Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.5

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「洗心洞通信 41」

大塩研究 第53号』2005.11 より

◇禁転載◇


◇大塩中斎忌法要・講演と研究会総会

 二〇〇五年三月二六日午後一時三〇分から成正寺において、同寺主催の大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要が有光友信住職によって営まれ、新装なった本堂前の墓碑、本堂裏の大塩家墓所に展墓した。

 その後本会主催の講演が行われ、京都橘女子大学名誉教授の小野和子氏が「中国における陽明学の展開について」と題して講演された。

 恩師の島田虔次氏の中国思想史研究に沿って、宇宙と社会を貫く完壁な学問体系としての朱子学の成立、これと連続性をもつ壮大な体系として陽明学の展開を説明し、人が生まれながらもつ直観的な働きとしての良知、実践をともなう知行合一、そしてすぐれて陽明学を特徴づける万物一体の仁、その思想にもとづく講学活動などに触れた。そして陽明学左派の弟子(王心斎)たちの国家社会に働きかける主体としての自己の姿を解説した。その上で『洗心洞箚記』の内容に触れ、大塩の明代についての正確な叙述に改めて驚いたとされた。李卓吾の良知論に「庶民の書いたものの中に真理がある」という思想を見、中野三敏氏の説を念頭に江戸時代の日本での展開を示した。わかりやすく中国史からの筋の通った深みのある内容であつた。

 また、中国では陽明学が反乱の哲学にならなかったこと、島田虔次氏所蔵で京大人文研に寄贈された、佐藤一斎旧蔵の『明儒学案』(黄宗義)の末尾に「余十余年前借覧此書、至今年購一部因再覧之 天保丁酉年復月望 一斎老人坦識」とあることを紹介された。一斎が大塩の乱のあつた天保八年十一月十五日にこの書を購入した事実を明らかにされた。

 小憩の後、総会が開かれた。酒井一会長挨拶の後、井形正寿副会長から会務報告(会誌第五一、五二号の「洗心洞通信」参照)があり、続いて新年度の企画について大野尚一委員から、四〜五月にかけての当面の行事計画、十一月に迎える創立三〇周年にむけての取り組み、「関係資料を読む部会」が三月二八日から新しいテキスト(門真の茨田郡士関係資料)に変わることなどが報告された。〇四年度会計報告が担当の久保在久委員からなされ、政埜隆雄会計監査委員が適正に執行されている旨報告された。本年は委員の改選期に当たるため、次の新役員を提案してそれぞれ承認された。顧問、有光友信。会長、酒井一。副会長、井形正寿、向江強。事務局長、久保在久。委員、泉谷昭、大野尚一、尾崎真二郎、柴田晏男(新)、島田耕、島野穣、常松隆嗣、松浦木遊(新)、松永友和(新)、薮田貫。会計監査、相蘇一弘、政埜隆雄。

