Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.6.13

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「洗心洞通信 45」

大塩研究 第57号』2007.10 より

◇禁転載◇


◇乱一七〇年記念行事

 〇七年二月二四日PLP会館で記念行事が開かれた。司会者の常松隆嗣氏の開会の辞に続き、本会酒井一会長が大綱次の挨拶を述べた。

 続いて旭堂南海師が別項のような講談(テープ復元松浦木遊氏)、松浦木遊氏が版木復刻の苦心談や大塩スピリッツについて述べられた。詳細は本号掲載の「大塩檄文版木復刻談義」を参照されたい。最後に森安彦先生から「評定所一座書留からみた大塩の乱」と題する講演をいただいた。概要は本号巻頭論文をご覧いただきたい。(次頁に当日の案内書のコピー=松浦木遊氏制作、を掲載します)

 【案内書 略】

 当日の参加者は、(中略) 計九四名

 展示は二四〜二五日の両日、大三おかげ館で開かれ、次のものが展示された。1、「大塩の乱百七十年展ご挨拶」会長酒井一、2、復刻された檄文版木、3、檄文(複製)、4、復刻考証資(史)料一覧表および参考文献図書の表紙(写し)、5、『日本経済新聞』〇六年一二月一四日付記事、6、大塩出陣の図(イメージ)、7、大塩の乱一七〇年記念藍絵暦、8、大塩の乱一七〇年記念展案内のビラ、9、天満ウォーク「天満の寺町大発見」のパンフレットおよび集印帳、10、紙芝居「世直し平八郎」、11、「配達されなかった密書 真相 大塩の乱」、12、焼酎「平八郎」(2〜12松浦木遊氏提供)、13、『洗心洞学名学則并答人論学名書略』、14、『増補孝経彙註』(同)、15、『儒門空虚聚語』(13〜15門真市立歴史資料館蔵)

 観覧者は二四日一三九名(午前五三、午後八六)、二五日一四五名(午前三三、午後一一二)、計二八四名に達した。お寺参りを希望し、成正寺への道順を尋ねる人も多数いた。この一連の行事を通じて新たに一〇人が本会に入会された。

 寺町めぐりは松浦木遊氏作製の「集印帳」をもって二四日午前、講師大阪案内人・西股稔氏で実施され約四〇名が参加、二五日午後は酒井一会長の案内で実施され約四五名が参加した。天神橋商店街振興組合の土居年樹さんの発案で企画されたもので、予想外の盛会だった。寺町の九か寺のご協力を得た。

 西俣稔氏の寮内による「天満界隈、先人の足跡をたどる」の概要は次の通り(文責、西俣稔)。

 【略】

 記念行事に関する新聞記事をつぎに転載する。

『朝日新聞』(大阪市内版)〇七年二月二二日
大塩平八郎の乱から170年 問い直す「反旗」の精神 24、25日天神橋3丁目で催し

 【略】

『産経新聞』〇七年二月二二日
街商人のつぶやき(62) 天神橋筋商店街連合会会長土居年樹さん 天満与力・大塩平八郎しのび

 【略】

◇大塩中斎忌法要・講演と総会

 〇七年三月二四日午後一時半から成正寺において、同寺主催の大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要が有光友信住職によって営まれ、本堂前の父子の墓碑と「大塩の乱に殉じた人びとの碑」に展墓した。

 その後本会主催の記念講演が行われ、本会会員の松浦木遊氏(無量図書館長)が「大塩檄文版木復刻談義」と題して講演した。松浦氏が版木復刻を思い立ったいきさつを述べた後、松浦由美子(シャンソン歌手)さんが檄文を朗読。本題に移った。講演の概要は本号掲載の「大塩檄文版木復刻談義」を参照されたい。最後に松浦木遊氏は自作の紙芝居「世直し平八郎」を披露した。

