Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.15

玄関へ

「洗心洞通信 43」

大塩研究 第55号』2006.8 より

◇禁転載◇


◇二月例会

 〇六年二月二五日成正寺で酒井一氏(本会会長、三重大学名誉教授)が、「大塩の乱の特異性について」と題して講演された。酒井氏は、民衆とのかかわりで乱が評価されることが多いなかで、その行動は兵乱(rebellion)で大塩自身が表明しているように一揆・蜂起 uprising)とは異なり、天命を奉じた「王者の兵」による「国家」(幕府)への挑戦であるとした。士太夫の政治思想である儒学によって、武士の民衆に対する政治責任を問い、中間層としての豪農・村役人を同盟者としたとする。文政・天保期に高揚した国訴や郡中会議などで形成された「百姓的世界」から乱への飛躍の解明は重要課題として、あわせて一揆の思想・組織・武装の違いなどを指摘した。乱に際して大塩勢の武装などは、「出潮引汐奸賊聞集記」の画像の分析が必要だろうと結んだ。当日の出席者は、(略) 計二九名

◇大塩中斎忌法要・講演と研究会総会

 〇六年三月二五日午後一時半から成正寺において、同寺主催の大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要が有光友信住職によって営まれ、本堂前の父子の墓碑と「大塩の乱に殉じた人びとの碑」に展墓した。  その後本会主催の講演が行われ、大阪市立大学大学院法学研究科教授の安竹貴彦氏が「明治初年大阪の行政・司法組織−元大阪町奉行与力・同心の動向とその職務−」と題して講演された。

 安竹氏は、鳥羽伏見の戦い後に入坂した薩長を中心とする新政府が大坂統治のために採用した「旧幕府役人の再雇用」を軸に、これら旧幕府役人たちがその影響を年々減じながらも明治前半期の行政・司法を担った実態を説明された。大坂裁判所の名簿や大阪府職員録を活用して旧町奉行所与力・同心や市中にあつた谷町・鈴木町代官所の手付・手代の維新後の役割を詳細に数量的にも確認したもので、コンピューターを駆使して維新期の大阪の行政・司法の分離とその組織を解明され、多大の関心を集めた。

 小憩の後、総会が開かれた。酒井一会長の挨拶につづいて井形正寿副会長から会務報告(会誌第五三、五四号の「洗心洞通信」参照)があった。続いて久保在久事務局長から〇五年度の会計報告、相蘇一弘氏による会計監査報告(会誌第五四号所収)があり承認された。〇六年度の活動方針について、常松隆嗣委員から年二回ほどの例会、見学会(例えば隠岐島)、年二回の会誌発行、九月二・三日に予定されている民衆思想研究会の大阪開催への協力、来春の大塩の乱百七十年記念行事およびその時期にあわせた論文集の刊行(和泉書院)などの提案があり、最後に久保氏が閉会の辞を述べて終了した。司会松永友和氏。当日の参加者は、(略) 計三九名。

◇四月例会

 四月二二目成正寺で藤原有和氏(関西大学人権問題研究室研究員)が、「近世の非人と転びキリシタン」と越して講演された。藤原氏は『関西大学人権問題研究室紀要』第49・50号(二〇〇四〜五年)に紹介した史料「摂洲東成郡天王寺村転切支丹類族生死改帳の研究」(一)(二)や既発表の論文をもとに、近年研究の進められている大坂四ケ所垣外について、天王寺・鳶田・道頓堀・天満の垣外の成立期を寛政元年のそれぞれの人口を示し、非人の成立についての藤木喜一郎・岡本良一・石尾芳久・塚田孝の各氏の所説を紹介した。このなかで、非人集団の中核部分が転びキリシタンとその類族であることに注目した石尾氏を支持し、他のキリシタン転宗主流説への疑問や非人=貧人とする説への異論を唱えた。その論拠を、道頓堀垣外の転びキリシタンの実態、転びキリシタン類族生死改めによって提示された。当日の参加者は、(略) 計二五名。

