Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.14

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「洗心洞通信 42」

大塩研究 第54号』2006.3 より

◇禁転載◇


◇三十周年記念行事

 〇五年一一月一九・二〇の両日にわたり実施された。概要は本号掲載の松浦木遊氏稿を参照されたい。武藤功、酒井一両氏の記念講演も本誌に掲載しています。当日の参加者は、
 講演会 (略) 計八一名(若干の記載漏れあり)
 懇親会 (略) 計四七名
 南浜霊園墓地見学 (略) 計一五名

◇松浦木遊氏の木版暦

 「天三おかげ館」に展示品として出品された木版暦が「天保八年の庶民生活と大塩平八郎」と題して『醸界春秋』(〇六年二月)に掲載された。次頁にそのコピーを紹介します。

 (略)

◇寄付金の御礼

 創立三十周年に当たり、左記の方々から多額のご寄付をいただきました。記して厚く御礼申し上げます((略) 。

◇神奈川県人推協の大塩学習ツアー

 〇六年一月一四日に、神奈川県人権・同和教育推進協議会が県外視察研修会として「大阪、大塩平八郎と被差別部落」を実施した。見学ツアーは貸切バスで大阪城(とくに大坂夏の陣屏風の大きな映像で、日本最大の内戦といわれるこの合戦についてリアルに描かれた戦争の惨状、戦う武士たちだけでなく民衆をまきこむ残酷さに驚嘆)、造幣局博物館・洗心洞跡・与力中嶋家の長屋門・大塩の乱槐跡をまわり、車中から大阪市中央公会堂・千日前・芦原橋界隈・大塩平八郎終焉の地碑を見て、成正寺へ。ここで酒井会長の講演があり、参加者は会刊行物を大量に購入して協力された。このツアーは本会会員岸本隆巳氏の企画による。参加者四一名。

◇生駒聖天さんの雑誌に大塩裁き

 生駒の宝山寺朝参会会長で同寺福寿会の会員であるSさんが、養父Tの名でまとめた『おろかもの』第9部・第10部(〇五年六月刊)に、五〇年前に読んだ本から知ったという大塩裁きを紹介している。天満の資産家である千成屋の主人は、生前二人の男子にそれぞれ瓢箪を渡し、千成屋の跡を継ぐ証拠にして仕事に精を出させた。死後相続争いが生じ、それぞれが瓢箪を証拠を主張して大塩に訴えた。大塩は、とある居酒屋で「千成や蔓一筋の心から」という俳句を耳にし、一つの蔓からいくつもの実がなるが、初めに成った実はころがしても起つことを知る。これを裁きに使い、試したところ、瓢箪が起った末子 に相続を認めたという話である。大岡裁きならぬ大塩裁きが人情豊かに生きていて大塩像が民衆の中で生きつづけてきたあかしである。元本をご存じの方はお知らせを。(久保在久氏提供)

◇『部落史ゆかりの地』に大塩関係地

 『部落解放』第五五二号増刊号(〇五年九月、解放出版社)が福島県から鹿児島県にいたる部落史ゆかりの一二都府県をとりあげ、わかりやすく写真・参考文献を掲げて解説したなかに、大阪府の事例に大塩ゆかりの地として、千日前界隈(大坂の非人と盛り場・千日前)、天満界隈(大塩平八郎の乱と被差別部落)、西浜水平社発祥の地(大阪府水平社と水平運動の中心地・西浜)が取り上げられている。天満界隈の項は、大塩平八郎の決起、大塩平八郎と被差別部落、大塩の乱と渡辺村の二項目が紹介され、東町奉行所跡、洗心洞跡、大塩の乱槐(えんじゅ)跡、大塩平八郎終焉の地碑の写真が適切なキャプションつきで載せられている(1050円)。

◇世田谷で岡本黄石展

 〇五年一一月一日から二七日まで東京都世田谷区立郷土資料館で特別展「漢詩 人岡本黄石の生涯−第二章その詩業と交友−」が開催された。〇一年に同館で黄石展が開かれて以後、同館に寄贈された宇津木家(黄石の生家)の資料や新発見の作品を中心に続編として展示された。充実したみごとな図録には、図版がT黄石、V周辺の人々、V交友、W小祥忌、X遺品の五本柱で収録され、論文として早稲田大学名誉教授村山吉広氏の「岡本黄石の交友」、同館学芸員武田庸二郎氏の「正伝岡本黄石の生涯」の二つの力作があり、展示品解説と附録として黄石略伝、黄石尺牘、来簡集、人物略伝が併載されている。