 小憩の後、総会が開かれた。酒井一会長の挨拶に続いて井形正寿副会長から会務報告(会誌第五五、五六号の「洗心洞通信」参照)があつた。続いて久保在久事務局長から〇六年度の会計報告、政埜隆雄氏による会計監査報告(会誌第五六号所収)があり承認された。〇七年度の活動方針について、松永友和氏からさしあたり六月に開く例会の概要とその後の行事計画、今秋実施される伊丹市立博物館の「大塩の乱と伊丹」(仮)への協力。会誌の年二回発行などが提案された。本年は委員の改選期にあたることから、顧問有光友信、会長酒井一、副会長井形正寿、向江強、事務局長久保在久、委員泉谷昭、内田正雄(新)、柴田晏男、島田耕、島野穣、常松降嗣、長町顕(新)、松浦木遊、松永友和、薮田貫、会計監査相蘇一弘、政埜隆雄の諸氏が提案され、いずれも承認された。

 当日の参加者は、(略) 計三三名。

◇六月例会

 〇七年六月一六日成正寺で松本望さん(関西大学大学院博士課程後期課程、同大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター研究員)が「茨田家蔵書から見る茨田郡士」と題して講演した。

 門真三番村の大塩門人だった茨田郡士の蔵書を克明に分析し、書誌学的調査を通じて、大塩著作の全容解明に迫るとともに、郡士の門人としての位置づけに及んだ。とくに『儒門空虚聚語』および『学名学則』と『聚語附録』の関係など、校正追刻を含めて論証した内容であった。研究史に一ページ加えるものである。『聚語』が洗心洞蔵梓から藍重蔵梓に移り、斎藤方策がかかわったことを聞くと、南浜の大塩関係墓碑のすぐ横に方策の墓のあることを思い出して感銘が深かつた。なお詳細は本号所収の松本論文を参照されたい。

 当日の参加者は、(略) 計二八名。

◇七月例会

 〇七年七月二八日成正寺で、ボランティアグループ「朗読劇なずな」による森鴎外『最後の一句』、木下順二『絵姿女房』の二つの名作の朗読がなされ、その後本会会長酒井一氏が「森鴎外と『お上』」と題して解説を行った。

 宝塚で「小さな朗読劇」を長年開催してきたグループによる名作の朗読は、清々しい雰囲気を伝え、上演後、代表の岩尾寿美江さんによる取り組みの紹介があつた。酒井氏は、「彦市ばなし」「夕鶴」で知られる木下順二について、民話を優れた芸術に高めた意図とかれの生き方を説明、ついで森鴎外の生涯の後半を辿って、明治国家の中心にいた鴎外の多様な活動の真髄に触れ、「大塩平八郎」から「堺事件」、その延長としての「最後の一句」といった一連の大阪を舞台にした歴史小説を通して鴎外の心情を推察した。元文三年に起こつた大坂の廻船難破事件をめぐる史料的な裏づけについても触れるところがあつた。

 当日「なずな」の出演者および関係者は、(略)のみなさん。
出席者は、(略) 
出演関係者九名、参加者四九名、計五八名。

◇関西師友会テキスト

 安岡正篤教学のテキストとして復刻発行された「日本精神の研究」を活学する シリーズ(関西師友協会活学塾)に本会会員の藤原利幸氏が第一一章を担当され「学道と義憤―大塩中斎について―」を執筆。そのブックレット(〇六年三月刊)が本会に寄贈された。

◇関西大学研究例会

 関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センターの歴史資料遺産・学芸遺産研究例 会が六月二八日午後、同大学で開かれ、本会委員の松永友和氏(同センターR・A)が「大坂鉄砲方坂本鉉之助とその墓碑」と題して講演した。

◇大阪の社会運動を伝承する同志会

 大阪府立労働センター内の財団法人大阪社会運動協会に標記の会があり、大阪の労働運動・社会運動で活躍された人たちが会員となつている。その例会が〇七年三月七日PLP会館で開かれ、本会の酒井一会長が「大塩平八郎と現代」と題して講演した。参加者は六二名、講演の後成正寺で酒井会長から墓碑などの説明を受けた。運動家らしい感性で「非常に有益」との感想が多数寄せられた。

◇天満天神繁昌亭ぶらぶらマップ

 天満天神繁昌亭(大阪市北区、Tel 略)周辺の史跡を案内するA3版の標記マップが完成し、希望者に繁昌亭で無料配布されている。上方落語協会会長の桂三枝さんが「お客さんが家と繁昌亭を往復するだけでなく、周辺も賑わって欲しい」と発案した。 大阪天満宮文化研究所の高島幸次さん(夙川学院短大教授)が史跡の解説を執筆。大塩平八郎の墓所、成正寺ももちろん紹介されている。