◇五月例会

 五月二〇日成正寺で加地伸行氏(同志社大学専任フェロー、大阪大学名誉教授、本会会員)が「儒教における『孝経』−大塩平八郎の周辺−」と題して講演された。儒教研究で令名の高い加地氏は、現在「孝経」の注釈の作成に努めておられ、その成果をもとに、孝経についてのスケッチ、孝経のテキストの流れ、大塩と孝経のかかわりの三点を軸に、博く儒教および中国社会にかかわる知識を加えて明確に論じられた。とくに大塩が「古本大学刮目」(一八三二年)、「洗心洞箚記」・「儒門空虚聚語」(一八三三)を世に問い、最後に「増補孝経彙註」(一八三四)をまとめて、学問上の仕事を終えて乱にいたったこと、朱子によって削り並びかえられた孝経を大塩が批判、孝より仁を本と見ることに反対し「孝」がすべてだと主張したとした。中江藤樹の注釈書もある加地氏は、孝を知るだけではだめで(物知り)、「到良知」良知=孝をいたすことの大切さを示し、陽明学の特徴をわかりやすく解明された。詳細は本号所収の講演録を参照されたい。当日の参加者は、(略) 計一三名

◇六月例会

 六月一七日PLP会館(大阪市北区天神橋三丁目)で宮本裕次氏(大阪城天守閣主任学芸員)が「大坂城の警備体制について−定番を中心に−」と題して講演された。大阪城天守閣は近年相次いで『徳川時代大坂城史料集』(1〜9、以後続刊予定)を刊行、大坂城警備の具体的な史料を提示しているが、その中心として論集にかかわった宮本氏の講演は、1、大坂城の役職、@大坂城警備の主力(城代、定番、大番、加番)、A城管理にあたる諸奉行(蔵奉行・鉄砲奉行・弓奉行など)、B大坂城役職の監査役(大番目付)、Cその他(特殊町人の山村・尼崎・寺島、太鼓坊主)、2、城代・定番制の成立、@徳川大坂城再築期、A阿部正次・稲垣重綱の両輪期、B「三人定番制」期、C城代制の確立、3、勤番の諸相、@城代・定番・町奉行を中核とした寄合、A将軍霊廟の参詣と市中の巡視、B定番の「藩邸」生活、C加番大名の生活と趣味(丹波福知山藩主朽木綱貞の例)、4、大坂城にはどれだけの人がいたか、@大坂の武家人口推定、A試算の難しさ、B江戸時代、大坂城管理にかかわった武士身分の人数(約六千人)に及び時代とともに整備されて行く大坂城 警備を詳細かつ綿密に語り、加えて武士のくらしの一端にも触れて親しみ深い内容であつた。当日の参加者は、(略) 計二三名

◇七月例会

 七月二二日成正寺において長谷川伸三氏(大阪樟蔭女子大学教授、本会会員)による 「天保十年豊年踊りと大坂」と題する講演があつた。近年各地を博捜して発掘された絵画資料(木版刷り、図巻・屏風、冊子のさし絵)を十分に活用し、豊富な画像レジュメにもとづいて、いままで十分に注目されてこなかった天保十年三月上旬から始まった豊年踊りの興味深い実態を報告された。主に京都市中を中心に、一部南の寺田村(城陽市)へ広がりながら、狐、たこなど動物もおどり出るもので、江戸時代版みやこおどりの観がある。豊年を祝って二年前までの米価高騰を経験したあとの民衆の情念の発露、砂持・地築などたびたびくり返された行事での踊りが米価安定を祈って噴出した感がある。御所をめぐり歩く千度参りの対極のものか。同氏の『近世後期の社会と民衆』所収の論文と口絵、「天保10年京都豊年踊りの絵画資料」(『大阪樟蔭女子大学論集』四三号、二〇〇六年)を参照されたい。当日の参加者は、(略) 計二三名

◇「浪葦騒擾記−大塩平八郎」初上演

 〇六年四月四日〜十一日に大阪松竹座で第三回浪花花形歌舞伎の第三部として、標題の新作歌舞伎が上演された。原作は岡本さとる。一九八五年の松竹の懸賞に応募した入選作で、そのときの原作に若干手を加えたもの。

