Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.11.5

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「洗心洞通信 46」

大塩研究 第58号』2008.3 より

◇禁転載◇


◇九月例会

 〇七年九月一五日午後一時半から「もりぐち歴史館」(旧中西家住宅、守口市大久保町四丁目二−二六)で、橋本孝成氏(大阪大学大学院文学研究科研究生・日本史研究室)が、「大坂市中と北河内−河内国茨田郡東村中西家を中心に−と題して講演した。

 今回の報告では北河内の豪農であり、なおかつ尾張徳川家の大坂屋敷奉行でもあつた中西家を通して、大坂市中と北河内農村の関係について言及された。中西家は尾張藩の大坂廻米処理や御用金などの資金調達といった役割を担い、文化的には懐徳堂関 係者との交流や連歌の会を主催するなど、文化人としての活動も活発であつたことを明らかにされた。
 こうした文化活動は、豪農としての教養を身につけるという側面のみでなく、大坂商人と太いパイプを形成するという意味合いがあったことを指摘された。
 中西家の活動からは、大坂市中と北河内農村との結びつきの強さを再確認することができ、このことから北河内において大塩門人が数多く輩出されていることも首肯できる。

 質疑応答のあと、橋本氏の案内で中西家住宅の見 学をおこない、盛況のうちに例会を終えた。

 当日の出席者は、(略) 計三五名。

◇一〇月(伊丹)例会

 伊丹市立博物館・本会共催の 「秋季企画展・大塩平八郎と伊丹」(開催期間〇七年一〇月二日〜一一月二五日)が同博物館(伊丹市千僧一丁目)で催され、その関連事業として、一〇月二〇日午前一〇時から、「大塩平八郎と伊丹」と題する講演会が、「白雪ブルワリービレッジ長寿蔵2Fギャラリー」(伊丹市中央三丁目)で開かれ、本会会長の酒井一氏が講演し、同館嘱託学芸員の加藤宏文氏が補足説明を行った。

 酒井氏は、大塩の乱は大坂と江戸への同時攻撃で「幕府本丸」に対する反乱とする観点に立って、伊丹とのかかわりを論じた。頼山陽を介して酒造家との交流を深めて教学を広め、その縁で異色の門人額田善右衛門が登場することを説明、檄文配布後自死した豊中市曽根の八幡宮の跡地の確認、乱直前大塩の一族の女性たちを紙屋幸五郎宅に中山寺参詣を口実に潜伏させたことなどにも触れ、乱における在郷町伊丹の特色に及んだ。
 同氏は巧みなユーモアを交えて聴衆を惹き付ける熱弁で、予定時間をオーバーする講演。最後は盛んな拍手で聴衆が応え、質疑応答も行われた。

 講演終了後、希望者が伊丹市立博物館の企画展を見学し、同博物館の山名晶子主任学芸員の懇切な解説を受けた。

 企画展の主な展示品目は、本会提供の「救民旗」、本会会員松浦木遊氏提供の「檄文版木」などのほか、大塩平八郎書簡、「浪華騒擾紀事」(大阪城天守閣蔵)、「浪花異聞」、「大塩平八郎施行札」(大阪府立中之島図書館蔵)、「洗心洞学名学則」、大塩平八郎書幅(門真市立歴史資料館蔵)、新紹介の「一身温飽愧于天」の大塩書軸など多数。それに伊丹出身の紙屋幸五郎、額田善右衛門に関する資料など盛り沢山であつた。今回の企画に尽力された同館の山名晶子氏および加藤宏文氏に感謝の意を表したい。

 当日の参加者は、総計一五八人で、うち本会会員は(略) 計二四名。

◇一一月(関西大学)例会

 〇七年一一月二四日関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター主催で「なにわ・大阪の文化力−大阪文化遺産学の源流と系譜を辿る−」をテーマに実施された。午後○時四〇分から能勢の人形浄瑠璃鹿角座の「能勢三番叟」「傾城阿波の鳴門−巡礼歌の段−」公演が行われ、熱演に涙を催し、上演後の実技指導に学んだ。続いて中野三敏氏(九州大学名誉教授)の基調講演「江戸文化の中の『なにわ』」があり、一八世紀に大坂と江戸で本屋として活躍した丹波屋理(利)兵衛のユニークな文化活動を中心に、江戸で洒落本が本格的に登場する様子を論証、通説の元禄文化上方説、化政文化江戸説の再検討を提起した。フォーラムではパネリストとして本会会長の酒井一、井上宏((社)生活文化研究所・「上方研究の会」代表)、近江晴子(大阪天満宮文化研究所研究員)、水田紀久(木村蒹葭堂顕彰会代表)、高橋隆博(関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター長)の諸氏、コーディネーターとして薮田貫氏(本会役員、関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター総括プロジェクトリーダー)によるディスカッションが行われた。参加者二百名を超える盛会で、関大の企画に本会の例会をあてる形を取った。

 本会からの申込による参加者は (略) 計二四名。

◇一二月例会

 〇七年一二月二二日午後一時半から大阪市北区のPLP会館で、渡辺忠司氏(仏教大学教授)が、「大坂町奉行所と支配所・支配国−支配行政の特質から−」と題して講演した。近年相次いで問題作を出版している同氏は、新しく積極的に提起した年貢徴収権を軸とする「支配所」概念を中心に、それと相互補完関係にある「支配国」の問題に触れて、遠国奉行としての大坂町奉行の領地支配・地域支配・支配国内を個別領主支配に優先するものとする視角から、幕藩制約重層的土地所有・家臣団編成の階級的構成にいたる意見を示した。いままでなにげなく見過ごされてきた支配所、支配国の語を改めてとらえ直す意欲的な内容で、とくに町続在領、在方を大坂町奉行が地域的に編成し、町奉行と代官支配の区分が享保七年の町奉行国分けを契機に整備されたとした。少し難解な講演であったが、活発な質問がなされて認識を深めることができた。くわしくは同氏の『大坂町奉行と支配所・支配国』(東方出版、〇五年)を参照されたい。

