Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.6.15

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「洗心洞通信 47」

大塩研究 第59 号』2008.9 より

◇禁転載◇


◇〇八年二月例会

 奈良合同法律事務所の弁護士吉田恒俊氏による「司法はだれのものか−刑事裁判の現状と裁判員制度−」と題する講演が、〇八年二月二三日午後一時半からPLP会館で開かれた。司法は国民のものであるという考えから、過日の鳩山邦夫法相の「菟罪」発言によせて、志布志事件・富山再審事件を例に刑事裁判の現状を紹介。このような事態を改めるために、〇四年五月に裁判員法が制定され、〇九年五月までに施行されることになつたが、その隠れた目的は、官僚裁判官に国民の血液を注ぎ込むことにあり、全国民を巻き込んで裁判員を選ぶ大事業である。裁判は死罪・無期懲役にあたる重罪の一審に限られるが、実際密室で行われる取り調べの可視化、調査の任意性の尊重、マスコミ報道のあり方など、菟罪予防の問題点をくわしく、わかりやすく説明された。

 また、今回大塩平八郎の「一身の温飽天に愧づ」の書幅を持参され、奈良県玉置神社の宮司罷免事件の裁判を十津川村の氏子総代H氏から依頼された時に、同氏から大塩のような裁きとの思いをこめて吉田弁護士に届けられ、鈴木良・酒井一両氏の調査につながった経緯も語られた。この軸の字は一部脱けたり逆になつたりしている点もあるが、関防印・落款もまちがいないと思われ、詩と箱書の「栢蔭」(田中)について酒井氏が補足説明を行った。昨年伊丹市立博物館の大塩展にも出陳された。ちなみに同氏は大塩邸の斜め向かいのお生まれ、一九四五年六月の戦災までこの地に住んだという。不思議な縁が重なつて軸の発見、本会の講演に結びついた。

 当日の参加者は、〈略〉計一七名。

◇大塩中寿忌・講演と研究会総会

 〇八年三月二九日午後一時三〇分成正寺本堂において、同寺主催の 「大塩父子及び関係殉難者懇親平等慰霊法要」が有光友信住職の回向によって営まれ、本堂前の墓碑、本堂裏の大塩家墓所に展墓した。

 その後、本会主催の講演が行われ、本会副会長の井形氏が「還暦でめぐり会った大塩研究の人びと−おもしろきかな、わが人生−」と題して講演した。井形氏は、還暦後本会に入会して二十数年。大塩の与力辞職時に似た今日の社会情勢を憂いながら、氏が大塩について抱いたいくつもの疑問に挑戦。徹底した現地主義と史料調査によって本誌などに数々の力作を発表。美吉屋五郎兵衛宅大塩潜入と太閤下水、大塩の政之丞と板曼荼羅、大塩天草逃亡説など研究の軌跡を紹介し、調査のなかで出会った人たちとの交流にも触れ、氏および会の大塩研究の到達点を二時間にわたつて語った。新聞・拓本など得意の史料整理によるレジュメも見事なもので、大阪らしい市民的歴史研究の真髄を示したものであつた。

 また、新しい研究を進めるために会の基金の必要を提案し、有志による蔵書などの販売オプションにも触れ、早速徳島の故岩佐冨勝氏の『天保の青雲−阿波人・大塩平八郎』(教育出版センター刊、一九八〇年)を同氏遺族から提供されて、会場で格安に販売し、基金に宛てられた(講演の内容は次号に掲載)。なお、『世界』本年四月号(七七七号、岩波書店)に「反戦投書 戦時下、庶民のレジスタンス」を執筆、焼却命令をうけた特高マル秘書類を文書係として保存してその内容を明らかにしたもので、東條英機や岸信介への批判など現物の写裏も掲載され、大きな反響を呼んでいる。井形氏の多面的な研究を物語るものである。

 講演終了後、総会が開かれた。酒井一会長の挨拶に続いて、常松隆嗣委員から会務報告(会誌第五七・五八号の洗心洞通信」参照)があつた。内田正雄委員からは、〇八年度の活動方針として年度内に一○回程度の講演会、門真市を含む三回程度の野外フィールドワークの実施、会誌の年二回刊行、「大塩の乱関係資料を読む部会」の毎月第四月曜日実施などが提案された。続いて久保在久事務局長から〇七 年度の会計報告(会誌第五八号掲載)があり、相蘇一弘会計監査委員から適正に執行されている皆の報告がなされ、いずれもが承認された。

 なお、自由民権家で大塩に心酔した島本仲道の『青天霹靂』と『島本仲道「青天霹靂史」(大塩平八郎伝・口語訳)「夢路の記(口語訳)、附録島本昭「司法大丞・島本仲道伝』(いずれもアピアランス工房発行、〇七年)が子孫に当たる島本昭氏(本会会員)から、参加者に献本された。島本氏の篤志に感謝する次第。

 当日の参加者は、(略) 計三五名。

◇五月門真例会

 〇八年度最初の例会は、「門真で大塩をみる・よむ・歩く」として、五月十八日、大塩の乱に参加した門真三番村の茨田郡士・高橋九右衛門にかかわる旧跡を訪ねた。午前一一時門真市立歴史資料館に集合し、常松隆嗣氏(本会役員、関西大学講師) の解説によって同館展示品を見学、門真 四番村(門真市元町)の庄屋馬場家寄贈品による特別展「節句の風景」、常設展幣原喜重郎展(門真一番下村)を鑑賞した。茨田家旧蔵の史資料、古文書、大塩著書、火事羽織、大塩書幅などを特別に閲覧させていただいた。昼食休憩後、京阪電車門真市駅に再集合し、同氏の案内で同村宇治 (門真市堂山町)の庄屋大西家、その向かい側の高橋家跡〜茨田家跡(茨田公園) 〜小路霊園(茨田家・岡田家などの墓碑)〜門真神社を見学、午後三時過ぎ充実した歴史のウォークを終えた。