◇「大坂渡辺村とのつながり 大塩平八郎」

 中尾健次・黒川みどり共著『続人物でつづる被差別民の歴史』(解放出版社、二〇〇六年)に、標題の内容が五項目でとり上げられ、「渡辺村に対する姿勢」でまとめられている。渡辺村と大塩の関係は、坂本鉉之助の「咬菜秘記」によってよく知られているが、乱への参加を求めた大塩の言葉の背景は大きく、王陽明の説く身分論や文政期渡辺村に与えられた火消し纏のことなど、さらにくわしく論証する必要があろう。

◇志賀志那人の浪曲台本「大塩平八郎」

 天神橋六丁目の大阪市立住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」はもと大阪市立北市民館の跡地、さらにさかのぼると大坂七墓の一つ、葭原の墓地、市民館建設のときに多量の墓石や人骨が出てきた。この市民館で大阪の社会福祉のパイオニア・志賀志那人がかつて館長として活躍した。『志賀志那人 思想と実践』(和泉書院、二〇〇六年)の論文集に、本会会員の久保在久、森田康夫両氏が執筆しているが、志賀の子で市民館で育ち医師として活躍した田辺香苗氏も「父を語る」を発表し、志賀は浪曲改革をめざした宮川松安のために、台本「大塩平八郎」を書いたと指摘している。志賀は、大阪心斎橋の呉服店播磨屋の当主で大塩などの研究者でもあつた岡田播陽とも交流があり、岡田の著書『大衆経』(大塩と二宮尊徳の比較)に前書きを書いている。田辺氏は志賀が岡田から大塩の話を聞いて台本を書いたと推定している。

◇『大塩平八郎』の著者堀柴山

 博文館出版の「少年読本」の第三八編に明治三四年堀紫山が大塩平八郎を書いている。このシリーズは、福地桜痴の『高島秋帆』にはじまり「著名諸大家著」とうたった五〇巻の伝記もので、紫山はほかに『西郷隆盛』も執筆している。同じく大塩関係の著書のある国府犀東も『中江藤樹』を、幸田成友が『熊澤蕃山』を書いている。国府の『大塩平八郎』(裳華房、明治二九年)は、一足早く「偉人史叢」第八巻として書かれ同郷金沢出身の三宅雪嶺の序言があり「社会主義実行者としての平八」としてまとめられている。思いがけず、専修大学今村法律研究会編『大逆事件(三)』(専修大学出版局、二〇〇三年)を見ると、幸徳秋水の明治三二年自筆日記「時至録」に、「堀紫山等に会ふた」「堀紫山、田村三治と高砂に午餐す」などとあり、幸徳との交流があったことがわかる。今村力三郎は、専修大学出身の弁護士で、『芻言』を私刊し、大逆事件、シーメンス事件、大阪松島遊郭移転事件、帝人事件などの弁護に当たった。戦後長く専修大学の総長を務め、私財を大学に寄附して学内で暮らした。

 紫山の妹が堀保子で、『中央公論』大正六年三月号に「大杉と別れるまで」を発表、無政府主義者大杉栄の糟糠の妻だった。大杉はその後伊藤野枝とともに大正十二牛の関東大震災のときに虐殺されたことは周知の事実。

 山崎朋子『あめゆきさんの歌 山田わかの数奇なる生涯』(文芸春秋、一九七八年)によると、あめゆきさんこと山田わかと平塚らいてうの「青踏」を結びつけたのは保子だったという。山田わかがアメリカに身売りされながら激動の人生を時代のなかで切り拓く精神に感動させられるが、その一こまに紫山の妹が登場する。ついでながら大逆事件弁護人の一人で型破りの人物、山崎今朝弥は若き日のサンフランシスコ時代、山田わかの夫、嘉吉の弟子の一人だった。らいてう夫妻が住んだ東京の家は、この山田家ゆかりのもので、その前任者が山崎だった。それにしても、大塩事件といい、大逆事件、女性解放運動といい、それぞれが形をかえて提起されてくる時代の課題に立ち向かった姿に、共通したものを感じさせられる (岸本隆巳氏提供)。