 当日の参加者は、(略) 計三二名。

◇一月例会

 〇八年一月二六日午後一時半から成正寺で、森田康夫氏(本会会員、大阪樟蔭東女子短期大学名誉教授)が「大塩思想の原点としての『孝経』」と題して講演した。同氏は、朱子学では敬遠されがちだったという孝経について、陽明学で中江藤樹・熊澤蕃山・三輪執斎によって深められた流れを追い、大塩の思想の原点に孝経が位置づけられることを解説した。大塩には『増補孝経彙註』(天保六年刊)があり、中国明代の江元祚の編集した彙註をもとに、王陽明らの陽明学的な解釈に大塩が按語を加えたもので、もう一つ今回は、明治十七年に京都の聖華房から出版された「中斎大塩後素講述 門人筆記」による『孝経解釈』(二巻二冊、別本『孝経講義』)をとり上げ、蕃山の『孝経小解』に大塩が按語を加えた講義録を紹介。片カナ混じりの筆録を援用しながら、孝経を単に親への孝養を説くものでなく、為政者の心法(心のあり方)を示したもので、『大学』の思想と通底するものとした。その上で、至徳要道の思想としての孝が良知・太虚に深く結びつくことを力説した。大塩の主著『洗心洞箚記』にはのちの反乱をうかがわせる内容がないという一般的な通説を思うとき、孝経にかぎらず儒教で説かれた「諫争」と乱との関係など、これからの課題を与えられた(本号所収の森田氏論文参照)。

 当日の参加者は、(略) 計三一名。

◇守口市教委の市民文化財講座

 〇八年二月九日午後、同市の守口文化センターで「歴史の再発見−塗り替えられる歴史・知られざる歴史−」パートW(全5回)が開かれ、本会役員の常松隆嗣氏(関西大学・大阪商業大学非常勤講師)が、「大塩の乱後にみる家の再興と村」と題して講演し、本会が例会扱いとして協力した。常松氏は大塩の乱に参加して欠所となつた家が数年後には再興されている点に注目し、どのように再興がなされたかを門真三番村茨田家・高橋家を題材に解明された。両家の再興には村の上層農民が積極的に関わっていたこと、また、共同で家の成り立ちを支え、没落の危険性を回避するために共同で土地を所持する集団が存在していたことも指摘された。なお、本報告は今年三月に刊行予定の本会編『大塩平八郎の総合研究』(和泉書院)に納められている。

 参加者は総勢六九人で、本会からの参加記名者は、(略) 一二氏。

◇図録『大塩平八郎の乱と伊丹』

 伊丹市立博物館秋季企画展として標題の展示があり、〇七年一〇月解説資料第55号としてカラー、16ページ建の図録が刊行された。大塩中斎、天保の飢饉と大塩の乱、乱に関係した伊丹の人々、記録の中の大塩の乱の四部構成、大塩を中心にした基本史料と伊丹の乱伝聞記録などが収録されている。頒価三〇〇円、申込みは同館へ(電話〇七二−七八三−〇五八二)。

◇松浦木遊「大塩の乱・檄文の版木復刻」

 昨年来注目を集めている松浦氏による檄文版木復刻の解説で、一字一句刻み込んだ名人芸の紹介。版木の分割図をもとに四つにまとめられた版木の写真にその迫力と精神に感動する。『大阪春秋』第一二八号(〇七年一○月一日発行)に掲載。伊丹市立博物館の秋季企画展にも展示されて注目を集めた。

◇森田康夫氏の論考

 『部落解放研究』第一七六号(〇七年六月)に、本会会員の森田康夫氏が「近世陽明思想の被差別部落民観について」と題する小論を発表された。同氏は大塩の乱に際して動員された渡辺村と大塩の関係については、城方与力・坂本鉉之助の書き残した『咬菜秘記』に依拠して岡本良一『大塩平八郎』以来、乱に被差別部落民を利用した「封建的支配階級意図からでた狡猾な述策」などと酷評されてきた。この岡本説に対して既に森田氏は本誌五〇号の「大塩平八郎の被差別部落民観」でも岡本の知見の不足を指摘されていたが、さらに近世陽明学者・三輪執斎の『四言教講義』に見られる天地万物一体之仁に立つ人間観から、改めて被差別民も為政者と共に人として位置づけた陽明学思想から、大塩の被差別民観を取り上げた文章である。朱子学者の差別観とは異質の人間観から読み解かれた興味深い一文である。

◇西山清雄氏の連載

 本会会員の同氏が日本共産党の大阪北区後援会紙「うえーぶ」に「大塩事件をたずねて」を連載中、〇七年一○月から一年間にわたる予定、一回あたりの字数が三〇〇字だが、簡潔に事件を多方面から掘り下げ、読者の好評を得ている。

◇寄付金の御礼

〇七年に下記の方から本会にご寄付をいただきました。記して厚く御礼申し上げます。

(略)

◇曾孫による島本仲通著作の復刻・口語訳

 維新から自由民権期にその名を知られた土佐出身の島本仲道の、大塩を主題にした「青天霹靂」(明治二十年刊)は稀覯本となっているが、〇七年七月曾孫に当たる島本昭氏が限定・私家版として復刻。引き続き同書と保安条例による東京退去の劇的な日々を綴った「夢路の記」(明治二四年)の口語訳ならびに昭氏による附録「司法大丞・島本仲道」が一冊にまとめられ、同年八月アピアランス工房(佐賀県神埼市、電話〇九五二−五二−二八七二)から出版された。一五〇〇円、送料無料で受け付けている。今後の仲道研究が期待される。