◇中村翫雀さん一行、成正寺墓参

 「浪華騒擾記」初上演に先立って、三月十五日主役の大塩平八郎を演じる中村翫雀さんをはじめ、原作の岡本さとる氏、演出の今井豊茂氏、松竹竹尾支配人ら関係者が、上方歌舞伎友の会のメンバーとともに成正寺に墓参、本堂で大塩父子ならびに殉難者の法要の後、記者会見があった。岡本氏は大阪での上演を喜び、今井氏は天保時代を今にオーバーラップさせて大阪発の新しい歌舞伎が生まれるようにという意図を語った。

 翫雀さんは、東京の学校を出て、大学に入って初めて大塩の名を聞いたが、大塩はヒーローで、乱によって日本が大きく変わったと位置づけ、観劇の後気持ちよく帰っていただくよう、みんなでつくる芝居、大塩に救いがある内容でしめくくりたいと語った。参加者六二名。一行はバスで洗心洞跡、終焉地をまわって学習した。

◇各紙も掲載

 前記の上演について『大阪日日新聞』(三月三日および二五日付)、『中日新聞』(三月二三日付)『産経新聞』(三月二四日付夕刊)、『京都新聞』(三月二四日付夕刊)、『神戸新聞』(三月二五日付夕刊)、『朝日新聞』(三月二八日付夕刊)、『毎日新聞』(三月三一日付夕刊)に、主演の中村翫雀と作者、演出家ら関係者一行が、成正寺の墓参や洗心洞跡、終焉の地などをめぐったことと併せて写真入りでそれぞれ紹介された。その他『サンケイスポーツ』、『スポーツニッポン』、『日刊スポーツ』(いずれも三月一六日付)、『報知新聞』(日付不詳)。上演の様子は『産経新聞』(四月七日付夕刊)にとり上げられた。

◇会員の声

 Hさんから次のお便りをいただいた。

 【略】

◇成正寺の『おてらだより』

 〇六年三月の春季彼岸会号第三号に、「ちょっといいかもこの歌舞伎」として「浪華騒擾記」を紹介、仮名手本忠臣蔵の大高源吾に扮した中村翫雀さんの写真もある。あわせて寺境内の「参道・植樹完成」として、本堂前の「大塩の乱に殉じた人びとの碑」のうしろに、寺伝にある秀吉ゆかりの旗掛松にちなんで三月に松が、大塩父子の両碑のうしろには梅がそれぞれ植樹され、彩りを添えたことも載せられた。なお副住職夫妻に男児Yちゃん誕生の報も。

◇近江天保一揆の催し

 〇五年十〜十一月に滋賀県の銅鐸博物館(野洲市歴史民族博物館)で、天保十三年に近江国の甲賀、栗太、野洲三郡にわたって起こつた検地反対の一揆について「近江天保一揆とその時代」展が開催され、大阪城天守閣蔵の絹本着色「大塩平八郎画像」と大阪歴史博物館蔵の「出潮引汐奸賊聞集記」が出展された。同時に一一月一九・二〇日には第九回全国義民サミットが野洲文化ホールで開催された。大塩と天保改革、民乱を考えるのにヒントになる。大塩は「義民」にはあてはまらないらしい。義人か、そこに大塩の乱の特異性がある。哲学者三木晴は「義人とは怒ることを知る人」と述べている、至言で.ある。

◇大坂渡辺村とのつながり 大塩平八郎

 中尾健次、黒川みどり共著『続 人物でつづる被差別民の歴史』に標記の内容が、清廉潔白な与力、わずか三八歳で辞職、大塩平八郎の乱、わずか八時間の戦闘、渡辺村に対する姿勢の五項目で取り上げられている。大塩の渡辺村に対する姿勢については議論 のあるところで今後の研究に期待する形でまとめられている(部落解放・人権研究所、〇六年四月、一 六〇〇円+税)。

◇薮田貫『近世大坂地域の史的研究』

 〇五年一二月清文堂から出版された。第三部「武士の町」大坂に内山彦次郎や大坂町奉行の世界−新見正路日記について−などが取り上げられている(定価九八〇〇円+税)。

◇相蘇一弘「大塩平八郎と頼山陽−文政十三年『日本外史』の譲渡を巡って」

 (『大阪歴史博物館紀要』第一号、〇二年九月)大塩と山陽との出会いを文政五年十月以前とし、二人が親友の仲になつたのは、表題の『日本外史』贈呈をめぐるトラブルが契機であったとする。山陽が天保三年九月危篤と報じられ、葬儀の日に在京しながら式に参列しなかったのはなぜか、大塩書翰の分析を通じて、心の整理がつかないまま「大笑」した姿を描く。

