Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.4.3

玄関へ

「洗心洞通信 51」

大塩研究 第63号』2010.9 より

◇禁転載◇


◇大塩中斎忌・講演と研究会総会

 二〇一〇年三月二七日午後一時三〇分成正寺本堂において、同寺主催「大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要」が有光友昭副住職の回向によって営まれ、本堂前の墓碑に展墓した。その後、本会主催の行事に入り、花園大学名誉教授山崎國紀先生が「森鴎外の歴史小説と歴史観」と題して講演した。山崎先生の鴎外講演は三回目だが、いつも好評で参加者も多く、今回も長年にわたる研究成果を独自の観点から明快に論じ、聴衆を魅了した。鴎外の歴史小説一三作品(史伝ものは別)のうち、「為政者と民衆」を意織した『阿部一族』『佐橋甚五郎』『大塩平八郎』など七編を念頭に、大正元年発表の『阿部一族』から始まる歴史小説を執筆するに至った動機を、明治四十年代の鴎外の「雁」などの「現代小説」への不評、およびこの時期に強く意識したと思われる固有のイデオロギーによるとした。とくに後者については、軍医総監として権力の中枢にあったことの意味を問い、大正元年にゲーテの『ギョッツ』を翻訳し、そのあと程なく『阿部一族』を脱稿した点に注目。山県有朋との強いつながりがあるなかで「為政者(権力)と民衆」の観点を見出し、「文章の題材を種々の周辺の状況のために過去に求めるやうにな」った(『渋江抽斎』の一都)事情を明らかにした。『ギョッツ』と『阿部一族』につながる太い糸が、今回の講演の聴きどころで、『一族』および『佐橋甚五郎』の文章を例示して、鴎外が原資料に加えた創作の中に、その本音を見出した。
 丹念に鴎外全集を渉猟し、一言一句に注目しながらたどりついた結論で、『大塩平八郎』についても、大逆事件とのかかわりもさることながら、為政者の横暴に対する民衆の異議であることを『ギョッツ』翻訳の流れのなかで理解しようと示唆するものであつた。
 小憩の後、研究会総会が開かれた。内田正雄委員の司会で進められ、酒井一会長の挨拶に続いて、松永友和委員から〇九年度の会務報告(会誌62号参照)があり、常松隆嗣委員から創立三五周年を迎えた次年度の活動方針として、年二回の会誌発行、八回ほどの例会、平野郷を含む二回ほどの見学会、記念行事実施、資料を読む部会の毎月一回の開催などの提案があり、久保在久事務局長から〇九年度の会計報告、相蘇一弘会計監査委員から会計監査報告(会誌62号所収)があり、いずれも拍手で承認された。最後に井形正寿副会長の閉会の辞で締めくくった。本年一一月に研究会三五周年を迎えるので、一つの画期として新たな活動をめざすものであった。
 当日の参加者は(略) 計三三名。

◇四月例会

 四月二四日午後一時半から成正寺において、土居年樹氏(天神橋筋商店街連合会会長)が「文化のない街は崩壊する、文明は文化を駆逐する」と題して講演した。「日本一長い商店街」のキャッチフレーズを創案した土居さん、一九歳から「茶碗屋」を継ぎ、長く天神橋筋の商店街の世話をしていまなお古希を迎えて全国に大阪あきんどの精神を発信しつづけている。「行政・政治家は街を救うか」「流通砂漠の日本」ときびしい現代へ批判を展開。大型店鋪に代表される企業あきんどと、一人ひとりのお客を大事にする街あきんどの違いを具体的に説明し、大阪伝統のあきないにこそ街を救う道があることを、その実践から力説した。経済効率を追うだけでなく、街に文化が生きることを考えて、天満に戦前の賑わいを再生しようと、落語家桂三枝師とともに、二〇〇六年に天満天神繁昌亭を大胆に立ち上げた。目下地域大よろこびの大成功の日々。机上の空論と違って実践に裏付けられた内容であった。参加者には、昨年来の地域活動を物語る新聞スクラップコピーとパンフ『天神橋一店逸品 すぐれた物語』が提供された。講演記録は本号に掲載。
 当日の参加者は、(略) 計一七名。

