Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.11.18

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「洗心洞通信 49」

大塩研究 第61号』2009.9 より

◇禁転載◇


◇大塩中斎忌・講演と研究会総会

 〇九年三月二八日午後一時三〇分成正寺本堂において、同寺主催の「大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要」が有光友信住職・有光友昭副住職の回向によって営まれ、本堂前の墓碑に展墓した。その後、本会主催の講演で、花園大学名誉教授山崎國紀先生に聞く―『評伝 森鴎外』に寄せて―」(聞き手酒井一氏)が行われた。大著をまとめられた山崎先生の二時間を超える熱弁に、聴衆も陶酔のひととき。続編を期待する声が上がったところで終了。内容は本号に収録されている。

 その後総会が開かれた。内田委員の司会で進められ、酒井会長挨拶に続いて、常松委員から会務報告(会誌59・60号参照)があり、久保事務局長から〇八年度の会計報告、相蘇監査委員から会計監査報告(会誌60号所収)があり、承認された。松永委員から)〇九年度の活動方針として、年二回の会誌発行、八回ほどの例会、二回ほどの見学会、資料を読む部会の毎月一回の開催などの提案があり承認。引き続き役員改選に入り、次のとおり承認された。顧問有光友信、会長酒井一、副会長井形正寿、向江強、事 務局長久保在久、委員泉谷昭、内田正雄、柴田晏男、島田耕、島野穣、常松隆嗣、長町顕、松浦一、松永友和、藪田貫、会計監査相加鮮一弘、政野隆雄。

 当日の参加者は、(略) 計四六名

◇四月例会

 四月二五日午後一時半から成正寺において、井土彰氏(元『天満人』編集人)が「天満をあるっく」と題して、井形副会長との応答を中心に、十数年にわたる情報紙活動を振り返った。一九九五年に「ぼち・ぼち」を発刊、九七年から「あるっく」と改称して新しく天満を中心に一人で取材、編集、配布などに専念、四三号まで発行、あわせて『天満人』六号と別冊二号を出版し、地域を歩き土地に親しまれたミニ情報紙誌だった。大塩関係も克明に取り上げられた。損得を考えず、ひたすら住民の歴史と暮らしを聞き取りと裏付けによって記録した。その後本年一月二十五日から祭屋梅之助の名で、ぽて ふり姿で毎日天神餅の販売に転身。読者のアドバイスによる発案で町への御恩返しの気持ちという。昔とちがっててんびんぼうをかついでの行商も制約が多いが、しんどい中懸命に努力する静かな井上さんの人柄が光っている。ぼてふり開業の当日、井形氏は天満天神さんの門前へ、一万円札(福島区生まれの福澤諭吉に因んだ第七号、本年三月テレビの「なんでも鑑定団」出品)のコピーをもつて応援にかけつけるという温かい一こまがあつた。井上氏の話に触発されて会場からいろいろと懐かしい思い出が披露された。また「あるっく」を戦前の地域誌『上方』と同じように、復刻して多くの人たちの目に触れるようにしてはという意見(津野英男氏)も出された。「あるっく」を見、『天満人』とお餅を有志が購入して井上さんを励ました。うるわし友情のひととき。これぞ大塩精神か。

 当日の参加者は、、(略) 計二〇名。

◇六月例会

 〇九年六月六日午後山時半から成正寺において高久智弘氏(神戸市立博物館学芸員)が「「悲田院長吏文書」から見えてきたこと、長吏の組織と大坂町奉行―近世後期の警察御用の変質―」と題して講演した。

 天王寺悲田院垣外の長吏を務めた林家に伝来した史料群が『悲田院長吏文書』(解放出版社、〇八年)として出版され、既知の史料を上回る多量の史料群の発見によって、非人研究は新しい段階に入った。その編集者の一人である高久氏は、(1)御用の検討を 通じた「長吏の組織」を取り巻く関係性変化の総体的把握、(2)「長吏の組織」および御用を命じる大坂町奉行にとって御用が持つ意味の検討という課題を・中心に、詳細・綿密な報告を行い、いくつもの重要な問題点を指摘したり とくに寛政改革の大坂への影響を重視し、町奉行所の警察権能が強化されたこと、「長吏組織」が担う御用の増大と変質を通して、長吏組織と町方・村方との矛盾を表面化するに至ったこと、天保期についても垣外仲間に課せられた囲米探索などの新たな御用の登場を提示した。賎民組織 についての知識が十分でないと少し分かりにくい内容であつたが、充実した史料の整理による力のこもった講演であった。大塩研究にとつて非人問題は重要なテーマの一つで、今後もその実態と民衆への影響について学習を続けたいと思った。高久氏の論点は、寺木伸明・中尾健次編著『部落史研究からの発信』第一巻前近代編(解放出版社、〇九年)所収の「大坂の非人組織とその展開」を参考されたい。