 当日の参加者は、(略) 計一九名

◇七月例会

 七月五日午後一時半からPLP会館で、荒木傳氏(本会会員、日本社会文学会理事)による「『大塩平八郎』(森鴎外)に見る明治大逆事件の影」と題する講演が行われた。荒木氏は、長年初期社会主義研究を重ねるなかで、大逆事件と大塩事件に関心をもち、この二つの事件の共通項をいくつか指摘。その上で森鴎外の「大塩平八郎」の記述が、史実とかなり違っているが、それは鴎外が入手していた大逆事件の審理資料の内容が影を落としていたからという、重要な指摘を行った。例えば、乱最中大塩が「枯寂の空」を感じたというのも、死刑判決後に語つた幸徳秋水の言葉の影があると見ている。講演は順序よく整理された資料で明快にすすめらて好評で、続編を期待する声も聞かれた。

 詳細は本号掲載の論文、および「大塩と私」(10)を参照されたい。当日の参加者は、(略) 計三七名。

◇八月例会

 〇八年八月二四日午後一時半から成正寺で、松永友和氏(関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター)が「坂本鉉之助と大塩平八郎」と題して講演した。「時代を生きた二人の武士」と副題して、坂本と大塩の関係、乱との関わりを探るとともに、乱後の坂本自身に焦点を当てて在坂武士のあり方を追究した好内容であった。坂本についての研究は少なく、一部誤った情報があるなかで、東北大学附属図書館の狩野文庫の史料、大坂代官竹垣直道日記をはじめ多くの基本史料をおさえて、乱の情況、乱後の褒賞から在坂武士の知的活動、坂本家の家柄・砲術を取り上げ、幕末浪華三傑の一人としての特徴、墓碑などに及んだ。坂本の全体像に取り組んだ斬新、画期的な人物史報告である。

 当日の出席者は、(略) 計三一名

◇平野屋新田会所を考える会

 この会(代表・佐久間貴士大阪樟蔭女子大学教授)から本会に対し、「平野屋新田会所を国史跡に!要望書のお願い」と題する、大阪府大東市長宛の要望書への協力要請があり、七月五日付けで全会員宛に発送した。なお、同月十九日午後同市民会館で、同会主催の市民講座(その11)が開かれ、本会役員の藪田貫氏(関西大学教授)と同会佐久間代表が講演を行った。

◇大阪歴史博物館特別展「なにわ人物誌」

 〇八年一月一九日〜三月一〇日に、没後一〇〇年に当たる大阪最後の粋人平瀬露香(文化を極めた大富豪)と生誕一〇〇年に当たる人間国宝刀工月山(がっさん)貞一(大阪鎗屋町生まれ、誉れ高き月山鍛冶の技を伝えて) とその一門の特別展が開かれた。いずれも砂鉄・鋼に結びつく大阪ゆかりの人。

 播州千草(千種、現宍粟市)にルーツをもつ平瀬家の鉄山師・両替商の活動、幕末・明治期にわたる露香(亀之助)の文事・遊芸にわたる多彩な内容で、天保八年大塩の乱後発行された「浪花施行鑑」(為御救)も展示された。「七万二千六百九十四貫文、弐千六百拾四石分、弐百九十七両壱分、三貫十五匁」に及ぶ施行で金額・地名・人名を示した大関以下の東西番付の寄附。東の大関は加嶋屋作兵衛、西の大関は辰巳屋久左衛門、平瀬家の千草屋収十郎は東の前頭筆頭で一三〇〇貫文の施行。このほか、天保二年九月に「御救大波」に冥加銀を上納して東組与力磯矢与一兵衛・由比一郎助、西組与力安東三郎兵衛・内山藤三郎の名で千草屋宗十郎に宛てた請取証、慶応三年十二月に新撰組土方歳三と近藤勇の名で金四〇〇両を翌辰年五月晦日まで月四朱の利息で借りた証文もある。もちろん倒幕と戊辰戦争の中で返されなかったであろう。ちなみに露香の小さな墓は、大塩家菩提寺成正寺のすぐ東隣の妙福寺墓地にある。

 併催された月山刀鍛冶は、戦後大阪から奈良県桜井市三輪、狭川のほとりに移った。刀工の名は山形県の月山に因み、羽前村山郡笹川村出身の月山貞吉(さだよし)が文政年中江戸の水心子(すいしんし)川部正秀に学び、師とその子の死後文政八年ここを去って所々をめぐり、天保の初め大坂鎗屋町に移住したという。跡地に、貞吉の後を受けた「月山貞一旧居跡」の碑がある。名工の誉れ高く 「自(より)勲貴閥閲以逮(およぶ)武夫吏率来」といわれた。

