Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.22

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「洗心洞通信 44」

大塩研究 第56号』2007.3 より

◇禁転載◇


◇第六三回民衆思想研究会

 〇六年九月二〜三日に大阪で実施され、本会が設営等を担当した。二日午後一時からPLP会館で研究発表が行われ、山中浩之氏(本会会員・大阪女子大学)が、「在村学芸の形成と展開−柘植葛城と立教館−」と題して、中河内・南河内の学芸の広範な展開を語った。国分村の柘植葛城は、儒学を懐徳堂や頼山陽に、医学を京の小石元瑞に学んだが、郷里に立教館を創設し地域の村役人・豪農・商人層をはじめ幅広い文人との交流を展開したことを詳述。大塩との関係が指摘されているなぞの僧愛石については木村蒹葭堂日記で木村氏との交流の深さを示し、松井愛石なる人物が僧愛石と同一人と見てよいのではないかと推定した。

 次いで岩城卓二氏(京都大学)が「天保期、西摂津における米穀流通」と題して、西摂地域の郷払米などの米穀流通の実態、尼崎城下の米穀流通が複雑、錯綜していたことを詳論した。大塩事件とのかかわりでは凶作に伴う正米不足、尼崎藩の対応と大庄屋による批判、大坂市場の混乱と米価・諸色の高騰を述べ「同家」や家出人に見られる下層民の移動圏にも触れた。多様な論点を示して旧説の再検討を促す内容で、慶応二年の打ちこわしにまで及んだ。

 最後に荒木伝氏(本会会員・PLP会館館長)が「大塩中斎を敬慕する明治社会主義者たち」と題し、明治三六年四月六日に中之島公会堂で児玉花外が語つた「大塩中斎先生に告ぐる歌」をはじめ、初期社会主義者が大塩を敬慕した様子を独特の語りで報告した。詳細は本誌第五五号の同氏の論文を参照されたい。

 【出席者 省略】計五一名

 研究発表終了後、トーコーシティホテル梅田(南森町)で懇親会が開かれ、常松隆嗣氏の司会のもと、出席者の自己紹介が和やかな雰囲気の内に行われ大いに座が盛りあがった。【参加者 省略】計二六名

 翌三日午前九時成正寺に集合して北河内方面を巡るツアーが実施された。大型観光バスを使用し、成正寺の大塩墓碑に参拝の後、枚方市楠葉の久修園院(具言律宗・大和西大寺の別格本山)に至り、一般公開をしていない渾天儀や地球儀をはじめ、本尊の釈迦如来立像、愛染明王座像などを拝観した。枚方市立中央図書館市史資料室の馬部隆弘氏の案内でこの近くの「鳥羽伏見の戦い」ゆかりの楠葉台場跡を訪ね、懇切な学術的解説を受けた。次いで枚方の中心街「枚方宿jに戻り、岡新町、岡、三矢、泥町、堤町の旧京街道を、馬部氏ほか同市のボランティア解説員二人による熱心な解説を受けつつ散策し、市立の鍵屋資料館で昼食、名物の「ごんぼ汁」に舌鼓を打った。同資料館の平尾賢二氏から「三十石船唄」の独唱を聞き、詳しい説明を受け、午後二時、枚方市を後にした。この後、門真市立歴史資料館に至り、門真市史の常松氏の解説のあと、ビデオ「茨田郡士」(酒井会長、常松氏出演・一五分)を観て、同館の特別展「武士になろうとした庄屋たち」などを見学した。午後五時大阪駅に到着、つつがなく全日程を終えた。民衆思想研究会の大阪開催は一九七九年七月以来、二七年ぶりのことであった。【参加者 省略】計三六名。

 事務局として本会委員の常松氏が、人脈・地縁を生かした協力者とともに準備・運営万端を担当された。なお、懇親会とバスツアー参加者には、会員T氏の配慮でサンスターの製品が記念に進呈された。

