。「ぬえ学問」と評される三宅石庵を書簡を通じて具体的現実的な人を前にした語り口として再評価の必要を述べ、異色の学者とされる富永仲基についても、孤立した天才と見ることへの疑問を示された。また一九世紀に入り、共同性によって成り立つていた学問が個人の私塾に移行して行くことに触れ、洗心洞・梅花社の位置づけについて興味深く示唆された。懐徳堂と寺子屋教師の育成、藩校儒者との関係について、質問が出された。当日の出席者は、【略】計一九名
◇〇五年一月例会
一月二二日成正寺において本会会員の森田康夫氏(樟蔭東女子短大名誉教授)が「大
塩思想における伊勢信仰の意義」と題して講演した。乱で先頭の旗印に「天照皇大神宮」と大書されていた意味について、氏は大塩が古代政治を理想としていたことを挙げ、大塩が心血の書「洗心洞箚記」を富士山石室に納めたことと伊勢朝熊山で燔書しようとしたことの意味について、聖人の出現を顧う大塩の期待が込められていたとした。この件に関する従来出されてきた論評を紹介しつつ、氏は大塩が秘かに乱を決意するのは天保四年七月一七日のことで、世を救うため、自らを追い詰めた究極の結論であるとした。質疑に移り、乱を決意した時期についての異論などが出され討論が行われた。当日の出席者は、【略】計二〇名
◇成正寺本堂・客殿・庫裡落慶
〇四年一〇月一七日「立教開宗七五〇年成正寺開創四〇〇年慶讃」の標記式典が開かれた。午後二時から新装なつた成正寺で、儀式に乗っ取り荘厳に実施され、記念撮影があつた。午後六時から場所をリッツカールトンホテルに移して祝賀会が開かれ、多数の人が参加した。本会からは酒井一会長はじめ若干名が参加し、会長が代表して祝辞を述べた。この工事に伴い大塩平八郎・格之助墓碑は旧本堂正面西側から新本堂の東前に、大塩の乱に殉じた人々の碑はやや西寄りに移設され、花立ても新造された。なお建設に至った経緯など詳細については、当日披瀝された「本堂・客殿・庫裡落慶式報告文」が明らかにしているので、次に紹介する。
南無久遠実成大恩教主本師釈迦牟尼仏、南無證明湧現の多宝大善逝、南無末法有縁の大導師宗祖日蓮大聖人、読誦山成正寺開山増長院日秀上人以来歴代の諸上人、来臨影響照知照鑑の御前に於いて、恭しく一乗円頓の法廷を展べ、立教開宗七五〇年慶讃・当山開創四
百年慶讃事業の新本堂・客殿・庫裡の落慶の式典を修し、仏祖三宝に落成を告げ奉る。
抑も当山は慶長九年開山増長院日秀上人が豊太閤の帰依により其の遺命を以て開創するところなり。爾来今年は四百年なり、法統相続すること二十世なり、回禄に罹ること四度なり。壮麗雄大なる堂宇悉く烏有に帰し、仏像什物一切焼亡す。
師父十九世日典上人、昭和二十二年一月仮住居を以って現地に復帰、次いで昭和二十四年八月仮本堂一棟を建立し、昭和三十五年に至り本堂再建の時運開くに至る。昭和三十八年十一月一日起工、翌年三月十五日竣工す。又仮本堂を移築して庫裡となす。昭和五十六
年には日蓮聖人七百遠忌報恩事業として二階建て客殿を建立す。日典上人、昭和五十八年四月十四日七十四歳を以って遷化せらる。上人は成正寺にあつては戦後復興事業を捧げられた歴世でありました。
拙僧跡を受けて二十世法統を相続し、平成八年になりしに、平成十四年には立教開宗七百五十年を迎えるにあたり、当山総代各位と慶讃について考える時、日典上人建立の本堂が再建されてより三十二年の歳月が過ぎ、建物の損傷もでてまいり、加えて参拝者の増加もあり年中行事の法要を行うのに手狭となり、十四年に立教開宗七百五十年と当山開創四百年に当たり、慶讃事業として本堂・客殿・庫裡の新築を計画し、慶讃事業推進委員会を発足し、檀信徒各位の賛同を得て、宗祖の日蓮大聖人、当山歴代上人並びに檀信徒の先祖