◇賀川豊彦『空中征服』

 大正・昭和初期にかけてキリスト教社会主義の立場から労働運動・農民運動にとりくんだ賀川は、都市貧民問題の解決に身をもって当たり『死線を越えて』などの名著をまとめている。その賀川に一九二八年に大阪の煤煙問題をテーマにしたSF仕立ての異色の作品『空中征服』がある。大大阪市長に賀川が就任し、煙突文明の罪悪に立ち向かうユーモラスだが時代を撃つ小説である。ここに大塩平八郎が登場し、市議会の傍聴席に 姿を現す。「大塩氏は天保時代から労働問題−いや社会問題には詳しく」、同じく傍聴席にいた太閤さんから「大塩平八郎氏と、私の外、大大阪の将来について徹底的に考えたものはありますまい」といわれて一場の演説を行う。その姿は「見たところどうしても、明治四十年式の社会主義者そっくり」、賀川市長が大塩氏を議場に紹介すると、「よう、レニン」「直接行動の親分」の声が飛ぶ。「煙突は社会の敵である。肺病人を作り、貧民を作り、濫費を助良し、空中を乱す」「煙にも種類がある、私がかつてあげた天満の煙のごときは最も煙の中の勝れたものである!」。ここで「弁士、中止!」。大塩を直接行動論−明治末に主張されたアナーキストあるいはアナルコ・サンディカリスト(無政府主義的組合主義者)の説として、幸徳から大杉にいたる流れに置いている。賀川の大塩観の一端がのぞいている。

◇『大阪火事一乱記』

 長野市にある長野電波技術研究所電子出版部が、標記の大塩関係文書をインターネットで紹介している。松本大学と筑波大学と提携する民間の農業関係の研究所のようで、史料は「坂本陣奥正藤原政久」の記録。とくにこと新しいものでなく内容もいま一つだが、歴史専門外の人にとって関心を抱く古文書だつたのだろう(岸本降巳氏寄)。

◇「太閤さんと大塩はん」

 夕刊読売新聞〇七年四月二四日号に大阪本社編集委員加藤譲氏が、本会副会長井形正寿氏から聞いた話として、大塩が乱後に、秀吉が造った「太閤下水」を使って大阪西区の美吉屋五郎兵衛宅に潜入したことを紹介している。すでにこの説はサンケイ新聞一九八七年五月一九日号に「大塩平八郎秀吉″が手助け?!」として発表されたものだが、かねて関心をもつていた加藤氏が旧聞ながら井形氏の誕生日(戸籍上。実際は大正九年八月十四日の由)をよく覚えていてその日の記事にしたもの。取材も一過性でなく二〇年に及ぶとすれば立派なものである。

◇幸田成友と『大阪市史』

 『大阪春秋』127号(〇七年七月)に堀田暁生氏が標記のテーマで、日本最初の市史『大阪市史』の編纂に携わったことを紹介している。市史編纂の経過・方法などを、肖像写真、大阪市史編集長の年給一二〇〇円の辞令、市史第一巻原稿冒頭部分の写真もあり、編纂役の幅広い活躍ぶりに及んでいる。

◇大塩の乱ゆかりの槐陳列

 和泉市いずみの国歴史館で〇七年二月一六日から五月六日まで大塩の乱一七〇年記念特別陳列として、標記の槐が公開された。乱当日天満与力朝岡助之丞邸にあつた槐に大塩決起の最初の一発が打ちこまれたが、その後長く国道一号線沿いの造幣局塀際に立っていた。一九八四年に倒壊の恐れがあり、当時の建設省の手で伐採された。その後道も拡幅されたが、旧他に「大塩の乱槐跡」碑が建てられている。切られた槐の一部が助之丞から五代目の子孫にあたる朝岡三治邸に保存され、同市三林在住の同氏から歴史館に展示された。

 当時高さ七メートル、直径八〇センチ、樹齢約二百年といい、陳列されたのは中央部が腐食してV字形に分かれた幹の部分で、高いところは約一メートル二〇センチ、下部の幹にあたるところは幅六〇センチほど。よく磨かれて愛情豊かに保存されていることがわかる。