◇松浦玲『還暦以後』

 還暦後はどう生きるか、「老年の輝き」とは。優れた史観と叙述で光る松浦氏は、法然から中村真一郎にいたる二七人の還暦後の生き方を紹介。お得意の勝海舟あり、渋沢栄一、徳川慶喜あり。朝鮮の大院君、清の李鴻章・西太后など東アジアへの目くばりもにくい。とくに「仁術の人に変貌−鳥居耀蔵」、「異色の剣客の明治維新−斎藤弥九郎」に注目したい。
 鳥居は大学頭林家の出身、洋学嫌いで大塩事件の判決を書いたといわれる人物。天保改革後の処分で丸亀藩に預けられ、維新を迎えたあと江戸に戻る。浦島太郎の心境。
 斎藤は幕府の「剣聖」男谷(おだに)精一郎に対して、野に立つ神道無念流の剣客。江川太郎左衛門の近くにいて、大塩事件直後大坂に民情調査に入ったことは有名。晩年の明治二年大阪に建設中の造幣局の火事で火傷した。全体が博識を駆使した魅力ある人間描写。このような感性の歴史を書ける研究者は稀か (ちくま文庫、〇六年刊)。

◇保高徳蔵の祖母は大塩家奥女中

 大阪市南区宗右衛門町に一八八九年一二月に生まれた作家保高徳蔵は、府立天王寺中学、早稲田大学へと進んだが、読売新聞に一時勤め、社会主義に共鳴し、文筆活動に専念した。早大同級に直木三十五、西条八十ら。その『選集』全一巻(新潮社、一九七二年)掲載の「年譜」一九〇二年の項に「祖母しげ死す。しげは、大塩平八郎家の奥女中だった人といわれ、気位が高く学もあつた」と書かれている (吉條久友氏寄)。

◇田中惣五郎『日本叛逆家列伝』

 一九二九年四月号の『労農運動』に、「日本労農叛逆運動家」の田中惣五郎が『日本叛逆家列伝』(解放社)を出版した。社会運動が高揚したあと次第に困難に直面しはじめたときである。「叛逆の徒は常に理想家である。善悪の批判をヌキにして兎に角理想家である。そして孤立的であり、少数派である」として、古代神話の手研耳命(たきしみみのみこと)・恵美押勝から田中正造・幸徳秋水まで一三人を取り上げている。ここに大塩平八郎と木内宗五郎も含まれ、この二人に社会運動家・農民運動家としての面影を偲んだという。大塩については、檄文から始めて大塩が社会の病弊をマザマザと見たことを彦根藩岡本黄石の話から述べ、密告、「大塩様」と民衆が敬称したゆえん、美吉屋での死など。そして最後に大塩の断罪文を掲げて、檄文と比較し、裁く人、裁かれる人の立場の甚だしい相違に及んでいる。
 田中は言う「彼らの時代にあつて、叛逆家は例外なく白眼と罵詈を浴びせられる。そしての叛逆が(社会進化の線に沿うて居るかぎり)後世からは例外なく青眼と称賛を振りかけられる」と。

◇河内の郷土サークル展に政野さんの遺影

 〇七年一一月一七・一八日の両日、大阪商業大学ユニバシティホール「蒼天」で、河内の郷土文化サークルセンター主催の第一五回サークルの集いが開かれた。同センターに加盟している二六サークルの一つ、河内古文書の会は、生前政野敦子さんが熱心に指導されたところで、同会の展示のなかに、一九九九年九月大阪市生野区の巽神社で開かれた横野万葉会の秋の文化講演会で「大塩の乱と河内」について講演する改野さんの写真、享保五年の朝鮮人来朝帰国人足割牒(D氏蔵)を整然と筆写した原稿(ここには大塩がきびしい目を向けた高安郡恩智村の淀藩大庄屋の先祖の名がある)、本誌第五七号掲載の政野さん追悼文の拡大コピーなどがあつた。(中略) 同会会員の謝恩の念のこもったものであつた。

 【写真 熱弁を揮う政野敦子さん 略】

◇関大本山コレクションに大塩家墓碑拓本

 関西大学博物館所蔵本山コレクション「日本の部」拓本目録が桜木潤氏によって『なにわ・大阪文化遺産学研究センター 2005』に紹介されている。同コレクションは日本・中国・韓国の金石文拓本、二三〇〇点に及ぶ。大阪毎日新聞社の社長として有名な本山彦一の幅広い文化活動を物語る。日本の金石文拓本は木崎愛吉の手拓したもので『大日本金石文』に結実した基礎データで、本山の所有に帰した。同目録の五〇・五一・五二号にいずれも文政元年秋七月の年紀のある大塩家墓碑銘拓本が掲載されている。五〇号は書出「春岳院滑空」、書止「覚信院秀雄」、五一号は、書出「鳴呼歳月」、書止「叔父養于石川氏吉次郎也」、奥書「大塩平八郎誌且建」、五二号は、書出「春寛延二(三)年二月廿九日」、書止 「覚文化二年十二月十五日」である。春岳院は大坂大塩八代に当たる平八郎中斎をさかのぼる三代喜内、覚信院は六代政之丞成余の子で石川吉次郎を指す。いずれも大阪南浜墓地の墓碑銘である。