◇相蘇一弘「与力時代の大塩平八郎と病気」

 (『市大日本史』第八号、〇五年五月)大塩が肺結核を病んでいたとする通説に対して、大塩書簡を活用して疝気であると見立て、自ら語った「心肺の疼」を鬱病の可能性があり、文政十一年には再三自殺を考えたとする。有名な三大功績は体調が小康を得た時であることも証明した。苦悩する「生身の人間」大塩を描いている。

◇倉島幸雄「岡本黄石と三詩人−彦根来遊の棕隠・山陽。星巌等」

 (『斯文』第一一四号、〇六年三月)彦根藩の重臣岡本半介、黄石と号した。宇津木家に生まれ、岡本家を継ぐが、長兄が宇津木下総、名を泰交、龍台と号した。次兄が大塩門人の宇津木静区(矩之丞)。詩人でもあつた黄石が彦根に迎えた文人たちをとり上げている。その一節に「大塩平八郎の来遊」があり、天保四年六・七月ごろ実兄龍台の家で「容貌魁梧、音吐如鐘、眼光炯々」(『黄石略伝』)と大塩を記し、居室黄石斎で「大学」の三綱領(明徳、新民、止於至善)の講義を願ったときの様子を紹介している。大塩はこのあと藤樹書院を訪ね、これには彦根藩士横田要久(樗園)が同行したという。なお、同じ号に斎藤正和氏の講演「斎藤拙堂の師友と昌平黌」も収められている。

◇『直耕』第二七号

 石渡博明氏(本会会員)方に事務局をおく「安藤昌益の会」の機関誌が、〇六年三月十五日発行号に近年の昌益研究の情報が詳しく紹介されている。その編集後記に、内藤記念くすり博物館所蔵の『良中子神医天真』『良中先生自然兵営道方』の新発見者と自任する研究者に石渡氏が控え目に異論を述べている。史料発見のプライオリティをめぐつては、しばしば紛議をかもし出す。ことの経過は直接承知していないが、第一発見者や提供者の位置づけは研究上明確にすることが大切である。また史料の利用についても「心得事」がある。古文書学習会などではコピーが一人歩きしたり、情報をとりこむ「ワル」がいて迷惑することしきり。

◇東雲新聞に「大塩氏の紀念碑」の記事

 大阪堂島北町に事務所をおいていた自由党系の東雲新聞明治22年5月19日号に左の記事が記載されている。

 大塩ゆかりの建碑としては早い記事で、実現したかどうか、他の新聞をさらに追跡したい。興味をそそられる記事である(萩原俊彦氏提供)。

 (管理人註 久保在久「明治期の新聞記事にみる大塩事件」に収録済)

◇佐野学「大塩平八郎の叛乱」

 戦前社会運動家として知られる佐野学には、歴史研究の著書があるが、その一つ『日本歴史研究』(希望閣、一九三〇年)の一項目に大塩平八郎を取り上げている。大塩の民衆的・犠牲的・行動的精神に不朽の光を見、熱血溢れる檄文を数か所引用して、この叛乱が幕府権力の失墜を招き、「救民」の二字が民衆に刺激をよびおこし、「日本の民衆の歴史に逸すべからざる英雄」と評価した。日本共産党員として一九二九年逮捕、入獄中にこの本は出版されたもので、その後三三年に獄中転向を表明して大きな反響をよんだ。この小文は運動家らしい鋭い歴史観と力強い筆致で展開されている。(久保在久氏提供)

◇ラジオ大阪で大塩研究会紹介

 〇六年二月一八日の一二時三〇分から三〇分番組で「ピピットおおさか大発見!」で本会の活動が放送された。大阪市を舞台にユニークな活動をしているNPOやNGO、市民団体などの紹介の一つ。「大阪の元気」をめざす大阪 ひと・まち魅力発見事業推進会議(事務局大阪市コミュニティ協会) 関連番組。

◇eo光テレビの「歴史ろまん紀行」

 K CAT(枚方地区ケーブルテレビ)で大塩事件が〇六年二月一三日から一九日まで放映された。市内の関係地を相蘇一弘氏が案内し、乱の評価を成正寺で酒井一会長が語った。インターネットでも常時見られる。