 本会創立二五周年記念として二〇〇〇年二月に開かれたイベントにも出品され、天満で朝岡氏が「エンジュの生涯」と題した感銘深い語りが、本誌四二号に収録されている。

◇幸田成友「数字上の誤謬」

 『歴史地理』第28巻第1号(大正5年7月1日)に、大塩平八郎や新井白石などが数字上の誤りをかなり犯していることを指摘している。大塩については洗心洞箚記を佐藤一斎進呈した時に添えられた手紙に、父母は大塩七歳の時に倶に歿すと記すが、成正寺にある父敬高の墓石(大塩の自筆)ではその歿年は寛政十一年五月十一日、成正寺の東にある蓮興寺の過去帳には母の歿年寛政十二年九月二十日とあり、大塩が一斎宛に書いた内容は「不思議な間違といふべきだ」とする。また与力職引退についても、右の手紙で「年三十又八なり」とあるが、実際は三十七歳で、自分の辞職の年を間違えたとする。このことは先行の著書『大塩平八郎』ですでに訂正済みのことだが、その延長 上で新井白石による海外輸出の金銀銅の数量、大坂町奉行久須美佐渡守が老中水野越前守に提出した内密言上書で、天保の用金(大坂・兵庫・西宮・堺)を記した「天保撰要類集」の数値にミスがあること、勝安芳編の「吹塵録」第五冊に載せられている文化 元年諸国人数調についても計算の合わないことに触れている。

 幸田によると、官府の書類といってもこの種のミスはなかなか多く、数字に立ち合うごとに一々そろばんに当たって見なければならぬという。いかにも厳密な考証ぶりの一端を語るものである(末中哲夫氏寄)。

◇一揆関係文献に大塩の乱

 歴史教育者協議会編、斉藤純監修の『図説日本の百姓一揆』(民衆杜、一九九九年)に「大塩平八郎の乱−『救民』の幟を立てて」(執筆岩田健氏)が掲載され、写真・地図などがほどよく示されている。著作全体がわかりやすく全国の一揆をよく追っている。深谷克己監修『百姓一揆事典』(民衆杜、二〇〇四年)は右の本と同趣旨の編集で、大塩平八郎の乱・大塩平八郎・史料大塩平八郎一件書留の項目がとり上げられている。巻末に全国的な百姓一揆研究文献・一揆禁令・国別一揆等索引・人物項目索引もあつて至便。

◇ケーブルテレビ 「なりきり歴史探訪−大塩平八郎 −」

 が〇七年六月放映された。シンク映像制作、酒井一氏が出演。このシリーズでは門真の「茨田郡土」につぐ二回目の大塩もの。

◇長尾武『水都大坂を襲った津波』(改訂版)

 前号に紹介した会員長尾氏の力作が、〇七牛二月にカラーによる浪花の賑わいを示す表紙と新資料を加えて再版された。毎日新聞○七年二月一九日号に、本書執筆の思い、津波「大阪に再び甚大な被害」が記載されている。郷土史レベルの研究を超える専門的 労作でしかもわかりやすく、調査の方法も足と文献で固めた堅実なもの。「大塩の乱関係資料を読む部会」八月例会で希望者に献本された。問い合わせはメール(略)へ。

◇「あの世から聴く 大阪先賢の時局座談会」

 『大大阪』の昭和14年1月号、日中戦争の本格化したころ、上田芝有が標題の架空座談会を発表。司会は井原西鶴、出席者は豊臣秀吉・安井道頓・河村瑞軒・淀屋个庵・大塩平八郎・末吉孫左衛門・天王寺屋五兵衛・山中新六(鴻池)・鉄眼和尚。それぞれに似顔絵がついている。大塩の発言「淀屋はん、出資者になつてまた支那へ淀屋橋でも架けるつもりですか」、淀屋「大塩の旦那は相変わらず辛辣ですな、橋を架けるのは私ばかりぢやない、末吉さんだつて末吉橋を架けてゐますで」。全休がどうしても中国 侵略の流れになつているが、戦死者に黙祷するのに、娑婆ではたいていの場合、東方を向くのだが、極楽の習慣は西方浄土の方に向くのだという。ここらにちょつと時代風刺か(志村清氏寄)。

◇森安彦「大塩平八郎の乱−弓太郎の悲劇」

 NHK学園『古文書通信』72号(〇七年二月発行)、森氏の大塩連載物の一つ。乱後一人生存した弓太郎が危うく死罪の評定所案をまぬがれて、大坂永牢になることを『大塩平八郎一件書留』から解説。別途その後の弓太郎について興味深い話が伝わっている。