への報恩の千載一遇の歳とし、異体同心、道俗一心となつて円成を期し、檀信徒に浄財寄進を依頼せしなり。大方の賛同を得て浄財日に集まり、設計を株式会社中村設計、本堂・客殿の施工を松井建設株式会社、庫裡の施工を株式会社河野工務店とそれぞれに契約を結び、平成十五年九月より旧本堂の解体に始まり、十月十日地鎮式を行い、本年三月六日上棟式を奉行す。本年六月未に本堂・客殿が竣工。七月の旧庫裡を解体、八月十一日上棟式を奉行す。九月末庫裡竣工、十月山門復旧本堂前整備を以て寺観漸く一新せり。本日茲に落慶法要を挙ぐるにいたる。
これ実に仏祖三宝の深大なる冥護による所なりといへえども、又以て慶讃事業推進委員の尽力と、檀信徒並びに有縁の各位の清浄なる外護の力に依るものであり、ここに深く感泣するところなり。
今日以後、我等緇素、異体同心の祖訓と奉じ、四海帰妙の宏謨を継ぎ、内には行学の二道を励み、外には悪世の五濁を救い、以って恩山徳海の万分に報謝せんことを誓い奉る者なり。仰ぎ願わくは、山門繁栄、寺檀和合、正法興隆、世界平和ならしめ給え。
浄財喜捨の檀信徒、信力堅固にして正念相続し、家運栄昌にして子孫長久ならんことを。
南無妙法蓮華経
維時 平成十六年十月十七日
読誦山成正寺第二十世本慈院日観
和南
◇会誌等の整理
新装なった成正寺の一室を事務局
用に提供していただいて、『大塩研究』バックナン
バーとその他本会関係の刊行物等が整理され、〇五
年一月一七日に大野尚一、久保在久、酒井一、柴田
晏男、松浦木遊の各氏の手で、柴田氏のお世話で作
成された新本棚に配列された。会誌の永久保存分として、既刊分を成正寺と酒井会長宅にそれぞれ一〇
部づつ保管し、残りのバックナンバーについては本
秋に特別販売を予定している。
◇ふるさと有明町に横山文哉の碑
〇四年三月一八
日に長崎県有明町小原下(おばらしも)で「大塩平八郎の乱に殉じた「横山文哉之碑」の除幕式が行われた。森小路(大阪市旭区)に住んでいた文哉の妹やすによって継がれた生家横山家五代目・横山清敏氏が尽力し、有明の歴史を語る会(会長・馬場顕亮氏)を中心に有明町の協力を得て建碑された。碑の台座に本会酒井氏による解説文がある。『ありあけの歴史と風土』第二二号(〇四年五月)に詳細が掲載されている。
◇「大塩平八郎の乱と大坂の大火」
最近災害がつづき歴史のなかに災害を位置づける研究がみのりつつある。かねてから気象史を細かく史料にもとづいて研究してきた水越允治氏が、三重大学春秋会発行の『春秋』第二六号(〇四年三月)に標記の文章を発表。乱当日の天保八年二月一九日(太陽暦一八三七年三月二五日)直前の天気を復元し、乱当日は冬型気圧配置もゆるみ、風も比較的弱かったが、日本海に低気圧があって全国的に南風の吹きやすい状態で、市中の大火となつたとする。
◇津藩小谷薫書簡集
津藩の平松楽斎に宛てた同津上野の崇広堂講官小谷左金吾薫の書簡二一点が、津市教育委員会によって『平松楽斎文書27』として、〇四年三月発行された。「純朱学」の立場をとる小谷は、陽明学の大塩と交流はあったものの、「氷炭相反す」と思想的に相容れないことを表明している。七通の書翰に大塩に触れるところがあり、楽斎や斎藤拙堂を介して大塩の書翰の入手方や自らの返書の回収の動きなど、大塩との微妙な関係を示している。この冊子には奥田清十郎から楽斎への書翰一点が付録されている。