 さて、ここに頼山陽の長詩がある。読み下すと「大塩子起、余が旧著『外史』を索(もと)めて曰く、坂西市尹(しいん)観んと欲すと。吾れ尹を識(し)らずして、子起を識る。一部を挙げて子起に贈る。子起、喜び謝するに、其の佩刀を以てす。之を賦してこれに答う」。山陽の『日本外史』を大塩が欲しがり、大坂西町奉行所新見(しんみ)伊賀守がこれを見たがっている由を伝えたので、一本進呈したところ、大塩が喜んで佩刀を礼として返してきたという。詩には「君が刀、疑うらくは姦邪を斬るを経たるかと、魚腸紋間血痕し、吾が書は、字々、すこぶる此れに類す」と相和している。

 この一件をめぐつてはトラブルを生じ、そのことを伝える文政十三年九月十八日付および同年同月十八日付の秋吉雲桂宛て大塩の書状について、相蘇一弘氏の『大塩平八郎書簡の研究』第一冊(清文堂、二〇〇三年)に解説があり、九月十八日付の書状は木崎好尚『頼山陽書翰集 続編』(一九二九年、のち復刻版、名著刊行会、一九八〇年)に写真が収められている。ところで、この詩にいう大塩の佩刀のことだが、安藤英男『訳注頼山陽詩集』(白河書院、一九七七年)は、月山が造った九寸あまりの短刀と する。とすれば文政十三年(=天保元年)の月山はだれを指すのか。大坂鎗屋町に住み移った貞吉(弥八郎、一八七〇年七〇歳没)の件なのだろうか。かれの名が響いたのは天保期からのようだ。特徴的な綾形紋様のある天保三年極月廿二日月山貞吉作の刀が残されている。刀好きの大塩と月山を結ぶ証拠が今一歩求められる。

◇松本乾知、病重し

 田能村竹田がその子太一に送った天保六年七月十一日付書状に「松本保三郎も、弥難症ニテ、盆後迄ハ六ケ敷様子、可憐事也、余期後便」と報じた。竹田が蕪村の作品を愛した吹田村の代官井内左門(逕雨)のもとに滞在すると知らせた便りの末尾にある。保三郎こと乾知は、大塩の門人の一人として期待を集め、洗心洞剳記の点校や大塩の著作の筆を執った。繊細な筆使いである。予想どおり乾知は七月十六日に二十三歳で死亡。翌七年三月に建てられたその墓は生玉寺町の銀山寺に以前と位置は変わつているが、今もあり、一時政野敦子氏が墓を守りされた。碑文は大塩の撰、同門生松浦誠之の書にかかる。愛惜の情を込めて大塩はその来歴を記し、もし数年を仮してその業を卒えしめば、大塩門の徐曰仁(王陽明の妹婿、王門の顔回ともいわれた)と称すべきとした。竹田もその名を知っていたというから、期待の人物だったのだろう。乾知の病を告げた竹田自身もほどなく八月二十九日に死亡した。

◇洗心洞老松の回想

 竹田の養子、田能村直入は、明治三十五年九月八十九歳の時、かつて直入が天保五年九月に大塩の門人となつたことを記した竹田から後藤碩田(大分県乙津の人)に宛てた書状に寄せて、洗心洞前にあつた古松を偲び、七絶を詠んでいる。「洗心洞裏賀新年 形似宮人心似仙 相共含杯又句 松風習々太平天」。明治三十年十月直入は成正寺に大塩の碑を建てている。昭和二十年の戦災で墓は毀損したが、戦後旧態の形で再建された(木崎愛吉『大風流田能村竹田』八、民友社、一九二九年)。なお竹田が天保五年および六年に大塩としばしば「議論激発」「議論如湧」き交流があったことも、この本で知りうる。

◇『和本入門』に学ぶ

 東京神田の誠心堂書店店主橋口侯之介氏が『和本入門−千年生きる書物の世界』(平凡社、〇五年)と『続和本入門−江戸の本屋と本づくり』(同上、〇七年)を相次いで出版。前者は帯に、「書物にも作法がある!」と説明があり、和本専門古書店主が実例に基づき基礎解説。和本の数え方も、一冊だけの出版は、全、完、単、二冊なら上下、乾坤(けんこん)、天地、三冊なら上中下、天地人、四冊なら元亨利貞、五冊は仁義礼智信、木火土金水。いやはや冊数の数え方にも思想が入っている。和本の保存にも話が及び、江戸時代最盛を迎えた日本文化の粋をわかりやすく解説。『続』には本誌前号に紹介した大塩の全蔵書の売立が再録されている。大塩の蔵事は河内屋喜兵衛ら四人の大坂本屋が売却を引請けたが、六百両を超える現金を即座に用意したのでなく、河内屋らが売り元になつて本の売立で用立てたもので、このときの取引量が大坂本屋仲間の語り草であったという。

 大塩の著作出版にも『洗心洞剳記』の「家塾蔵板」「精義堂蔵板」(間重新)、『儒門空虚聚語』の「藍室蔵梓」(斎藤方策)などとあるが、「蔵板」は寺院や素人が独自に開板して、その版木を所有しているもの、出版は本屋仲間で出す本、板元とは板株をもっている本屋のこと等々、わかりやすい用語解説もあつて便利。江戸時代の出版の三分の一は私家版で、これは町奉行所の直接の支配を受けなかった。大塩の著書に門人による「点校j がある。「点」は訓点を施したもの、「校」は校訂、校正で字句の誤りを直すこととある。