 当日の参加者は、(略) 計二六名。

◇七月例会

 〇九年七月一一日午後一時半から成正寺において、酒井一氏(本会会長、三重大学名誉教授)が、「武士に生きることと武士を辞めること―中斎・竹田・山陽・崋山―」と題して講演した。

 酒井氏は、武士であり文人でもあつた四人の生き方を追って、天保期の時代像に及んだ。「俗吏」としての与力を自覚しつつ「天道」に沿つて強烈な武士意識で社会的責任を果たそうとした大塩中斎。豊後岡津の文化八年の一揆に際して二度にわたる建白書を提出して藩政を批判した田能村竹田が、致仕後画家として生き、門人直入を洗心洞に入塾させ、中斎としばしば激論を交わし画風に変化をもたらしたこと。安芸広島藩の儒臣・頼山陽は、脱藩後「日本外史」などで史論を展開し中斎との親交を通じて彼の仕事と性格をよく見抜いたこと。中斎が『洗心洞箚記附録抄』に山陽の死後その文章を収録しようとして大幅に削除をされたこと。また三河田原藩の渡辺崋山について、貧困と身分差による屈辱を経験して、精密な観察による肖像画などを描き、「報民」の思想に生きながら蛮社の獄にまきこまれて迫害の犠牲になつたこと。「鷹見泉石像」のもつ意味にも触れた。その上で天保期について、ドナルド・キーン氏の言葉を引用して締めくくった。

 当日の参加者は、(略) 計四〇名

◇森田康夫氏の著書

 『大塩平八郎と陽明学』(和泉書院)が『読売新聞』(4月1日付)の「今日の ノート」欄に「誠意の人に学ぶ」と題して紹介された。「森田さんは出身の立命館大学で学位を申請し、先日授与された。「存在するためと男や女として生きるため、人間は二回生まれるとルソーは言うが、高齢社会では三回生まれると言いたい。三度目は社 会に無償で貢献するためです」。年を重ねて後も何事かを成す気概にも学びたい。」(論説委員田口晃也)

◇井形副会長のテレビ出演

 好評のテレビ番組「なんでも鑑定団」の〇九年三月三日放映、五月十七日再放映に、井形正寿氏が福島区歴史研究会事務局長(当時)として同区生誕の福澤諭吉の「珍ピン」を提げて登場。かねてから同会で福澤研究に専念し、福島図書館に福澤諭吉記念室を常設、関係資料を展示。この日の品物は二〇〇四年日本銀行発行一万円札、番号AOOOOO7A、同歴史研究会蔵。鑑定の結果時価三〇〇万円!。オークションに出ない珍品でそれ以上の価値がつく可能性もあるという。ちなみにAOOOOOIAは日銀貨幣博物館、2Aは慶応大、3Aは宇治の平等院(ウラの図柄に因んで)、6Aは大阪市役所にある。井形氏の地域に根ざした歴史研究の賜物。

◇会員の声

 【略】 

◇島原市の横山文哉之碑

 長崎県島原市有明町の吉田武久氏から、写真とともにお便りが届いた。

◇相蘇一弘氏の大塩CD

 「役人の不正に立ち向かった大塩平八郎と『大塩の乱の真実』」を相蘇氏が約六五分語るCDが、SonyMusicから「聴く歴史コース」としてこの九月に発売された。はじめに、大塩平八郎、大塩の乱、大塩の乱の当初計画、おわりの五構成、十三項目からなる。「江戸時代後期、天保の飢饉に苦しむ人々を救うため、大坂で一揆を起こした大塩平八郎。彼の書簡を収集、分析した元・大阪市立博物館長の相蘇一弘氏が、その知られざる人物像を説き明かします」とある。税込二三一〇円。