◇五月例会

 大塩ゆかりの地「桜宮・天満川崎を歩く」 野外フィールドワーク五月二三日(日)・二九日(土)。コース、桜宮(造幣局技師大野規周碑)→毛馬桜之宮公園・青湾碑(田能村直人)→大長寺(近松「心中天網島」)→太閤園庭園(旧藤田男爵邸、網島町)→造幣局前槐樹(本年一月再植)→造幣局官舎構内(洗心洞跡、与力門、与力屋敷配置跡)→滝川小学校(川崎東照宮跡)。案内 志村清氏(本会会員、城郭研究者)、酒井一氏(本会会長)。五月二三日(日)当初の予定日であったが、高い降水確率の上、午後からは風雨が強くなるとの予報が出ていたため、会としては中止を決定する。しかし、集合場所へ遠隔の方を含め三名の方(途中から一名加わる)が集まられ酒井・志村先生の案内で小雨の中を出発。参加者 (略) 計六名
 五月二九日(土)前回と打って変っての快晴、フィールドワーク日和に二四名が集う。定刻の13:30JR桜ノ宮駅前出発。両先生を先頭に淀川沿いの桜並木を、「車来ました」と互いに声を掛け合いながら歩き桜宮へ。境内の「大野規周碑」祖父と父は伊能忠敬の測量機器を造った人で、当人は幕末に榎本武揚らとオランダに派遣され、帰国後は造幣局の開設や鋳貨の技師として活躍する。「澱川洪水紀念碑銘」では志村先生から淀川大洪水の歴史と「わざと切り」等に付き、明治期の写真を参考にして説明を受ける。毛馬桜之官公園の中にある「青湾碑」は裏面に田能村竹田の養子で大塩の門人でもある田能村直入の文章あり。盛夏を思わせる強い日差しの中を、汗をふきふき、水分の補給をしながら歩き近松門左衛門「心中天の網島」ゆかりの「大長寺」を経て「太閤園」に着く。ここは、明治の政商男爵藤田伝三郎の邸宅の内、焼け残った東邸(淀川邸)を生かした庭園として名高く当日も結婚式の光景が見られた。我々は無料で公開されている園内を散策し、トイレを拝借するなどして小休止。
 元気を取り戻して向かつた先は「造幣局」、「大塩の乱ゆかりの槐」。今年の一月二六日に各方面の方々のご尽力で植樹された槐の若木の前で、酒井先生より「大塩の乱」当日の状況及び与力朝岡家のご子孫がもとの木の幹を大切に保存し、和泉市の家では種子から六mを超える大木に育てていると話される。
 続いて造幣局官舎の構内に入り、「洗心洞跡」、「与力門」、「与力屋敷配置跡」等を当時の川崎与力屋敷復元図と現在を対照した志村先生手造りの地図と見比べながら詳しい説明を受け、与力門から大塩さんが毅然として出て来るような幻想を抱く。今は滝川小学校が建っている「川崎東照宮跡」を最後に訪ね、17:00頃に解散した。皆さんお疲れさまでした。  酒井・志村先生、二回に及ぶご案内、本当に有難うございました。(内田正雄)
 当日の参加者は、(略) 計二四名

◇六月例会

 六月一九日午後一時半から成正寺において、布川清司氏(神戸大学名誉教授)が、「近世民衆の思想的動き」(一)と題して講演した。近世の民衆思想について、数々の論者と史料集を発表して、独自の見解を示して注目される布川教授は、今回摂河泉地域を中心に、近世の百姓が権力者にいつも服従していたという定説に対して、これを問い直した。定説を生んだ倹約令を「逆に読む」ことによって、上層の倫理に下層の倫理を対比し、具体的な史料を示して、くわしく日常面の実態を説明した。被差別部落の日雇人も米を食べていたこと、村役人などの退役に納得せず「非道のいたし方」と批判する当事者の声。幕末には兵賦人足・助郷役拒否、その他拝借米・用捨米の要求など、したたかに抵抗する民衆の動きを思想面から論証した。
 当日の出席者は、(略) 計二八名