◇千年王国的民衆思想

 朝日新聞〇八年一月二八日付 月曜コラム」の「この人、この話題」に一橋大学名誉教授(日本思想史)の安丸良夫氏が「民衆思想」について書いている。ヨハネ黙示録に由来するキリスト再臨信仰が、日本の幕末の世直し騒擾、「ええじやないか」、松方デフレ期の農民騒擾を例にとって、近代社会的な通念をこえて民衆運動として展開すること、一八世紀イギリスの食糧暴動と世直し騒擾の類似などを示して、千年王国主義的民衆運動 という概念は、キリスト教圏を越えて普遍的な意味をもつようになったと指摘した。近現代の世界史的な構造はこの視点から捉えられるものではないかを問い、歴史研究もこの視点を光源の一つとして今日の生活窮乏から脱出する手がかりを得たいと語っている。

 このコラムの見出しに「暴力」「狂信」のラベル貼る前に〃とあり、利潤原理・市場原理によらない民衆内部の組織原理を考えるべきとする。ここではたと思い当たることがある。一つは大塩自身も「僕ハ素々狂者」と自覚しているものの、大塩の乱について当時でもいまでも大塩を「狂人」と見てその乱に疑義を唱える考え方である。もう一つは檄文の中で、堯舜・天照皇太神・神武の名を挙げて仁政の再生を求めていることである。この二つを解くのに、安丸氏の言うように近代世界への転換期に千年王国 的民衆運動が普遍的に登場するという考え方が示唆を与えている。こうなると、大塩が民衆とともに立って乱に至ったことも、世界史的に見れば、陽明学からの解釈は必須だがさらに広い問題を含んでいたと考えたくなる。

◇奉天命致天討候

 産経新聞〇八年二月一九日号「きょうの言葉」に、婁正綱(ろうせいこう)氏が色紙に二行書きした見出しの文言とその解説が掲載された。天保八年(一八三七)二月十九日は大塩決起の日、その時配布された劇文の最後の一句である。天命といい天討といい、大塩の著作によく出てくる字句。大塩は単なる時勢への鬱憤や私欲から起ったのではなく、天命を奉じ天の名で討伐を加えようとしたのである(K氏提供)。

◇大塩平八郎の 間違い〃に部内騒然

 前項に掲げた産経新聞の女性・書家による大塩の名文をめぐって、印刷寸前に「天討」は「天誅」の聞達いではないかと、同紙の校閲係で問題になり、部内がざわついたという。〇八年四月二日号に「校閲日記『某月 某日……』にその一コマが紹介されている。「天討」は辞書になく、書家の先生の字は今さら直せないと頭を抱えていたところ、インターネットでこの語に行き当たって胸をなで下ろしたそうだ。校閲記者が紙面の刷り上がるまで真剣勝負している姿を垣間見て、大変うれしくなった。この熟語は、檄文でみると、文末の一行は明らかに「天討」だが、本文中のは「天付」とも思われ、それについて二〇〇〇年三月二七日付の「大塩関係資料を読む会々報」で、安井浩二氏が「大塩『檄文』中の問題点」として一文 を寄せている(井形正寿氏寄)。

 しかし、よく見て用例を考えると何のことはない。「天付」という熟語もあるが、大塩の版下のせいで板木師が戸惑ったのかもしれないが、「天討」と見てよい。この熟語は、諸橋轍次氏の『大漢和辞典』にも、「天が悪人を打つこと、転じて、有徳の人が天に代わって行ふ征討。天誅と同じ」とある。大塩も著作の中で「天討」の語を使っている。幕末には「天誅」の語がはやるので、檄文を不用意に紹介したものに 天誅」とする例が散見するが、これも思い込みによるミス。

◇黄檗宗法雲寺・大年寺の建築

 隠元が伝えた黄葉宗は、宇治の万福寺の名でよく知られるが、江戸時 代禅宗の中でも一際特色をもった活動をみせていた。大塩の門人で河内弓削村の豪農西村履三郎が乱に際して黄檗宗の寺をたどって仙台まで走ったことについてはすでに研究の蓄積がある。現在堺市に合併されている美原町の町史紀要『美原の歴史』特別号に、桜井敏雄・大草一憲両氏の執筆による『黄檗宗寺院の伽藍計画に関する研究−法雲寺の建築と伽藍計画を中心として−』(美原町教育委員会、一九八三年)を見ると、今井地区にある法雲寺を中心に黄檗寺院の伽藍配置の特徴を分析している。法雲寺は整った景観をみせて見事なたたずまいを伝えているが、本書の後半に仙台の大年寺が取り上げられている。四代藩主伊達綱村の畢生の大事業の一つとして造営された大年寺は、萩の東光寺、鳥取の興善寺とともに黄檗三叢林(檀林)といわれて格式の高いもので、享保四年(一七一九)の建造といわれる総門が当時の唯一の遺構で、他は新しい建物になっている。大年寺の歴史もこの調査報告にくわしい。

◇黄檗僧愛石

 大塩と交流のあつた愛石については、『中河内郡誌』(一九二三年)にくわしいが、その典拠はほぼ「河内人物誌」にあり、天保初年に「事ニ坐シ疑ヲ蒙り獄ニ投ゼラレ病示寂ス」と記されている。同趣旨が「河内名流伝」下巻にもあり、紀州の人で河内古市郡西浦村の宝寿禅寺(黄檗宗、今は無し)に住み、野呂介石に絵を学び、山水、水墨淡彩に妙、世に介石、町田竹石とともに本朝三石と称されたとする。大塩とよく交わり、これまた天保初め「連坐其乱繋于大阪獄、遂瘠死、 或云、事不于乱」とする。愛石は河内高安郡 垣内村の清水庵にいたことがあり、同郡恩知村の神宮寺(感応院)の作庭にかかわったという伝えもある。本会でも〇六年一○月に志村清氏の案内で見学したところである。河内で愛石に画を学んだ人物として、大県郡大県村の小山源左衛門千斎・同郡法善寺村の大谷重助品嵩、志紀郡弓削村の医師高田秋斎・同郡林村の里正(庄屋)麻野猪三太林叟などが確認できる。愛石と河泉の豪農層との文化交流がひろがつていた。