 その内容についてThe CD Club〃233(09年9月号)に酒井一氏が次の一文を寄せている。

◇『熊野誌』に荒木論文

 同誌第54号(〇八年九月)−大逆事件特集号−に本会会員の荒木伝氏が「大阪 平民杜と大逆事件」と題する論文を執筆された。同氏はこの中で、「『大塩平八郎』(森鴎外)に見る大逆事件の影」との項目を立て、「大塩平八郎の中に森鴎外は大逆事件被告らのイメージをオーバーラップさせていた」と三点をあげて論述。鴎外が「政府、権力側の処理方法や対処の仕方には重大な疑義を抱いていたのは否定できない」と指摘された。

◇大阪平民病院跡地の訂正

 本誌第五八号で紹介した平民病院の跡地が誤っていたことが判明、ここに訂正する。現・大阪市福島区福島二丁目一〇−一一、秋元ビルが正しい。『昭和弐年 大阪便覧』(民彝社、一九二六年)に、私立平民病院、此花区上福島二丁目五八九−一 ドクトルメジチーネ 加藤時也とあるのがそれである。福島天満宮(福島二丁目八−一)の西門を出て突き当たりを、右(北)へ行った地点、八階建てのビル。第五八号に紹介したパークネットとは反対方向、北へ進んで四つ辻の東南角にある。

 この病院は地元では平民病院として長く親しまれていたが、戦後加藤時也院長(幸徳秋水らの社会主義者の支援者・加藤時次郎の子)から神戸(かんべ)病院・秋元病院と名称が変わった。平民病院を加藤から譲り受けた神戸恒夫とその後をさらに引き続いた秋元則雄(一九  〜七五年)は、旧満州の新京(長春)での知り合い。神戸は金沢医科大卒の外科医で、満州チャムスクの病院長で、引き揚げ後山時港区の病院に勤めたあと、加藤のあとを受けて神戸病院を開く。秋元は千葉県流山市の出身、本家に近藤勇が逃げ込んできたという伝承がある。子の無かった神戸から、ここに勤めていた外科医の秋元が病院と居宅を買って引き継いだ。神戸病院時代は木造三階建てで、病院の看板が傷んでめくれた時、下から「大阪平民院院」と番いた字が出てきた。秋元ビル近くに住む秋元医師の夫人・淑子さんは、満州時代とその後の思い出を話すなかで、この看板をはっきりこの目で見たと語る。建物が古く風が吹くと揺れたとい ぅ。秋元医師の没後、新しい医師に病院を貸していたが、約束の十年を経て戻り、ビルに改築したという。大阪平民杜といい、この界隈の明治末からの歴史は興味深い。

◇大阪市信だよりに大塩紹介

 大阪市信用金庫のPR誌『せんだぎ 栴檀木』第六四五号(〇九年二月)に「幸せのインフラ」と題したエッセー。大塩終焉の地碑の写真もあり、森鴎外の大塩論にも触れて、「政治は幸せのインフラ(社会基盤)、それが救民である」と指摘。筆者は(渡)とある。

◇竹下喜久男「藤樹書院とその周辺」

 仏教大学鷹陵文化叢書10『近世の学びと遊び』(思文閣、二〇〇四年)に、竹下氏編『藤樹書院文献調査報告書』(滋賀県安曇川町教育委員会、一九九三年)の「考察編」として掲載されたものが、再録収載されている。近江の藤樹書院と懐徳堂・古義堂、藤樹書院における教育活動、書院の維持などから成り、教育活動のなかで「大塩中斎の関わりは見逃せない」として、主に幸田成友・石崎東国の著書を使い、書院蔵 の文書も加えて考察している。乱後京都町奉行所からの達し、上小川村の志村周治と小川城大夫が書院を管理していたが、周治の乱加担により什物が村預かりになったことなどがある。文化十年(一八一三)二月に、書院講堂維持の奉加帳を村とその周辺に回したときの趣意書も掲げられ、ここによびかけ人として門弟の一人として志村周助の名がある。竹下氏の研究は、摂津含翆堂・播磨の学芸にも及んで広域的で、単に塾の分析にとどまらず、その担い手の大庄屋・大名などを追ったもので、その労の多い成果に学ぶことが多い。

