Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.6.17

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「洗心洞通信 48」

大塩研究 第60号』2009.3 より

◇禁転載◇


◇〇八年九月例会

 九月二〇日午後一時半からPLP会館で、加地伸行(大阪大学名誉教授、立命館大学教授、本会会員)先生が、「儒教研究の諸問題」と題して講演した。同氏は、広い視野から宗教としての儒教を世界の中で位置づけ、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの広がったヨーロッパ、西南アジア、東南アジアに比して、東北アジアにこそ儒教による祖先崇拝が根底に生きているとした。中国の官と吏の違い、日本と対比して,忠、誠の概念が異なるものであることを指摘した。深い学識に裏づけられた内容で、一見難しそうな儒教を現代社会をも視野に入れてユーモアたっぷりに語りつくした。多くの示唆をうけた講演であった。

 当日の出席者は、(略) 計二八名。

◇一〇月(吹田)例会

 〇八年一〇月二六日午後、JR岸辺駅集合で実施された。久しぶりの野外フィールドワークで小雨模様にも拘わらず二三名の方が参加し、吹田市内にある「泉殿宮」など大塩平八郎ゆかりの施設を紡ねる。

 JR岸辺駅を一二時四〇分に出発。吹田貨物操車場跡の地下道を抜け、一部に旧家が残る「旧岸部東村集落」を通り「旧中西家住宅」へ。中西家は淀藩の大庄屋で江戸時代後期の住宅建築が残されており、国の登録有形文化財に登録されている。現在は「吹田吉志部文人墨客迎賓館」として吹田市が管理し一般公開もされている。ボランティアガイドの皆さんから白壁の長屋門、重厚な構えの主屋や土蔵、数々の美術工芸品、華麗な庭園等について二時間近く説明を頂いた。また、「大塩と親交のあつた富農層らが集まり、陽明学の講義を受けた」との言い伝えを裏付ける様な平八郎書の掛け軸を特別に拝観。酒井会長からは「落款はないがほぼ間達いなし」とお墨付き。

 この後西国街道を横切り、所どころに松並木が残る「吉志部神社」の参道を歩いて、古代の瓦窯遺跡や吹田に少なくなった里山が残る「紫金山公園」へ。神社の本殿は一六一〇(慶長一五)年に吉志氏により再建された檜皮茸七間社造で国の重要文化財であった。しかし残念なことに〇八年五月二三日不審火により全焼。二〇一〇年の建立四〇〇年までに再建したいと、宮司・氏子等により準備が進められている。「吹田市立博物館」は紫金山公園の一角にあり大塩関係では、天草島に遠島になつた宮脇志摩の長男発太郎の明治三年の赦免状や大塩平八郎画像入りパネル等が常設展示されている。今回は特別展開催中のため別室で見せて頂き池田直子学芸員の説明を受けた。そのあと平八郎の叔父宮脇志摩が第三二代宮司を務めた「泉殿宮」へはバスで移動。宮脇志摩のご子孫で、本会賛助会員でもある現宮司より神社名となった“泉殿霊泉″の由来、義兵時の志摩の動向等の話を伺う。ここで当初の予定は終了し一旦解散したが、会員の安部亮介氏から近くの浄光寺境外墓地に宮脇志摩の墓があると教えられ有志一〇名ほ どでお参りする。志摩の墓については本号で安部氏の詳しい報告が掲載されていますので是非一読下さい。(内田正雄)

 当日の参加者は、(略) 計二三名

◇〇八年一一1月例会

 一一月二二日午後、永井一彰奈良大学教授が「近世の版木をめぐって−入木と板前−」と題して講演した。長年京都を中心に近世版木の調査を進めてきた永井氏は、和本を解体して参加者に一丁ずつ配り、山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」の句を紹介して、研究の心境を語つた。岩波書店の『日本古典籍書誌学辞典』の「入れ木」の解説に、版木の文字の訂正のために近世小片を埋め込むとあることについて、送り仮名と返り点に多用されることを、拓本の写真と版本のコピーで証明した。数千枚の版木を精査した結論。また相合版(共同出版)についても、版木収録丁数を細かく列挙してその意味を説明した。研究には、現物と現地に当たるという原則を教えられた。大塩檄文の版木復刻を成し遂げた松浦木遊氏は席上、共感の意を表明し、ホームページ上で六万枚の写真が公開される日を期待すると述べた。近世文化はすごい。

 当日の参加者は、(略) 計二一名

◇「読む部会」忘年会

 「大塩の乱関係資料を読む部会」の一二月例会は毎年会場を他に移し、忘年会を兼ね行ってきたが、今年は本会の一部の方々にも声を掛け、有志による忘年会として一二月一五日に実施した。会場は昨年の「阪口楼」の評判が良く今回も歴史に関わる所ということで、江戸時代の庄屋屋敷を改築した「がんこ平野郷屋敷」に決定。

 会の始めは酒井会長のご尽力で来て頂いた旭堂南海師匠の講談難波戦記より『平野の地雷火』の面白・おかしい熱演を三十分ほど鑑賞。乾杯の後は、参加者全員の自己紹介を間に交え、飲んで食べて、大いに語る楽しい一時を過ごした。参加者の中からは、早くも「来年も是非」と言う声もあり、酒井会長も「案が浮かんで来た」と言われているので“乞う ご期待!″です。(内田正雄)

 当日の参加者は、(略) 計二七名

◇〇九年一月例会

 一月一七日午後一時半から成正寺で、長尾武氏(本会会員)が「安政南海地震津波の教訓」と題して講演した。

 同氏は、〇八年九月に発刊した、演題と同じ書名で−大地震両川口津波記−と副題のついた著書を配って、一八五四年の大坂の津波について克明な調査結果を報告した。あたかも阪神・淡路大震災一四年目の日にあたり、著書を参加者に配り、地道に深く研究した姿勢、謙虚な人柄と成果で感銘を与えた。大阪大正橋にある津波碑に突き動かされるようにして、かつて見たこの碑の意味を改めて再認識し、〇四年から調査を進めた。津波について、到着時間、高さなどを細かく検討し、丹念に古文書にあたり、先行研究の再検討に取り組んで、一級の災害研究者の有力な学説を修正することに成功した。また、津波の教訓を碑文から読み取り、その後の大阪の地盤沈下をも視野に入れた新しい観点を示した。近年災害の歴史が注目される中で、自然科学の研究と相まつて歴史学の役割を具体的に見事に示したものと言える。なお、本会会員でご希望の方には、会場で配付された著書が謹呈されるので葉書で左記へお申し込み下さい。