◇七月例会

 七月山七日午後一時半から成正寺において、柴田昭彦氏(大阪府立東大阪支援学校首席)が「大坂堂島の旗振り通信」と題して講演した。
 堂島米市場の研究は、経済史を中心に成果が相次いでいるが、米価を伝えた旗振り通信の具体的な様子は、未解明の点が多い。労の多い調査に徹底的に取り組み、その都度新発見に恵まれる「熱中人」の柴田昭彦さん。すでに『旗振り山』(ナカニシヤ出版、二〇〇六年)をまとめているが、その後ことしの四月十二日(再放送六月二一日)のNHKテレビ「タイムスクープ」の「速報セヨ!旗振り通信 飛脚より抜群に速い」の番組に協力。その他いくつかのテレビで現地の族振り通信を確認し実演。今回の講演は、それらを編集したDVDを上映し、豊富な資料を添えてわかりやすく具体的に説明した。このテーマは、内田正雄委員の発案が実ったもので、同氏は次は飛脚をリクエストしている。上映に当たってプロジェクターなどを宝塚医療生協および西沢慎氏のお世話になった。
 当日の出席者は、(略) 計二二名

◇八月例会

 六月一九日に続きその第二回目として八月二一日午後一時半からPLP会館において、布川清司氏(神戸大学名誉教授)が、「近世民衆の思想的動き」(二)と題して講演した。六月例会で民衆がさまざまな命令に対する拒否・不服従の原理を日常面で説明したのに続いて、今回は大塩の乱を理解する上で民衆の思想研究が必要として、百姓一揆など非常時に現れる民衆の動きを取り上げた。元文三年の摂津旗本青山知行所逃散から、大塩の乱時の尼崎、天保上知令撤回の連動、慶応二年西宮・兵庫の打ち毀し、あわせて村方騒動、国訴の展開を解説。倫理学から近世民衆史を分析する布川氏は、日本の倫理思想家がどうしてもこのような興味深いテーマに注目しないのかと、かねてからの所感を披露。韓国で開かれた国際倫理学会で二〇分ほどの報告をした時、同氏に質問が集中し感銘を受けたという体験を語った。倫理は、新しい社会を目指し人間を解放するものであるとして、マックス・ウエーバーの所論にも触れ、よしとしない事柄にあくまで従うべきでないとする信念、不服従の倫理が近世民衆の中に生きたことの重要性を強調した。
 当日の出席者は、(略) 計二二名

◇造幣局『時報』に槐植樹式記事

 前号にも紹介したが、一〇年一月二六日に国道二号沿いの造幣局前に、あらたに大塩事件ゆかりの槐(えんじゅ)の若木が植樹された。その経緯が、表題の局内報に「大塩の乱〜槐植樹式〜」として掲載された。川崎与力屋敷復元図(志村清氏作製)に、もとの所在地朝岡邸を丸で示し、一九八四年伐採寸前の槐および植樹式の写真二点があり、解説も史料を踏まえて新聞記事より充実したものになっている。

◇天保期大坂の治安

 「浮世の有様jは市井の医師の目で見た時代相をよく示していて有名である。世の荒れ方を、この史料によって紹介したのに、尾佐竹猛『賭博と掬摸の研究』(新泉社、一九九九年)がある。裁判官として大審院判事(いまの最高裁に当たる)を務め、かたや吉野作造・宮武外骨らとともに明治文化研究会を創立し、『明治文化全集』二四巻を編集した。あのファシズムの暗黒時代にも、美濃部達吉や津田左右吉らと同じ「自由主義の輝ける明星」(藤田幸男の解説)だった。実証に徹し、賭博やスリの実情に通じ、自らその実演もできる珍奇の人。裁判官と歴史家の二つが一体となった人生で、その研究のユニークさでも輝いている。
 さきの著書では、「浮世の有様」を引いて、天保二年七月中旬から九月上旬にかけて、小盗人が大いに徘徊し、押入り、巾着切が横行。ついに証拠さえ明白なら巾着切を叩き殺してよいと、総年寄の口達で出され、ようやく世間が穏やかになったという。大塩も眉をひそめる事態だったろう。同九年二月にも、同様の治安になり、白昼往来の者を剥ぎ取るという傍若無人の振る舞い。北野曽根崎あたりでは、頭突連中と唱えて大勢の者が党を結び、頭で人に突っ掛かり喧嘩して人をゆすり、打擲の上金銀を奪い取る。尾佐竹は「これは大塩乱後の秩序の乱れたに乗じて跋扈しだした」と評するが、同様の事態が大塩事件の前からあり天保十三年にも続いていたから、単に大塩がらみというより、天保期の大坂の世情の一端を物語るものであろう。「総体上方は町人の金持多きと士の無いため」、自然とスリの跋扈を来たしたとし、江戸ではスリを発見すると、これを追うという町方の気風に対して、上方は犯罪を見逃すことから、スリを増長させたと説明している。江戸と大坂の民情の違い。