 問題は、愛石の獄死が大塩の乱とかかわりのあるものか。さきの「河内名流伝」は「或は云う、乱に関わざるか」としている点に留意すべきで、推定から乱にかかわったと見る説があるが、飛躍がありすぎる。なによりの典拠は「摂陽奇観」文政十年十月二十七日の項に「河州誉田八幡宮社僧富一件ニ付落着致し獄門に懸る事、僧愛石師も従是以前牢死被致候事」とある。乱以前の事件で牢死、大塩とのかかわりは、富籤一件か、なにか。今後の課題。

 なお、愛石の作品などについては、村上泰昭『美術論攷』(泰南庵、二〇〇一年)所収の「文人画僧愛石について」、同「黄檗僧愛石の書画資料(『史迹と美術』72−10、二〇〇二年)がくわしい。

◇話題の多い跡部良弼の行状

 前号にも跡部良弼のことを紹介したが、全国あとべ会の会員・跡部真氏 が『歴史研究』第五〇六号(〇三年七月)に、「天保十二年江戸城中で広まった噂」として、古河宿をめぐる跡部と仙台藩伊達家の悶着を紹介している。跡部は、水野忠邦の弟で天保八年の大塩の乱の時は大坂東町奉行。その後同十年大目付、同十二年勘定奉行、明治元年若年寄へと栄進しつづけた。天保十二年四月跡部は作事奉行堀利堅(大塩の乱の時、西町奉行)らとともに翌年に予定される日光社参に備えて日光見分を命じられた。跡部が目付佐々木一陽らと古河宿に着いたところ、すでに仙台へ初めて入封する伊達慶寿の一行が本陣に先着し宿札を掲げていた。これに対し跡部らが公用を嵩にかけて強引に宿泊。伊達家一行は宿の近くで野宿せざるをえなくなった。跡部らの行為に激怒した伊達家は、跡部と佐々木の両人の身柄引き渡しを求め、それが容れられなければ参勤のための江戸出府はしないと申し立て、外様大名の多くがこれに賛同したという。これはいくつかの史料に記録されている江戸城中の噂の一つ。

◇山崎國紀『評伝 森鴎外』

「鴎外没後85年、《鴎外神話》を打ち砕く」と帯に書かれた見出しの大著が発刊された(大修館書房、〇七年)。本文八四六頁、索引一七頁の力作で、さわやかな文体の「序」を皮切りに「津和野時代」から「鴎外、終焉に向かう」まで、生涯を十年に刻みながらの七部構成。日清・日露戦争と軍医総監の姿、国とか民衆に求められている何かを判断し実践する「先覚者」の姿を追い、一国の文学の設計者鴎外を描き上げた。鴎外と同郷石見人としての徹底追求。鴎外の「大塩平八郎」については、尾形仂氏の、大塩の汚名救出だけでなく別個のテーマがこめられているという示唆を受けて、この作品は、大逆事件よりゲーテの「ギョツツ」を意識していたとみる。鴎外は大正元年九月明治天皇死去ほどなくこの翻訳に着手した。ギョツツは、「正義の領主であるが故に、百姓一揆に首領としてかつがれ、敗北した」人物。山崎氏の大著をみながら、思想と行動を総括した大塩像を明らかにするヒントを得たような気がする。

◇浅草遍照院参詣

 家系研究協議会の関東地区例会が〇七年八月四日開かれた翌日、同会の有志とともに浅草寺を紡ね、ここから北東約五百メートルのところにある遍照院に参詣した。浅草寺は天台宗だが、末寺だつた遍照院は戦後聖観音宗に改められている。この寺は、河内国志紀郡弓削村の西村履三郎が、乱後伊勢の海会寺、仙台の大年寺を経て、浅草願人の冷月の弟子となり、病死後葬られたところである。乱とのかかわりで遺体は幕府に引き渡された。現在は八尾市弓削共同墓地に妻の由美とともにねむっている。寺はおそらく昭和二〇年の空襲であろう、焼失し過去帳も資料もなく、西村履三郎のことも知られていない様子。西村家と私の父方の祖母の本家とは姻戚に当たっていて、供養回向をと思って訪ねた次第。門前で履三郎を偲びながら合掌した。(家系研究協議会会報第二二号、〇七年一一号参照)(島 野穣氏寄)。

◇大坂西町奉行所の上金請取覚

 左に紹介する古文書をさる古書即売会で入手しそこなつたが、書店の好意でコピーを提供してもらつた。美濃紙で紙本紙装されていて、裏書きもあるがその分は省略する。

 伊丹屋重兵衛についてはよくわからないが、「寅」は天保十三年と思われる。その翌年御用金をめぐって敏腕の内山彦次郎と大坂豪商との激しいせりあいがあった。(志村清氏寄)

◇矢文高『怒り獅子 大塩平八郎』

 挙兵直前の大 塩門下生の心理状態を書いた小説、大橋健二氏の特別寄稿「大塩平八郎」がつけてある。大塩への関心のほどがうかがえるが、巻頭4ページ分の写真・図はすべて大阪市立博物館の一九七六年開催の特別展「大塩平八郎」からのコピーで、なんの断りもない。どういうことか (叢文社、〇八年)。