(略) 

 当日の参加者は、(略) 計三四名

◇〇九年二月例会

 二月二一日午後一時半から成正寺で小田忠(大阪商業大学商業史博物館学芸員)氏が 両替屋と釣り銭」と題して講演した。

 六百軒ほどあつた大坂の両替屋を本両替屋、南銭屋、銭屋などの仲間の種別で説明し、その店頭風景を図で示した後、鴻池屋新十郎家の大福帳を手がかりに、両替屋の業務を貸付、預り金・預り銀、両替、手形などで解説。江戸期の三貨の具体例を挙げ、川柳で詠まれた暮らしのなかの貨幣を分かりやすく例示した。「風鈴の下に一文世をのがれ」は風鈴の下に吊るされた銭から聞こえる涼しい音色に夏の風情を感じさせる句。最後に、日常生活で見られた釣り銭に触れ、千両箱にも説明を加えた。

 当日の出席者は、、(中略) 計三一名

◇森田康夫『大塩平八郎と陽明学』

 大塩について相次いで著書を発表してきた森田氏が、新たに大塩の思想を総合的に掘り下げた。大塩に影響を与えた呻吟語・孝経、大塩自身の著作、天照皇大神信仰、被差別民観、詩文にかかわる解脱、三宅雪嶺などに及ぶ。本誌既発表分とその改訂、新稿を加えて多面的な流れを追った成果である。中斎の名で取り上げられてきた大きな儒学思想の研究、広範な歴史学の成果、漢文学の深い読みなどから、この著書が投げかけたものを学際的に位置づけることが求められるだろう(和泉書院、二〇〇八年)。

◇松浦木遊さん、NHKテレビ登場

 〇九年二月二十四日NHK綜合テレビ「生活ほっとモーニング」の「お一人様を楽しむ」に登場。会社定年後新しい生き方を求めて自宅を改装、無量図書館を開設。山万点の図書と夕方からの「酒場」で地域に開かれた老後の人生再発見。わが会の名物会員の一人でその生き方が全国に放映された。「後期高齢者」といういま老人に不快感を与えている言葉もふっとぶ愉快な内容。大塩さんも「ワシも見習いたかった」と言うかも。この取材源は『読売新聞』〇五年二月月七日号の「ひとりのチカラ生涯自立をめざして」にある。

◇『漢詩人、岡本黄石乃生涯』

 東京都世田谷区立郷土資料館で〇八年十一月一日〜三十日に標記の特別展−第三章三百篇の遺意を得る者−が開催された。三回目の黄石展で、前回までの展示が黄石の生涯に焦点を当てたのに対し、今回はかれの漢詩を中心に開催された。詳細な出品の写其・解説とともに、村山吉廣・武田庸二郎・鈴木泉・重野宏一の四氏の論文、『黄石斎遺稿』など三点の付録などを載せた図録も刊行された。井伊家の菩提寺豪徳寺蔵の木造岡本黄石正座像{区指定有形文化財)も修復を終えて展示された。

 大塩とのかかわりのあるものを二つ紹介する。一つは、渡辺小華(崋山の子)筆の「模写『崋山筆売茶翁肖像』(明治十七年)で、天保八年二月大塩邸で決起直前に殺された宇津木静区(二十九歳、彦根藩家老下総の次子、黄石の二つ違いの兄)に因んで崋山が「天保鶏年龍御月晦日写為 岡本先生博粲崋山外史渡辺登頓首」と款喜した売茶翁の画像を模写したもの。「天保鶏年」は天保八酉年、「龍御月」は五月の異称とみられる。この月に崋山が彦根藩の役宅に黄石を訪ねている。他は、天保八年の江川坦 庵筆「甲州微行図」(静岡県指定文化財、財団法人江川文庫威)と、のちにこれに寄せて明治十八年江川家に乞われて黄石が書いた「古詩『題江川坦庵行旅図』」という長詩である。「微行図」にある大塩の乱後甲州を頬かぶりして探索する江川太郎左衛門と剣客斎藤弥九郎の姿はよく知られている。

 大坂との関連では、慶応三年十二月二十八日に詠んだ七言律詩の「夜下淀江」。鳥羽伏見の戦い寸前、二十九日から黄石は大坂城で老中板倉勝静と翌年正月五日まで連日会談、六日将軍慶喜が江戸へ走り、板倉もこれに同行する劇的な瞬間である。

 黄石が兄を偲んでその遺稿をまとめた「浪速小藁」(華頂山房梓、明治十五年)は、依田学海の序、門弟岡田穆による「宇津木静区先生伝」などを加えて編集、世に擯斥される陽明学への静区の思いもうかがえる。関連して一読の要。

◇大阪城天守閣特別展

 『徳川大坂城−西国支配の拠点−』が〇八年十月十日〜十一月二十四日開催された。図録には、部屋割りの判る大坂東町奉行所絵図(東京・国立国会図書館蔵)と周知の同東町奉行所図(東京・一橋大学付属図書館蔵)、川崎東照宮関係五点もある。

◇旭堂南海「大塩平八郎の渡れなかった橋」

 『月刊島民 中之島』二号(〇八年九月一日、編集・発行 月刊島民プレス)に、上方講談の期待の星・南海師が大坂のために命を賭けた大塩が渡れなかった天満橋と天神橋(こちらは渡ったのだが)に思いをこめて書いたエッセー。ええでっせ!。ときあたかも十月に京都出町柳駅から中之島線中之島駅まで開通する寸前の文章。同誌には「橋を渡る人の「街事 情」マガジン」と副題がついている。天保期、天神橋からだんじりが落ちた詰も欲しいのだが…。南海さんの続編を期待しよう。