◇大塩門人秋田晴吉のその後 大塩の門人が幕末から明治にかけてどのように生きたかは、興味のあるテーマ。文久三年(一八六三)の大和天誅組の蜂起を支援した大坂玉造の万屋小兵衛と佐々木春夫、明治期に足跡を残して東京谷中墓地に大きな墓碑の立つ阪谷朗廬、紀州新宮の湯川麑洞、獄中を生き延びたスケールの大きい田結荘千里などで、秋田晴吉もその後が気になる一人である。
 大坂田蓑橋の北詰に文久元年(一八六一)隻松岡が誕生した。堂島新地四丁目大村藩蔵屋敷前という。もと大阪大学附属病院の東端あたりで、尊攘派の松本奎堂(三河刈谷藩)・松林飯山(肥前大村津)と岡鹿門(陸奥仙台藩)の三人が住み、その名に因んで命名された。奎堂は天誅組の変に参加して死亡し、飯山は慶応三年(一八六七)に大村で暗殺された。ひとり鹿門が明治まで生きのびた。
 鹿門(千仭)の「雪泥鴻爪」によると、文久元年十月に、摂州兎原郡御影村にいた秋田晴吉を訪ねた一節がある。「廿九日、三影(御影のこと)に詣りて秋田晴吉を訪ふ。阿波の人、少時大阪に在りて大塩平八の門に学び、後東游して聖堂に入る。学に淵源あり。医を業とし、詩を善くす。楼上に延きて午餐し、款待す。岡本宝積寺を過ぐ。寺僧八十二。黄葉の耆宿なり。其の萩の東光寺に住するや、良完就きて剃染す。本春西上す。光師を省せむが為也。満園皆梅花。花時韻人来游し、摂郊の勝地たり。醸戸加納氏を訪ふ。酒を出す。瓶毎に種を異にす。皆家醸の最良なる者、導かれて逆旅に投ず」。★
 いま森銑三『松本奎堂』(電通出版部、一九四三年)から引用したが、さらに続けると、秋田晴吾は名を晴といい、秋雪と号する。晴吉はその字(あざな)である。岡本(神戸市東灘区)の宝積寺は黄葉宗の寺だった が、戦後単立となりいまは寺域も大正以後転々として現在地で幼稚園経営に従事している。良完は仙台大年寺の僧で、もと長州の士人の子といい、萩の東光寺にいたといわれる。のち還俗して従軍、秋田で没したと伝える。大年寺は黄欒の名刹、大塩門人で河内弓削村の西村履三郎が逃亡時に立ち寄った寺。
 御影の加納については森銑三は、治郎作、柔道の嘉納治五郎の実父とする。菊正宗酒造と白鶴酒造とは別の家。いま述べた一節は、奎堂と鹿門の西摂行についてのもので、花隈村(神戸市葺合区)や兵庫の北風家など、この地域の尊攘支持派との交流を伝えて興味深い。