◇大阪のチョウとマチ

 地名の読み方は難しい。大 阪市内で「町」をなんと読むか。大正五年作製の「実 地踏測精良無比大阪市街全図」の出版に際して「代 序 和楽路屋主人述」として左の一文がある。

 この地図裏面には、市内通俗町名表、地名読方、市内縁月夜店表がある。通俗町名には、市の側(天神橋北詰浜、北堀江下通一)、八軒屋(天神橋南詰東)、御祓筋(松屋町二丁目東ノ筋)、海部堀(茂左衛門橋南詰)、淀屋小路(淀屋橋南梶木町)、名護町(日本橋筋俗二長町)、浮世小路(今橋一丁目南ノ通り)、永代浜(靭中通二丁目)、雑喉場(茂左衛門橋北詰)、御堂筋(心斎橋一丁目西)、将棊島(綱島西端)、備前島(綱島西部)、雪駄屋町(南農人町)など、世人の口にする地名が確認できる。縁日、夜店、昼市の地名も盛りだくさん。一の日、二の日などと日付で開かれるもののほか、寅の日(長町毘沙門)、午の日(自安寺、伝法)、甲子日(木津大黒)、庚申日(天王寺南門、太融寺)もある。庶民の賑わいをしのばせる。ああ懐かしや、懐かしや。

◇春日潜庵小論

 昭和十八年斎藤悳(とく)太郎は『近世儒林編年志』(全国書房)を出版した。全国書房は大阪市南区西賑町にあつた。戦雲急を告げるなか、儒者の風に満ちた格調高い文章。時流におぼれないところがなにより好ましい。このなかで天保八年の大塩の乱に触れたあと、この頃から強く陽明学を強唱するようになつた京都の春日潜庵をとり上げている。「大塩の反動」として陽明学を喝逆し、「大塩事変」当時、姚江学者が幾分遠慮の風が見えたが、潜庵は憚るところなく一層旗幟を鮮明にした傾きがある。それは彼の背景に廷臣久我家があり、彼自身従五位下讃岐守という朝廷直隷の官位が光って居て、市井の平儒者とは異なる身分であつたからとする。
 潜庵は大塩を天保六年訪ねているが、大塩の先祖の祭祀に当たっていて会えなかった。早く『陽明文録抄』を見て心をひかれ、天保八年潜庵は始めて『王陽明全集』を入手して陽明学を学ぶ。その学問が大きく変化。この年二月大塩の乱、世上の評価は「一妄人」と見て厳しく、大塩によって「王学の妄かくのごとしと為す」とした。その余波で「王子」を擯斥するものがあるが、潜庵は敢えて同調せず。京人は 今大塩」と目した。
 かれは久我家の七百石の家政を担当して、所領の山城乙訓郡久我村(京都市伏見区)、河内志紀郡西弓削村(大阪府八尾市)にしばしば赴いたという。天保十二年には河内の柘植某(葛城か)が弓削村の庄屋吉内恒右衛門を通じて、河内に招聘しようとしたが、久我家に仕え「主公恩顧優渥……以て凍餓を免るべし」と語って辞退したことがある。(大西晴隆・疋田哲佑『春日潜庵・池田草庵』叢書・日本の思想家44、明徳出版社、一九八七年、春日酔古『春日潜庵先生影迹』法蔵館、一九一五年)。

◇『大阪日日新聞』に乱一七〇記事

 乱一七〇記念行事で檄文の朗読をした松浦由美子さん(シャンソン歌手)が、〇七年一二月一八日の同紙に「平成の大塩、いでよ」と題するエッセイを執筆、大塩を敬 愛する井形正寿副会長、版木覆刻の松浦一さんなどに触れて、本会活動を紹介した。

◇『奈良新聞』に久保さんの紹介記事

 大阪のベッドタウンで奈良府民″と呼ばれる住民が多いことから、〇七年夏から本会の行事案内の掲載依頼を行い掲載されている。事務局担当の久保在久氏が奈良市に在住していることを知った同紙から、〇七年一一月一五日取材を受け、一九日付「東奔西走」欄で同氏の紹介を中心に本会の活動が掲載された。

◇山口孤剣の「大塩先生を懐ふの歌」

 日露戦争に対して非戦論を主張して発禁になつた『平民新聞』のあとをうけて、「直言は日本社会主義の中央機関紙也!!」として、東京市麹町区有楽町三丁目にあった平民社から『直言』が発刊された。その第2巻第25号(明治38年7月23日付)に、山口孤剣が見出しの五行五聯の詩をよんでいる。「淀の流れや夏草や 茂き野末に火の箭(や)射て 沈む夕陽を仰ぎつつ 金鬣(きんりょう)振ふ獅子(ライオン)の 巨人よ君を偲ぶかな」で始まり、「我が気は昴(あが)り瞳(め)は燃えて 三たび河北を鞭(むちう)ちぬ 暴官汚吏の腸(はらわた)を 熱き涙に洗ひてぞ 革命の波押しわけん」と結んでいる。
 これに先立って児玉花外が明治36年4月大阪中之島公会堂で開かれた日本最初の社会主義者大会で即吟した「大塩中斎先生の霊に告ぐる歌」で有名な長詩を「爪先立てゝ挑むれば 君が焼きたる難波橋天満は彼方、公会堂 吾等同志が世に慨し 声を挙ぐるの社会主義 怨恨尽きざる君が霊 この夜この会、来りたすけよ」と結んでいる。