 黄石の二歳年長の兄、宇津木矩之允静区の記事もあり、六歳で越前今庄村の西念寺に養子に入ったもののここを離れ、のち大塩門に学びながら留守先の長崎から戻って乱直前に大塩を諌めて殺されたことは周知の事実である。その時随従していた岡田恒庵が明治一九年二月一〇日付で黄石に宛てた書簡が掲載されており、「浪迹小稿」を黄石へ頒贈のこと、矩之允の命日、旧二月一九日に彦根近郊の菩提寺光(高)源寺で矩之允の法要がつづいていてこれに供養料を送ることなどが述べられている。歴史は天保八年二月一九目で終わらないことを物語っている。

 黄石の漢詩、幅広い交友などを図版、釈文で説明し、安政の大獄はじめ彦根藩をめぐる幕末維新の変動とその後の黄石をとり上げて余すところがない。

 矩之允の死に当たってその直後の五月某日に、渡辺崋山がその奇難一件を聞くため、三宅土佐守(三河田原藩)の江戸役宅に黄石を招いて対談したことが略伝からわかる。黄石は華山を「偉大夫ニシテ弁舌亦爽快、自ラ非凡ノ人タルヲ知ル」と評している。崋山自身また大塩とのつながりを疑われた人物である。

◇尾鷲大庄屋記録に渡辺村と大塩の乱

 三重県尾鷲市立中央公民館郷土室所蔵の紀伊藩尾鷲組大庄屋文書のなかに、「天保八酉年正月 御用来状留 玉置理兵衛」と記された表紙の文書(略)がある。日付は不明ながら、三月二日付の「四組大庄屋中・中野城蔵宛」の文書のつぎに、左の一文が記録されている。

 文書記録者の玉置理兵衛は大庄屋。この御用留には、「当月十九日於大坂放火及乱妨候徒党之者人相書」も記録されている。渡辺村と大塩との関係は、坂本鉉之助の『咬菜秘記』で有名であるが、紀州領でこのような風聞が伝えられていたことがわかる。

◇八犬伝と大塩の乱

 滝沢馬琴の「八犬伝」の世界は、幸田露伴によると実社会と直角に交差しているという。名言である。事実、馬琴は天保の飢饉の最中、伊勢の殿付篠斎・小津桂窓や越後の鈴水牧之らと頻繁に饑饉の情報を交換し、「異聞雑稿」「天保丙申荒略記」に記録した。大塩の乱の裁許が江戸日本橋に捨札として掲げられると、それを見るために駆けつけている。

 前田愛氏の「『八犬伝』の世界」(『文学』1969年12月、第37号)には旧聞ながら大塩と八犬伝の関係について文学者らしい深い読み込みがあつて興味深い。天保八年二月大塩平八郎の乱と、同四月十一代将軍家斉の酉の丸退隠、家慶の十二代将軍就任という二つの事件を見て、八犬伝第百三十二回(この分を収める第九輯下帙中套の序文は天保八年八月付)に、馬琴の寓意がこめられているという。

 ここでは、東山殿義政が家斉に、子の義尚が家慶にそれぞれ擬せられ、畠山政長、細川政氏の両管領は、家斉に取り入った「三奸人」(水野忠篤、美濃部茂吉、林忠英)に比定されるとする。

 大塩の乱の寓意は、白川山の画に描かれた虎の怪について一休禅師が足利義政をいさめた言葉の中にあると読む。

 この一節に、七十歳を超えた馬琴が一休の口をかけて時勢に憤慨し、儒教道徳の忠実な鼓吹者と信じられているかれに、危険な作家への変貌を読みとろうとしている。同時に、佐藤一斎が門弟の山田方谷に送った大塩の乱直後の天保八年三月付の書簡にいう「比度難波之変、愕然之至、其人兼而は余姚信仰と申事に候(中略)仲々以一と通の病狂喪心には無之、狂漢逆賊、不勝浩嘆 略)、凶荒之年は(略)独り百穀のみならず、万物に及び、人事之変も同一気之ものと被存候云々」(山田方谷全集第三冊)を引用して補強している。

 徳田武『八犬伝の世界』(NHK出版、「江戸文芸をよむ」ラジオ第二放送、九五〜九六年)も、馬琴が第百四十六回の親兵衛の虎退治や第百五十回の一休の諌言(いずれも天保十年執筆)は足利義政の時代を舞台にしながら実は大塩の乱をあてはめたもので、馬琴の「天保八年丁酉日記」三月朔日の項に乱の概略を記していることから、檄文の末尾にある「若し疑はしく覚え候はば、我等が所業終る処も爾等(なんじら)眼を開いて看よ」がさきの一休の諌言に「眼其の用を做すときは、心高慢り己に惚れて」の表現になったと推定している。