◇岩手県の小繋事件に学ぶ

 江戸時代命がけの一揆が数多く起こった。都市を舞台にした打ちこわしと百姓一揆とでは、起こり方、季節、組織の仕方が違っていて、前者はあまり伝承として伝わらない。一揆は村という生産の共同体の上に展開するので、言い伝えはよく生き、顕彰も盛んである。大塩の乱も、森鴎外の言うように、単なる「米屋こはしの雄である」とすれば、その伝承はさほど残らなかったはずだが、百姓的基盤に立つた都市騒動であったため、独自に都市にも農村にも伝わったのではないか。それに日本を揺るがす大事件だったせいもある。
 一揆研究は、古文書や当該地区の伝承を使って組み立てられる。しかし、史料は必ず一定の限界をもっている。事実をことごとく書き尽くしているとはいえないからである。とすれば、紙背に徹する史料の読み込みには、身近な社会運動から学ぶところが多いのではないか。
 たまたま篠崎五六『小繋事件の農民たち』(勁草書房、一九六六年)を読んだ。久しぶりの一気読みである。岩手県二戸郡小繋(こつなぎ)の入会権をめぐる争論で、地租改正時の地券名義にことを発し、大正期の第一期裁判、戦時下の第二期裁判、戦後第三期は刑事事件となつて盛岡地裁・仙台高裁・最高裁と展開する裁判の記録。地主の地域支配の圧力、有力者に動かされる警察・検察、裁判の偏り、無私で指導し支える骨太の小堀喜代七、寝返りや分裂の展開、一方百姓魂をもって物言わぬはずの主婦がス イスの世界母親大会で事件を訴えるが、そのあとの大弾圧。事態は一転二転三転。闇あれば光あり、光あれば闇ありの攻防、きれいごとの単純な歴史観がふっとびそうな事実の展開、善玉悪玉の動きに息をのむ。
 よみふけるうちに、当時中立を守っていた小学校教員の貫井に行き当たった。小堀喜代七が「自分の仕事をなげて細民のためにたたかってくれるんだから、もう昔の佐倉宗吾といったらいいか、なんといったらいいか、最近の大塩平八郎といったらいいか、われわれとしては有難い人だと」。運動―というよりそれこそ生活をかけて闘った人たちが岩手の言葉で語る生き生きとした実態が、よむ人の心をつかむ。喜代七は「西郷さんといえば、こんな人だったへなあ。俺あ、はじめて部落さやってきた小堀爺さんば見たとき、そう思いやしたっけなあ(中略)、話コするその声だぼ、まず静かでやさしくて、大きな声はぜったいださねえ人でやした」(土川マツエ談)。
 弾圧、買収は常套手段。金力にモノいわせ、これに追従する者たち。その対極にしっかりと暮らしを命がけで守る貧しい小繋の百姓魂。
 喜代治の度胸はすごい。警官が隣家まで来たと聞きながら、動ぜず裁判書類を書き、門口を固める警官に、「やあ、お晩でやす、御苦労さんでがす」 と堂々と通り抜ける。馬小屋にも逃げ道を作り、小屋に潜んで藁をおき、その上から肥やしをかけさせ、馬がその上に立っている。指導者として有罪の判決をうけてからも五〜七年農民に支えられながら潜伏する。すごい。南部の魂が胸をうつ。
 この裁判を、戦前戦後支えた弁護士が布施辰治。宮城県石巻市出身、「生きべくんば民衆と共に、死すべくんば民衆の為に」と語った空前絶後の風雲児。二〇〇四年に大韓民国建国勲章を受けた国際派、「日本のシンドラー」ともいわれる。早稲田大の戒能通孝教授が第三回目の裁判を支える。『小繋事件−三代にわたる入会権闘争』(岩波新書、一九六四年)の著者。『戒能通孝生誕一〇〇年記念 法律評論1951〜1973』(慈学杜、二〇〇八年)に時代を斬る鋭い評論がぎっしりつまっている。
 裁判にかかわった村民の生の声は、法廷記録よりはるかに実態をついている。大塩の裁判記録を読むとき、眼光紙背に徹するには、多くの示唆を得た。人間模様、裁判のあり方を知るのにこの事件は有効である。大塩当時「申口」とよばれた供述も、大阪弁で聞こえてくるほどに私たちは読みこまねばならないだろう。
 会見の盛岡在武田功氏は、『岩手の民衆史』誌上に相次いで幕末南部藩の一揆について、史料と文献を克明に紹介している。大塩事件も盛岡周辺に伝わっている。壮大な歴史の流れを、南部一揆・小繋・大塩と結びつけて知りたいと思うのはうがちすぎだろうか。