◇柳瀬勁介と陽明学

 明治三十四年刊行の『社会外の社会 穢多非人』の著者・柳瀬勁介(明治元年〜同二十九年)は、九州筑前の生まれ、明治十七年に居住地の隣村にあった被差別部落の小学校に自ら進んで就職。その環境を見て救済の志を抱いたという。のち東京法学院・日本法律学校で法律を学び、あわせて大沼枕山ら儒者のもとで陽明学に潜心。この間中江兆民・杉浦重剛・大江卓らの門に出入りしてその啓発を受けた。同二十九年五月台湾総督府に勤め、被差別部落住民の移住を計画するところがあったが、病に罹り、渡台後五か月にして死亡した。命旦夕に迫る病床にあっても、被差別民のことを語りつづけたという。

 その死後、遺物の多くは遺言によって火中に投じられ、ただ所愛の大刀と酒瓢と王陽明の伝習録と、賤民に関する原稿のみが、権藤震二によって持ち帰られた。五・一五事件の陰の人物・権藤成卿の弟である。この遺稿が、原題を変えてさきの著書として東京の大学館から出版された。「えた」の称号をはじめ、解放令以後なお「習慣に依って継続せらるる」差別に対して、救済策の提言に及び、付録として浅草弾左衛門の由緒と西浜町の来歴も収録。

 この書に本文を寄せた人たちは、「柳瀬勁介は仁人なり」(島田三郎)、「氏ノ至誠世ヲ憂ヒ人ヲ愛スル情ニ感ジ」(桑原熊三)と記し、陽明学を奉じる「仁人」の姿に感銘を受けている。かれの経歴は、同書にある「小伝」に詳しいが、その子柳瀬道雄の伝える文章は、またそのプロフィールを語って余りない(『明治文化全集』第六番、旧版月報『明治文化』第十五号)。若い頃に見た被差別部落の実態とこれを歴史的社会的に解明するのに、陽明学が活かされていると思われ、まさに知行合一の書である。

◇若一光司『大阪 地名の由来を歩く』

 豊中市生まれの作家で、化石の採集の趣味が高じて地名の由来を一つひとつ訪ね歩いて「ナニワの魅力の再発見−!」。第一章「難波」から「大坂」、そして「大阪」へから始めて一一章で五一項目。第九章あの人の墓碑を訪ねて寺めぐりに、「成正寺『救民』の旗を戴いて蜂起した大塩平八郎」がある。大塩父子の墓碑とその横にある「大塩の乱に殉じた人びとの碑」を写真入りで紹介。「平八郎は、民衆に対する武士の政治責任を糺すためにこそ乱を起こしたが、それにより七〇〇人以上もの民衆に過酷な処罰が及んだ。その事実に、だれよりも平八郎自身が心を痛めているに違いない。そんな思いに応えるかのように、『殉じた人びとの碑』は大塩の墓よりはるかに大きく、立派に作られている」と結ぶ。御明察!(ペ ストセラーズ、〇八年)

◇紀州藩の大塩手配

 『松阪の部落史』第一巻史料編前近代(松阪市、〇八年三月)に、乱後直ちに紀州津が手配した文書が載せられている。天保八年二月二十五日には、大庄屋・胡乱者改・村役人・惣廻り非人番に、手に余るときは擲殺しても苦しくないと伝え、さらに地士・帯刀人へもそのことを心得させ、打ち廻りを命じている。「国々江手配有之」ともある。全国指名手配。同月二十六日付の文番、有名な人相書も掲載。四月十日には、大塩父子の「自 滅」を報知している(松阪市岩崎文書)。

◇天保飢饉と秋田の高橋正作に寄せて

 世界恐慌にまきこまれて農山漁村がどん底に落ちこんだ昭和十年三月に、協調会 米騒動後設置された労資協調を目的とする調査研究団体)は機関誌『社会政策時報』の特輯号「東北問題研究」を発行した。その中で小 野武夫が「明治中期に於ける一老農の飢饉観」を紹介している。小野はそれ以前に、編著『近世地方経済史料』(全十巻)第六巻に、老農高橋正作が明治十八年に当時の農商務省に提出した天保飢饉の実録『飢饉懐覧録』を発表していた。その後同じ秋田の老農の代表的人物石川理紀之助の孫から、高橋についての詳細な伝記を寄せられ、小野が改めて取り上げたものである。明治十年代明治政府は、機械的な西洋農法の移植に失敗して、日本の農業技術を伝える老農たちの知識に学ぼうとしていた。

 正作は、秋田県雄勝郡松岡村(湯沢市)に享和三年(一八〇三)に生まれ同郡小野村桑ケ崎(湯沢市)に育った。たびたびの飢饉を経験し、明治二十三年(一八九〇)に「飢饉問答」を著述した。没年ははっきりしないが、同二十五年九十歳の時に内務省から緑綬褒章をもらっている。この間答にはいくつもの重要な指摘があり、まず飢饉の周期について、およそ三十年の小飢、五十年の大飢という古人の伝えを語り、文化十年(一八一三)・文政十年(一八二七)・天保三年(一八三二)の大凶作・同四年の大飢饉(前代未聞の凶作)・同六年大凶作・同七年凶作・同十年大凶作の七か年の凶作を回顧している。

 飢饉の予知についても「青田褒むるは馬鹿」「春の旱りは凶作の兆候」という古来この地方で語られた予測を法則のように受け継いでいる。「青田云々」は、春候大いによく消雪早く苗代も挿苗も順調に進み、豊年の見通しに「昨年ノ凶作」を忘れて浮かれているうちに、実に哀れな年柄となることで、まるでいまの日本経済への警告にすら聞こえる。餓死の実態、死亡率の高さと出産の低下等々。