 当日の参加者は、(略)計二九名(敬称略、以下同じ)。

◇四月例会

 四月二三目午後 花外楼から北浜界隈を歩く」と題するフィールドワークが実施された。事前に希望者は花外楼直営の「アイルモレ・コタ」で食事を楽しんだ。花外楼で永年お勤めのSさんのお世話で、資料館に入室を許可され、大阪会議を機に「加賀伊」から「花外」になつた際の扁額や、同館所蔵の伊藤博文、井上馨ら著名人の揮毫などを花外楼の徳光憲氏の説明で見学した。ついでフィールドワークに入り、ともに「大塩焼け」遭った豪商天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛の「十兵衛横町(よこまち)」の碑の説明を酒井一氏 本会会長、三重大学名誉教授)から受けた(以下同じ)。この他はもと集英小学校だったが、愛日小学校との合併により「開平」と改称されたことも付け加えられた。また会員で社会運動史家の荒木伝氏(PLP会館館長)から、この学校が大逆事件で処刑された唯一人の女性管野すがの出身校であることが紹介された。三越大阪店では、五月五日に閉店が予定されていることから、三越資料室初公開の特別展示「大阪三越の秘蔵資料」が開催されており、同副支店長K氏・三越OBのK氏の案内で見学、記念絵葉書が全員に配布された。重要文化財の旧小西家住宅前を経て、これまた大塩の乱で焼失した少彦名神社(神農さん)を訪ね、薬に関するさまざまな資料が展示されているくすりの道修町資料館で館長久保武雄氏から説明を受けた。いまは大阪美術倶楽部となつている旧鴻 池邸宅跡では、大塩との関連が説明され、倶楽部改築時にあわや取り壊されそうになつた長屋門が篤志家三宅一真氏(故人、元本会会口貝、三宅製粉社長)によって、奈良市富雄に移築されたことが紹介された。船場商人によって建設された市立愛珠幼稚園、大坂銅座跡の説明を受けたあと、緒方ビルの一角にある除痘館を見学、重要文化財・適塾に入った。閉館時間が近づき充分な時間が取れなかったが、一通り見学を済ませることができた。玄関先では荒木氏からこの近くにあつた平井旅館が鳳晶(与謝野晶子)と与謝野鉄幹との出会いの場所であつたことなどが紹介された。最後に淀屋橋駅近くの日本生命本社ビル南壁にある懐徳堂の碑を見学、享保一一年(一七二六)に創立された町人の学問所で多くの逸材を育てたこと、維新後廃絶したが、大正時代に本町橋東詰に再建され、市民の生涯学習の場として有名学者による講義が続いたことなどが紹介された。

 当日の参加者は、(略)計四四名(他に未記名者三名ほど)。

◇五月例会

 五月一五目高槻市立しろあと歴史館が実施した春季特別展連続講座の「藤井竹外と幕末の高槻」第二回に、本会会長で三重大学名誉教授の酒井一氏が「藤井竹外と大塩中斎・頼山陽」と題して講演された。これを本会の例会として実施、併せて「高槻が生んだ幕末の漢詩人・藤井竹外展」を同館の学芸員西本幸嗣氏の解説で見学した。

 酒井氏の講演は、高槻藩士で絶句の妙を称えられた竹外を中心に、その師山陽や知人中斎との交流をとり上げ、とくに大塩と同藩士との関連に触れた。漢詩については、日本の枠だけでなく、中国を含めた漢字文化圏としての評価の必要、また富士川英郎、中村真一郎といったヨーロッパ文学に通じた研究者の評論に学んで、竹外の詩を近代詩とどうつながるのかを考えることが求められるとした。

 当日の参加者は高槻市民を中心に約九〇人、うち本会関係の参加者は、(略)計二四名。

 終了後、高槻市在住の古藤幸雄氏の案内で希望者一一名が同市真上の真言宗地蔵院墓地に向かい、大塩の乱で使われた大砲を所有していた柘植牛兵衛の先祖の墓碑五基を見学した。牛兵衛は「丑兵衛」ともあり、「半兵衛」としばしば記された文献のミスを確認した。続いて、真上村の庄屋田中家の竹林にある「石川年足墓誌」の出土地、荒神塚を見学、午後六時解散した。

◇七月例会

 七月二日午後、成正寺で「間家の天文学について」と題して、大阪市立科学館学芸員の嘉数(かず)次人氏が講演した。江戸時代の天文学に活躍した大坂人を中心に、専門的な立場から明確な論旨でわかりやすく説明された。質商であつた間重富とその子重新を軸に、麻田剛立、高橋至時、伊能忠敬などに解説を加え、大坂の生んだ天文学が果たした役割を明らかにされた。当日は、天保七年の伊勢暦、暦象考成後編の写本・間重新の「比例尺」(文政十年)、複製の伊能小図などが示され、参会者は興味深く閲覧して、講演の内容を身近に理解できた。いま大阪歴史博物館に寄付されている羽間家文書と天文学の間家との関連についても種々話題になつた。