◇武田功「一揆風聞紀録『南部騒立一件等』」

 この題で弘化四年十二月の南部三閉伊一揆の史料紹介と解鋭が、『北方風土』第59号(北方風土杜、秋田県仙北郡美郷町土崎字上野乙1−259、二〇一〇年)に発表された。有名な大一揆関係の史料だが、注目すべきいくつかの点がある、横沢の狼狩りのために、鉄砲を拝借したいと、海辺御番所へ願い出たことが一つ。実はこの狼というのは百姓を苦しめた悪代官を指す。一揆不同心の者には家屋を打ち毀し放火したこと。一揆に放火はめったにない。蜂起した民衆は、銘々鑓、鎌、鉄砲を持参し、鑓の先へ、犬の頭などをさして持ち、徒党は筵旗に「徒党」と文字を書き入れたり、旗印に鍬鎌斧などの印をつけたこと、代官を筵巻きにして殺害したことなどである。もう一つ目を引くのは、一揆先頃の大旗の白木綿地に「南無妙法蓮華経高祖日蓮大菩薩」とあり、つぎの中旗に「南無一名上行菩薩」「南無二名浄行菩薩」「南無三名無辺行菩薩」「南無四名立行菩薩」と書かれた四本が立っていたという。この四菩薩は日蓮宗曼荼羅に登場するが、宗教性のほとんどないといわれる近世一揆の中で、しかも南部地方に日蓮法華宗の寺院が少ないなかで、どうしてこの文言が旗に登場したのか知りたいところである。ちなみに、大塩の乱の時、「南無妙法蓮華経」と書いた幟があったとする記録が少なからずあり、石崎東国は大塩家の宗派がそうであり、この幟の存在に肯定的な考えを示している。

◇溝口雄三氏の日中陽明学比較論

 思想史の研究は難しい。一知半解の知識で大系をつまみ食いする形ではことの本質に迫れず、思いつきにとどまる。
 東京大学名誉教授溝口雄三氏訳の『王陽明 伝習録』(中公クラシックE21、中央公論新社、二〇〇五年)の巻頭文「二つの陽明学」には教えられることが多い。中国の陽明学と日本の陽明学がいかにかけ離れているかを、先行研究を例示してコンパクトに説明している。中国の陽明学が興ったのは15世紀末期、里甲制といわれる徴税システムに綻びが生じ始めた時期という事実を重視。明初には凶作時に地方官の手で、官の倉庫貯蔵の穀物を用いて行われていた飢民救済活動が、明未にはしばしば官より富民(郷紳)の手で、富民層が備蓄する穀物を用いて行われるようになったという。明代中葉に、「それまで村落の教化・秩序維持に地方官が直接に責務を負ってきた時代から、村落の有力者および村民らの自治に委ねる時代へ」と転換。その転換期の課題に応えるべいく、陽明学が朱子学を批判しながら生み出されたとする。陽明は、万人が整人、すなわち万人が道徳(孝悌秩序)本性を具え、万人が「万物一体の仁」を発揮することにより、村落共同体の秩序に参加できると説いた。新しい思想成立の条件を示し ていて説得的な解説である。
 この流れの中で、時代の趨勢として、朱子学を典理とするそれまでの士太夫・官僚の儒学が、庶民の道徳的実践の教えに展開。陽明(一四七二〜一五二八)の時代を境に、儒教は民衆の儒教として民衆層に広められて行く。中国の陽明学の歴史的役割の第一は、儒教の民衆化〃という点にあると、溝口氏は総括する。
 かたや日本の陽明学研究では、この歴史的特質を見落とし、心の内面の自立″既成の規範秩序を破る良知の躍動″の学などと、心の主体性を発揮する学と規定する人が少なくなく、このような見方は、日本陽明学の特質と中国陽明学を混同した正しくない解釈と明言する。
 要するに、日本の陽明学が中国のそれと最も違う点は、中国のようにある時代の要請を動力にして生み出された思想ではないという点である。その上で陽明学が日本へ朱子学と同時並行して流入したため、人々はこの二つを対立的な学問・思想として並べて眺めることはできたが、その対立を歴史的な目でとらえることができず、単に形式面の違い、あるいは性質上の違いとしてとらえただけという。
 中国陽明学の、朱子勧諭―太祖六諭―陽明郷約と続く「儒教道徳の民衆化」という流れとは異なり、日本陽明学は個人の内面世界で完結する思想として、専ら知識層の間に点在するにとどまったと指摘。
 大塩の陽明学が、この流れの中でどう位置づけられるか。識者の意見を聞きたい。

◇胸を打つ竹田の「売甕婦」

 豊後岡津(大分県)の侍医の家に育つた田能村竹田は、文人画家として知られるが、その社会観と生き方には感銘を受ける。先祖は摂津国川辺郡田能村(尼崎市)にルーツをもち、中川家に随って岡に移住した。木崎好尚によって文化七年(一八一〇)以前の作と推定されている「売甕婦」七いう一辞がある。