◇平民講談大塩平八郎

 『直言』がポーツマス日露講和条約をめぐつて日比谷事件など全国的な反対運動のなかで「政府の猛省を促す」と題する論説を掲げて発禁の処分を受け、発行所の平民社は不本意ながら解散された。
 しかし明治40年1月15日に『平民新聞』が創刊されたが、これも同年4月15日号をもって廃刊、弾圧と迫害と財政的窮乏によるという。その一か月のちに、東京の『社会新聞』とともに大阪市北区上福島北三丁目一八五に置かれた大阪平民社による『大阪平民新聞』が登場、明治40年11月5日付の第11号から『日本平民新聞』と改題したが、41年5月20日で廃刊。

 その新聞に、「李花生」の名で見出しの平民講談が、第1・3・4・5・6・7・9・10・12・14・15の各号の11回にわたって見出しの講談が連載された。71年前の乱に寄せて1・3号には檄文をふりがなつきで紹介、6号には河村与一郎編『警世矯俗大塩平八郎伝』をあげ、巻頭に田結荘千里の「殺身成仁」を石版に印刷していることも紹介している。

 この大阪平民社について、もと北区上福島北三丁目二〇八番地(現福島区、上福島小学校のすぐ西隣の地)にあつた大阪平民杜に対して、荒木伝氏は第二次平民杜と呼んでいる。いまの堂島十三線の道路になっているところで、第一次大阪平民社のあった同町三丁目二〇八番地のさらに西側、至近距離にある(同氏『なにわ明治社会運動碑』下、柘植書房、一九八三年)。

 「平民」という言葉は、明治三〇年代から普及し、やがて大正の米騒動を経て大衆社会の形成を迎えると「大衆」の語が一般化する。さきの平民社とのかかわりで、同じ上福島に平民病院があった。加藤時次郎とその子時也の経営していた病院で、通信子には懐かしい名。福島天満宮の西門から西へ広い道に出る手前南側の角地でもと神戸(かんべ)病院(秋元医師)とよばれ、いまはパークネットPARKという駐車場になっている。

◇大塩蔵書処分の売立

 乱に先立って大塩が全蔵書を河内屋喜兵衛ら四人の大坂の本屋が札元になつて 本の売立で処分したことは周知のことで今更述べる必要もないが、本の売立で一つの画期をなしたことが、橋口侯之助 江戸の古本屋1」(『日本古書通信』941号、〇七年一二月号)でうかがえる。左に抄出して紹介する。

 この後話は中国からの輸入書籍である「新渡唐本入札市に及んでいる。大きな蔵書を売却する場合、市場を開いて買い手をつのった。このような大口の蔵書を一時にさばく市のことを売立というとある(吉條久友氏寄)。

 右の文中の「篠崎長平」は小竹の養子竹陰(概)のことで、安政五年に死亡している。小竹の門人帳である「輔仁姓名録」と「麗沢簿」(いずれも大阪府立中之島図書館蔵)には、ともに「鹿田文庫」「松雲堂」の印が押されている(『名家門人録集』上方芸文叢刊5、上方芸文叢刊刊行会、一九八一年、解説多治比郁夫氏)。

◇朗読ミュージカルに大塩もの

 〇七年一一月二四日大阪心斎橋アーバンライフビル9Fでの放送作家協会ぶっちゃけトーク開始前に、大塩事件をテーマにした「魁(さきがけ)−世のため人のため−」が上演された。演出梅林貴久生氏、脚本・作詞・作曲藤川ヤヨイさん。事件後、跡部山城守・坂本鉉之助・平山助次郎・大塩父子などそれぞれ死後冥界にやってきて閻魔大王の前で裁きを受ける内容で、現代に通じる汚職腐敗の実態に好評を博した。時代考証に酒井一氏が協力。

◇宮内黙蔵の墨書解説

 さきに大著『宮内黙蔵全集』上下を編集出版した三重県亀山市の八木淳夫氏は、同書所収の黙斎墨書の解読文の一部補正して、写真入り四点で見出しの解説を発表した。八木氏は黙斎の遠縁にあたる自然科学着で、綿密な歴史文献研究でも光っている。黙蔵は明治前期津中学校事件にかかわる人物で、その裁判に『洗心洞詩文』の中尾捨吉が関係している(亀山市芸術文化協会文学部門文化研究部編『文化研究』6、二〇〇七年)。

◇内藤柳雨「大塩事件と落首」

 大正時代兵庫県西宮市今津巽一七〇五番地に発行所上方趣味社をおいて『上方趣味』が隔月に刊行されていた。和紙風の小本ながら上方情緒を伝える冊子で、発行人は渡辺亮(柴染)。のち少し本のサイズが小さくなつているが、大正六年(一九一七)十二月の冬の巻に、見出しの論文が載っている。「大塩事件」という呼び方の早い例でもあるが、不作、飢饉、檄文、乱、大塩の最期を語ったあと、大塩平八郎狂詩、大塩平八郎亡後狂詩、和歌、落首、発句、大阪流行狂歌新軍節、かへ歌、落語、大津絵ぶし、流行歌が掲載されている。周知のものが多いが、なによりも石崎東国が大塩研究に専念していた頃で、大塩への市民的関心のひろがりを物語る好論である。

 落語も紹介しておこう。「御前の仰に、一揆の者共早々召捕之、御手当かんやうの旨御発言被遊候へば堀様の仰には、跡部しやう又伊賀に出るだらう。平八郎承り、大炊にお世話。火矢でもあがれ」。
 流行語「跡部後悔。矢部(駿河守定謙)嬉しや。」

 これこそ上方大坂パロディ集だ。ちなみに、この号では、上方趣味杜は、大阪市北区茶屋町二四三番地(旧九階内)とあり、事務所は西宮市今津辰巳町。北の名所九階が登場する。