 当日の参加者は(略)の一五名。

◇能勢騒動関係地をめぐる

 七月二四日バスツアーを実施した。詳細は本号の松浦木遊氏の「能勢騒動の地を訪ねて」を参照されたい。当日の参加者は、(略)の一八名。

◇八月例会

 八月二七日午後、成正寺で「明末の農民反乱について」と題して谷口規矩雄氏(大阪大学名誉教授・愛知大学教授)が講演した。一七世紀中頃にかかる明末清初の農民反乱は、規模も大きく王朝の交替を伴う政治的な意味の大きいものであるが、谷口氏は明史流賊伝などを使いながら、とくに明末の反乱の背景、反乱軍の政治スローガン、中心人物の李自成などについて詳細に報告された。谷川道雄・森正夫編『中国の民衆叛乱史』第三巻(平凡社東洋文庫)に発表された内容が参考になるが、叛乱軍のスローガンに「均田・免糧」「不当差」(徭役に当てない)、「三年免徴」とあり、読書人対策等々、大塩の行動を考える上でも示唆的な内容であつた。大塩が唱えた「救民」の言葉は、孟子に出典があるが、当時「順天救民」「替天仰天」という言葉がよく使われていたとの説明があつた。

 当日の参加者は、(略)の一三名。

◇九月例会

 九月二四日午後、成正寺で「森鴎外の歴史小説−『大塩平八郎』を中心にして−」 と題して山崎国紀氏(花園大学名誉教授)が講演した。長年同郷の鴎外の研究を進めてきた同氏は、文豪の生涯を振り返りつつ、陸軍軍医総監として山県有朋の側近に坐しながら、大正元年から現代小説を離れて歴史小説へ転換し、同三年『大塩平八郎』を発表したことの意味を解説した。鴎外を権力側の作家とする一部評論家の単純な理解に対し、鴎外の 政治思想など幅広く研究する必要を述べた。かれの作品は、自然科学者ゆえのドラマ性が乏しい面があるが、反面幸田成友の名著にない「信貴越」を挿入したあたりに独自の手法を認め、乱直後「枯寂の空」を感じていたと描いた点に、革命家らしからぬ姿を見、決起直前に門人宇津木矩之允を斬ったこととの連続性に触れた。また作品は大逆事件と直接的な関係は無いが、歴史小説で為政者と民衆のあり方を考え、歴史を借りて「お上」の政治責任を厳しく問うていたとした。確かな論証と魅力ある語り口の講演だった。

 当日の参加者は、(略) 計三九名

◇宮城公子『大塩平八郎』

 一九七七年に朝日新聞社から朝日評伝16として刊行されたものの復刻であるが、近年大塩の伝記的研究の実証水準が著しく高まったことをうけて、「建議書」、「大塩平八郎の書簡の研究」、溝口雄三氏の陽明学論など新しい問題への所説もつけ加えられている。市民参加の本会の意義についても触れるところがある(ぺりかん社、〇五年)。

◇杉本秀太郎『大田垣蓮月』

 幕末、和歌・陶芸・書などの技芸を究めた蓮月尼の評伝。淡交社および中公文庫本の復刻。大塩門下の田結荘斎治(千里)を蓮月の実子と見ている。乱直後「この二月十九日 のあしたのこととかや」と詠んだ長歌も収められ、斎治についての解説もある。関連して登場する人物に蓮月とその時代が窺える。達意の文体(〇四年、青幻杜)。

◇城野隆『一枚摺屋』

 ふつう瓦版とよばれる木版刷りが大坂では一枚摺とよばれ、木版で独自の情報を伝えた。幕末阿波屋与兵衛という一枚摺屋が町奉行所の責めをうけて死亡する。慶応二年の打ちこわしと翌三年のええじやないかの乱舞を舞台に、勘当中の息子文太郎が父の死のなぞを追い、大塩の乱に加担したがゆえと知る。サスペンス十分、後半みごとな盛り上がりを示す。〇五年度第一二回松本清張賞受賞作。なお作者と酒井氏との対話が『大阪民主新報』〇五年八月七・十四日号にある(文芸春秋、〇五年)。