◇八尾市東郊を歩く

 〇六年一〇月二二日午後一時近鉄信貴山口駅集合で実施された。志村清氏(本会会員・八尾民家調査研究会)の案内で、本照寺に行き本堂で大塩格之助生家西田家ゆかりの花立てや線香立てなどを見た後、大塩格之助の生まれた西田家の墓碑の説明を綿密なレジュメで受け、同寺で小憩した(その際、最初に西田家の墓碑を発見した大野正義氏から補足説明がなされた)。この寺は元大阪の谷町八丁目にあつたが、一九六八年に大阪市の都市計画によってこの地に移転を余儀なくされた。黒谷の集落に残る権現に至り、森鴎外が『大塩平八郎』で、大和路へ大塩父子が入つたと推定した旧街道をたどり、江戸時代の黒谷高札場を経て、地名のいわれとなつた教興寺で『心中天の網島』とのかかわりを聞き、南下して元善光寺に至り、同寺で日頃は非公開の絵図を見ながら住職の懇切な説明を受けた。同寺裏の清水庵は大塩と親交があつたとされる僧愛石の住居跡で、同寺は水道が布設されるまで庵のいまも枠の残る井戸を利用していたとのこと(酒井一氏から、愛石と大塩の関連、乱の以前文政十三年に誉田八幡の富くじ一件で愛石は牢死していたことなどの補足説明がなされた)。さらに南下して恩智の集落に入り、大塩が襲撃目標の一つとした淀藩大庄屋・大東家のみごとな門構えと屋敷地を眺め、その山手に位置する感応院で僧愛石が作ったとされる庭と、本尊で重要文化財に指定されている十一面観音像を拝観し、恩智神社に至った。さらに恩智駅に向かう途中の西南戦争に官軍として従軍し戦死した旧中河内郡近在の墓碑を見て、東高野街道を横断、午後五時恩智駅で解散した。【当日の参加者 略】計一七名。

◇一一月例会

 〇六年一一月一八日PLP会館で「大塩中斎と斎藤拙堂の交流について」と題して、津藩儒者拙堂の玄孫に当たる斎藤正和氏が講演された。まず拙堂の略歴について少なからず辞書類にミスのあることを指摘。ついで天保四年から七年にか けて中斎が津藩儒者たちと交流し、拙堂が中斎に贈った漢詩三首、『洗心洞剳記』に対する拙堂の書評とその刊行(一部伏せ字)、『古本大学刮目』に対する拙堂の序文原稿、中斎の拙堂宛書簡二通などをとり上げ、最後に拙堂が飢餓対策と国防に関心をもつことを示し、中斎とも世界のことを話したと思われるが、果たして中斎は外国事情をどうみていたかを問いかけられた。

 家蔵の貴重な史料とともに、中斎から届けられた兼元作の刀剣(戦災で焼け、前方部が割れている)や拙堂画像も展示された。学問の世界での交流が豊かな素材をもとに説明されたっ詳細なレジュメとともに、斎藤氏のまとめた『津藩の賢人 斎藤拙堂物語』(中日新聞中勢版掲載)の冊子が参加者に提供された。【当日の出席者 省略】計一七名。

◇一月例会

 〇七年一月二七日成正寺で「『青天霹靂史』の島本仲道と大塩平八郎」と題して、岸本隆巳氏(本会会員、横須賀市立横須賀総合高校教諭)が講演した。

 岸本氏は、大塩門人を生んだ小野市の出身で、赴任先の横須賀で『横須賀新報』に島本鳥歌の名で大塩を取り上げた「民権講釈」を見つけたことから、爵木馬款を考え続けてきた。土佐藩出身の島本仲道を取り上げた曾孫に当たる島本昭氏の『維新物語』(文芸書店、二〇〇三年)と三好徹氏の著書に触発され、今回一気に『もはや堪忍成り難し−自由民権秘史・島本仲道と三浦半島の仲間たち』(叢文杜、二〇〇七年)をまとめたばかりで、そのポイントを報告された。

 仲道は維新の激動を闘ったあと、江藤新平と組んで響保頭として井上馨・山県有朋ら長州出身者の不正を告発し失脚寸前まで追い込んだ人物で、江藤の下野、佐賀の破陣による死を前に、大阪で代言人(弁護士)の養成に努め、板垣退助のもとで『自由新聞』の主幹を務めて長老として活躍、晩年は憲法発布を見据えた保安条例による帝都追放を経験した。その生き方に、横須賀製鉄所を創設した小栗上野介を含めて大塩とともに共通点のあることを指摘し、また鳥歌と仲道とが同一人物と見なしうるとした。