◇天草・島原の乱と大塩の乱

 近世史を画期づける二つの乱は、ちょうど二百年を隔てて発生している。寛永十四年(一六三七)に起こつたキリシタン中心の大乱の敗北は、ほどなく「鎖国」体制による幕藩制国家の確立を生んだ。大塩の乱はこの支配体制を根底から動揺させる乱で、その後黒船の来航によって「開国」を迎え、幕藩の命運が制せられる。この流れの中で、一つ思いつくことがある。大塩の乱にしろ数多く起こった百姓一揆でも、あくまで、十五歳から六十歳までの成人男子による闘いである。一方島原の乱の戦いには女性の参加がみられる。このことの意味は大きい。鎮圧のため鉄砲奉行として従軍した上方代官鈴木重成が、大坂近辺の幕府領を管理する代官衆に宛てた書状が、和泉国熊取谷(大阪府熊取町五門)の中家に伝わっている。これをみると、島原の原城をめぐる激しい攻防が生々しく伝えられているが、「女どもまで襷をかけ、くるすを頼にあて鉢巻をいたし、石飛礫(いしつぶて)を雨の降るほど撃つ」とある。のちの一揆とは隔絶した女性の闘い。籠城する者は女、子供を含めて二万三千人とも三万七千人ともいい、一人を除いて殺戮の対象となった。水本邦彦『徳川の国家デザイン』(全集日本の歴史10、小学館、〇八年)が問題点を描き上げている。この著者は、いままでの近世史とは違った視角から実に具体的に問題点を解明している。ちなみに代官鈴木重成のいたところが、大坂鈴木町で、近世を通じて谷町とともによく知られたところ。いま大阪市中央区法円坂一丁目で国立病院の所在地。重成は、島原の乱後幕領となった天草へ初代代官として赴任した。かれの兄が禅僧鈴木正三、かれが大阪の長居に創建したのが臨南寺。江戸初期の注目すべき代官の一人である。

◇安野光雅さんが描く奈良

 産経新聞〇九年五月三十一日号で、連載20「聖林寺の十一面観音像」を安野さんが描いている。安野さんの視線はいつも世界史のなかを動き、かってリンカーンの奴隷解放宣言についても実に適確に説明しているのに感心したことがある。聖林寺によせて、宗教の違いからくる争いに疑問を呈し、メイフラワー号で米国に逃避した清教徒の悲しみが、「思想、信仰の自由」を法律で明言するまでになったという。至言である。この文章で、「廃仏毀釈」を推進した福羽美静について、同郷津和野の人だが、その政策は「弁明の余地はない」と述べている(U氏提供)。

◇大塩の乱時警固の藩蔵屋敷家来調査

 嘉永七年(一八五四)九月十七日に天保山沖にロシアの軍艦ディアナ号が碇泊、翌日には伝馬船二艘で安治川辺へ上陸した。天保山は「安治川口諸廻船目印山」「日本無双古来の絶景」と称されて新観光地だった。そこへ突如としてディアナ号が現れた。前年浦賀にアメリカからペリーが黒船を連ねてやってきたばかり。大坂人は度肝をぬかれ、城代土屋采女正寅直は沿岸防備を指示した。翌月ディアナ号は下田へ向かい、ここで地震にまきこまれたことは有名な話。

 この騒然とした中で、つぎのような達しが大坂町奉行所の東・佐々木顕発と西・川村修就から出された。なんと大塩がらみの表彰の調査である。

(『大丸の古書横丁』(特集大阪の笑いと芸能)に写真あり)

 すでに大塩の乱から十七年経っていた時点で、当時城代だった土井利位のもとに大坂にあつた諸藩の蔵屋敷詰めの家来で、東西両町奉行所や所々の警固に尽力した者を調べて報告させ、その者たちに土井の江戸下屋敷で褒詞を伝えるという通達である。なぜこの時に調査、褒賞に及んだのかは不明。利位は老中時代天保改革で水野忠邦と対立し、嘉永元年(一八四八)に死亡していた。この達しが出た時はその二代のちの藩主利則の代になっている。オランダ事情に詳しく、大塩鎮圧に功のあった家老鷹見十郎左衛門泉石も、嘉永七年に隠居していてかれの日記にもしかるべき記述がない。風化しやすい歴史の体験を外圧のもとで想起したのか。大塩の乱につづく第二弾の国家の亀裂が登場しはじめていた時だ。