◇宮澤誠一『明治維新の再創造 近代日本の〈起源神話〉』

 先年『赤穂事件』(三省堂)、『近代日本と「忠臣蔵」の幻想』(青木書店)をまとめて日本の文化とナショナリズムの特質を考えた宮澤氏が、明治の「第二維新」運動と幕末維新像の分析を序章に、「大正維新」(大逆事件、憲政擁護運動、米騒動、関東大震災)「昭和維新」(国家主義運動、日中戦争とアジア・太平洋戦争)を貴重な付録とともに詳述している。このなかで大塩研究史が近代史のなかで位置づけられている(青木書店、〇五年)。

◇『源光寺文書』の発刊

 平祐夫氏と西本幸嗣氏によって摂津国南浜村 大阪市北区豊崎二丁目)の浄土宗知恩院派の源光寺文書が公刊された。古記録編と縁起編、および源光寺の概要から成っている。古文書は天和から天保に及ぶ二三点であるが、寺務にかかわる文書に与力の名が登場する。同寺のすぐ東に、大坂七墓の一つである南浜霊園墓地があり、大塩家や天満宮社家をはじめ学者・相撲取りなどの注目すべき墓碑がある(仏教大学平祐夫研究室、〇二年刊)。

◇天満同心家の出身宇野浩二

 作家の宇野浩二は、作品のなかで祖母から大塩の近くにいた祖父の様子を聞いて書いているが、増田周子『宇野浩二文学の書誌的研究』(和泉書院、〇〇年)が宇野家系図や『御役録』などをつかって現在の与力町に屋敷を構えていたことを論証した。

◇内山彦次郎、文楽の危機を救う

 戦前文楽の研究で知られた石割松太郎氏の遺稿が、盛田嘉徳氏 (女婿)によって『人形芝居の研究』(修文館、1943年)にまとめられている。その一節に大坂西町奉行与力内山彦次郎の思いがけぬ裁許が書かれている。天保8年5月下旬に起きた「説経讃語事件」の処理で、近江の三井寺宮持分、蝉丸宮配下に説経讃語という一座が組織され、大坂で興行されていたすべての「宮芝居」を説経の配下にするというもので、宮芝居はすべてこれに従った。宮芝居から運上をとり上げることをねらったものであった。これに対して船場博労町の難波神社の末社、稲荷の東の芝居で興行をしていた文楽芝居の太夫、三味線弾きは反対し、この年9月5日初日の「鎌倉三代記」などを最後に木戸を閉め、東町奉行所へその不法を訴えた。しかしこれは負公事となり、改めて三代長門太夫らは西町奉行所へ再訴した。

 ここで内山が登場する。かれの判断は、説経節は15歳までの子どもに狂言をさせ語るもので、文楽の太夫はそのようなものでなく、「義太夫浄るりは操りに掛て居る」もので、官職まで与えられているので、説経讃語の下に所属するものではないとした。説経節と浄瑠璃の違いを示した名判決によって勝公事となって、苦渋のストライキで抵抗しその独立性を主張していた文楽は、晴れて同年12月2日にもとの稲荷の芝居で再開された。文楽の危機を内山は救ったという。伝統的な説経節と近松門左衛門、竹本義太夫によって近世芸能として高められた人形浄瑠璃の違いをよく認識した裁きである。

◇『岩手の民衆史』の刊行

 現在の岩手県沿岸地方中央地域は、藩政期には盛岡閉伊那といった。この地域で弘化四年(一八四七)と嘉永六年(一八五三)に百ケ村余から一万数千人余が結集した二度の 住民蜂起を三閉伊一揆という。盛岡藩で発生の百姓一揆の中でも最大規模のものであった。

 特に嘉永六年の一揆は隣藩仙台藩に逃散し訴えた。決起から解決まで六ケ月を要し、諸要求と一揆への無処罰の一札を獲得する成果を得て終息している。

 この年の夏、吉田松陰の手紙に「南部の一揆も已に三発に及び、此の度は十一万人にて盛岡城を取囲み、役人をも打取りたる風説に御座候……一揆中に辰吉なるもの歳十八、博学多才、これが謀主たるよし」と記し、また「……畢竟民窮するより事起りたるなり、畏るべし」とも記す。