 第百五十回の中で前引の「国家将に興らんとすれば云々」の一文については、妖とは国家の衰滅の前兆であり、画虎に眼を点じて生じた騒動は、大塩の乱、すなわち国家の衰滅の前兆であるとする。歴史資料だけでなく、文芸もまた時代の予兆を感じさせることを教えている。学際的研究の必要を感じる。

◇仲田正之『近世後期代官江川氏の研究−支配と構造−』

に近世後期代官の公事手続きの一つとして、村方注進に始まる公事の例に「無宿清蔵の飛脚荷物横領一件」の項がある。同氏がすでに詳細を発表した『大塩平八郎建議書』(文献出版、一九九〇年)を代官公事の観点から整理したものである。箱根宿定飛脚宿与三兵衛の抱え飛脚藤蔵から荷物を預かり、三島宿定飛脚宿鹿島宿へ向かう途次荷物を被り、天保八年三月八日塚原新田地内(三島市、現鉾田一里塚)裏で発見された有名な建議書一件である。単なる窃盗事件であるはずが大塩事件からみで江戸の評定所・勘定奉行からの吟味となった。清蔵はしたたか者で入牢中脱獄、再入牢の上江戸送りとなって牢死。藤蔵は清蔵を逮捕した功により御咎なし、与三兵衛は「急度叱り」に収まった。

 それにしても、この事件は飛脚制度の実態を示すとともに、江戸から大塩密書を含む関係書類の早々の提出を求めながら、筆写した代官江川太郎左衛門英龍の判断には敬服する(吉川弘文館、二〇〇五年)。

◇『平野区誌』

 平野区誌編集委員会がA3判369頁でまとめたカラフルな大冊のなかに、近世の「6 幕末の政治と世相」に、大塩の乱と平野、上知令と国訴がとり上げられ(宮本裕次氏執筆)、大塩平八郎画像、大塩鎮圧の報告の帰途正装した鷹見泉石を描いた渡辺崋山の名画、出潮引汐奸賊聞集記の大塩寄進軍図という有名な史料とともに、平野郷の末吉平左衛門の「塩賊之乱翁立偉功」と刻んだ墓碑銘がカラー写真で収められている。鞍作村の豪農奥田家住宅にも一頁割いている。ここは大塩が攻撃の対象に挙げた淀藩大庄屋である。編集はみごとで専門家に地元の研究者が加わった労作である(創元杜、二〇〇五年)。

◇大谷木醇堂の大塩びいき

 野口武彦『幕末の毒舌家』(中央公論杜、二〇〇五年)は、天保九年に生まれ、明治三十年に没した貧乏旗本の出身で奇人変人の聞こえのあつた大谷木醇堂をとり上げたもので あるが、その第三十四話に「大塩びいき」の一節をおいている。大塩びいきの対極として跡部山城守良弼について『醇堂放言』にいろいろと書き残して水野忠邦の三番目の弟だが、愛宕下の屋敷で妾を手討ちにしたゴシップのほか、大塩の乱に際して出馬し、庁に帰ってのどが渇いたので、馬上より馬柄杓で水を求め、馬丁が差し出したところ「熱くはなきや」 と問うたという。この一言を醇堂は馬丁から聞いたという。馬びしゃくとは面白いが、周章振りを語っている。

 この著作には、高井城州と藤田東湖などにも触れているが、醇堂の母方の祖父が彦坂和泉守紹芳で、「高井城州、子が祖翁に代りて大坂東庁に尹たるの日、よく祖翁の密告を頷じて駕馭せしゆえに、後素もまた抱負する財力を吝まずして紊乱錯雑を措置し、弓削氏を屠腹せしめ、妖教を布く姦婆を誅せり。これともに当時同僚及び配下・手下に多きもなし得ざる所、後素よくこれをなしたり」(『醇堂見聞手録』十)という。祖父が高井山城守の先任東町奉行(文化十三年〜文政三年在任)で、文政三年大塩が目安役に抜擢されたのは「超群よく用うべき」として彦坂から高井へのサジェストによるという。

◇受贈図書

 会員の倉島幸雄氏から世田谷区史研究 会機関誌『せたかい』第五五号(特集・彦根藩主井 伊氏・豪徳寺)が寄贈された。
 大橋健二氏から著書『神話の壊滅大塩平八郎と天 道思想』(勉誠出版、〇五年十一月)が寄贈された。
 『龍谷史壇』第一二二号、第一二三号(龍谷大学 史学会)


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