 当日市川市から参加された島本昭氏は、青山霊園墓地にある仲道の墓碑撰文は竹内綱(吉田茂)によることなど、同家に関する事情を紹介、酒井一氏は、仲道が大塩を記述した『青天霹靂史』は乱五十年を期してまとめられ、検察の体験から大塩の行動を深く読み取った凛然とした文章で明治中期の画期的な著作と指摘した。なお、島本昭氏から、仲道の『夢路の記』複製本が参加者に配られ、前掲著書も本会に寄贈された。

【当日の出席者 略】計二五名

◇菅北小学生がやってきた

 〇六年一〇月七日、大阪市立菅北小学校六年生有志が、北区にある身近な史跡を調べる総合学習の一環として、成正寺にやってきた。U、S両先生の指導を受けた(中略)六少年。事前にインターネットで研修して、かわいくも鋭い質問。1、大塩平八郎さんはどうして幕府と戦わなければならなかつたのですか。2、大塩平八郎さんは幕府とどんなふうに戦ったのでしょうか。3、大塩平八郎さんはどうして自殺したのでしょうか。

 同寺有光知夫人が解説され、それぞれ小文の感想を書いて礼儀正しく帰っていった。「大塩平八郎はみんなのために負けるとわかつていたのに戦ったのですごい人だと思った」等々。代々大阪で語り伝えられた「大塩さん」がこの子たちの頭にかっちりインプットされたに違いない。お墓も「よしよし」と揺れていたかも。

◇森安彦編『地域社会の展開と幕藩制支配』

 森教授(会員)の中央大学退職記念に地域史研究の視点から教え子たちの一九本の論文を収めたもので、うち二本が直接天保飢饉を取り上げている。岩橋清美 「天保の飢饉における名主と救済活動」は、飢饉の被害が比較的小さかった南武蔵の例を取って、大塩の乱前後に名主が儒学思想の実践として救済に努めたことを論じている。藤塚巨人「天保飢饉の記録」は仙台藩の庄子玄啓が三〇項目にわたつてまとめた「天保荒侵伝」を紹介している。その第廿三「盗賊強党四方に濫れ、一揆騒動諸国に起る」のなかで、「四海困窮天禄永終矣」という論語の一句を引用し、天保七年の甲州一揆から同九年の佐渡一国騒動を紹介して「八年浪華放火の一揆あり、又も越後国、近くハ南部に一揆あり」として、大塩の乱と生田万の乱に触れていることから、著者が大塩の檄文を読んでいたかも知れないと推定している(名著出版、二〇〇六年)。

◇長尾武『水都大坂を襲った津波』

 「石碑は次の南海地震津波を警告している」と副題のついたA5版165頁、英文10頁の大坂災害史が会員の長尾氏によってまとめられた。中学校・養護学校勤務のかたわら、大阪市史編纂所でも研修を重ねて、インド洋大津波の映像に衝撃をうけて研究をはじめた。約三〇年前に見た大阪大正橋の安政南海地震津波の石碑文から始めて、現代の大阪市防災会議『東南海・南海地震防災推進計画』に及ぶもので、繰り返される災害の実態を歴史から跡づける労作。257点に及ぶ注にみごとな調査が証明されている。災害・疾病はいま歴史学の重要テーマ。「小人に国家をおさめしめば災害并至」ると語った大塩は、歴史に学ぶこの種の研究に喝采を送っているかも。(〇六年九月刊、自家版。連絡先 略)

◇高梨乙松『法窓五月雨雑記』に見る大塩記事

 著者は戦前活躍した飄洒脱な粋人の大阪の弁護士、生来の蛇嫌いで自宅玄関の傍に大きな石蛙を控えさせていた。法律にちなんだエッセー集で、このなかに大塩関係の記事が二回登場する。

 ちなみにこの項の見出しは「間抜け?寛容?」。

 ついで、「怪文書漫談」があり、ここに天保八年二月の大塩の乱の際の「投文」がとり上られている。『建武年間記』にある「二条河原の落書」から徳川五代将軍綱吉・柳沢吉保時代の「宝永の落書」や幕末の「投文」に触れたなかで、怪文書の中で「何と云っても逸品は」としてこの「投文」を紹介。投文は人家に投じ、落書は門柱・壁・樹木等に張りつけるものと解説がある。