◇入江春行「大阪文壇事件簿」

 に大塩 大阪民主新報に元大谷女子大学教授の入江氏が連載した見出しの記事に、46「森鴎外@大塩平八郎と社会主義」(〇七・二・二)、47「森鴎外A「『大塩平八郎』と社会主義」(〇七・一二・九)が掲載された。鴎外の『大塩平八郎』はよく知られているが、この作品を書いた直接の動機は、鴎外のために校正や清書をしていた鈴木正次郎から『大阪大塩平八郎万記録』という写本を見せられたからというが、この内容は風説が多くてあまり参考にしなかったらしい。東大図書館の鴎外文庫にある幸田成友『大塩平八郎』には、鴎外のものと思われる鉛筆の書き込みや傍線があるという。鴎外がこの挙に参加した一人の大工に「企の私欲を離れた処に感心したので、強ひて与党に入れられた怨を忘れて、生死を共にする気になつた」と言わせ、「公憤」による挙兵とした点に注目。陸軍軍医総監(中将待遇)にしてこの言のもつ意味は大きい。洗心洞跡の碑、成正寺の大塩父子墓碑および「乱に殉じた人びとの碑」の写真もあり、本会の例会のことにも触れている。

◇町人天文学者『間重冨・重新』展

 〇七年一一月一五日から〇八年一月三〇日にかけて、主催大阪市立福島図書館、共催福島区歴史研究会による見出しの展示会が、同図書館の郷土資料展示室で開かれた。一九九三年に間重富・重新の天文学関係資料を所蔵していた羽間文庫から大阪市立博物館(現大阪歴史博物館)に約三千点寄贈されたが、その複製資料数点と、大阪市立中央図書館所蔵の天体観測などの原資料が展示された。大塩の乱当日観測の準備中だった重新の記録、大塩の間家宛の書簡二点の写真など、コンパクトによくまとまった内容であった。井形正寿氏が万端準備・運営に当たられた。

◇森安彦「大塩平八郎の乱−その後の弓太郎」

 NHK学園『古文書通信』75号(〇七年一一月発行)の巻頭エッセーに、三歳で牢屋に閉じこめられた弓太郎が、その後どうなつたか。松浦静山の『甲子夜話』を引用して、非人の乳母(おんば)が牢外に「抱歩行」き、処々を徘徊し、人がおまえのやどはどこぞと問うと、「牢ヲ指サシテ、彼処ナリト答フ、人聞テ凄愴(ムコクアワレガル)スト」と、胸をうつ文章を紹介している。弓太郎のその後については(おそらく一五歳以後か)佐渡行きや出家説などがある。

◇『鷹見家歴史資料目録』

 茨城県古河市の古河歴史博物館編集、古河市教育委員会発行の見出しの資料目録が一九九三年に発行されている。鷹見十郎左衛門泉石関係を中心にしたもので、かれの蘭学知識や世界認識を知るのに、目録を通覧するだけでも楽しい。渡辺崋山描くところの国宝鷹見泉石画像が、大塩の乱鎮圧後、江戸の土井家菩提寺に報告した帰りの正装姿を伝えているが、この目録が、別途に出版された泉石の日記とともにかれの全貌をよく語っているようである。「大塩平八郎召捕棒」と刻銘された長さ一〇四センチ、径三センチの樫棒の写真もある。泉石の指揮のもと靭油掛町の美吉屋五郎兵衛宅を囲んで大坂城代・古河藩主土井氏の家臣が攻め込むために用意されたという。実際に用いられたかははっきりしないが、狭い半間の路地に進入するための棒としてふさわしい。同博物館の『展示図論』(一九九〇年)にも召捕棒の写真と小さな解説がある。 ◇鶴見俊輔『評伝高野長英1804−50』に寄せて

 朝日新聞社から一九七五年に出版された見出しの本が、二〇〇七年に藤原書店から再版された。なぜ鶴見氏は長英をとり上げたのか。長英が岩手水沢の出身、鶴見氏の祖父後藤新平と同郷であることが一点。そしてさらに大きな問題がある。いまから三〇年近く前、「ベトナム戦争から脱走した米兵たちを家々に匿い、海外への脱出ルートを模索し、長い潜伏生活をともにした無数の人びとがいた」と帯にかかれた、ジャテック、『ある市民運動の記録』が関谷滋・坂元良江編で一九九八年に思想の科学社から出版された。ここに鶴見氏が同志社大学に勤めながら優れた哲学と英語力と人脈を生かして、多くの人たちと活動する姿がある。昨年亡くなつた小田実氏とともにべ平連運動にとりくんだ様子を伝える、この反戦脱走兵援助日本技術委員会の記録である。小田氏の主張しっづけた良心的兵役拒否もこれにつながっている。

 この「脱走兵」をよんで、鶴見氏が長英を書いたモチーフは、ベトナム反戦兵士援助にあったと、はたと思い当たったが、今回の復刻に当たって付けられた「新版への序」をよむと、「伝記を書くには資料だけでなく、動機が必要だ」として、長年かかわった脱走兵援助が、一段落ついたことが、この伝記を書く動機となったという。通信子の推定が的中したことはうれしい。

 歴史学の目的の一つは時代を描くことにある。個々別々の事象をとり上げた論文が、どのような動機によるものであり、時代をどう書いているのだろうか。作家が新しいモチーフをとり上げるときは強烈なねらいがあるはずだ。研ぎすまされた感性があるはずだ。歴史のおびただしい数の論文をみるたびにこのことを考えさせられる。服部之総は早く『歴史科学』の一九三六年四月号に(『服部之総全集』7、福村出版、一九七三年再録)、「歴史文学と歴史科学−『渡辺崋山』に寄せて−」を発表し、「作者藤森成吉はこの作品で、天保度日本の歴史的現実性にむかって見事に切り込んでいる。大塩の乱(一八三七年)と蛮社の変(一八三九年)と天保改革(一八四一〜四三年)とは、来るべき明治維新のための最初の陣痛期としての天保度を浮き彫りしている諸事件」としている。この場合の維新像は一般の人がドラマなどで知る「勤王の志士」の姿よりもっと根本的なものを服部氏は主張し、維新への社会的変化をよみとっている。

