Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.3.31

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「洗心洞通信 50」

大塩研究 第62号』2010.3 より

◇禁転載◇


◇九月例会(『堺』利休をたずねよ)

 二〇〇九年九月十九日久しぶりの野外フィールドワークで、大塩事件と拘わる堺奉行所跡・鉄砲鍛冶屋敷はじめ、歴史を土壌にしての文化や技術が今も息づいている堺市の中心部を歩いた。
 この日は、まだ残暑が厳しい一日であったが、三〇名の方が参加し全員元気に歩き通した。
 大阪組は13:00に天王寺から昔懐かしいチンチン電車を、阪堺電鉄御陵前駅まで乗り堺組に合流。
 始めは三好長慶が父の菩提を弔う為に建立し、大阪夏の陣で焼失したが、沢庵宗彭によりこの地に再建された「南宗寺」。国重文の山門・仏門・唐門、国名勝で古田織部の作と伝えられる「方丈の枯山水の庭園」等をボランティアガイドの説明を聞きながら見て回る。「堺奉行所跡」は碑があるだけで残念であった。大塩の門人弓削村の西村履三郎が事件の夜、この近くにあった実姉の家に立ち寄ったのを逃がした為、姉ことは夫寛輔と共に厳しい取り調べを受け牢死した悲劇が思い起こされる。「妙国寺」は昭和二〇年の空襲で伽藍の大半と三重塔も失ったが、織田信長にまつわる伝説が残る蘇鉄(国の天然記念物)は健在。案内人から土佐藩士一一名が切腹した「堺事件」、「本能寺の変」の日、当寺に泊っていた徳川家康が少数の手勢ながら難を逃れた話し等を聞く。
 ここからは時間の節約と体力温存のため、再びチンチン電車に乗り高須神社駅へ。「鉄砲鍛冶屋敷」は一般公開がされておらず外部を見るだけ。しかし最後に訪ねた「鳳翔館」では火縄銃と堺の関係や火縄銃の製造工程の話を聞き、実物を持たして貰い重いのにビックリ。大塩平八郎の命により格之助らが鉄砲・大筒の試し打ちをした「七堂ケ浜」に近いこの地で17:00頃解散した。
 暑い一日皆様本当にお疲れ様でした。(内田正雄)
 当日の参加者は、(略) 計三〇名

◇十月(門真)例会

 〇九年一〇月一八日午後一時半から門真市立歴史資料館において、歴史資料館と本会の共催で「近世後期の大坂と摂津・河内・和泉−大塩事件の背景をさぐる−」と題するシンポジュウムを開催した。大坂近郊農村は木綿作や菜種作が盛んで、ひろく手工業地帯を形成することで、大坂の隆盛を支えていたと言われている。これらの地域は「畿内先進地域」という一括した概念で捉えられることが多いが、それぞれに地域的特徴があることから、摂津農村については中川すがね氏(甲子園大学)が、河内農村については常松隆嗣氏(本会役員・門真市立歴史資料館)が、和泉農村については曽我友良氏(貝塚市立郷土資料室)がそれぞれ報告をおこなった。報告に際しては、各地域での人口動態や階層分解をはじめとする農村構造の変化、商品作物生産の状況、そうした状況に巻き込まれる小前農民と豪農など、大きく五つ項目を共通の話題として報告した。
 各地域についての報告を踏まえ、報告者どうしで大坂と各地域との関係や、各地域でみられる大塩の乱とのかかわりなどについて討論がなされた。ディスカッションにつづき、参加者からの質問を受け付け、井上伸一氏(鴻池新田会所学芸員)、松浦木遊氏(本会役員)、塩崎純之助氏(本会会員)、橋本孝成氏(大阪商業大学非常勤講師)、酒井一氏(本会会長)の各氏が順次質問に立った。参加者は総勢六〇人で、本会からの参加記名者は(略)の一六名であった。なお、シンポジュウムの内容については本号所収の講演記録を参照されたい。

◇一一月例会

 〇九年一一月二一目午後一時半から成正寺において、宮本裕次氏(大阪城天守閣主任学芸員)が「幕藩権力と大坂城代制」と題して講演した。近年大坂城の政治的重要性が注目されるなかで、大坂における政治組織の成立が、幕府の全国的支配体制の中核的取り組みであったことを詳述。徳川幕府による大坂城再築の時代、大坂城における幕府職制の成立、政治機構再生産の中の大坂城代制の三構成で、元和から元禄にいたる城代制の問題点を分析した。大坂城天守閣から刊行されている『徳川時代大坂城関係史料集』で、加番記録・大番記録・定番記録・城代記録の翻刻を担当した同氏の基礎作業を踏まえて展開された城代制論であった。
 当日の出席者は、(略) 計一八名