 要するに「怪文書の流行する時は必ずや国の政治は腐敗し人心が極度に悪化する場合に限られて居る」とし、昭和九年の出版時に怪文書の大流行を見て「今日こそ正に政治家どもの戒慎を要すべき秋ではあるまいか」と結んでいる。

 著者は、有名な文筆家高梨光司氏の弟で、作風にその兄の博学と健筆の感化がよみとれるという。出版社は大阪市北区曽根崎上三丁目八番地の大同書院(代表者松本善次郎)。この代表者の子が日本共産党の国会議員を務め、子ども画のいわさきちひろの夫・松本善明氏。戦後も梅田新道の西北にあつた二つの書店の北側が大同書院で、通信子には懐かしいところ。

◇NHK学園『古文書通信』第70号・71号

 全国的に注目されている標記の古文書学習の雑誌70号(〇五年八月発行)の巻頭エッセイに、同講座監修者の森安彦氏(本会会員)が「大塩平八郎の乱−師弟から主従へ−」を書いている。兵庫の柴屋長太夫・摂津沢上江(かすがえ)村(上田)孝太郎・河州尊延寺村(深尾)才次郎を例に、大塩が挙兵に際して師弟関係を君臣・忠孝の思想をもった主従関係にかえた点を指摘、檄文にいう「一揆蜂起の企」と違う面を鋭く論証したものである。

 引き続き森氏は第71号(〇六年十一月発行)に「大塩平八郎の乱−大塩の施金−」を執筆。天保八年正月に本屋四人に蔵書一二四一部を売つて六二五両を準備、二通りの方法で施金したとする。まず大坂本屋仲間の世話で一万人に金一朱ずつ与える施行札の印刷と同会所での施行を依頼し、二月六日から八日まで九千枚分を施金した。残りの千枚は大塩手元から門弟を経由して、村々へ天満出火の折はかけつけるよう伝えて配布した。

 乱後幕府が施金を策謀としたのに対して、河内世木村(守口市)の百姓次三郎が白洲に手をつくことを忘れて抗議したことを挙げ、大塩の施行に感謝し、権力に屈しない庶民の姿を読み取っている。国立史料館館長時代に同館編で発刊された『大塩平八郎一件書留』(東大出版会)を新しく読み込んだものである。

 なお本屋仲間会所での施行に、門真三番村の茨田郡士が立ち合っていたことがすでに関係文書で証明されている。

◇天満天神繁盛亭開館

 大阪北区の天満宮北側に落語定席の繁盛亭が〇六年九月十五日に開館。年中無休で昼夜興行がはじまった。かつて大衆芸能の地として栄えた天神さんの裏に八〇年ぶりに寄席の再現。大正の中央公会堂・昭和初年の大阪城天守閣が経済人や市民の寄付で建てられたように、今回も桂三枝さんや天神橋商店連合会の土居年樹会長の呼びかけで、市民を中心に文化人、作家も協力、約二億円の寄付が集まった。天神橋商店街界隈には繁盛亭の幟が林立している。敷地五九一平方bは天満宮が無償で提供、小屋は天満宮の名義で、上方落語協会が借りる形をとっている。一・二階計二一八席。順調な滑り出しで地域が賑わっている。「大塩裁き」もここで聞きたいところ。

 建物内外に一五八一個、寄付者の名前を記したちょうちん。これを見上げて、土居さんの言「こんだけの思いをいただいたんや。天満をキタやミナミとは違う、大阪のもう一つの顔にしていきたい」(朝日新聞、〇六年九月八日号)。なんと「大塩平八郎」と記名されたちょうちんもつるされている。お探しあれ(こたえ・す−10)

◇高尾書店の『古書目録通信』高尾書店

 高尾彦四郎、大阪市南区日本橋四丁目五七番地)が大正十五年二月一日に発行した『古書目録』第四号に、岡田播陽が「序に代へて」と題する一文を寄せている。河内屋喜兵衛が持参した唐本を見て、中斎が「此書を申受けると某所持の陽明全集が不要になる」としてその売却を喜兵衛に頼む。これを購入したのはだれか。渡辺村の人で、喜兵衛を介して中斎邸にやってくる。「非人乞食よりも賤められ、理由もなく大多数の人に虐げられて居る我々仲間の為めに加害者の迷を覚まさしめねばなりません」と語り、陽明の良知に学び自由な大虚に帰る道を語る短文ながら迫力十分の内容(吉條久友氏提供)。