 その上で救済策の成功例を語る。雄勝郡相川村の盲人医師高橋玄達が雑食で飢えを凌ぐ病民を救うのに少々の粥でも医薬に勝ると教え、無料で施療し「巨多ノ病者ヲ救助セシハ、仁心ノ至リニ恥ザル徳人ナリ」との世評。また「上下一般備荒倉ヲ開キ翌年ノ秋穫マデ助命ヲ計ル」と藩と村方の救米施米に触れる。大塩の川崎官倉開放・豪商の施金要求とまさに通底する思想。そして「世ニ最モ尊ムベキハ人命ナリ」と生きる権利、人間の尊厳を明言する。この思想は、安藤昌益の哲学・米沢藩の「郷村手引」(『近世地方経済史料』第六番)の「人として世に惜しきは命にて候」の言葉・幕末南部藩一揆指導者三浦命助の名言など、東北に流れる強い思想である。

 ちなみに岩手の宮澤賢治が「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」と歌ったのは昭和六年十一月三日。「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ」「ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ」、心を悩ました頃、東北は農村恐慌に喘いでいた。前掲『時報』三月特輯号に、上田貞次郎・小田橋貞寿の「人口統計より観たる東北地方」と題す名論文が載せられている。そのなかに明治三十五年から昭和七年までの全国と主要道府県の出生百に対する乳児死亡率の累年比較表があり、より劇的には昭和七年の死亡千中幼児の比率を掲げ、全国平均三四八・六に比して、青森五二九.五、岩手四六五.二、宮城四三五.五、秋田四四三.四という数字が示されている。もって東北諸県の人口問題の要点を知るべきであろう。高橋正作の話からこの特集にいたる課題に、協調会は応えようとしていた。

◇旗本御家人、大塩に習えのアピール

 「天保飢饉 奥羽武蔵聞書」という記録がある(小野武夫編『近世地方経済史料』第六巻、吉川弘文館、昭和三十三年復刻)。著者不詳、奥羽、武蔵の天保四年の飢饉、同五年五月に幕府から奥州各藩へ出された布達、九年五月江戸で発布された倹約の町触を収める。そのなかに、天保四年九月に大坂町奉行所へこの年の作割平均の報告がある。東山道五八%七%、東海道六七%、北陸道四八.二%、南海山陽山陰道六五%、西海道六五%、関八州五一.七%、奥州三五.二五%、同年十一月四日の記録。江戸では三一万八九二〇人ほどに白米一万一九二七石程が施米されたという。一人当たり三升七合余。

 天保八年六月三日の朝、江戸小川町戸田長門守(下野国足利藩、一石二千石)の裏門脇の土蔵に張り紙があつた。「近来奸臣権を取り下情上へ不通」と書き出し、旗本・御家人の困窮を訴え、蔵米取りの者十人中八、九人までが、高百俵につき百有余両の借財を抱え、家名断絶の者がおびただしいという。難渋の町人たちへはたびたびの救米銭の手当がされているが、武家困窮の者には、少しの「御趣意」もない。そこで次の一文「同志の面々一統申し合の上、札差共其外有徳の町人に乱妨し、窮民を救ひ便宜に依り奸臣を討ち、総て大坂表の例に習ひ、兎も角も可相計候同志の輩も有之候はゞ、市中へ変事出来次第、其最寄へ早々集会可有之候、月日」。困窮、遠からず家名断絶と見た旗本・御家人の同志に呼びかけ、大塩の例に習い、檄文文言さながらの決起の訴え。幕臣の危機感が飢饉とともにここまで来ている。張り紙にある「奸臣」とはだれか。張り紙の張本人は明らかに檄文を読んでいる。この文章は、「浮世の有様六」にも記載され一部異同があるが、かなり広域的に流布したと思われる。

◇『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』

 深沢秋男氏が「井関隆子のエスプリ日記」と副題をつけて、標題の著書を出版(文春新書、二〇〇七年)。同氏は勤務先の昭和女子大学に寄贈された鹿島神宮大宮司家の一連の資料のなかで『井関隆子日記』に注目し、一九七八年勉誠杜から全三巻で紹介。これにいち早く注目したのが、ドナルド・キーン氏で朝日新聞に連載した文章の一つに取り上げそれをまとめた『百代の過客 日記にみる日本人』(金関丈夫訳、朝日新聞社、一九八四年)に収載されている。

 天保十一年(一八四〇)元旦から同十五年十月十一日にわたる日記で、古典の教養豊かに確かな目で天保改革前後に身近な家族や親類の旗本から入る情報を批判的精神で書きとめたもの。表向きの公的記録とは違った史実と視点がある。将軍家斉・新見正路・水野忠邦とその弟跡部良弼・中野碩翁とお美代などが素顔で登場する。隆子のなかに深沢氏は近代の眼差しを読み取っているが、女性ならばこその観察は日記全体に徐々にしのびよる江戸のたそがれを感じさせ、これを文学者の深い読みで日記に沿ってみごとに解説している。将軍家と京都の宮家との縁戚のひろがりは、尊皇討幕の思想からは読みとれない、朝幕関係のつながりを教えている。

 深沢氏には、ほかにも優れた仕事があり、『仮名草子集成』第十一巻(東京堂出版、一九九〇年)に、芦分舟・大坂物語・女式目井儒仏物語・女式目が収められている。「芦分舟」は大坂研究にとって貴重で、その一つ天満夫婦池は近松門左衛門・上田秋成の作品にもあって、のちには大塩がらみで再注目される地だが、江戸前期の史料として注目される。

 維新期江藤新平とともに司法省にあり、のち民権運動に身を投じ自由党にかかわり、代言人(弁護士)制度の創設者にもなつた島本仲道は、『青天霹靂』で実に鋭く適確な大塩像を書いているが、薩長藩閥政府による保安条例によって、「帝都」の外に追放された。その間の事情をまとめた『夢路の記』に後書きを添えた「翠園主人」こと鈴木重嶺(幕臣、佐渡奉行)についても、氏の考察がある。

◇足代弘訓の大塩評

 伊勢外宮の御師で国学者だった足代弘訓は、大塩との交流で取り調べを受け、インテリ特有の腰の引けた対応をしたことが知られるが、天保八年河本重樹(忠光)宛て残簡に、つぎのような本音を書いている。