◇一月例会

 一〇年二月二三日に成正寺で開かれ、小田忠氏(大阪商業大学商業史博物館学芸員)が「貨幣の計算単位と名数−江戸の人が知っていた話−」と題して講演した。前年二月の同氏講演に続くもので、近世貨幣の金貨・銀貨・銭貨の具体例を示した上で、貨幣の名数について、大判一枚・丁銀一包・銀一枚・金百疋などを詳しく説明。三井高陽編『南三井家交通記録集』を使って、そこに記されている「金五十疋」「銀壱両」などを解説した。大商大博物館所蔵の貨幣を持参、珍しい「銀一枚」包も身近に見ることができた。計算を求められた出席者から相次いで正解が出され、こもごも活発な意見交換がなされた。一見不便にみえる三貨の流通、多様な貨幣表示がなぜ行われたかに触れると、内容が深まったのではないかと思われる。
 当日の出席者は、(略) 計二〇名

◇相蘇一弘氏の講演記録

 『第16回道修町文化講演会』(08年11月開催、道修町資料保存会刊、09 年)に、相蘇氏の講演「大塩平八郎の乱−大塩はな ぜ蜂起したか−」が収録されている。大塩平八郎・ 大塩の乱・大塩の乱の当初計画・おわりの4部構成 で、史料も図示してわかりやすく解鋭。幕府政治を もとに戻そうとして乱を起こしたが、皮肉にも幕府 の倒壊をもたらしたと結ぶ。

◇「大塩事件研究会」忘年会

 例年までは「大塩の乱関係資料を読む部会」を中心に行われていたが、今年は本会のメンバーにも広く声を掛け12月21日(月)に、26名が集まり実施された。会場は“雲水の普茶料理″で名高い、茶臼山にある「阪口楼」。今回は酒井会長の肝煎りで、女流和楽アーティストの重森三果さんをお招きし、新内節・三味線でたっぷり江戸情緒を味わう噂好。残念ながら酒井会長は病気療養中で欠席されたが、久保在久事務局長の報告と先生からのお元気そうなメッセージの代読で、一同ひと安心。重森先生の新内と三味線は「新内流し」から始まり、ご自身の作品までたっぷり。候半には我々も馴染み深い「長崎ぶらぶら節」「かっぽれ」、さては「奴さん」まで飛び出し、皆さんすっかり魅了されていた。
  【写真 略】
 松浦木遊さんの音頭で乾杯の後は、普茶料理を味わい酒もまわり、近くの方との会話が弾む。会の半ばから恒例になって来た参加者全員の自己紹介・近況報告で親睦を深め、大いに飲んで食べての楽しい一時を過ごす。
 久保さんの中締めの後、参加者は「来年も是非」「今度はどんな趣向かしら」との声を残し家路についた。(内田正雄)
 当日の参加者は、(略) 計二六名

◇「関係資料を読む部会」の近況

 「大塩の乱関係資料を読む部会」の発足は、「大塩研究」第28号によると一九八九年七月に向江強氏の主導で第一回を始めたとあり、今も先輩より受け継いで脈々と続いている。例会は、毎月第4月曜日の午後6時30分から上本町六丁目の大阪府教育会館で行われ15〜18名が集まる。現在は酒井一先生のご指導で「浪花の白波 巻の1」を読み進めており、3月からは「巻の2」に入る予定。会の内容については以前に本誌でも紹介されたが、古文書を読むだけでなく、酒井先生の用語解説・歴史的背景などの話が有り、質問・意見も飛び交う。昨年は12回開催され、全回出席の優等生は (略)4名。賞品として、ささやかに“宝くじ”3枚が贈られたが、努力の人に“幸運の女神”が舞い降りる事を祈る。(内田正雄)

◇『関西師友』に大塩紹介

 藤原利幸氏(本会会員)が編集に関係されている同誌の第六一一号(〇九年一一月)に、「先人に学ぶ(6)」に「大塩平八郎はなぜ身を抛ってまで」という考察を発表した。

◇『井上満寿夫追悼文集』

 〇九年五月十日に死亡した劇作家井上満寿夫氏のお別れ会・偲ぶ会が六月二十七日に開かれることは、前号に報じたが、お別れ会・偲ぶ会実行委員会の名で、同日付で標記文集が発行された。杉山平一、木津川計氏ら九人による追悼文とともに、代表作品『浪華一揆大塩乱始末(十段)』(初演一九七三年、再演二〇〇一年、劇団大阪)の脚本も収録されている。この脚本が発表された年は、「日本列島改造論」が出され、列島に大きなひび割れが生まれ始めた時で、井上氏の人と作品について、かたおかしろう氏の語りによると、「大塩乱始末」は昔のお話しでなく、「現代そのもの」、現実をまっとうに見つめ、怒りをもって書いた作品の本質をよく示しているという。大阪シナリオ学校出身で、その後この学校を事務局長として支え、民主・平和運動と文化活動を統合した生き方だった。

◇和久田薫『和久田のあゆみ』

 本会会員で交野市星田在住の和久田氏が、84歳にして郷土および先祖への熱い思いを、広く史料を調査して出版された。もともと和泉国美木多(堺市)の和田氏がルーツで、その一族が岸和田の久米田を経て星田に移住。元亀元年に和田から和久田に改称。東和久田家から分かれた西和久田家のさらに分家の家筋。西和久田家の7代与治兵衛直清の妻は、門真三番村の茨田家から入った人。この時の嫁入り関係の史料が門真市に伝わっている。本書は全3章、写真も豊富。第2章の第14項が「大塩の乱と星田」にあてられている。「あとがき」に 「戦場で討ち死にした者、大塩平八郎の乱に参加し獄死した者、広島の原子爆弾で亡くなった人、阪神・淡路大震災の犠牲者の記事は、生き残った者が死者や連族に捧げる細(ささ)やかな供養である」と記されている。筆者の歴史を書くことの気持ちがひしひしと伝わってくる。(印刷ぎょうせい関西支社、〇九年)