◇大塩中斎の蔵書の一つ

 戦前皇国史観で一世を風靡した平泉澄の『山河あり』(昭和二九年)に、大 川周明所蔵の「近思録集解」四冊を寄贈され、それを伝えているという一文がある。大川周明は戦前北一輝と並ぶファシズム運動の指導者で、アジア・太平洋戦争後にA級戦犯として東京裁判審議中、東条英機の頭を叩いて話題になった人物。右の大塩旧蔵番は決起寸前に処分して施金にあてたものの一つとみられ、集解の箱書に須田文という人の中斎評があり、「精悍の色、剛果の気、中にそだちて外に発し、悪をにくむ車讎(あだ)の如く、奸をうつ事鷙(し)の如し、救荒の策、当局の容るる所とならず、豪家の顧みる所とならざるに及んで、赫怒して剣を按じて起ち、大法を犯して顧みず、論者囂々の論を免れずといへども、抑(そもそ)も亦媚懦(びだ)俗を成すの世、一なかるべからざるの人か」という意味が述べられているという(U氏寄)。

◇東條栄喜「安藤昌益と大塩中斎の比較から」

 『安藤昌益の「自然正世」論』の著書もある原子核研究者の東條氏が、『互生共環』6号(安藤昌益研究・筑波懇談会、〇二年一月)に標記の論文を「東大図書館蔵・稿本『自然真営道』のデジタル化」とともに発表、安藤昌益の会発行の『直耕』28号(〇七年二月) のいんふぉめぇしょん″に紹介されている(石渡博明氏寄)。

◇大塩中斎自筆本『天象簡抜』

 もと大阪府職員であつたA氏が府立中之島図書館の古典貴重資料室で、「中斎大塩平八郎子規書」(子規は子起の衍)としたためられた『天象簡抜』と題する和綴本を発見、洗心洞という号の入った15帖の本。大塩の東洋天文学の知識を示すものとして、沢田平氏が大阪歴史懇話会の〇七年一月の例会で発表、有名な菊池容斎の大塩肖像画というものも大塩と断定してよいのではないかとした(概報が同会報二七〇号、〇七年二月発行に掲載されている) (島野穰氏寄)。

◇岡田誠三と戦争

 朝日新聞の記者だった岡田誠三は、一九四四年に「ニューギニア山岳戦」で直木賞を受賞したが、朝日退職後に『定年後』を発表しベストセラーとなった。父播陽の後を受けて『雪華の乱 小説・大塩平八郎』(中央公論杜、一九七七年)も出版した。その誠三の戦時中の記者活動が、朝日新聞夕刊の「新聞と戦争」―戦場の記者たちM・N(07年7月31日・8月1日号)に取り上げられている。ラバウル海軍報道班員宿舎での写真と自宅で午前3時に起きて執筆する写真もある。次男で同じ記者の道を歩んだ清治氏には、すさまじい非情のニューギニアの実態を示す資料が伝えられ、父の遺骨を来年ニューギニアの海に流す旅に出るという同氏の語りも記録されている。

◇会員の訃報

満藤 久氏 九六年一二月一六日入会、〇七年一月六日死去、八四歳。熱心な会員で「読む部会」によく参加し、大塩関係の文献を集め、研究会に参加することを楽しみにされていた由、奥様から長い間楽しませて頂いたとお礼のご連絡あり。かつて豊中市庄内の公民館で大塩講座シリーズが開かれた席で、壱岐(長崎県)勝本の大塩関係者流島の資料をいただいたことがある。

戸田円八郎氏  〇二年三月二三日入会、〇七年七月一五日死去、八五歳。社会福祉法人「創の会」北田辺保育園の理事長・園長を務められた。阿倍野のやすらぎ天空館で多数の弔問客によるお別れ会が開かれた。柄気と闘いながら『負けへんで』を相次いでまとめられ、民主主義と平和、社会福祉を発展させる生き方を貫かれた。若いころ松田道雄氏らとも交流、戦時中兵庫県小野市青野ヶ原で戦車兵の訓練を受け、本会による同市の見学会に参加して回想を語っておられた。読む部会の熱心な参加者。戦前の懐徳堂を知る方がまたお一人姿を消された。


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