 足代自身の率直な感想、江戸や旗本の好評に驚く。(伴五十嗣郎編、神道資料叢刊四『足代弘訓未公刊史料集』皇学館大学神道研究所、一九九三年)

◇大塩一行の伊勢訪問と足代一行の大塩訪問

 以前にも取り上げたかも知れないが、前項の『史料集』所収の「河本忠光筆『天保四発巳歳日次』(抄)」をみると

 忠光は、天保四年五月下旬から七月下旬にかけて、京都を遊歴した弘訓に同道し、その時の見聞が書かれている(伴氏の解脱)。その行動に触れた前掲「日次」から抄出すると、忠光は六月二十五日に大坂農人橋二丁目の両替屋山本屋伊右衛門へ着き、二十六日城代中屋敷へ出かけたあと、「七月三日 天満川サキ四軒屋敷、大塩平八郎へゆく」とある。

 同じ並びで月日ははつきりしないが、左の記事がある。

 なお、同四年十一月二十一日付、父河本若狭守宛て忠光書状には、「大塩平八郎と申名高き勇士御座候」で始まる大塩の与力時代、富士山と外宮・内宮参拝の記事がある。

 かれは、現在の山口県厚狭郡麹町方倉にある宮尾八幡宮の神主で、弘訓の門人。天保三年伊勢へ来て以後三年余の就学。その間の記録である。弘訓・忠光の大塩訪問を受けて、大塩が門弟とともに参宮したことがわかる。

◇本屋河内屋喜兵衛にみる情報源

 大坂の本屋が単なる書物の出版・販売に従事するだけでなく、貴重な情報センターになっていることは、もっと注目されてよいだろう。蔵屋敷が上方・西国のセンターだつたことは言うまでもないが、蔵屋敷に本を売り込み、種々の新情報をお互いにやりとりしていた可能性は大きく、本屋が各地と直結していたも一考の必要がある。

 伊予多度津藩士で大塩門人だった林良斎が、弘化三年(一八四五)五月六日付で同学の但馬宿南の池田禎蔵(草庵)に宛てた書簡をみると、「当地(多度津)へ之貴書、浪花書林へ迄御出被成候間、拙生方よりも碇(しか)と申付置候得は、可然旨委曲承知仕候、心斎橋筋北久太郎町河内屋喜兵衛方迄御差出被下候へば、拙生方へ大抵月々便御座候間、左様御承知可被下候、即当地之船載帰候間、少も間違ハ無御座候」とある。つまり但馬からの便りは、心斎橋筋北久太郎町五丁目の河内屋喜兵衛へ出してくれ れば、確実に船便で多度津へ届くというもの。河喜からは毎月良斎あてに便り、それこそメールが届く。

 同じく年欠の五月二十四日付、池田緝(草庵)から良斎あての書簡にも、以前但馬から上坂した者の便に托し、良斎宛の手紙を河喜方まで差遣し置いたともある。本屋が取次ぎをし、お得意さんへのサービスをしている。別の書簡からは、本屋経由大坂蔵屋敷へ届いて国元の藩士への取次ぎもしていた可能性も考えられる。

 また弘化三年と推定される六月三日付、緝から良斎あて書簡には、「高忠憲之遺書ヲ大坂書林ニ而取寄候処、洗心洞所蔵之本ニ而、右主人之書き入れ御座候本ニ御座候」と注目すべき記事がある。草庵が大坂の本屋で購入した高忠憲の「高子遺書」が大塩の書き入れのある旧蔵本だったという。例の蔵書売り払いの一冊が、但馬の陽明学者の手に入ったというのである。いまこの本が青谿書院にあるのかどうか未確認。高忠憲は、明末東林学派の新朱子学者。

 河内屋喜兵衛は言うまでもないが、大坂の著名な本屋、柳原氏。数々の出版物のなかに、大塩の「洗心洞箚記・洗心洞附録抄」「儒門空虚聚語並増入」「増補孝経彙注」「古本大学刮目」(いずれも絶版)に他の河内屋系本屋と共同売払人になり、乱直前の施行札配付のとき本屋仲間で大塩に協力している。以上『陽明学大系』第十巻(明徳出版社、一九七二年)から。

◇但馬の被差別部落と天保飢饉

 但馬国城崎郡のある被差別部落。田畑が少ない上にその土地すら失い、もっぱら日雇い稼ぎと草履草軽づくりの暮らし。天保の飢饉がもともと米不足の但馬を襲う。『万知歳代記』という村方の記録をみると、天保七年戸数十七軒のこの地区に本村から稗二石が養用に貸し与えられる。飢饉の進むなか、四月には本村から「御かい三度」「ひがんに御かい一度」等々。これに対して枝村であるこの村は、その都度くり返し「かたじけなく仕合」と書き綴っている。このことを『兵庫県同和教育関係史料集』第一巻所収の文書を使って、安達五男氏は、『角川日本地名大辞典』(一九八八 年)の月報40に「但馬宗五郎の訴えと天保ききん」で紹介している。差別意識を超えて本村、枝村の間で非常事態に当たって行われる「御かい」(粥)のもつ意味を評価している。同時に安達氏は、その二十三年前に、枝村の代表者の名で本村から加えられた松堀・石持・草刈など「無食」での労役を訴えた一件も紹介。代発者名は「取次宗五郎」とあったのをその名を消し実名の「太兵衛」に訂正している。「取次」とは、独自に村役人をもたない枝村の代表で、本村へ働きかけるときの肩書。そうだ、明らかに佐倉宗五郎の思いに違いない。