◇国語研究会『関西ゆかりの偉人たち』

 当世、流行の「大阪検定」の参考資料として友人から昨年知らされた国語研究会『関西ゆかりの偉人たち』毎日放送ラジオ番組「ありがとう浜村淳です」で出版された本の中に(「自己に厳しい平八郎」「平八郎は二度密告された」など)と言う(むさし書房、〇七年)が目に留まった。そこには「一説には二人の密告者は幕府が送り込んだスパイだ」云々とありました。大塩事件研究会で少し学んだ小生でなくても異議ありと手を挙げたくなって旧臓、忘年会の席上でご披露申し上げました。小生の見解によれば、返り忠の二人は吉見の倅と河合の孫(いずれも門弟)は檄文を摺った若者で怖くなって密訴に及んだと思います。もう一人の重要な人物、平山助次郎は一味連判を押した立派な武士で(翌年酒井家来預中に自殺)幕府側のスパイだとは思われませぬ。
 歴史という分野は想像を逞しくできる分野だそうですが小生は浜村氏のスパイ論、一説には肯定致しかねます。諸先生、先輩方のお考えを拝聴致したく思いおります。(無量図書館・松浦木遊氏)
 この本で大塩は「武将・政治家・教育者」の項の冒頭に取り上げられ、コラム欄に「密告」の記事がある。大塩は二度密告されたとセンセーショナルな見出しで、一度目は門人二人(実は三人)、二度目は大塩潜伏宅の美吉屋五郎兵衛の女奉公人とする。後者は密告には当たらない。三月に奉公人入れ替えの際、出身地の平野郷の実家でしゃべった一言が、城代土井の陣屋の所在地であったことから、捜査のネットにひっかかったまでのこと。女性のために一言弁じておく。
 一度目の密告は、天保八年二月十七日東組同心平山助次郎のこと、および二月十九日乱当日早暁に吉見英太郎と同河合八十次郎の二人が英太郎の父で同心の九郎右衛門の訴状を持参したことを指す。八十次郎は同心見習の河合郷左衛門の子。平山助次郎について、森鴎外は『大塩平八郎』の中で、「人間らしく自殺を遂げた」とする。武士意識の強い鴎外の評価である。しかし乱は全く予想外のことで「青天の霹靂」と受けとめられた。大塩が事前にマークされ、スパイとして門人が動いたとは到底考えられない。奇をてらった見方としかいいようがない。(酒井一)

◇天神橋三丁目商店街振興組合『天満天神物語』

 天満天神繁昌亭の開設に貢献された土居年樹さんと重矢錐広・下村治美さんの3人の編集。「天満の歴史」から「繁昌亭誕生物語」にいたる13項目の構成。現在に生きる歴史を適確にガイドする市民的観点の光る内容で、大塩平八郎・洗心洞跡・池上雪枝感化院跡・北同心町の妙見さんなど盛りだくさん。地名の由来も興味深い。さすが 天神橋長いな おちたらこわいな」の民謡もある。明治33年・昭和26年・平成20年の3つの天満地図が巻末についていて地域の変化がよみとれる。(天神橋3丁目商店街振興組合・NPO法人天神天満町街トラスト、〇九年)(K氏提供)

◇大坂町人の奢り

 財政難に苦しむ武士から見ると、大坂の豪商の贅沢三昧は目に余るものがあったようだ。幕臣梶野土佐守良材の『山城大和見聞随筆』もその様子を伝えている。大正二年当時帝国図書館といわれていた現・国立国会図書館本を柳田国男が借写し、それを用いて成城大学民俗学研究所が『諸国叢書』第六輯(一九八八年)に発表。梶野は天保二年から奈良奉行、同七年京都町奉行、同九年作事奉行を歴任。天保八年二月には、幕命で奈良から一旦江戸へ呼ばれて転勤を伝えられたあと、餓死者を見ながら京都へ着くが、程なく大塩の乱の報に接する。この間の情報はごく一般的で取り立てていうほどでもないが、それより大坂町人の暮らし向きについての語りが参考になる。大坂の町人には能舞台や美麗な抱屋敷をもつものがあり、奢侈の噂をよく耳にしたが、京都在勤中にはっきり認識したという。
 大坂の豪商米平(米屋平右衛門)が京都の能役者片山九郎右衛門宅にあった能舞台を伝え受けて能を催した。九郎右衛門へ能装束まで新調して与え、費用はすべて米平持ち、自分もシテを演じ、装束も新たにつくる。女性二人を連れて正面の座敷しとねの上に坐して見物。また奈良奉行時代には、名前を忘れたが近年身上をよくした者が、これも大坂から妾二人を連れて法隆寺の開帳にやって来る。奈良に両三日滞留、供駕龍十八挺、医師儒者などが付き添い、芸者、遊人を同伴したと確かな情報として書き留めている。「其侈を常にして身上を仕立、宮家に至るもいかなる訳かしれず」して嘆く。そういえば、文政十三年に見せた鴻池家のお蔭参りの豪勢ぶりを想い出す。
 また、天保期の京・大坂を比較して、京都では高金の道具類が売りに出ても買い求める人がないのに、「大坂へ下せば千両の茶碗も何れへか富家の手へ買入る、何分合点に落ぬこととも毎度きこゆ、諸国の金銀はみな大坂へ集るといふこと左も有べし、諸侯には窮迫の家多く、家中半高渡り、或は木綿服勤め、または宛行高を残らず借上、家人面扶持渡りなど節倹の上の手詰なるも聞へあり、世の中、融通宝貨は何れへか片寄りといふも是等の事なるべしや」。
 この大坂から大塩の怒り、天保改革、豪商への御用金。武士に発する富豪への思いが読みとれる。もう開国前に幕政のシステムは行くところまで行っていたようだ。