 岡藩に文化八年から翌年にかけて一揆が起きた。竹田は建言書を認めて藩政のあり方を批判し、藩を去る。その一節に武士への厳しい文章がある。「此度の病根、今又委細に申上候、第一には、総体侍と申者は生まれながら貴きものと存じ、自慢のみにて、百姓共が国家第一の宝と存候儀少く故と奉存候」「百姓共一年中出精仕候て作り出し申候五穀を、居喰に仕様ニ相成候て、百姓共より大に浅間敷者ニ相成申候、左様に御座候へば、世の中位牌知行と申者にて、先祖郤て慙を与ふる筋に相成申候」。武士は、国家第一の宝である百姓より浅ましい存在、百姓が丹精こめて作った五穀を居ながらにして食べ、「位牌知行」と俗に呼ばれているという。さながら安藤昌益の「不耕貪食の輩」という言葉と同じである。
 文化二年大坂に遊んだ時、書物が潤沢で、書林が江戸と違って至極丁寧でよく世話をするのに感心し、「王陽明の集抔は、ほしき物に而」と郷里へ便りしている。そして晩年、天保五年九月に大塩をしばしば訪問して「議論激発」、伝太(養子、田能村直入)を大塩塾に入学させた。同六年六月二四日天神祭宵宮の日にも、大塩邸を訪れ、昼七つ時から夜八報まで(午後四時から午前二時まで)、会食し「議論如湧」きひとときを過ごしている。大塩とのかかわりは、本誌59号の本欄に書いたとおり。竹田の武士観、民衆観が文人画の底流にあると読むことが大切だろう。それにしても、竹田の社会観はもっと注目されてしかるべきであろう。

◇文哉碑につつじ

 長崎県島原市(略)の吉田武久氏から、一○年四月一四日付お便り。「文哉碑の公園のつつじがきれいに咲きました。小原下(おばるしも)自治会の皆さんの御協力によるものです。心なしか石碑も年月を経るごとに風格が出てきたように思います」。「横山文哉之碑」の前に咲くつつじの写真が二枚添付されている。

◇悲田院文書の出版

 大坂に四天王寺悲田院・鳶田・道頓堀・天満の四ケ所非人がいたことは、よく知られているが、そのうちで最古かつ最大規模であった悲田院の長吏家(林家)に伝わった文書などが、長吏文書研究会編で、正続合わせて部落解放・人権研究所から二〇〇八年、二〇一〇年にそれぞれ出版された。正編である『悲田院長吏文書』には一二〇〇点におよぶ史料が収められて、これを活用した研究も進められ、本会でも〇九年六月に編集者の一人、高久智弘氏の講演で取り上げられたところ。『続悲田院長吏文書』は、神戸市立博物館・八尾市立歴史民俗資料館・角田家文書・大阪教育大学附属図書館・四天王寺所蔵文書を収めている。
 通読すると、いくつもの重要な問題点が浮かび上がってくるが、たとえば、天保四年の非人による探案・情報収集が個別村落の米買い持ちの家を特定し、その調査は米量や当主の年齢はもとより、支配を超えて広がっている。同じ天保・弘化期の作柄調査も実に広域的で、幕府が地域を越えて関心を寄せていることがわかる。
 非人が村方に対してもっていた問題については、大塩檄文にもあるように、決起の一因をなしたもので、とくに興味深いものがある。
 続編所収の天保八年二月十日に始まる下筋道中日記には、横帳裏表紙に「大坂盗賊方手附 勘定方」とあり、四人の同心が長堀商売米屋町の平野屋佐吉による船四艘のうち金栄丸に乗り、天満、道頓堀、飛田の小頭を連れて十五日下津井着。このうち飛田小頭の栄三郎ら四人については、「此分者兵庫津より上陸、内山様御供ス」と注記されている。内山もこの探索に加わっていたのである。これにつづいて、住吉丸に天王寺長吏や在村の小頭が搭乗し、十六日下津井へ着船。讃岐金毘羅などを回っているが、一月二十八日に「内山様・関様御帰国道、和介御供致し帰」とある。内山彦次郎と同心の関弥治者衛門が帰ることになり、道頓堀小頭の和助(小野)がお供している。
 実は二月二十五日四ツ時(午前十時)頃、十九日に起こった大坂表騒動一件(大塩事件)について、重五郎から住吉丸に乗って西行した林(悲田院長吏)と小野(悲田院小頭)あての御状が、出張先の丸亀に直人足で届けられ、大坂出火の様子がわかった。その後のやりとりは文意のとりにくいところがあるが、二十四日同行していた飛田小頭の助八が内山の御状をもって大坂へ帰り、その返事が二十八日に岡山に着いて、内山が事態を知って急遽帰国となったとみられる。
 つまり、乱直前に吉見九郎右衛門が密訴した文章に、内山が「此度遠方御用に参り候故に、吉見九郎右衛門が密訴も承り申間」といい、その出立を差し延べるよう賢察を求めたとあるように、内山は当時西国筋、備前へ出張中で不在。火事が大塩の乱と知って二月二十八日に急遽大坂へ向け出発したことが、この史料で明らかになった。すでに乱後九日が経っていたいたのである。
 その他、内容的には読み甲斐のある史料集。さらに一例を挙げれば、弘化二年の河内一国稲綿作柄風聞の調査では、三百坪一反、三百六十坪一反が例示されてその注記とともに反当たり収量が示されている。河内に三六〇歩=一反の耕地があったことが証明される。