 嘉永六年六月は、米国のペリー艦隊が浦賀沖に現れ寝耳に水の大事件となった。これと対峙させて「黒船来航に人々の注意が奪れている時期に、東北の一隅でもしかすると黒船以上の大きな事件が起きていた」と大仏次郎の絶筆の著作「天皇の世紀」第一巻「野火」の項にこの三閉伊一揆を取り上げている。

 この一揆は計画性・思想性・戦闘性など豊富な内容を持ち、各地に広く伝聞している。そして激動する幕末社会の民衆運動として調査・研究が正確に進展されることを期待し、『岩手の民衆史』に三閉伊一揆関係史料・文献などを収録している。

 第一号(一九九四年四月)発行以来、第九号(二〇〇五年五月)まで刊行、各号五〇頁から六〇頁ほど、各号誌代一〇〇〇円。いずれも発行部数すくなく残部僅少。頒布希望者は、ハガキで左記住所へ。(略)

◇受贈図書

 〔編集〕青木美智男『文政・天保期の史料と研究』(ゆまに書房)が本年四月に出版された。史料編と関連論文の二編からなり、史料編に大阪城天守閣所蔵の藤田東湖「浪華騒擾紀事」が初めて全文翻刻され、同氏による解説がつけられている。本会が果たすべき責任を青木氏が担われたことに感謝したい。本号の常松隆嗣氏の書評を参照されたい。

 会員の萩原俊彦氏が分担執筆された『岸和田市史』第四巻(抜刷)が同氏から本会に寄贈された。

 龍谷大学史学会『龍谷史檀』一二二号(〇五年二月)、一二三号(〇五年三月)も寄贈いただきました。記して厚く御礼申し上げます。

◇近代大阪の耀き展

 大阪府立中之島図書館の夏の展示として〇五年七月六日から同二〇日まで開催された。古書肆鹿田松雲堂を中心とする展示で、『大塩後素自筆題簽集』、『酊醒集』(大塩事件を大阪奉行所側から見た史料)や幸田成友『大塩平八郎』(創元杜、一九四三年)などが展示された。

◇特別展・龍馬の翔けた時代

 京都国立博物館で〇五年七月一六日から八月二八日まで開催された。田能村竹田の絵も数点展示され、大塩と親交を結んで旨の解説がなされた。

◇会員の訃報

広内 理さん 〇五年二月九日(中略)逝去。五七年北野高校定時制過程を働きつつ 卒業され、立命館大学に学び、北山茂夫教授の指導を受けた。(中略)東京支店勤務から 帰阪されたのを機に、大塩に関心を持たれ、九三年三月入会、多くの例会、見学会に積極的に参加 された。奥様から「いろいろ勉強させていただいて 喜んでいました」とのお手紙をいただいた。

◇浪曲「ああ大塩平八郎」

 山下辰三氏作、音楽西脇功氏によるJOBK・TV放送台本が、I氏から本会に届けられた。〇四年八月二二日にNHKホールで開催されたNHK東西浪曲大会で収録された浪曲で、同年十二月五日にNHKテレビで放映された。

◇『檄−大塩平八郎の道』上・下

 脚本構成八潮路つとむ、作画西崎泰正氏によるSPコミックス。「徳川幕府を揺るがした男」を描く上巻は、七話と特別コラム(大塩平八郎 その生涯)、奸吏奸商に天誅を下す場面を描く下巻は七話と特別コラム1(大塩平八郎と同時代に生きた人々)、同2(「大塩の乱」とその果てに)の構成で、大人にも小中学生もわくわくする内容で、大塩の生涯と乱を描き出している(発行、リード社、〇五年)(柴田晏男氏)。

◇阿部牧郎の小説

 『大塩平八郎「洗心洞」異聞大坂炎上』が〇五年七月徳間書店から発売された。大塩門人で大坂ミナミの商人「和助」が、濡れ衣の罪で隠岐へ流されたが、大塩の協力も得て江戸回米をめぐる陰謀を暴くというフィクション。帯に「天保の巌窟王」と。


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