◇FMもりぐち「大塩平八郎の乱と守口・門真」放送

 〇六年二月二五日、毎週午後一時半から三時に放送されている「もりかど探検隊」において、地域の歴史探究シリーズ第一弾として標題の内容が取り上げられた。当日は本会会員の常松隆嗣氏がスタジオで大塩の乱についての解説を行うとともに、二人のレポーターが守口・白井家、門真・茨田家跡、天満・成正寺などを訪ねた。

◇会活動初期の案内文

 守口市のS氏から昨年一一月二〇日研究会創立三十周年記念の南浜霊園墓地展墓の際、貴重な史料四点が届けられた。

(1)守口市長宛の大塩中斎先生顕彰会(代表者有光友逸)の案内葉書で、一九七五年三月二六日成正寺で慰霊法要と白井孝昌・酒井一両氏による講演のおしらせ、消印は同年三月九日天王寺局、宛名には住所はなく、「守口市長 木崎正隆様」とあり、本会創立以前から顕彰会にかかわっていた米谷修氏の筆跡。この葉書には三月一〇日付の守口市役所の受領印がある。
(2)七六年一月二六日守口市役所秘書課受領の大塩事件研究会入会の「ご案内」で、木崎市長、秘書課の塩崎、西野両氏の捺印がある。事務所は、大阪市浪速区日本橋東三丁目三の内外履物新聞社内とあり、研究会創立とともに副会長を務めた米谷氏ゆかりの新聞社である。
(3)「きたる三月二七日」に成正寺で中斎先生一四〇年忌記念行事が予定され、詳細は別途ご案内する旨の一九七六年の青焼きコピー(久保在久氏の筆跡)である。ちなみに木崎市長は一四〇年忌の催しに出席された。
(4)一九八一午三月二八日の大塩中斎忌、記念行事の案内葉書で、ここでは顕彰会と事件研究会連名となっている。よく保存されたものである。感謝感激。

◇大橋健二『神話の壊滅 大塩平八郎と天道思想』

 大塩の挙兵を天道思想と万物一体の仁という前近代精神によって行われた(近代)に対するプロテストと位置づけ、古来からの「天道」思想が明治維新後すてられ、代わって生身の「天皇」を創出した「近代日本」のあり方を撃つ陽明学的政治思想評価。「天」を僭称した天皇の姿から、果ては原爆による敗戦にいたるこの国の不幸を指摘。博引旁証の論述で、大塩をめぐる思想、挙兵から安岡正篤・三島由紀夫に及ぶ(勉誠出版、二〇〇五年)。

◇中島三佳『東海道枚方宿と淀川』

 枚方宿ゆかりの中島氏の標記の著書(〇三年六月刊、自費出版)に、「大塩平八郎と幕府代官小堀主税の動向」という一節がある。ここに大塩門弟・河内国茨田郡大枝村九兵衛の記事があり、文政一三年閏三月一八日に枚方宿非人番(山番)又助が同宿四か村の庄屋に持参した京都小堀代官の通達が載せられている。大枝村の庄屋を務めた家で、泥町の遊女屋に馴染んでいたため、宿への立ち入りを禁止させるもので、その背景は岡新町村庄屋・中島儀輔の日記で判明し、「大塩様ノ門弟ニ而発明成仁」だったが、前年より大金を持ち出していたという。なお本誌三三号論文にもとり上げられている(松浦木遊氏提供)。

◇『下鴨社家日記紙背文書目録』に大塩情報

 京都女子大学図書館所蔵の標記紙背文書が『史窓』第六三号(〇六年二月)に発表された。社家田中家日記の紙背を綿密に調査したもので、そのなかに天保八年五月二二日大坂跡部山城守より呼出に付御受書(城州愛宕郡下鴨村玉田常陸煩に付、倅勘解由、玉田司馬之助他国に付倅重三郎)、同年七月三日玉田常陸呼出に付乍恐口上書(下鴨村庄屋新兵衛、年寄百姓惣右衛門から御奉行宛)、同七月四日玉田常陸大坂奉行所糺中に病没に付御請書(福山九一郎事九郎兵衛他二名から御奉行宛)が含まれている。大塩の乱参加者が京・宇治で逮捕されているが、下鴨をめぐる関連の文書と思われる。