◇堂島米相場の通信

 右の梶木良材の記録に、大坂堂島の米相場が遠国まで「幡」(旗)で移し継いだことを実感している。奈良・京都の奉行時代のことだろうが、堂島→生駒山→奈良町へ。京都へは山崎→洛中、それより音羽山・大津へ→江州東西へ→彦根・美濃路へ→伊勢路・尾張名古屋。このように時々の米価の高下が即刻に諸国へ届く。その日の仕廻相場が例えば六一匁五分であれば、翌日寄付相場の元に立てて、それより一分・二分上り下りを、白はたで振りわけて知らせる。振り方に兼ねて規定があるという。
 西国は海岸だから継ぎ易く、どこまでも早々に伝わる。日本は周囲海だから海上の急を知らせるにはこの方法に越したる弁利なものはない。五十里百里でも速かに通じる。「はたは白地にかぎるべし」と。
 明治に入っても通信手段の改善まで、この旗振りが主な伝達方法で、各地に「旗振山」の称がある。この方法が、のちに手旗信号になるのかなア?
 ちなみに、大坂近辺では、日々米相場金銀相場などが小さな粗末な紙に印刷されて配られていた。米も堂島へ入る各地の銘柄、たとえば加賀米・肥前米などごとに数字の木活字を入れかえてはめこむ。すごい速報体制。河内の羽曳野市内で何日か分の束を見て驚いたことがある。

◇大阪城天守閣展示

 〇九年七月から九月三十日まで三階展示室で「大坂 激動の軌跡」、大坂夏の陣後の復興から明治維新に至るまでの歴史を紹介。大坂の陣をめぐる珍しい摂州北中島の沢田家文書などとともに、大塩関係史料が出陳された。有名な大塩平八郎画像、大塩の武藤休兵衛(大坂西町奉行新見正路の家老)宛て八月二十九日付書状、『洗心洞箚記』上巻及び附録、『跋扈巨潮伝』(大阪・宮本氏蔵、周知の大塩軍が火炎の中を進軍する図があり)、「天保八酉年浪花施行鑑」(南木文庫)は、「為御救」とあり、大きな版行、右下に「右ハ去冬より当番迄施行之都合」とある。施行番付の形で、東の大関加嶋屋孫兵衛・関脇住吉桔次郎、西の大関辰巳屋久左衛門・関脇鴻池屋善右衛門等々の名が連記され、施行の合計として「七万二千六百七十四〆文弐千六百廿四石余、弐百九十七両壱歩、三井十五匁」とある。通信子がメモをとっていると、盆休みの観客でいっぱいで、「かの有名な大塩」とか声を出して幾組も見て行く。
 藤田彪(たけき、東湖)が天保六年五月楠公五百歳忌に際して詠じた漢詩が大書されて並べられている。「大厦誰知一木文 中興成否繋南枝」で始まっている。勤王の言葉も出て、天保期幕政の崩壊を読みとっている。「大厦の将さに顛ぜんとするや、一木の支うる所に非ず」(『文中子』事君)をふまえたもの。大慶は大きな家、国家を意味する。

◇小倉宗「近世中後期上方の幕府機構と京都・大坂町奉行」

 『史林』92−4(〇九年)に標記の論文が発表された。同氏の「近世中後期の上方における幕府の支配機構」(『史学雑誌』117・11 〇八年に続くもので、幕府の上方支配を、京都・大坂を中心に分析し、あわせて京都所司代・大坂城代との関係にも触れ、堺奉行・奈良奉行・伏見奉行・大坂定番など広い視野で相互の関係を明らかにした精緻な論文である。大坂の研究が大坂に絞って考察される傾向が強いのに対し、上方八か国支配機構に広げて解明した意義は大きい。高井山城守の名も登場する。