◇長崎県吉田武久氏からの便り

 島原市有明町の吉田氏(肥前国島原郡三ノ沢村出身で、摂州東成郡森小路村に住んでいた大塩門人の医師横山文哉の関係子孫)から、左の情報が届いた。

(1)文哉の長男太郎吉(一八二五年生、一八三九年流刑)と次男辰三郎(一八三二年生、一八四六年流刑)について、天草市苓北町白木尾の国照寺に無縁墓として祭られ、同寺の過去帳に二人の名前がある。天草市の鶴田八洲成氏の調査による。
(2)雲仙市国見町土黒(ひじくろ)出身で京都の本願寺から帰郷し、生家の光専寺に戻っていた雪香(せつこう)が、文哉の刑死後四、五年して飛田刑場で漢詩を読んだ。その詩が光専寺(住職・月抱竜師)にある。伊東豪健氏の収集史料にも記録されている。雪香は島原藩の藩主などとも交流にあつた文人で、文哉の遺骨を持ち帰ったともいう。

 これらの情報は、「有明の歴史を語る会」(会長馬場顕亮氏)と「横山文哉研究会」(会長横山清敏氏)の調査によるものという。

 吉田氏は、有明町の文哉生誕の地に建てられた「大塩平八郎の乱 横山文哉之碑」の写真も届けられ、建碑には横山清敏氏の物心両面にわたる尽力があり、自治会の人々の好意でいつも花が咲いていると添え書きされている。

◇平川新『開国への道』

 『全集 日本の歴史』全十六巻の十二、「江戸時代/十九世紀」に標題の著書がある(小学館、〇八年)。「変わる江戸時代のイメージjで新しく広い歴史像を描く、近年平川氏が精力的に進めている漂流民大黒屋光太夫、世論政治から庶民剣士(浪士組と新選組)に及ぶが、第五章「天保という時代」で「大塩平八郎の乱」を二九ページにわたって書く。△天満町に砲火とどろく/水戸藩への米移出と大塩、△大塩の抜け米斡旋疑惑/大塩の大金融通、△もう一つの金策/大塩の力、△大坂町奉行は無策無能だったか/「大塩焼け」の意味を問う。大塩べったりの評価に辛口の視点か。

◇台湾へ渡った大塩史料

 島野譲氏(本会役員、家系研究協議会事務局長)から台湾で見つかったという「大塩平八郎一件書留」(一)、(二)のコピーが届けられた。表題は後人によるものであろう。(こは乱当日の様子が書かれ、幟をはじめ鎮圧大名勢、「落し文」、召捕人名、焼失地域など、(二)は大塩父子などの判決文。(一)には、決起の時大根屋小左衛門宅へ大砲を打ち込もうとしたが、結局軒先を砕き空鉄砲にとどまったことが記されている。天 満のこの商人は周知の人物。

 興味深いのは、この史料が台湾に伝わっていたこと。このことを書きとめた家系研究協議会の安居隆行氏によると、昭和十二、三年頃鹿児島の軍人(当時司令官?御手洗氏)によって台湾に持ち込まれたものとのこと。持ち主は、台湾省龍山寺(ロンサンス)車站前(台北・タイペイ・市内の有名寺前)在住の洪載宝、八〇歳すぎで、元日本軍人で戦後工業関係の仕事に従事した。三国郁自氏が、〇八年七月二七日に同会夏の例会でたまたま酒井一氏の大塩の講演を聴いた直後、台北に仕事で出張。洪氏より譲 り受けたものという。安居氏によると幕末か明治初年の和紙、一は冊子で糸ぬきの形、二は一紙文書。

◇内部告発のいまとむかし

 大塩が在職中、上司の東組与力弓削新右衛門を奉行の支えで不正を暴き、決起の際には江戸の要人たちを告発した。そのことを会合などで話すと、聴衆から「内部告発だ」の声が挙がる。歴史をいまの世にひきつけての感想だろう。朝日新聞〇八年七月二〇日号に「警察官だから−愛媛県警裏金告発『孤独な戦い』友と」の記事が載った。巡査部長仙波敏郎氏がたびたび「ニセ領収書」を書くように求められて、断り、ついに思い切って三八年間の警察生活の中で見たことを記者たちに語るに至る。仙波氏は警察官を「天職」と感じ、「生まれ変わっても警察官になる」という責任感と 職業愛。長男が上司を殺害する事件を起こしたが、堪えて現職を貫く。心労の妻を亡くす。その上での生き方。これを支援する友が元産経新聞記者で、地元愛媛で月刊誌を発行する人物。歴史を読み解くには、目の前の社会から教えられることが多い。武士の責任を問い続けた大塩とこの新聞記事を前に考えさせられる。サムライの生き方とはこのことかと。

◇堀鉄蔵の諸記録の展示

 城陽市在住の石井氏より大塩事件に関係のある堀鉄蔵の猪紀録が展示さ れているとの電話を頂き、さっそく酒井一会長と見学に出かけた。

 場所は近鉄京都線寺田駅から近い城陽市歴史民俗資料館(通称、五里ごり館)である。八月一五日は今年も非常に勢い日であったが、資料館人口で石井氏と待ち合わせ古文書調査員の平文先生にお会いする。平先生は女性の調査員で堀鉄蔵の諸記録ばかりでなく、南山城地域の歴史などについてもご親切な脱明を受けることが出来た。

 堀鉄蔵は寺田村の裕福な庄屋(大庄屋格)の三男として生まれ、天保六年一五歳の時に怪我治療のため、四か月程大阪で暮らした。その時の見聞と国学や漢学に素養がある知識人であったため一七歳の時、大塩事件を聞き強い衝撃を受け、判断力・批判力が確かな記録を残させたものと思われる。今回の展示は、@米穀并諸色高直之節直段書(天保八年)、A大坂天満与力大塩騒動の書、B大之坂神鑑(檄文の写し)、C大之坂大火記、D大塩平八郎井徒党御仕置、など一三点であつた。館を辞した後も石井氏 の案内で、近くにあってご子孫の方が今でも住んでおられる生家、高岳寺にある墓を訪ねる。

 鉄蔵は二二歳で京都堀井家炭屋長兵衛方へ養子に入るが二三歳で病没。妻お米との間には、没後に生まれたお熊という遺児があった。墓は京都西大谷堀井家墓域にもあるが故郷の地に分骨され、表に釈了諦″裏面には父堀井治左衛門による墓碑銘が刻まれている。墓碑銘からは自分が力になれず鉄蔵を二三歳の若さで失った、治左衛門の無念さ、早死にを惜しんだ切なさが滲み出されており心を打たれた。