◇奈倉哲三編著『絵解き 幕末諷刺画と天皇』

 〇四年に校倉書房から『諷刺眼維新変革−民衆は天皇をどう見ていたか−』を出版した奈倉氏は、その第二弾として見出しの本を〇七年柏書房から発刊した。B5判本でカラフルな幕末の諷刺画を掲げて、江戸庶民が謎解きを楽しんだ文化と政治力量を読みの深い解説つきで示している。文字資料だけでは十分くみとれなかった江戸つ子の戌辰戦争時の非合法の錦絵で、見てよし、読んでよし、歴史の新しい方法で興味深い。そのなかで「二 高まる江戸庶民の政治関心」の「2変貌するかわら版」に「大坂大火の図」(東京都立中央図書館加賀文庫蔵)が掲げられている。奈倉氏によると、大塩の乱を江戸の庶民は数種のかわら版で知ったとして、この図を示している。これは大坂で流布したものとほとんど同一で、「天保八年二月十九日朝の上刻より」の説明文も地図も同版とみられ、違いは、焼失地域は大坂版が少し黒ずんだ形であるのに、こちらは真っ黒に塗られているだけで、町の区域は全く同じである。

 同氏の鋭い読み込みによると、かわら版のトピックスが近世中期からは心中・仇討ち・孝行美談・怪しげな珍談奇談・妖怪変化の出現だったのが、天保期ころから政治的事件を扱い出し、幕末の政争激化とともに大きく変貌していくとし、その画期の初発に 大坂大火の図」を置いている。大塩の乱は情報の伝達、政治的関心の高まりなど、いくつかの重要な画期をなしているので、この発言はもっともなことである。さらに氏の解説は、この図には大坂の大火を報じるだけで、大塩の「お」の字もなければ大火の原因も記されていない。実は売り手の「読み売り」芸人が、役人の目をぬすんで、かわら版の文言をリズムを付けて読みあげ、記されていないことも旋律に乗せて謡い、売り歩き、大塩先生が「窮民救済」を掲げた蜂起のときの火災であることを知らせたとする。なるほど、なるほど。

◇『岩手の民衆史』14号

 岩手民衆史研究会が〇八年一月に発行した見出しの雑誌で、岩手に残されて いた「大塩の乱」関係記録の特集。第一部「大塩の乱」関係記録既刊目録、第二部「大塩の乱」関係記録 未刊史料(一)からなる。本会会員の武田功氏の編集にかかるもので、同氏による「まえがき」では、大坂から遠い岩手の地に大塩の記録が驚嘆すべき出来事として伝えられ、この地域にも多少の影響を及ぼしたのではないかと見て、盛岡県最大の一揆である二つの三閉伊一揆に触れている。

 第一部は、岩手県と一部青森県を含んで既刊史料一五点を克明にひろいあげている。岩手県文化財愛護協会から岩手県立図書館編で出版された『岩手史叢』第六巻見聞随筆 上」は横川良助の記録で、くわしい内容。その巻の七に「新文句落書 しんぐひ ぶし」もある。本号通信に別項に掲げた大坂落首と符合する。

 第二部は四史料から成る。史料一として、盛岡藩南部家旧蔵文書で盛岡市中央公民館所蔵の「雑書」が刊行中であることを紹介し、そのうち別途雄松堂フィルム出版からマイクロフィルムで発行されている一五八巻分の中から、大塩の乱関係を選び、翻字したもの。二月一九日の乱が在府中の家臣から三月九日に第一報が届き、別途藩領に定着していた近江商人からの情報、旅人の噂話なども記録されている。史料二は、盛岡城下近郷の村役付と思われる人物の天保八年一年間の日記(岩手県立図書館所蔵)から大塩の乱関係記録を抄出したもの、史料三は天保八年四月の「大坂市中騒動、西城州田辺村百姓九郎兵衛方ニ伝有之候書付板形、尤百姓写、陣押并人相書写」で、故森嘉兵衛・岩手大学教授が一九三二年に収集し、和紙にカーボン複写一二丁に和綴じしたもの。雫石町立図書館田中喜多実文庫に収められている。史料四では、岩手県東磐井郡藤沢町字早道にある仙台領の皆川家日記から乱関係を抄出したもの。

 岩手県でこのように大塩の乱情報をひろい上げ、公刊された意味は大きく、多大の労力に感謝したい。各地でこの種の掘りおこしがすすめば、大塩の乱が与えた衝撃の大きさが再認識されることになるだろう。希望者は送料こみ千円、武田功氏あて送金されたい(略)。

◇全国にみる摂河播豪農の資力

 大山敷太郎『幕末財政金融史論』(ミネルヴァ書房、一九六九年)をみると、幕末幕府に大口の上納金を納めて褒賞を受けた幕領の摂・河・播・石見・越後・備中・下総・武州・奥州・下総の二十人の名前がある。嘉永〜文久のころのようだが、「御本丸御普請御入用之内」への献金で最高が三千両を上納した播磨国加東郡太郎太夫村の百姓近藤文蔵。「永々苗字孫代迄帯刀、御扶持方二人扶持二人(帯刀のつぎに「其身一代」が脱か)であったのが、「永々帯刀」の褒賞、二千両を納めた摂津国西成郡佃村の庄屋見市勘助は、「孫代迄苗字、其身一代帯刀」から「永々苗字、伜代帯刀御免」。一五〇〇両を納めたのが河内国茨田郡平池村の百姓平池余次兵衛で「孫代苗字、其身一代帯刀御免」から「其身一生之内御扶持方二人扶持、伜代帯刀御免」となっている。大坂周辺では、ほかに勝間村百姓慈三郎、伝法村百姓仁兵衛、天王寺村百姓柴谷利兵衛、難波村百姓道瀬善兵衛の名がある。幕府側の史料だけに地域を超える内容で、幕末危機に陥った幕府財政をこれら豪農の「取立て」を上納金引き替えで行っている様子がよくわかる。