◇死刑囚を切った大塩の愛刀

 大塩が刀剣をこよなく愛して収集したことはよく知られている。強い武士意識のもたらしたものだろう。いままで人に贈呈したことがはっきりしている刀が三振、それに三尺に及ぶ十手ももっていた。
 門真市古川橋のM氏所載の刀は、二〇〇〇年二月天満の大塩展にも出陳したもので、M氏の所有に帰した事情も知られているが(本誌四二号)、その茎(なかご)の部分に「承大塩中斎先生命鍛之/摂州天満住水田国重 歳六十」「天保四癸巳十二月 日/大坂町奉行組同心/上田半吾孟孝(花押)/一ノ胴裁断土壇一払一寸五歩切入」(/は改行)と二面に刻まれている(『門真町史』一九六二年)。水田国重家は、いまもその名を継ぐ「国重刃物店(水田雄一郎)」として南森町に近い天神橋三丁目にある。もと綿屋町で営業、大塩家菩提寺の成正寺の門前にあった。
 伊勢津藩の儒者で大塩の交友の一人、斎藤拙堂は、大塩について三首の詩を詠んだことが知られ、その草稿が玄孫の斎藤正和氏(本会会員)のもとに伝わっている。この三詩は、(1)「浪華大塩子起、蔵書富嶽、帰途見過、賦此為贈」(浪華の大塩子起、音を宵嶽に蔵し、帰途過(よ)ぎらる。此れを賦して為めに贈る)という七言古詩、(2)「宿洗心洞」(洗心洞に宿す)という七言絶句、(3)大塩子起為余購古名刀、賦此鳴謝」(大塩子起、余の為に古刀を購う、此を賦して鳴謝す)と題する七言古詩。
 (1)は大塩が「洗心洞箚記」を富士山頂に納めた帰り、伊勢に向かい朝熊岳でもう一本を焼こうとしたが翻意して、林崎・豊宮崎両文庫に奉納して帰路、安濃津で拙堂、平松楽斎ら津藩士に会った時のもの、天保四年七月、「稜骨炯眼秋隼姿 撃尽凡鳥血淋済」で始まり「更有利刃能殺人 十年錬磨方寸鉄」と結んで、大塩の鋭い風貌を伝えている、(2)は同年九月拙堂が大坂・兵庫へ旅し、篠崎小竹・大塩らに会った時のもの、(3)は天保五年二月の作、「三尺青蛇落掌中 抜鞘颯然座生風」(三尺の青蛇、掌中に落つ、鞘(さや)を抜けば楓然、座、風を生ず)で始まり「況獲此刀百錬堅 知見君面気凛然 離索空懐切偲友 朝夕佩此当韋弦」(況んや、此の刀の百錬の堅きを獲(え)、君が面を見るが如く、気、凛然たるをや、離索して空しく懐(おも)う、切偲(せっし)の友、朝夕之を佩(お)びて、韋弦(いげん)に当てん」と結ぶ。その中で「性愛古刀弁真偽 為我獲之試死囚」(性、古刀を愛し、真偽を弁ず、わが為、之を獲(え)て死囚に試す)とある。大塩は古刀の真偽を弁別し、刀を贈るに当たって、死刑囚を試し切りしたとする。この刀は、一九四五年の津空襲で焼けたが、斎藤家に伝わっている。無銘の古刀という。斎藤正和氏が本会例会講演の際、拙堂画像とともに持参、展示された。以上、漢詩の読みは、杉野茂『斎藤拙堂詩選』三重県良書出版会、一九八九年による。なお斎藤拙堂選・呉鴻春輯校『鉄研斎詩存』汲古書院、二〇〇一年にも詩が収録されている。この本の「卜居集」に「燈下拭剱」と題する七言古詩があり、(3)の詩と用語がかなり共通して、「君不見鉛刀一割人所喜」の「君」は大塩を指すのかもしれない。
 最後にもう一例、東京国立博物館蔵の大塩愛用の脇差がある。「依大塩中斎先生命鍛之/畠山大和守源正光(花押)」「天保四癸巳十二月十一日/大坂町奉行組同心/古市文五郎吉平(花押)/乳割土壇払一寸余切入」と茎の二面に刻まれている。これも死刑囚を切ったもの(幸田成友『大塩平八郎』中公文庫、一九七七年)の付記)。

◇試し切りの実施

 前項に大塩の愛刀の試し切りを述べたが、当時どのように処刑や試し切りが行われ ていたのか。与力八田五郎左衛門が延享から安永期(一七四四〜一七八一)に書いたと推定される「御問合之内三ケ条下書」(『大坂町奉行所与力・同心勤方記録』大阪市史史料第四十三輯、一九九五年)に、その間の事情を窺わせるものがある。
 死刑は、牢屋敷構内にある空き地で執行される。牢番人が死刑囚の本縄を解いて、当日早朝から詰めている役人村の者へ渡し、ここで荒縄にからめ直して、紙で両眼を覆って御仕置場に引き立て、かれらの手で首を刎ねる。
 試し切りの場合は、「様(ため)シもの役之同心」が決められていて、刑の執行ごとに牢屋敷へ出役する。死骸は役人村の者に指図して処理させ、「様シもの致稽古」す。この稽古道具はかねて渡してあるが、「武家方所持之刀・脇差・鎗身等試所望有之候者、様シもの役同心預り、望之通夫々致様シ候儀も有之候事」とある。役人村の者に死骸取り片付けの際に試しの稽古をさせるという。とくに武家方が所持の刀剣・鑓身などの試し切りを希望すれば、「様シもの役同心」が預かって、望み通りにしたとする。「様シ」は担当同心の指示のもと、死体に対して役人村の者によって実施されたことがわかる。さきの大塩愛刀の試しに「同心」の名があるのは、この習慣によるものであろう。
 ついでに一言。処刑された遺体は、大坂川口にある月正島に役人村の手で運ばれ、取り捨てにする仕来りであった。このことも記されている。