 なお、堀鉄蔵については本会の会員であった、中瀬寿一・村上義光先生による論文が『大塩研究』第二三、二四号(のち『史料が語る大塩事件と天保改革』晃洋書房、一九九二年所収)に詳しく掲載されていますので、是非再読して頂きたいと思います。(内田正雄)

◇御救小屋と衣料貸与

 食うに金なく、住むに家なし。いますさまじい勢いでアメリカ発の金融危機が日本を直撃している。目の前の事態に、昭和恐慌を思い、天保の難民を思い、その対策を探る。

 天保八年二月十九日の大塩の乱後、大火による家なき難渋民に対して、町奉行所は道頓堀芝居小屋で御救の手を打った。三月早々には、天満橋南詰東・同北詰・天王寺御蔵跡の三か所に御救小屋を建て、四日から芝居小屋にいた難渋民をここへ移した。

 飢饉と火災による米や緒品の値上がりは、大坂周辺にも影響を与え、大坂へ無宿者や野非人(浮浪者)が集まってきた。一旦御救小屋に収容し、ここから今まで仕馴れてきた仕事や日雇いに出る。この種の賃仕事は乱の後始末・復興に結構需要があった。その折、奉行所は、背中にしるしのついた衣類(単物・法被・帯・半天)を貸し渡して就業させた。ところが、これらの衣類を着逃げして売り払ったり、質に入れることも考えられるので、この種の取り扱い業者にそのことを禁止する旨、注意を促した。

 左の史料は、伊賀国名張郡夏目村(現・名張市) の津藩大庄屋深山家文書(国立史料館所蔵)にあり、 この関連のものである。

 この文書は、大坂町奉行所からの御達しを受けて、伊勢国津藩が、飛地所領の大和国山辺郡に通達し、上笠間村(奈良県室生村)の「三商売仲間」の年行司市平から村々へ通知したものである。署名・捺印した者は、下笠間村(六人)・上笠間村(二〇人、他に追記二人)・深野村(七人)・下長瀬村(七人)・長瀬中村(五人)・上長瀬村(二人)・髭無村(九人)。古大野村(四人)・大野上村(三人、他に追記一人)。緑川村(一〇人)・向渕村(一九人)・吐山村(三人、他に追記五人)。無山村(二人)・多田村(二人)・染田村(二人)である。合計一五村(一〇一人と追記八人)。吐山村(現・奈良市)のほかは、室生村に属する。

 「三商売」の内訳ははっきりしないが、衣類の販売・質入れにかかわる者であろう。山間部の山辺郡にもかなりこの種の商人がいたことがわかる。名前の下に捺された印鑑から調べると、下長瀬村の惣兵衛は「小間惣」、同村善兵衛は「紺善」、髭無村の忠右衛門は「紺忠」、同村藤右衛門は「三本松 ぬ之藤」などとあり、いかにも地名と屋号の入った商人らしい大きい目の印である。

 この文書の最後に、衣類につけられた図柄(印)は三種類あり、右端のは「救」と読める。「木線浅黄単物、印自揚二而曲尺二而差渡三寸」「木綿浅黄法被、印自揚二而曲尺二而差渡五斗」。単物と法被の背文字の説明。真申のは帯で、「木綿浅黄三尺帯、印自揚二而曲尺二而弐寸五分ツ〜之繋、但色栗皮茶者、弐通有之候」。左端は、「木綿萌黄袖無半天、印自揚二而曲尺二而差渡四寸」、図柄は「救」か。大坂町奉行所の御達しが、大和に津藩のルートで届けられたケースである。

◇天保上知令と蘇る大塩評

 天保改革で登場した江戸・大坂周辺の上知令では、老中水野忠邦の悪評噴噴たるものがあり、その失敗と老中辞職は水野邸へ石つぶてが打たれるほど。幕府の一元的土地所有権の崩壊を示す象徴的な出来事であつた。大塩の乱、天保改革の失敗は、幕政の無力さを天下に曝すことになつた。

 『浮世の有様』をみると、この上知令に便乗しようとした大坂代官築山茂左衛門に対して、かれを打ち殺し乱妨に及ぶべしと、いずれの領地の百姓たちも竹槍竹束鉄炮などを用意し、徒党を結んでいたという噂。その文章の証言に左のように書き添えている。

 大塩の乱六年にしてこの事態。「早かりし平八郎」か。上曽根村は摂州豊島郡の村(現・豊中市)、大坂から遠からず。上総国飯野藩保科氏の摂州飛地額の一つで上知の対象になつていた。

◇大坂代官所跡に幽霊?

 戦前大阪城近くの法円坂に、上町筋をはさんで東側に陸軍第八連隊、西側に第三十七連隊が向かい合っていた。戦後三十七連隊の跡地は、大阪国立病院に生まれ変わり、その一角に歩三七会による「歩兵第三十七聯隊跡」の碑が、一九五七年に建てられた。『大阪陸軍第三十七聯隊史』上巻(一九七六年)を見ると、一九二六年七月のある夜、当時の二号兵舎北端(第五中隊)で突然悲鳴・喚声が響き、全員舎外に逃避した。消灯後幽霊が出たという。その翌晩も同様。「帝国軍人千何百人」もいた兵舎での一こま。この思い出を書いた手記によると、第五中隊兵舎は昔大阪奉行所の死刑場の地で、それを弔う地蔵さんがあったが、兵舎構築のため地蔵さんをその場所に埋めたため、以前から地蔵幽霊が出る噂があり、兵士が悩まされたそうだ。ここにあったのは、町奉行所ではなく鈴木町代官所だが、いつしか誤伝されたのであろう。まだ戦争を十分知らない大正末の大阪らしい幽霊話。敵兵でなかったのは何より。