ちなみに、平松楽斎文書19に、『猪飼敬所書簡(一九九六年)』が収録され、大塩の乱以前から直後まで大塩に触れるところがあり、天保六年大塩が常々天下に儒者無しと語っていたこともわかる。敬所は当時京都にいて大塩も訪ねてきている。陽明学に批判的で、天保九年から津藩に招かれ、ここで生涯を終えた。
◇大塩事件と大逆事件
『日本文学』(〇四年九月号)に辻本雄一氏(新宮市在住)の「佐藤春夫における短縮「砧」の問題−熊野および春夫父子の「大塩事件」と「大逆事件」とをつなぐ心性−」が発表された。佐藤春夫のこの作品は一九二五年雑誌「改造」に発表されたもので、辻本氏は〇二年秋高野山で開催された日本社会文学会でも取り上げている(本誌第四八号、「洗心洞通信」参照)。同氏は「大塩事件を通して、あるいはそこから起因する曾祖父椿山の教訓を通して、暗に大逆事件の後遺症が語られている」、「熊野の地ではひとびとの心のなかに大塩事件と大逆事件とを深く結びつける共同幻想とでも言っていいような心性が長く潜んでいたのではないか」と指摘された。
◇創刊五〇号『朝日』記事に
〇四年九月一一日朝
日新聞大阪市内版に「市民の力、創刊五〇号に」と題して本誌が紹介された。酒井会長、井形副会長のほか会員の柴田晏男さんが取材を受けた。記事を次ページに紹介する。
【略】
◇大塩平八郎の書展
〇五年一月二日〜七日、大丸ミュージアム・梅田で開催された「浪華の書家五十人展」の併催として、大塩の書三〇点が展示され、多くの観客の関心を集めた。大阪歴史博物館副館長相蘇一弘氏の担当で、大塩画像・檄文・書簡・書幅など、同博物館蔵を中心に、伊勢神宮文庫、滋賀県藤樹書院、多度津文化財保存会などの所蔵にかかるもので、実物のもつ迫力を伝えて感動的な展示となった。この展示の図録(産経新聞社刊)には、村上三島氏ら書家の名筆につづいて、解説、カラー写真、釈文が掲載されている。一月五日にホテルグランヴィラで開かれたレセプションには本会会員数名が出席して交流した。
◇上州の大塩情報
田畑勉氏が「上州における大塩の乱〃情報の流布について」(『ぐんま史料研究』第一三号、一九九九年)をまとめた。群馬県内の大塩情報を記した史料を一六点挙げ、公的情報が遠く上州で乱への関心を喚起し、捜査のねらいが逆に民衆に乱を周知せしめ、民衆が私的に素早く多数の情報を入手したことをミクロ的に論証した。当初乱に好意的な評価が、一年後に懲悪的になることなど、興味深い指摘がある(山田忠雄氏教示)。
◇内山彦次郎の生涯
大塩と浅からぬ因縁のあつた 「大坂町奉行所与力内山彦次郎の生涯について、藪田貫氏が、内山の「勤功書」を利用して、「立入与力」としての大塩父子逮捕出動、油方値段改正をめぐる村方との対応、幕府譜代への昇進を明らかにした。ここでは「大塩の果たせなかつた幕府直臣」と見る考えをとっている(佐々木克『それぞれの明治維新』吉川弘文館、二〇〇〇年)。
◇「あふれる人間味」
〇三年一一月二七日夕刊読売新聞に、相蘇一弘氏が大塩平八郎生誕二〇年に書簡集を出版し、そこからうかがえる人間像を探り、大塩の統率力、こまやかな心配りに決起動員の一端を紹介した。
◇「洗心洞 大塩中斎 親民から救民への遁」
『大阪春秋』〇五年新年号、一一七号)に、酒井一氏が、 特集おおさかの私塾の一項を執筆。孟子にいう「救 民」が明未の民乱に当たって「順天救民」として語られていること、豪農、村役人層を組織した理由、決起にいたる道程を飢健苦を増大させる政治不正による民害再発にあることなどを紹介した。
◇『大阪力事典』
橋爪紳也監修、大阪ミュージアム文化都市研究会編による創元社刊(〇四年一二月)に、本会の活動概要・事業内容等が紹介された。