◇『南木コレクション総目録』三

 大阪城天守閣から、戦前雑誌『上方』の出版で知られた南木芳太郎氏が収集した古写真九一三点を掲げた冊子が出版された。写真は、たとえばタテ3・6cmヨコ2・4cmなどと小さいが、当時『上方』に掲載されたものを含めて昭和前期の大阪・一部京都の風景・風物を知る貴重なものである、「大塩軍の砲撃により幹が割れた槐」(『上方』94所収)、「東町奉行所与力荻野邸の長屋門」(同上)、「川崎東照宮築地跡」など、大塩事件ゆかりの写真もある。二〇〇六年三月刊(志 村清氏提供)

◇『部落史ゆかりの地』に

 宮武利正氏の標題の著書に「天満界隈−大塩平八郎の乱と被差別部落」として、渡辺村を中心とした部落民とのかかわりが取り上げられ、乱当日の夜、大塩父子が渡辺村に泊まったという伝承も紹介されている。本会が建立した「大塩平八郎終焉の地」碑(西区靭本町)も写真入りで取り上げられている。〇五年九月刊の『部落解放』増刊号(五五五号)の新装版(解放出版社、〇六年九月、一六〇〇円+税)。

◇藤原有和「大坂北組惣代の盗賊方仮役中の記録について」

 関西大学図書館蔵の「嘉永三年十一月盗賊方仮役中到来物控并ニ諸進物扣」の紹介と解説が『関西大学人権問題研究室紀要』51(〇五年九月刊)に掲載された。

 大阪北組の惣代武林栄三郎載永の記録で、盗賊方仮役として警察機構の末端に編成されていた時のもの。四ケ所非人による芝居興行・盗賊方役目に関した内容で、非人の役義なども判明する。一部天保十二年分などを含んで、嘉永三年から慶応二年に及ぶ五点。うち四点は大阪商業大学商業史博物館蔵の佐古慶三文書で、もとは武林氏所持の文書として一体のものであった。

◇淀藩古文書研究会『淀藩宗門方日記』

 淀藩で弓術師範でもあつた竹林吉利の日記(竹林直彦氏蔵)の翻刻で、天保三年七月から十二月までの記録。藩の宗門方の情報だけに内容は広域的でもある。河内衣摺村の融通念仏寺長覚寺の住職遠島・欠所や大坂館入与力成瀬九郎左衛門など興味深い情報がある。月一回開かれている市民学習の成果で、指導に当たった常松隆嗣氏の解説がついている(〇六年二月刊)。(連絡先 省略)

◇森大狂『近古芸苑叢談』に田結荘千里

 森慶造こと森大狂が大正15年3月に東京の巧芸杜から出版した標記の本に、「田結荘千里」の項があり、師弟心契、武事、夕陽岡、絵事、詩句、著述にわけて一文が掲載されている。千里を摂津国伊丹の人なりとする。大塩とのかかわりの一節を抄引する。

 大塩遺著の復刻の労を知りうる。

◇『そうぞう』に大塩終焉の地碑

 大阪府政策企画部人権室発行、財団法人大阪府人権協会編集の標記雑誌(おおさか人権情報誌)19号に、「まちを歩く 人権のかおりを求めて」第15回として、大阪市西区靭本町一丁目の「大塩平八郎終焉の地」碑が、写真・地図つきの解説で掲載された。(柴原浩嗣氏提供)

◇紙芝居世直し平八郎

 三洋電機洋友会発行の『洋友』70号(〇七年新春号)に、松浦一(木遊)さんが「かみしばい世直し平八郎」を紹介、11シーンで絵と語り文を掲示、要を得たストーリー。本会でも上演されたお楽しみの内容。