◇「菊水丸の墓横暴情」

 毎日新聞の〇八年四月一七日号に、河内音頭の唄い手で知られる河内屋菊水丸が、大塩平八郎を取り上げている。天保の飢饉の際、蔵書約五万冊を売り払って民衆に分けたというエピソードに感動。京都府南山城村の自宅地下資料室に保管する自分の本、レコード、CDは約五万点。思い入れのあるこの収集品を前に、平八郎が蔵書を手放す時の心境を思い量っている。歴史の評価も自らの人生とかかわって考えることの大切さを教えている。成正寺の大塩父子の墓前に合掌する菊水丸さんの写真もある。

◇戒能通孝『法律時評』

 岩手県の農民の入会権喪失をめぐる小繋事件の弁護人を務め、ベトナム戦争や水俣病などを通して国家や権力への厳しいまなざしを向けた戒能氏の生誕百年を記念して、標題の大冊が刊行された(〇八年、慈学社)。学問と実践を統一した人物。日本評論杜発行の月刊誰『法律時報』に一九五二年から七三年まで毎月掲載された珠玉の時評の総集編である。その中に七二年四月に書かれた「警察官僚は卑劣であつた」という一文があり、この年二月に起こった南軽井沢の浅間山荘事件を取り上げ、山荘に逃げ込んだ五人の赤軍派を前に、警察が大がかりな対策を立て、土のうを築き、放水し、ガス弾を打ちまくったりしなければ山荘の踏み込めなかったのはなぜか。理由は簡単「彼らが怖ろしかったからではないか」として、杉浦明平氏の『渡辺崋山』からの引用を示している。大塩事件のとき、大坂城にひっこもり、いかにもコワゴワ評議だけした上に、ようやく出陣した跡部山城守が落馬し、「大坂天満の真ん中で、さかさ馬からおっこちた。あんなよわい武士見たことない。役高三千石ただすてた」とひやかされた話を紹介し、浅間山荘事件にはこの種の臭いがしないこともないとしている。

◇過去に現在を、現在に過去を読む

 関西大学の竹内洋教授が標題の内容で或る本の紹介に、「現在の 出来事を眺めることが過去の出来事の理解を容易にし、過去の出来事のなかへ沈潜することが現在起こっていることを明らかにする」(ノルベルト・エリアス)という言葉を引用している。歴史と現在との密接な相互関連を示す言葉。歴史を単に過去の事象として見ることの非を教えている。

 最近目にした二つの新聞記事を挙げよう。いま世界で食糧の不足と高騰のため暴動が起きている。ソマリア、エジプト、カメルーン、コートジボワール、セネガル、ブルキナファソ、エチオピア、マダガスカル、インドネシア、フィリピン、バングラデシュ、ハイチなど。国連の世界食糧計画(WFT)は、三〇か国で食糧危機、うち二三か国が深刻な情勢とい う。

 一九八〇年五月韓国光州市で軍の横暴に怒った学生や市民が軍に対して武器を持って立ち上がり、弾圧しようとした軍と衝突。この光州事件で死者二百人(二千人という説もあり)、負傷者約二四〇〇人。映画「光州5・18」に取り上げられ、昨年韓国で大ヒット。

 この二つ、そしてミャンマーのサイクロン被害、中国四川大地震という災害、政治腐敗を見ると、通信子は食糧問題、打ち続く災害、政治腐敗と真っ向勝負した大塩の乱とその時代を思わざるを得ない。歴史を解く方法はなによりも現代から生まれてくるはずだからだ。

◇大塩の内なるnoblesse oblige

 大塩の行動を民衆とのかかわりで評価することは正しい観点だが、大塩はなぜ民衆のために「王者の兵」(吉田松陰の『講孟剳記』)とよぶべき乱を挙げたのか。もとより陽明学の言う「知行合一」の哲学によるのだが、なによりも武士の政治責任にもとづくものというべきであろう。民衆が政治の主体になりえない前近代において、中国の哲学は治者のあり方を問い続けてきた。儒教が政治哲学の根幹にあるべきとする考えからノブレスは最大の責任を負っている。

 その中で、つぎの言葉は示唆に富んでいる。石川淳編『鴎外選集』(全二十一巻、岩波書店)に解説を書いた小堀桂一郎氏は言う。

 ノブレス・オブリージはフランスの諺で、貴族たる者(一般的に、身分の高い者)は身分にふさわしい振る舞いをしなければならないという意味。大塩が自分自身と門人の武士、豪農、村役人に求めたものもこの言葉で説明ができそうである。引用文の後半にある「返忠」については、永井荷風が『隠居のこごと』の中で、鴎外の『大塩平八郎』の主題として(未だ覚醒せざる社会主義〉と並べて、(陰謀の密告に関する道徳的意義の如何)を重視していることと関連した指摘である(小堀桂一郎『森鴎外−文 案解題・創作篇』、岩波書店、一九八二年)。