◇大劇改修工事で人骨が

 大阪心斎橋筋二丁目の老舗やぶ内時計舗で生まれ育った芝田倍子さんのお話。戦後よく店へ遊びに来ていた大劇の映写技師兼照明係の人から、改修工事中骸骨・腕・足が出たと聞いて、子ども心にびっくり。大劇は南座の跡地に一九三三年に東洋劇場として竣工。三四年大阪劇場と改称。OSK(大阪松竹少女歌劇団)専属の劇場で、レビュー・映画・映画俳優などの実演でミナミの名所だった。惜しくも六四年に 栄光の三十年」の歴史を閉じ、九一年に取り壊された。芝田さんには、戎橋南詰交番の巡査さんに肩車されて映画や美空ひばりの実演を楽しんだ思い出があるが、この人骨騒動には驚いたそうだ。

 無理もない、ここは千日墓地の一角だつた。かって千日前通に並んでいた芦辺劇場と歌舞伎座(楽天座の跡地)の工事で人骨が出たことは有名だ。戦前の『上方』五六号にある船本茂兵衛氏の文章に、竹林寺から南へ大阪劇場の間が千日墓所で、お寺・仕置場・葬式の礼場・焼き場・墓地のカクテルだったとある。千日と飛田の墓地は一八七四年にいまの阿倍野霊園に移されたが、人骨は埋められたままだったのだろう。このあたりは今も寺が多く墓石も見かける。江戸時代の絵図を見ると、道頓堀の太左衛門橋を南へ渡り、法善寺・竹林寺の前を通って突き当たりが千日墓所。その東に妙見さんの自安寺があり、そこから斜めに長町四丁目(日本橋筋)に通じる道があつた。

◇本誌記事の再録紹介

 『日蓮宗新聞』〇八年十二月二十日号「古碑めぐり」に、東大阪市菱屋にある宝樹寺のお題目宝塔が紹介された。説明はほぼ本誌五八号の文章を援用。飛田刑場にあつたもので、「甲子夜話」の処刑図の右下にあるものと同じか。『岩手の民衆史』十六号に、本誌五九号に紹介した同誌十五号関連の記事を取り上げている(〇九年二月刊)。

◇『ワシラノシンブン』

 大阪府南河内郡野田村西野(現・堺市東区)から大正末年発行された社会運動の新聞に大塩の記事。大正十三年十一月十五日号に、「『性学』と『大塩平八郎』の話がある」の見出し。十一月十六日に新堂村(現・富田林市)桜井氏宅で山本憲治の「性学と無産階級」と題する講演、二十二日には岡田播陽の大塩平八郎についての講習があることを予告。同紙同年十二月十五日号には、岡田播陽『殺される我等』の再版(万有杜・大阪市 南区心斎橋鰻谷西)の広告。挿絵天罰起請文つき、唯一人読んでほしい人物は「己れを殺して、一切人を活かす寛人であらねばならぬ」。天空より投下された生命の爆弾!!とある。

◇武蔵忍藩の類焼

 大塩焼けで天満長柄町にあった忍藩(現・埼玉県行田市)の蔵屋敷も焼失した。その影響が上方の領地にどのように反映したか。播州加西郡吉野村(現・加西市)の当屋が順番に書き継いだ「年代記」をみると、天保八年の項に大塩の乱に触れたあと、「御地頭様御屋敷迄類火ニて、其ニ 付播州三ケ郡江為御用金と千二百両被仰付、当組合江三拾貫匁被仰付候得共、村方困窮ニ付、未ダ相別り(分り)不申候」とある。領主の被害は当然ながら村方へ転化。村方は一層の災難。加西市教育委員会『近世史料 加西吉野文書』(一九八〇年)、『加西市史』第八巻史料編2 (二〇〇六年)所収。

◇小塚空谷の「社会講演大塩平八郎」

 児玉花外が明治三十六年四月六日大阪中之島公会堂で開かれた日本最初の社会主義者大会で即吟した「大塩中斎先生の霊に告ぐる歌」は有名であるが、かれと同じグループに属する小塚空谷が雑誌『社会主義』に標題 の大塩論を連載している(松本克平『日本社会主義演劇史』明治大正編、筑摩書房、一九七五年)。森鴎外が大塩の思想を「未だ覚醍せざる社会主義」と評価したのは、このような明治三十年代から大逆事件にいたる当時の流れの中で考え、位置づけたものだろう。

◇池田市立歴史民俗資料館『賑し交わる街道と池田』

 北摂の池田を中心に能勢街道などを取り上げた特別展の図録に、大塩の乱、能勢騒動に触れて、大阪歴史博物館蔵の大塩平八郎肖像(複写)・文政十二年浪華御役録、『出潮引汐奸賊聞集記』、坂本鉉之助宛大塩平八郎書状、施行引替札の写真が掲載されている (〇八年一〇月)。

◇懐徳堂と洗心洞

 『大阪毎日新聞』(一九一九(大正八)年一二月一四日)に標題の記事。「洗心洞文庫」は、維持会員四五〇名を擁し、毎月研究会を開いていたようで、現在の本会を大きく上回る活動であったことが窺われます。

◇堺枯川の演鋭

 著名な社会主義者として知られる堺利彦が一九二一〈大正一〇)年三月二九日、天王寺公会堂で開かれた借家人同盟(逸見直造代表)主催の住宅問題演説会に登場する。「やがて現はれた堺枯川氏流石は老将巧に大塩平八郎の伝記を借りす来て聴衆の大喝采を博してゐたが警官痛からの中止の声に堺氏と警官が押問答を始めると熱し切った聴衆は警官を罵りつゝ壇上に駈け上り各所で警官と聴衆との格闘が始まる」(『大阪毎日新聞』三月一六日付)状況となり、やがて署長の命令で解散させられた。時に午後九時四十分。

◇訃報

井上俊夫氏  〇八年一〇月一六日肺炎のため寝屋川市の自宅で死去。八六歳。大阪府出身、自身の戦争体験に基づく反戦詩や農民詩の創作を続けた。詩集「野にかかる虹」で一九五七年H氏賞を受賞。本会へは創立直後に入会され、二十数年間にわたり、協力を惜しまれなかった。第一一号(一九八一年)に「文芸にとらえられた大塩事件」を寄稿されている。


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