◇枚方市の『ひらり』に大塩記事
枚方文化観光協会発行の同誌(〇四年七月発行)の「シリーズ歩いてみよう・氷室・津田周辺」に 深尾才次郎のはなし」が掲載された。「乱の時は庄屋宅軒先の半鐘を打ち鳴らし、「尊延寺村」の幟をあげて村人とともに参加しょうと決起しました。しかし、守口で平八郎敗走の報を聞き、能登まで落ち延び自刃。幕府はその遺骸を引き回しのうえ磔にしました。後世の一族の方が建てられた碑が尊延寺の里山を眺める場所で静かに当時を語っています」と記されている(松浦木遊氏提供)。
◇『子ども』誌の関係記事
大阪府島本町で発行されている同誌(編集局・村上薫氏)第一〇号(〇四年一一月発行)にふみだててるこ氏の童話「天満の久やん」が掲載された。この童話は大塩の乱を取り上
げていることから、谷口和彦氏が 「「大塩の乱」 を考える−『天満の久やん』の歴史的背景について−」と題して、大塩事件の概要と成正寺の墓碑、大阪市酉区の「終焉の地」碑などの解鋭を加えている。谷口氏は執筆に当たり、「(本会会長の)酒井一氏のお手をたびたびお借りすることになりました」と謝意を表している。
◇高槻ケーブルテレビ「茨田都士」放映
〇五年一月一六日から三一日にかけて、「なりきり!歴史探紡!茨田郡士」が一五分間放映された。門真市立歴史資料館の茨田家旧蔵文書、屋敷跡の茨田公園、守口の白井家書院、成正寺の檄文、新寂帳と父子の墓碑などが取材された。
◇北田家茶室の移築
江戸時代後期庭窪(現守口市)の北田家で建築され、一八五一(嘉永四)年交野市私部の北田家に移築。さらに昭和二〇年代、近くの原田家に移築された茶室が、〇五年一月全国の江戸時代の民家を集め公開している豊中市服部緑地の野外博物館「日本民家集落博物館」に移築された。文政年間大塩平八郎が白井家で講義を行った際、この茶室を利用したといわれる(『大阪日日』05・1・14)。その内容については、さらに検討が求められる。
◇受贈図書
本研究会に世田谷区誌研究会『せたかい』第五六号(〇四年一〇月刊)を会員の倉島幸雄氏から寄贈いただきました。記して厚く御礼申し上げます。
◇訃報
駒井正三氏 〇四年一月七日逝去、八九歳。苦学して京都の両洋中学校を卒業、二度にわたる軍役を経て立命館大学史学科を卒業し、守口市の中学校に二七年間勤務、校長も務めた。定年後関西女子短期大学教授を経て、全寮制の京都美山高等学校校長を歴任。痛みのわかる校長として不登校生徒から慕われた。守口市域の村々を精査し、『守口市史』(共著)、同市文化財保護委員として調査報告書をも作成し古文書の収録に努め、こまかく市内をガイドした「ふる里守口を訪ねて」を発刊。本会会員として例会の発表をされたが、天保飢饉時の守口旧諸町村の年貢の分析では、天保七年に村々で減免があったにもかかわらず、大塩の乱の起こつた同八年にはむしろ平年並みに戻るという重要な史実を指摘した。晩年カルチャー教室で学んで、「南湖漢詩集」と「南湖俳句集」を出版した。骨太で豪放、かつ緻密な篤学の士である。
吉田博明氏 〇四年一一月一一日逝去。八六歳。氏は大塩門人渡辺良左衛門妻の実家筋子孫にあたり、本会創立間もなく入会された長年にわたる会員で、渡辺良左衛門に関する調査研究に励まれ、多くの書籍や資料を集め、各地へ足を運び、また良左衛門切腹の地といわれる河内国志紀郡老原(八尾市)の五条宮跡へ供養のためしばしば赴かれた。病床に臥す身になつてからも本を手離されなかつたと聞く。会誌へ調査のご寄稿をいただけずじまいでまことに惜しい限りである。(政野敦子氏)