◇吹田市立博物館情報

 〇九年度春季特別展1町5村のアーカイブ展の第1期が四月二五日〜六月二日 に開催された。関連イベントとして五月三〇日に相蘇一弘氏(元大阪歴史博物館副館長・本会役員)が「大塩の乱と吹田」と題して学術講演を行った。特別展図録『吹田 いま・むかし』(〇九年四月)が発行され、岸辺の元淀藩大庄屋中西家屋敷(吹田市吉志部文人墨客迎賓館)、中西家所蔵の大塩・頼山陽の漢詩の写真が掲載されている。

 大塩の七言絶句は「仰看浮雲蔽太空」に始まり、連斎の署名。この号は天保三年五月に中軒、ついで中斎に変わる。「八月九日出郭四望即事」云々と奥書きされ、大坂城下を出て雲に蔽われた大空を見、その中に太陽のあることを疑わないと歌う。この軸も山陽の七絶二首にも落款はない。

 旧中西家屋敷については、昨年十月本会で見学会を催し、大庄屋の力量を美しい屋敷構えに認識したところだが、また広瀬旭荘ら文人が遊んだ交流の館でもあった。(内田正雄氏寄)

◇天保期の参詣者減少

 佐藤顕「近世後期における高野山参詣の様相と変容−相模国からの高室院参詣を中心に−」(『地方史研究』三三九号、〇九年六月)は、一六八五年から一九六四年までに高野山高室院へ相模国からやってきた参謂者数を明らかにしている。その中で、宝永二年(一七〇五)の御蔭参り時に、年間一四〇〇人に達したのをピークとして、天保九年(一八三八)はわずか二一二人、天保六・七年に比べても急激な減少で、天保八年の記録は「諸国大飢饉ニテ参詣人無之故、別冊不調」として、天保七年の登山帳の後にわずかに記されているだけと指摘。天保年間には、飢饉の影響により相模国から高野山への参詣者のない年が続いたとある。旅どころではなくなったのである。

◇三閉伊一揆の指導者の旅

 茶谷十六『安家村俊作−三閉伊の民衆像』(民衆社、一九八〇年)には、幕末盛岡藩の大一揆の指導者が、それまでに高野山や西国巡礼の経験をもっていたことが示されている。俊作は、天保十三年(一八四一)二月一日から五月二十七日まで一一六日の伊勢・西国巡礼の長旅をし、弘化二年(一八四五)にも再びほぼ同じ経路と日程の旅をする。かれが指導する弘化一揆のそれぞれ五年前と二年前のこと。旅の経験はいろんなことを教えたに違いない。嘉永一揆の指導者の一人、栗林村の三浦命助も、旅の経験があったと見て、伊勢参詣途上の南部衆の常宿として、命助が藩外に逃亡した時、京都の鑓屋太右衛門に泊まったことを指摘している。

 ところで、さきの俊作が天保期の旅で購入した十七種の書物が判明する。その一つには「王陽明、但右同断(注・大文字石摺)」「東披、但右同断」などとあり、茶谷氏は俊作の王陽明への関心に注目している。同時に「医療手引草続編」という本に、「阿蘭陀口」として九十六語のオランダ語の単語と十種の阿蘭膏薬の名が筆写されているという。まさに時代は朱子学と漢法を超えはじめていたようだ。

◇近藤重蔵の拝借金

 近藤重蔵はユニークな幕臣。蝦夷地・千島列島を探索し、逸話に富んだ人物。文政二年(一八一九)から大坂弓奉行を勤めたが、身分不相応の邸宅を築き、千種大納言の女を娶るなどの行為で、同四年四月小普請入差控の処分を受けた。重蔵が同六年と推定される時点で、弓奉行在職中に町奉行所貸附銀を借り、その返済をめぐって願書を作成している。『新修大阪市史 史料編第六巻』(〇七年十二月)に東大史料編纂所の「近藤重蔵関係文書」からの引用。重蔵の大坂での動きや町奉行所貸附金を知る史料で、これを収載した大阪市史の見識に敬意を表したい。

 大坂を退いた重蔵は、江戸滝野川に住んでいた。その地にある菩提寺に重蔵甲冑石像が現存している。子の富蔵は目黒の別荘にいて、文政九年に境界争いで殺人事件を起こし、八丈島に流され、重蔵は近江大溝藩預かりとなり、同十三年この地で死亡。江戸で事物奉行を勤めた時、幕府の紅葉山文庫の蔵本を渉猟、文庫の修造をめぐって老中と対立するなど、話題に事欠かない。大溝では藩士の教化に一役買った(『国史大辞典』6)。大塩との接点が考えられるだけに関心がある。大溝(滋賀県高島市)にある墓碑の玉垣に大阪仁丹の森下の名前が刻まれている。『正斎全集』は重蔵の文人学者としての記録、富蔵も「八丈実記」をまとめ、八丈島の百科事典ともいうべき内容。この父子の人生は実に興味深い。