◇鈴木茂三郎の「知行−致」

 「あなたは日本社会党そのもの」と帯に書かれた『鈴木茂三郎選集』第 三巻(大内兵衛・向坂逸郎監修、労働大学刊、一九七〇年)を見ると、モサさんは色紙に揮毫を頼まれた時に、ふるさとの愛知県蒲郡を思って作った「山を見よ父をみるごと 海を見よ母を見るごと故郷はよし」をよく書いたそうだが、一九六五年ごろは、大塩平八郎の「知行一致」をなるべく書くようにしているという。「理論と行動の一致」を顕現しているからと、これをエッセーの題に挙げている。本来は「知行合一」が正しいのだが、内容は全く同じ。広い人脈をもった鈴木茂三郎について、選集全四巻 の完結に当たつて、松永安左衛門(電力研究所理事長)が「まっ正直な正義漢」という題で「節操を持して信ずる道を断固歩るいた意志の強い良き明治人」という賛辞を贈っている。

◇岡林辰雄と「知行合一」

 一九四九年に起こった「松川事件」の弁護人として、その無罪を勝ちとるのに奔走した岡林弁護士は、エリート意識のない人と評され、インテリ嫌いと言われていたが、若いころ、旧制六高から東大法学部学生時代にかけて王陽明の 知行合一説の影響を受け、その思想に立って果敢な弁護士活動をし、実践的な「事実の論理」によって冤罪の人びとを救った。与謝野晶子の「劫初よりつくりいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ」から引用した自伝『われも黄金の釘一つ打つ』(大月書店、一九八〇年)に詳しい。

◇山本周五郎「大塩平八郎」

 山本周五郎全集未収録作品集16『抵抗小説集』(実業之日本杜、一九七九年)に「大塩平八郎は偉人伝中の人ではない、悪く云うと一種の奇人であろう」で始まる小篇が収められている。「何故不利な戦いをしたか!」。警世の木鐸を打ち鳴らすためだったが、「ひとたび怒を発すれば利害を弁ぜず起ち、その奇矯なる性のゆえにこのことに及んだのである。そしてじつに、大塩中斎の存在価値もそこにあったのである」として、竹越与三郎の『日本経済史』を引いて「しかく民乱を生ずるに至ったる一事は、幕府が経済上より同一原因をもって倒れざるべからず運命を暗示したので、このことたるや陳勝呉広にも比すべきものである」とその評価を示し、「彼もまた無くてはならぬ人物の一人であつた」と結んでいる。陳勝は、中国秦末の武人で、二世皇帝の時、呉広とともに屯長(たむろしている軍の長)となり、のちみずから立って将軍となり、乱を起こして秦の滅亡の端を開いた人物。(岸本隆己氏寄)

◇『叢書・日本の思想家31 佐藤一斎・安積良斎』

 中村安宏・村山吉廣編、明徳出版社 〇八年刊。中村氏担当の「佐藤一斎」には全二四章のうち、15・大塩中斎との交流、16・大塩平八郎の乱の二章がある。一斎と中斎とのかかわりはかねてから多くの考察があるが、王陽明による『大学古本旁釈』(清の李網元編の叢書『函海』所収本)に一斎が自らの補足を加えた『大学古本寿旁補』を文政一二年に完成 させた。中斎は『古本大学刮目』(天保七年刊)に「古本大学旁狂」を収録するが、これは『函海』本のほかに『百陵学山』(明の王文録の叢書)所収本をも参考にしている。『旁註』の写本が東京都立中央図書館河田文庫(幕府儒者河田迪斎の蔵書)にあり、「柵外」に一斎が「大塩」の名を挙げて書き込みしている。一斎は、陽明学を乱の原因と見る当時の風潮の中で、「理学真偽論」から公平の心をとり自己の実功を説いて、「必死を期して狂言を吐く」中斎の実学の立場と距離をおき、相次ぐ一揆を前に乱は「気運」に足をすくわれたもので、中斎の修養の仕方に問題があるとみた。陽明学そのものは弁護したという。中斎の学問も、荻生茂博氏の指摘する「朱王折衷」という「異説」であると見る。一斎は、寛政四年大坂に遊学した時、間大策の家に宿泊し、壊徳堂の中井竹山に師事したこと、朱子の言う「新民」に対して王陽明の「親民」の「民」は一斎によると被治者でなく人間一般を指すなど、興味深い説明もある。本書の説の当否は議諭したいところ。この本の情報は倉島幸雄氏の提供による。

◇『本山コレクション金石文拓本選』

 関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センターから、文化遺産学叢書7として、関西大学博物館所属の本山コレクション金石文拓本(日本の部)のうち七〇点が図版と解説を付して出版された(〇八年三月)。もともと大阪の近世郷土史研究で知られる木崎愛吉(好尚)の採拓にかかり本山彦一に譲り渡されたものである。近世大坂を中心に広域に広がるが、文書史料の対極にある貴重な金石文の紹介である。大塩との関連のあるものでは、坂本剛毅君之碑銘、大塩平八郎および同政之丞による大塩家墓碑、塩田亀幼夫婦墓碑、篠山小竹墓碑、近藤守重(重蔵)墓碑がある。松永友和氏による「大塩の乱『勇士』としての坂本鉉之助−木崎愛吉旧蔵「坂本剛毅碑」拓本の意義−」の解説が付けられている。

◇『なにわ・大阪文化遺産学研究センタI二〇〇七年』

 本誌前号の本欄に紹介した関西大学の第四回NOCHS文化遺産学フォーラムが、中野三敏氏の基調講演およびパネルディスカッション(本会の活動の紹介あり)が記録、発刊された(関西大学、〇八年三月)