◇『週刊現代』

 〇六年二月二五目号の「クローズアップ日本史偉人列伝」(第五五回に「大塩平八 郎の巻」が掲載された。文、楠木誠一郎。(中馬英夫氏提供)。

◇会員の訃報

 荻生茂博 山形県立米沢女子短期大学教授、〇六年二月二六日急逝、五一歳。八八年四月一日入会、荻生徂徠の子孫として東京都に生まれ、東北大学で日本思想史を専攻。中江藤樹・熊沢蕃山・古賀精里などについての研究があり、「大塩平八郎−反乱者の人間学」をまとめられた。優れた儒学研究者として業績の大成が期待されていた。〇六年六月二四日米沢市で源了円氏を中心に、宮城公子氏らの参加を得て、思想史研究者と学生による「偲ぶ会」が催された。

浜田八重子さん  〇六年三月一五目逝去、七九歳。一九九二年九月二〇日入会。「社会教育をすべての市民に」をめざして一九六三年に有名な「枚方テーゼ」が市の名で発表された。今日の生涯学習の先駆的なよびかけで、これを受けて枚方市内各地に委託婦人学級が開催された。その一つ、中宮婦人学級(のち成人学級)の中心メンバーとして長年にわたり歴史と文学を学習された。気配りの行き届いた人柄であった。

安藤重雄氏  〇六年三月二〇日奈良市の春日病院で死去。七八歳。創立以来の会員で委員として会の運営に大きな功績を残された。同氏は一九二八(昭和三)年二月二〇目宮城県丸森町で医師の四男として生まれた。父は東北大学医学部卒業後、順天堂大学病院に勤務していたが、請われて郷里の医学振興のため帰郷し開業していた。家系図は六百年前までさかのぼれるという歴史ある家庭で、父の兄は台湾総督を務めたが、敗戦の責任をとって自決している。 少年期を病弱に過ごし、東北大学国史学科で日本経済史を専攻し、博士課程を修了したのは三八歳であつた。二十代の半ばからの独自の研究成果は平凡社の「人名事典」に少壮の民俗学者として掲載された。当時の民話収集への情熱は後の民衆史研究への端緒を開くことになつた。
 東北大学の日本文化研究所の助手を務める傍ら松川事件の真相解明に努力し、後に大阪商業大学に迎えられてからも和歌山大学、神戸山手女子短大の講師を兼務しながら、大塩事件の研究に関わったのも一貫して民衆への熱い眼差しを忘れなかつたことへの現れに他ならない。この間、多くの共著や論文を発表されているが、後藤正人氏(和歌山大学教授)の「安藤重雄先生の人・教育・学風」(『法史学の広場』九九年三月、和歌山大学法史学研究会刊)に詳しく紹介され、大塩関係では九五年三月に発刊した『大塩平八郎を解く−25話−』に中心的役割を果たされたほか、本誌第四二号(〇〇年一一月)の「総目次及び執筆者」に掲載されているので再録は避ける。また後藤氏が「安藤重雄『海棠』等所収作品集」として〇〇年一一月に出された「みちのくの出版物に掲載された安藤重雄先生の作品」には、先生の詩や童話なども収録され、文学方面でも豊かな天分を持っておられたことがうかがわれる。郷里東北の天才詩人石川啄木に深く傾倒され、「関西啄木懇話会」の会長を務められたこともあった。また九〇年七月の大阪民衆史研究会の発足とともに代表委員に就任して活躍された。
 朴訥な東北弁で熱く語りかけられる先生のお人柄は誰にも愛され慕われ、とくに学生の人気は高く、安藤ゼミはいつも希望者が溢れていたとのことである。酒が入れば気持ち良さそうに東北地方の民謡を歌われ、踊りも入って大いに座を盛り上げてくださる先生だった。
 愛犬家で闘病中に愛犬の死を知った時は号泣されたという。〇一年受洗され、葬儀は奈良市登大路町のカトリック奈良教会で営まれた。遺骨は奈良市川上町九四三の六「ならやま浄苑」に葬られている。


洗心洞通信 42」/「洗心洞通信 44」/「洗心洞通信 一覧

玄関へ