◇「文学・歴史ウオーク」

 〇九年七月五日標記の会(大阪市中央区)が、第一〇三回例会として「大塩の乱を歩く−森鴎外の『大塩平八郎』」を実施した。講師は倉橋健一氏(元大阪文学学校講師、文芸評論家)で、太融寺を経て大阪合同ビルで講演を聞いた後、成正寺から大塩軍進撃の跡を辿り、淡路町で解散した。参加者百余名。成正寺では本会事務局の久保在久氏が檄文の復刻版を示した解説した。

◇兵庫北風家の江戸廻米

 兵庫鍛冶屋町の問屋北風荘右衛門家は、有名な高田屋嘉兵衛が天保四年(一八三三)に没落した後、廻荷の売買をほぼ独占するようになっていた。天保飢饉のなか将軍家斉の引退と後継家慶の将軍宣下に備えて、江戸廻米を計る幕政のもとで、一手に北前船などの運ぶ米を兵庫で集めた。この間の事情は、『北風遺事』(一九六三年、喜多喜平編)に詳しく、廻米の実態は『兵庫県史』第五巻(一九八〇年)に国立史料館蔵の北風文書をつかって記述されている。

 大塩が檄文の中で怒った江戸廻米の実態は、右の二史料で知られる。北風家は天保六年から江戸廻米への取扱いを命じられ、同七年十月には、大坂町奉行与力の内山彦次郎・吉田勝右衛門・朝岡助之丞が、「御厳重之御趣意」という特命で北風家に圧力をかけた。同七年九月から八年五月までに江戸表へ送られた米は三万七三四七石余という。その結果江戸表の米価が低落し、兵庫の米価も抑えた功により、以後大坂町奉行に謁すること、また御用達として上訴を取扱うことを認められた。

 しかし、北風家の本心はどうだったのか。荘右衛門貞和は、飢饉に際して米穀金銭を散じ、窮民を救うため兵庫の海面埋立ての工事を計画し、粥を煮て役夫に給した。その造成地を世に「粥腹新田」と称した。一方、町奉行跡部山城守は、天保十年六月、北風家から金五百両を借用し、その返済は翌十一年正月晦日、利足月五朱で元利取り揃えて返済すると約束した。とても返せるものでなかろう。

 このことに触れた北風家の記録は、幕末幕府の要人が上方に来ると格別の用事もないのに富豪を招見し、顔馴染みとなれば必ず無心を言ったという。個人で無心をいわなかったのは堀織部正ただ一人という。北風家の主人の直談を避けて支配役または公用役を通して婉曲に断るなどで対応した。場合によってはこれら折衝した者の責任で用立てたという。堀織部正は、利熙のことで、父は堀伊賀守利堅、母は林述斎の娘、いずれも大塩と縁のある家筋。利熙は箱館奉行時代外国奉行を兼ね、横浜開港後は神奈川奉行兼務だったが、プロシアと通商条約をほぼまとめた時点で突如自刃した。箱館奉行の時、現地人に種痘を施したり、迷信打破に力を尽くしたという。柴田宵曲『幕末の武家』(青蛙房、一九六五年)にエピソードがある。幕末北風家や西摂の豪商農・村役人が尊皇派と交流することもうべなるかなの感あ り。

◇江戸下り洒と天保飢饉

 飢饉時の摂津酒造業の経営は、制限令もあって利益に影響が出たことは想像できるが、賀川隆行氏が発表してきた江戸下り酒問屋の研究が一つの示唆を与える。「江戸下り酒問屋小西屋の経営」(『三井文庫論叢』三一号、一九九七年)と「江戸下り酒問屋山田屋五郎兵衛店の経営」(『同上誌』二〇〇八年)がそれである。