◇密告者に銀百枚

 大阪城天守閣蔵の「浪華騒擾紀事」は、乱後の大坂の情報を生々しく伝える貴重な もので、水戸の藤田東湖が剣客斎藤弥九郎によって大坂で入手された内容を記している(青木美智男編『文政・天保期の史料と研究』ゆまに書房、二〇〇五年)。その中に、大坂市中で殊の外「平八郎を貴ひ候由、甚しきハ焼たくられ候者迄、少しも怨み不申、小者迄も大塩様と貴ひ、既に此度大塩を召捕候ものハ、銀百枚の褒美可被下由触に相成居候処、大坂もの申候ニハ、たとひ銀の百枚が千枚になろう迚、大塩さんを訴人されうものかと申居候由」という有名な一節がある。
 この銀百枚は、強訴・徒党などの密告奨励のために高札などで掲示されていたものであるが、大塩の乱の際、改めてそのことが触れ出された。左の史料は、二月十九日の乱後、行衛不明になつている大塩が、進退極まって自殺するおそれがあり、それらしい死体を見つけたら、褒美として銀百枚を与えると通達したものを用聞が承知したとする文書である。河州茨田郡葛原村の上堀家に伝わったもので、旗本永井家の交野郡の船橋陣屋の在地代官を務めた。他に同支配の尊延寺村民の逮捕・連行を物語る史料もある。

◇姿を消した天満与力・同心屋敷

 天満の与力・同心屋敷については、志村清氏が綿密な復元図を作製し、旧観をとどめる写真を集めて注目すべき仕事をしている。『北区誌』(一九五五年六月発行)に、一九五三年七月に開かれた「むかしを語る座談会」が掲載されている。出席者には明治十八年(一八八五)の淀川洪水を体験した人が何人もいるが、その一人、四谷四郎の発言に、明治二十年ごろに与力・同心の家は「変っておりますけれども、そのころはございました。私は幼年時代に天満へ来て、南森町に住居をした。与力・同心のところは大かた竹薮のあるところで、きこく垣が大分残っていた。自然になくなりましたが、日清戦争の時代、つまり二十八年には半分以上変っていた」とある。

◇天保四年の兵庫津の難民救助と柴屋長太夫

 乱をめぐる米穀流通問題で、兵庫津が一つの鍵を握っている。その兵庫で、天保四年八月から難渋人に対して行われた「津中身元宜敷方々より助成金銀以、安売米相続仕候始末」の記録がある(石阪孝二郎「史料断片」『神戸史談』二二九号、一九七一年)。 これによると、兵庫津の町方三会所では、岡方組は金二〇四八両二歩一朱、銀八〇〇目、銭三二貫文、米一〇俵、北浜組方は金一四九五両、銀八一〇匁、米一〇俵、南浜組金三六〇両、銀五〇〇目、米一〇俵、このほか商人仲間(穀物仲間・諸問屋仲間・干鰯屋仲間・質屋仲間・古手屋仲間・干魚塩魚仲間)金二八八五両、銀一〇貫目、合計金五五八八両二歩一朱、銀一二貫一一〇匁、銭三二貫文、米三〇俵の拠出。これを原資にして、天保四年七月十三日から翌五年八月晦月まで、断続的に安売米が実施された。平均して白米一石につき三七匁四分六厘六毛余下直に売ったという。その恩恵を蒙ったものは、少なくとも延べ一万一二三七人以上を数える。拠金は商人仲間では、穀物仲間が九〇〇両でもっとも多いが、個人では北浜の鍛冶屋町北風荘右衛門三五〇両が突出。北前船の豪商である。ついで岡方の小物屋町有野屋得蔵と南浜の出在家町岩間屋(神田)兵右衛門はともに一五〇両。それについで大塩門人の北浜西出町の柴屋長太夫は、岡方木戸町の和泉屋弥兵衛・北浜匠町の白髪屋利右衛門とともにそれぞれ一〇〇両を拠出している。
 天保飢饉の始まりを告げる時期の救済策で、兵庫津ではかなり熱心に取り組んでいる。山城国相楽郡北笠置村の米問屋治左衛門・善四郎の記録を見ても、天保四年五月から伊賀米の津留、「九月下旬丹州播州当りこほち等茂有之由ニ而」と米価高直の事 態を報じている(山城郷土資料館寄託・森島家文書)。

◇内山彦次郎掛りの窃盗事件温情処理

 天保三年十一月十九日のこと、長町七丁目両替店山家屋勘右衛門居宅の土蔵になにびとかが入り込み、金子一一七両と銀二貫五〇〇匁が紛失、かたわらに刀一腰と鍵縄が捨ててあった。調べの結果この両替屋別家手代庄助の犯行と判明。日頃実体に勤めたもので主人から命乞いして、三日の入牢の上所預け、金銀等は主人の粗忽の訴え、刀も質物に取っていた品だった。その結果双方とも「御叱り」の処分、身分に別条なく解決。この「御憐愍之事、西様内山彦次郎様ニ御座候、此内山彦次郎様事仏神之様ニ三郷町中帰依致候、慈悲深キ盗賊方」といわれた。「摂陽奇観」(『浪速叢書』第六)に記されている。大塩側から見ると、内山はワル者扱いだが、能吏のこのような面もあった。当時の西町奉行は堺奉行から転出してきた久世伊勢守広正。