◇落合延孝『幕末民衆の情報世界』

 上州群馬県の民衆情報の一つとして、伊勢崎の豪商森村新蔵の記録に、大塩が登場、乱の要因として鴻池家などの大坂分限の者が施行しなかったという史料を紹介している。上州に大塩不在、人材不足、ここに二足の草鞋を履く博徒・国定忠治の「窮民救済伝承」が生まれたという(有志舎刊、二〇〇六年)。(萩原俊彦氏提供)

◇相蘇一弘「大塩平八郎と足代弘訓」

 −「天保八年足代弘訓大坂出頭之記」−と副題がつけられ、大塩と親交のあつた伊勢の権禰宜足代弘訓が、乱の取調べのなかで、虚偽と大塩の人格まで否定した供述をしたことの理由を分析した。皇学館大学神道研究所刊の『足代弘訓未公刊史料集』にあるその門人河本忠光宛の書状や、大塩門人安田図書との関係での 聴取を手がかりに、足代の釈明の偽りを幕府が不問に付したことに及んだ(『喜谷美宣先生古稀記念論集』二〇〇六年)

◇伊勢射和の竹斎日記

 三重県松阪の城下から櫛田川を西に遡った射和は志摩鳥羽藩額の町場で竹川竹斎がいたが、その日記「吉葛園日記」三に大塩の乱の記録がある。大坂からの情報も多く、薩摩藩蔵屋敷の武士が全員着込み姿、抜き身、薙刀、長刀で控えていたこと、大塩と伊勢と関係が深いところから、鳥羽港から捜査、ついで京都役人・大坂役人が来たこと、東海道赤坂・四日市間で昼夜早打ち駕が走ったことなど。天保八年四月十五日条には坂手村(鳥羽市)で一日十二人死亡という。天保飢饉の全国情報の一つ。(浅井寿・上野利三『竹斎日記稿V』、松阪大学地域社会研究所、一九九三)(和田勉氏提供)

 なお竹川家の射和文庫には大塩関係の狂歌を集めた別冊があり、射和の西に当たる多気町の旧勢和村古江の山本家にも乱関係の「他見無用 物語実録全」と表書きした文書がある。

◇小島毅『近代日本の陽明学』

 善意が起こす「革命」はタチが悪い!、我々が創出した「近代」の問題の本質は、陽明学と水戸学の系譜が交差するとき明らかになる。裏表紙にこう書き、大塩研究者石崎東国の文章が、本書の最も重要な資料に位置づけられている。中国哲学専攻の東大教授が、靖国問題から、革命の哲学としての陽明学の大塩、その大塩の名を檄文につかった三島由紀夫に及ぶ新しい陽明学の解釈史。チクリチクリと政治への皮肉をちりばめながら、教条的な見方や一知半解の解釈が色あせる ような深層思想史分析。著者の日本思想史の読みの深さに、思わず電車を乗り過ごしたほど。(講談社選書メチエ、〇六年)

◇大塩は歴史的の大注意人物

 大阪毎日新聞(休み知らず)の大正七年六月二八日号に「念仏踊由来 志紀村の義人」という「慶子」の文章があり、[一]として頒徳碑問題が取り上げられている。新大和川の水を大旱のもと、無断で地域に引いて処刑されたという弓削村(八尾市)の庄屋西村市郎右衛門の頒徳碑建立をめぐつて大塩が対比される。なおこの碑は、大正五年四月に建立され、いまは当初の場所から動いてJR関西線志紀駅近くにある。

    (久保在久氏提供)

◇大塩石碑建設の動き

 『東雲新聞』明治21年9月13日号 ○石碑を建設す 当地の有志者横田虎彦氏外二三名ハ今度西成郡高津村字梅ケ辻なる永源寺内に故大塩平八郎氏の石碑を建設せんと昨今頻りに奔走中なりと云ふ又此の費金ハ重に淡路地方に於て募集するとのこと。

なお前号「通信」に関連記事を掲載(萩原俊彦氏提供)