 小西屋利右衛門店は伊丹の小西屋新右衛門(銘酒白雪)の江戸出店で、新右衛門家を含めて摂津の酒造業着からの送り荷下り酒を口銭をとって販売していた荷受問屋。下り酒問屋の中でもっとも荷物引受駄数が多く、一時年間最多一一万二〇〇〇樽に達した。小西本家の経常を見る限り、天保八年の経営上のダメージは余り認めにくい。有銀高でも、天保七年銀一万一○一一貫目余、同八年一万一三一九貫目余、同九年一万一六八四貫目余。損益勘定でもこの三か年で、銀五五一貫目余、六二四貫目余、六七三貫目の利益となって、同傾向にある。小西家の向蔵・本蔵の酒江戸送り高でも同様だが、江戸店口銭については、同七年一九〇貫目余、八年一一二貫目余、九年一七六貫目となり、それ以後は逆に六年間百貫目を切れる年が続いている。

 もう一つの下り酒問屋の山田屋五郎助店は、京都糸絹問屋糸屋長左衛門店(丹後問屋を兼ねる)の江戸出店で、ここでは天保八年のダメージをある程度読みとることができる。収益費用勘定では、天保七年二四九三間余、同八年一七六〇両余、同九・十年にはそれぞれ二千両を超える。同店の取扱高と蔵蔵口銭を見ると、天保八年の落ち込みは認められるが、資産内訳では、さきの三か年では、八八八八両、九六四〇両、一万一〇八両余となつている。酒造業は飢饉時にもなお健全経営を維持したらしい。

 酒造資本が、明治中期鉄道・銀行などの資本主義のシステムを地域に創出することを考えると、その動きに興味がひかれる。

◇訃報

井上満寿夫氏 〇〇年一一月一九日入会、劇作家。一九三三(昭和八)年三重県四日市市生まれ、〇九年五月一〇日胃癌のため逝去、七六歳。銀行員を経て、大阪シナリオ学校事務局長、宝塚造形芸術大学講師。八尾市文化賞受賞。八尾市芸術文化振興懇話会世話人。大阪文化団体連合会機関紙「大阪文化のひろば」編集委員。代表作品の一つに「浪華一揆大塩乱始末」など多数。本会主催の「現代の檄文」にも応募、入賞されたのを機に入会。本誌には「大塩平八郎及び『大塩事件』の謎」など、幾たびか寄稿された。八尾市で憲法九条の会など民主主義運動の代表委員を務めた。本会会員の渡辺武さんらの呼びかけにより、六月二七日エル・おおさかで「お別れ会・偲ぶ会」が開かれた。

中尾堅一郎氏 〇九年七月一〇日死去、八四歳。大阪はもとより全国に知られた古書業界の代表的人物。日本古書籍商協会長を務めた。若き日に医学に志したが、父の死去を受けて中尾松泉堂書店を継いだ。江戸時代以来の河内屋鹿田家の流れを汲む。一級資料の収集で光っていた。松尾芭蕉の「奥の細道」の直筆本を入手し、大阪歴史博物館に寄贈、話題を呼んだ。木村蒹葭堂の日記翻訳編を同書店から一九七〇年に出版。本年五月にそれを補訂した水田紀久氏らによる『木村蒹葭堂全集 別巻 蒹葭堂日記』(芸花書院)の刊行に協力、「添え書」として寄せた文章が絶筆となった。
 上方文化の伝統・継承に努め、『上方芸文叢刊』にも製作・発売の一端を担い、優れた古典籍の復刻に尽力し、また大阪・梅田の古本街「阪急古書のまち」の開設を成功させた。限りなく大阪の文化を愛し、つい先年まで本籍地は船場にあったという。大塩関係に詳しく、大阪歴史博物館の檄文は松泉堂からのものと聞く。蔵屋敷と書籍の情報など、長年にわたる経験で知識は豊富、会うたびに多大のヒントを与えられた。本会の聞き取りに応じる約束をされていたが、果たせなかった。会誌には広告を掲載、活動を支援された。感謝の極みである。

乾宏巳氏 〇九年五月一五日死去、七八歳。大阪教育大学名誉教授。近世大坂市中とその関連地域の綿密な分析を重ね、水戸藩や職人の研究でも知られた。大塩関係では、「大塩の乱と農民的基盤」(『ヒストリア』六九、一九七五年) を発表、河州門真三番村の茨田郡士家の経営を明らかにした必見の論文。のち同氏著『近世都市住民の研究』(清文堂、〇三年)に再録。寝屋川市史編纂委員を務め、北河内の近世史料の紹介に努めた。その成果の一端が「大塩の乱と淀川左岸地域」(『市史紀要』六号、一九九三年)に平明に解説されている。


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