◇岸和田藩儒相馬九方の大塩批評

 相馬九方(享和元年・一八二一〜明治十二年・一八七九)は讃岐高松の生まれ、京都で儒学を講じ、後年岸和田藩に招かれて儒官を務めた。九方没後百年記念に、木南卓山氏『相馬九方』(潟Aートビジネスセンター、一九七八年)が、「立誠堂詩文存」の刊本復刻に解鋭をつけて出版された。その中に「与大塩平八書」がある。あまり知られていないようだ。九方の批評は、前年に宇津木靖が大塩の著した「学名学則」を届けてきたのを読んでまとめたもの。「洗心洞学名学則並読書書目」が出来上がったのは天保二年、ここに洗心洞の学制が整ったが、この年はまた宇津木が大塩のもとに入門した時に当たる。「学名学則」は同五年十一月に家塾板で刊行、翌六年七月に『儒門空虚聚語』附録として出版された。また九方の文章に「中斎」と二回出てくる。大塩がこれを号としたのは天保三年といわれる。とすると、宇津木がこの書を届けたのは、天保五年か六年のいずれかで、天保六年に著作にまとまった時点で、大塩とはまだあまり友義の深くなかったという九方に届けられたものであろう。
 さて内容である。大塩の学問の名前や学問の原則について、弟子が尋ねたのに答えた有名な一節がある。「先生の学問は陽明学ですか」「そうではない」「毛・鄭・賈・孔らの訓話注疏の学ですか」「いやそうではない」「伊藤仁斎父子の古学ですか。それとも荻生狙徠の詩書礼楽を主とした学ですか」「いやそうではない」「ではいったい……何の学問ですか」「私の学問はただ仁を求めるのみだ。だから学問に特別の名はない。しいて名づければ孔孟学と言おう」(宮城公子『日本の名著27 大塩中斎』(中央公論社、一九七八年)。九方はこれを引用して「我学治大学中庸語孟也、我学只求仁而已」、そして学名を建てて「孔孟学」と称したことに疑義をはさむ。大塩が学んだ陸王学を批判し、狙徠学の立場を離れて朱子学に移って行ったことを述べる。天下の聖学が衰え、俗庸記誦の徒が空文、浮華に流れている中、大塩のように魏然として道学に任ずることを評価しながら、「足下(大塩)の志の大にして、其名これ未だ尽きず、亦天下後世の禍を思う」と記す。独自の学名を称してきびしく他と争端を開く大塩の姿を読みとっている。
 弟子に但馬の池田草庵、土屋弘(鳳洲)がいる。草庵は、九方が但馬に一年間滞在した時に教化を受け、仏門から儒学に移った。鳳洲はこの草庵の青谿書院に師命で学んでいる。かれの陽刻の落款に「洗心窩」がある。草庵の友人に讃岐多度津藩の林良斎がいるが、木南氏はまた草庵・良斎研究でも知られる。

◇鹿児島の陽明学(1)

 明治維新に陽明学が一定の役割を果たしたことがよく指摘される。大塩も西郷隆盛も陽明学。大塩の乱を維新のスタートとみる考えは、一般受けしてわかりやすいが、ことは簡単ではない。新しい学問を求める時代の中で陽明学が徐々に広がって行く様子を、個別に証明して行くことが大切。薩摩については東英寿「新出伊地知季安自筆本『漢学紀源』について」(『汲古』第40号、二〇〇一年)が参考になる。
 季安は、伊勢八之進の次男として天明二年(一七八二)鹿児島に生まれ、二十歳の時伊東家の養子となった。二十四歳の時「党籍に連坐し、禁固さるること凡そ四十年」。この事件は、文化朋党事件、俗に近思録崩れといわれる。薩摩藩政史上最大の政変で、島津重豪派とその子・斉宣派の争い。斉宣は朱子の「近思録」の考究に重きをおく造士館グループを重用して藩政改革を進め、重豪が反撃して多数の藩士を処罰し再び藩政の実権を握った。季安は近思録派に連座して喜界島へ流され、その後鹿児島に帰るが禁固の身。文献の精読・考証に努め、「漢学紀源」「延徳版大学」などの著作をまとめ、江戸の佐藤一斎に送って交流している。「漢学紀源」の自筆本を鹿児島大学附属図書館で見つけた東氏が紹介したものであるが、同氏の解鋭に、潜龍堂こと伊東祐之が筆写した「漢学紀源」巻二を季安に見て欲しいと働きかけたことが記されている。二人の交流は、伊東家の系図の作成に季安が関与した天保五年(一八三四)頃に始まると推定される。
 祐之は、薩摩藩士として若い噴から陽明学に興味を持ち、二十七歳の時に陽明学に関する先学の書籍等を収録した「余姚学苑」をまとめ、これが西郷隆盛や大久保利通に影響を与えたという。「余姚学苑」の序文を季安が書いている。