◇大正七年洗心洞文庫設立の記事

 『大阪毎日新聞』大正7年6月26日付に「洗心洞文庫設立 事業は講 演会開催其他」*の見出しで、左の記事が掲載されている。

○同紙に同年10月5日付で「洗心洞文庫」の記事。

○同紙同年10月11日付「洗心洞文庫 大塩後素遺跡顕彰」の記事*

○同紙同年12月26日付「洗心洞文庫開館式と陽明学会今後の事業」の記事*

 毎日新聞の本山、仁丹の森下など大阪の名士が洗心洞文庫設立に尽力し、中之島公会堂の改築にともなつて旧堂をひきつぐことになった。

 実はこの改築計画のために、株取引商の岩本栄之助が明治44年大阪市に百万円を寄附し、その資金をもとに大正7年11月17日に新しく市中央公会堂が落 成したが、岩本は事業の失敗から大正5年10月にピストル自殺したという歴史がある。洗心洞文庫にどの程度の資金が集められたのだろうか。

 ここには名前は一度しか出ていないが、推進役は石崎東国。この年八月十四日大塩中斎先生年譜を完成し、その自序の文末に 「于時八月十三日天王寺村荘の東窓に吾此の稿を終るの日、世は米価騰貴、食糧恐慌、一揆蜂起各地騒擾、京都、神戸、大阪、次第に焼打起り、軍隊出動、人心恟々、門外頻りに沙上偶語の人あり、即ち慨然として筆を抛つ」と結んで、「洗心洞後学石崎東国」と記したのは有名な史実。大正9年12月大鐙閣から『大塩平八郎伝』として出版された本の冒頭を飾った。この一節に最初に注目したのは、井上清氏である。(久保在久氏提供)

◇『大正大阪風土記』に見る大塩記事

 大正15年大阪市長・関一時代に、編纂者・大阪市教育部共同研究会、発売所・大阪宝文館で出版された菊判千頁を超える標記の本に、大塩関連記事が散見する。

 洗心洞文庫(高津北之町)、大塩一族の墓(成正寺内、末広町、市電寺町停留所西)、洗心洞系の文学などである。洗心洞文庫の項では、「大塩中斎の追慕」とゴチックで見出しをつけ、明治41年にその学徳を慕うものが相謀って大塩中斎研究会を組織、後大阪陽明学会と改称し陽明学に趣味を持つものが時々会合し講師を招いて其の学説を聞いていたが、大正7年これを財団法人洗心洞文庫と改めた。その後一旦これを解散したが大正12年7月に再興して今に及んでいるとする。同文庫は一学派に偏せず、一主意に党せず、広く学理を研究し文化の進展に資するを目的とし、毎月第三日曜日午後1時より会員および有志を集めて儒学その他学術の講義を行い、会費は要せずとある(石崎東国氏主宰の会である)。つづいて大塩平八郎の項があり、剛直峻厳なる陽明学者としてその生涯が記され、「摂河泉播に飛ばせし檄文を一読すれば当時の批(ママ)政と彼の義挙を首肯されて、平八郎の純真なる意気を諒とせざるを得ないであらう」と結んでいる。参考として檄文の一節を一頁余にわたって引用している。

 成正寺内の大塩一族の墓については、門を入ると玄関左側に大塩家祖先と大塩敬高の墓石が二基あり、墓石の裏面に「家君諱云々俗名平八郎、寛政十−年己未夏五月十有一日卒、享年僅三十嘗葬焉、旧碑為火災焼V因再製碑云/天保六年乙未冬十二月長子源後素誌之」を引用している。関連して同寺に太閤ゆかりの旗掛松があつたが往年の火災で焼失したとある。

 大阪前の教育の欄に、大阪の漢文学の一つとして取り上げられている洗心洞系文学では、大塩中斎の教学に触れ、天保の事変によりその学問所は閉鎖されたが、「維新後其学風を慕へる彼が旧知・門弟等相寄つて今日泊園書院(注・藤沢東?創設の私塾)と並び称せられる大阪学問所洗心洞を復興したとある。さきの洗心洞文庫の動きを指している。

 この本は、大正15年時の大阪の地理歴史に造詣の深い十数名による郷土教授資料としてまとめられたものであるが、当時の行政・産業・文化・社会の実状を個別に詳細に示し、あたかも米騒動後の世相を反映し、社会事業施設などにもページを割いている。道頓堀の劇場も、中座・浪花座と角座・弁天座との観客の階層差に着目するなど、いまも学ぶ点が多く、戦後このような形での出版を私たちはもっているかと言いたくなる。歴史と公害・疫病など生活に根ざした叙述で実に学ぶ点が多い。有意義な今日なお利用価値の多い内容に満ちている。十五年戦争・戦災とその後の高度経済成長、バブル崩壊で消えた大阪の姿がここにある。