 大塩関係でいえば、播州きっての豪農近藤家は、天保四年の加古川筋一揆で攻撃された家筋。大塩が「仁人の悲しむべきこと」と記した激化事件の被害者。同家の文書は大阪大学経済学部にあり、近藤家の位置づけは、作道洋太郎氏の『阪神地域経済史の研究』(お茶の水書房、一九九八年)がわかりやすく、明治期の経済近代化を見通した説明になっている。平池与次兵衛は大塩の周辺にいた人物で、河内国茨田郡門真三番村の茨田郡士栄信の妹いくは、与次兵衛の分家にあたる平地与兵衛と結婚している。歴史を立体的に理解するのに、思いがけぬ史料が役立つ。

◇けられてはだまってゐないかなだらひ

 ご存じ松浦静山の『甲子夜話』は大塩関係をはじめ、数々の伝聞情報を書きとめて実に興味深い。その中にある一節(未刊甲子夜話第三 巻之七十四)。

 当時の大目付某は、閣老水野越州の実弟で、某家の養子となり、大塩の乱当時町奉行でその鎮定の功によって大目付に昇進した。邸は愛宕の下。静山は年若の妾から思いかけぬ実話を聞いた。其の妾が何か主人の意に応じなかったので、主人が教戒したところ、逆に妾が怒り主人に悪言した。ますます主人が怒ると、その顔面に妾は唾をはきかけ、主人は怒りに堪えかね手討にしてしまった。その殺害の屋敷が閉じたままで、殊に荒廃し、今に血痕段々たりと、実見したことを静山に語った。この一件は文化九年(一八一二)のことらしい。この大目付は厳格側目の男であるとも聞き伝えている。その上で粋人の静山は見出しの川柳を掲げて「宜ナル哉」と記している。某は跡部山城守のことで『旧事諮問録』にもさらに栄身したあとの賄賂好きの様子が語られている。

◇鳶田刑場の碑発見

 東大阪市菱屋西六丁目一−二八にある宝樹寺の無縁墓の一角に、高さ二・四b、 幅は上方で二七センチ、下方で四四センチ、厚さ一五〜二〇センチの細長い石碑が建っている。正面に「南無法蓮華経 法界万霊 (宝珠)」が刻まれ、右側面に「此 宝塔は津の国鳶田の刑場に有しを同志の人相議りて当寺に移しぬ 大正三年三月」とある。年号の下に文字らしいものがありそうだが定かでない。あの有名な鳶(飛)田刑場にあった碑である。

 宝樹寺は、もと大阪の八丁目東寺町、のちの上本町六丁目にあつた日蓮宗の寺で、明治以後四代にわたって尼僧が住職を務めた。その最後に当たる室木智鶴尼の時代に、道路拡張にともなって昭和二年現在地に移転し、上本町に残っていた墓地・墓碑の移 転を完了したのは、同二十二年九月のことであつた(『園林山宝樹寺しおり』)。旧地は上六の近鉄と道を隔てた北側、パチンコ店や中華料理店のあるあたり。現住の和田龍昌師に碑の由来を尋ねたが、わからないとのこと。

 大坂七墓の一つであつた鳶田は刑場の地でもあった。昭和十年八月発行の『上方』五六号「大阪探墓号」は貴重な記録で、口絵に「旧千日墓地の六地蔵と迎仏」の写真を載せている。梅原忠治郎の「飛田から阿部野」と題する調査記録には「南霞町から西の紀州街道に出でて、車馬の往来繁しい中を南へ関西線のガードを過ぎ一町ばかりで、古道をそのまま東南に曲がれば、広い広い街道が南北に通じて大部分出来上る。附近は多く空地又はバラック建の此広い道一帯から西へ南海電車の阪堺線路の西辺までが、即ち飛田墓地の旧跡である」と記す。古道と広い道路建設のなかで旧墓地を尋ね当てている。この文章の中に、鳶田垣外に触れたあと「同所(鳶田)墓あり、日蓮 宗大石塔あり」(「住吉名所鑑」)を引用しているが、これが宝樹寺の碑に当たるのかどうかははっきりしない。

 千日刑場については、明治四年四月の「太政類典」に「御仕置場」が手狭になつたので拡張計画が立てられたとあるが(『大阪の部落史』第四巻、史料、近代1所引)、同七年三月に阿部野墓地が新設され、飛田、千日の火葬場と墓の多くが、ここに移葬された。明治三十年頃までは多分に刑場の名残をとどめていたという。

 飛田刑場に大塩の主要メンバーが磔に処せられたことは、『甲子夜話』の解説と「鳶田御仕置場之略図」でよく知られている。それによると、「常体、麻小紋之袴着用」で生きたまま磔になった竹上万太郎以外は、いずれも襦袢一枚を着せてあり、死体は三日間曝し、罪状を記した札(罰簡)は三十日間建てられたという。河内衣摺村の杉山三平は刎首になり獄門、千日墓地に曝されたこともわかる。

 【宝樹寺にある鳶田刑場題目碑 略】


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