◇鹿児島の陽明学(2)

 その祐之については、大平義行「幕末薩摩藩士・陽明学者、伊東猛右衛門祐之とその家系」(『黎明館調査研究報告』第七集、一九九三年)にくわしい。かれに本格的に光をあてたのは、山田準「薩摩王学者伊東猛右衛門翁」(『造士館雑誌』二十四号)である。現在の岡山県高梁市の生まれ、有名な山田方谷の孫。大塩の「洗心洞箚 記」岩波文庫本の編注者。七高教授(現・鹿児島大学)時代薩摩の陽明学を調査した。祐之(文化十三年・一八一六〜明治元年・一八六八)は、独学修業した藩内唯一の純粋陽明学者で、若き日の西郷・大久保・有村らにその教えを説いた。天保十四年(一八四三)に伊地知季知の序をつけてまとめた「繚眺学苑」は、中国・日本の陽明学者に関する業績を収めたものだが、西南戦争で焼失。ところが東京の井上哲次郎(『日本陽明学派之哲学』一九〇〇年刊の著者)が古本屋で二冊本を発見して、世に知られた。「学苑二」の目録に「儒門空虚聚語 天保発巳大塩後素識ス、中江藤樹」の書名がある。
 ちなみに、東郷平八郎の生家は、鹿児島鍛冶屋町にあって、伊東祐之家と隣り合わせで、思想的影響を受けている。大平氏論文については、鹿児島県歴史資料センター黎明館の主任学芸員徳永和喜氏からコピーを頂いた。御礼申し上げる。

◇鹿児島の陽明学(3)

 征韓論といえば、西郷隆盛を思い出す人は多いだろう。薩摩藩の横山正太郎(安武)は、明治三年(一八七〇)七月征韓反対の意見を書いて集議院門前で割腹諌死した。碑銘は西郷隆盛が書いた。森有礼の弟である。この頃、久留米藩出身の佐田素一郎(雅号白茅)は太政官に朝鮮交際私議を建白し、朝鮮に使したりし、帰国後征韓の建白を提出した。佐田の「征韓論の旧夢談」(『明治文化全集』第二十五巻・雑史編)に、「横山の諌死」と題した一節がある。横山は陽明学を尊信する人で、政治上の批政をあげて諌め、佐田の征韓論の非を指摘して「今は内治が大切である、何ぞ朝鮮の罪を問ふに遑あらんや」ということを書いて断然屠腹。佐田の議論はこれで遮られた。「自分は生きながらの論者であるが、横山は身を殺して諌めた」という。薩藩陽明学の一例。

◇講談社の大塩企画

 〇九年一二月同社の学芸図書出版部長加藤晴彦氏とノンフィクション作家溝口敦氏が来阪した。目的は大塩平八郎を小説化したいとのことで、病気療養中の酒井会長に代わって事務局担当の久保在久氏が、成正寺参拝(有光友昭氏の解説)、旧般若寺村(旭区清水)、守口(京街道、白井邸)、大塩軍の進路などを案内した。早ければ年内にも上梓されるとのことで、発刊が持たれる。なお、溝口氏にはすでに、『反乱者の魂−小説・大塩平八郎』(一九七〇年、三一書房)を上梓されている。

◇赤膚窯と大塩

 『続・続大和路をめぐる』 山路麻芸著、一九八〇年五月、春秋社)に、「赤膚窯を訪う」との記述がある。窯元の大塩正人氏(故人)へのインタビューをもとにしたものだが、「大塩の家名は、初代嘉右衛門が大塩平八郎の娘を娶ってから生まれた」と書かれている。著名な大塩へのあやかりか。

◇JR西日本の「大阪あそ歩」

 〇九年秋の企画として一一月一五日「大阪の幕末を歩く@大坂の「救民」決起!大塩平八郎の乱を追って」が実施され、定員一杯の一五人が参加した。成正寺では本会役員の柴田晏男氏が本会の紹介と檄文を中心とした刊行物の説明と販売を行った。

◇大阪府立高校教員研修会

 〇九年一一月二二日に府立高校社会科研修会が歴史見学を実施し、その一つとして成正寺を訪問。本会副会長の井形正寿氏が大塩の乱について数々のエピソードをまじえて熱弁で解説し、役員の柴田晏男氏が檄文など会刊行物の販売に協力した。

◇ラジオ大阪「ピピッとおおさか 大発見!!」

 一〇年二月一三日に標記の番組で大塩平八郎が三分間放送された。四年前に続く企画で、造幣局前の槐跡と新しく植えられた三代目の槐、同局官舎一角にある洗心洞跡、今橋二丁目の旧鴻池本宅跡、西区靭本通の大塩終焉の地を訪ね、酒井一氏が解説した。

◇訃報
槙得幸彦氏 二〇〇〇年六月大阪城でのフィールドワークに参加されたのを機に入会、〇八年一一月死去。「学問への向上心を持ち、学びの姿勢で歩んだ人生でした。生涯学び続けることが出来ましたことは充実した有意義な一生」との夫人からの連絡をいただいた。


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