◇乱後土佐で大塩人形

 明治維新時に大政奉還運動に努め、その後政府内部の保守派として勢力をもった土佐藩出身の佐佐木高行の回想録をまとめた『勤王秘史佐佐木老侯昔日談』(大正四年刊)に、つぎの一文がある。

 佐佐木は一八三〇年生まれ、大塩の乱のときは数えの八歳で、その年の五月五日に見た記憶であろう。通信子手持ちのこの本には、上欄に鉛筆で「平八郎が如何に太平の人心を刺激せしか察すべし」と書き込みがある。旧蔵者の所感。

◇苦木虎雄『鴎外研究年表』

 石見の人、苦木虎雄氏(一九一四〜一九九六)が鴎外研究に全精力を傾けてまとめた詳細、綿密な大作。斎藤茂吉邸に起居し、ある日、茂吉から 「鴎外先生は君、五百年に山人出る偉い人だ」と突然強い口調で教えられた。応召中広島で被爆、島根県邑智郡内の小学校・中学校などに勤めながら、さながら鴎外の一日一日が蘇るような内容でまとめ上げ、郷党の先人に敬慕の書を献じた。

 一九一三年鴎外五二歳、「十二月十日(水)。陰。「大塩平八郎」を、瀧田哲太郎に渡す。夜、雨となる」「十二月十一日(木)。晴。昨夜の雨で、道ぬかるむ。武石弘三郎来訪する。石田新太郎、三田文学会のために礼に来る。小論文「大塩平八郎」を書き終わる」。

 ついで一九一四年鴎外五三歳の一月一日の項には、宮中に参賀したあと、処々に年賀に行くが、「この日、雑誌『中央公論』第二十九牢第一号に「大塩平八郎」が「鴎外」の署名で掲載される。また、雑誌『三田文学』第五巻第一号に、同じく「大塩平八郎」と越した文章が 「森林太郎」の署名で載る」とある。『三田文学』に掲載した「大塩平八郎」は、後(同年五月七日)に単行本として鳳鳴社より発行された『大塩平八郎』に附録として収載されると注記されている。苦木氏の人柄と学風を偲ばせる遺作である(鴎出版、二〇〇六年)。

◇TORII講談

席 第十回目の標記講談席が大阪市中央区千日前のTORIIHALLで開かれた。 「浪花の不正は許しまへん!・怒りの大塩平八郎今よみがえる!」と題して、旭堂南青「大塩、出世の裁き」、旭堂南華「大塩、役人不正裁き」、ゲストトーク「講談の『怒』を語る」に続いて、本会の創立三十周年記念講演会にも出演された旭堂南海「決起、大塩の乱」が出演された。

◇「わが町にも歴史あり 知られざる大阪」

 毎日新聞の〇六年二月一七日付地域ニュース第2ページに、標記の見出しで「大阪市北区R 天満かいわい」がとり上げられ女工哀史〃スト発祥の地として明治20年創業の天満紡績のレンガ塀に触れ、あわせて寺町通りの成正寺の大塩父子の墓碑が写真とともに紹介された(久保在久氏提供)。

◇会員の訃報

 政野敦子さん 賛助会員。○七年一月一一日(中略)死去、八一歳、河内衣摺(東大阪市)の生まれで、大塩門人政野市太郎・儀次郎およびその叔父に当たる守口の白井孝右衛門につながる子孫で、関係者遺族として本会創立以来、事務局を担当し、独自の調査で史実を明らかにするなど、多大の功績を残された。研究会にこの人ありせ信頼された方で、大塩精神を身をもつて実践された人生だった。(中略) 悲しむべし。次号に追悼文を予定している。

小河英信氏 〇六年八月六日(中略)死去、七六歳。大阪市阿倍野区在住、二〇〇〇年三月の中斎忌に参加され入会。以後お元気な時は会の行事に積極的に参加された。病に冒されてからも本会の案内を楽しみにしておられたと、夫人から連絡をいただいた。


管理人註
* 井形正寿「「石崎東国の足跡を追う」に収録済


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