◇『岩手の民衆史』第15号

 岩手に残されていた「大塩の乱」関係記録の第二部未刊資料が武田功氏の編で発表された。前号に続いて、史料五「具太久多噺」上、六「大坂乱妨之一条」、七「大図日紀J、八「浪花騒焼記」坤の四点による特集、檄文・乱の経過などを掲げていて、岩手でこれだけの史料が伝わっていることに改めて乱の衝撃、伝播の広がりに驚く。「大図日記」は『北上市史』の省略部分を天保期の一揆への関心から掘り起こしたもので、ここには西城州田辺村(京田辺市)百姓方へ張り付けてあつたとして檄文が紹介されている。この近くに久世郡寺田村(城陽市)の庄屋筋堀鉄蔵の詳細な大塩記録があり、中瀬寿一・村上義光両氏が紹介、分析している。八の史料は勢州の河合寺(海会寺)の剛岳坊、松田軍治(茨田郡士)なども登場する講談風記録、武田氏は近畿地方の人の作品と見ている。壮大な一揆をたびたび闘った岩手県で大塩が記録され、民衆の眼でそれを精力的に発掘する同氏の努力には感動する(〇八年六月、岩手民衆史研究会)。申込みは送料込み千円、武田功名義の口座あて送金されたい。(略)

◇荻生茂博『近代・アジア・陽明学』

 〇六年二月に五一歳で急逝した本会会員荻生氏の遺稿が、友人五人による論文集刊行会の手でまとめられた(ぺりかん社、〇八年)。「方法としての東アジア『実学』」を序として、T幕藩体制の確立と藤樹・蕃山、V大塩中斎と幕末思想、Vアジアの近代と陽明学の三部構成で、同氏の研究業績一覧も掲げられている。大塩についてはVで 「大塩中斎−反乱者の人間学」、「大塩中斎の思想的位置−「狽狂」批判及び朱王の関係をめぐつて」、Vで「近代における陽明学研究と石崎東国の大阪陽明学会」が取り上げられている。徳川陽明学についての定説に根本的疑問を投げかけ、「体制擁護の理論である朱子学に対して、改革と抵抗の側に立つ儒学という思想像。それを代表するのが、公儀に対して反乱を起こした大塩中斎であるとされてきた」ことを改めて問い直し、「中斎が学んだのはむしろ陽明学と朱子学との折衷をめざす潮流であつた」と苅部直東大教授の書評(〇八年、朝日新聞)にある。また刊行会による「あとがき」によると、荻生氏はテキストの精読とそのテキストを生み出した歴史的社会的コンテキストを解明するという二つの方法によって、日本思想史、ことに儒学思想史の領域を広げたという。日本の儒学の出典探しをめざして膨大な中国文献の森に踏み込んだスケールの大きな研究で、さすが荻生狙辣の子孫だと 敬服する。中斎と朱子学「正学」派との対立が、明来、清初の思想史を前提になされていたことを解明した功績は大という。中国語・韓国語でも発表された力作は日本をアジアの中に位置づけるもので、根源的な問いかけをアジア的規模で精緻な論証と理論で示した荻生氏の逝去は、これからの深化が期待されただけに、またこの種の堅実、壮大な研究が乏しいだけに実に惜しみて余りある。

◇加藤宏文「天保の飢饉・大塩平八郎の乱と北村」

 『地域研究いたみ』第三七号に、伊丹市北村の飢饉中の天保八年三〜四月の難渋助勢米銭、大塩の乱に際しての人相書、江戸評定所裁決後の仕置捨札などが紹介されている。

◇講談毎日亭

 〇八年八月一〜七日の間、「雀のおやど」(大阪市天王寺区舟橋町)で標記講談が開かれ、以前本会にも出演頂いた旭堂南海師の「決起、大塩平八郎」のほか、旭堂南青「木村長門守重成」、旭堂南湖「三国志」が講談を演じた。

◇家系研究協議会講演会

 〇八年七月二七日大阪市立弁天町市民学習センターにおいて、標記講座が開かれ、本会会長の酒井一氏が「大坂東町奉行所与力大塩平八郎の人物像」と題して講演した、参加者は本会会員を含めて約五〇名。開館時間ぎりぎりまでの大塩の人物像・歴史研究の現状と課題〃等、熱の入った講演で、参加者に深い感銘を与えた。

◇郷土(尊延寺)の歴史と風土

 本会会員で枚方市尊延寺に在住の山下喜弘氏が、〇八年六月十七日、地元小学校で標題の講演をし、大塩事件の概略、尊延寺との関わりなどについて解説した。

◇寄付金の御礼

 K、Tの両氏からいただきました。記して厚く御礼申し上げます。

◇会見の訃報

 糸川精一氏 〇五年一一月一九日の研究会三〇周年記念行事に参加して入会。〇八年三月一七日死去、六九歳。横浜市生まれ、日本大学卒業後、大阪読売広告社に勤務し、取締役社長、会長を歴任。豪放・轟落ななかに豊かな芸術性をもち、独創的な広告活動を展開。梅田三番街の街づくり、ワイアート.ギャラリーの社長として多彩な芸術家の活動を支えるなど、大阪を中心に広く文化の発展に尽力されたり著書に『地域活性化イベント入門』『キタの街おこし自分史』(いずれも日本機関紙出版センター」など。本会例会にも熱心に参加され、渡辺武氏らによる大阪歴史懇話会の常連でもあった。「よみがえれ大阪!市民勝手連」の生みの親で、その支持で〇三年大阪市長選で善戦した元大阪城天守鮒館長渡辺武氏(本会金魚)が葬儀で心温まる弔辞を述べた。


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