◇『大坂西町奉行新見正路日記』

 標記の「日記」が薮田貫氏の編著で一〇年清文堂から出版された。東北大学附属図書館蔵の史料で、大坂西町奉行を務めた新見正路の文政十二年八月十五日から天保二年九月二日にいたる日記である。解題・解説を薮田氏が担当、特別寄稿として佐久間貴士氏の「発掘調査から見た大坂西町奉行所」、付図大坂西町奉行所図がある。かねてから「武士の町大坂」を主張してきた薮田氏による具体的な史料紹介で、正路の日々の動きを物語って実に興味深い。もとより多方面からの読み込みが可能であるが、こと大塩の観点から見ても新しく知りうることが多い。
 東町奉行で大塩の手腕を評価した高井山城守についても、文政十三年六月から七月にかけて、病気養生出府願、「耳遠ニ而公事訴訟聞兼」、ついて内存決心して、同年八月十八日大坂備前島から出船して江戸へ出発。大塩平八郎の転役、邪宗門吟味、長吏一件吟味、無尽内調べ、不正無尽取調候帳など、今まで知られていた大塩関係の裏づけが日を追って判明する。
 この史料とともに、関西大学・なにわ大阪文化遺産学研究センターから、同センターの叢書2・5・10・15として公刊された『大坂代官竹垣直道日記』(一)〜(四)が注目される。〇七〜一〇年の四年にわたる薮田貫氏の編集にかかるもので、若手の研究者、松本望・内海寧子・松永友和の三氏が校訂に従事した。こちらは、村に密着した大坂谷町代官の天保十一年から文久三年におよぶ二十三年の日記。原本は東京大学史料編纂所所蔵。さきの町奉行の日記とは一味ちがった内容が盛り込まれる。両者あわせて武士の目からみた大坂・上方支配の実像が浮かび上がり、熟読して史料の醍醐味を知ることができる。手間ひまのかかる大きな仕事の学恩に感謝したい。

◇「大塩事件と能勢一揆」

 『池田郷土研究』第12号(一〇単三月)に、酒井一氏が一九八六年四月池田郷土史学会総会で行った講演記録が掲載された。大坂斎藤町の住民だった山田屋大助が出身地能勢で一揆を起こした背景、中心人物たちの大坂在住の問題点、飢饉のさなか「大塩味方」と称して京都の関白に訴え、一国平均の救済を求めた思想などを取りあげている。

◇川崎東照宮記録

 「徳川時代大坂城関係史料集第十三号」として『川崎東照宮関係記録(一)』(大阪城天守閣、一〇年三月)が刊行された。豊中市にある東光院萩の寺所蔵の『御社参拝記』『御城代拝礼之記』『年分須知并附録』の三点を、天守閣学芸員宮本裕次氏の担当による頭註と解説つきで発表。東 光院はもと摂津国西成都下三番村(梅田三番街の名称はこの村名に由来)にあり、大正三年(一九一四)に現在地に移転した。維新期に川崎東照宮と別当寺だった九昌院建国寺は廃止され、これを惜しんで東照宮は東光院に遷座、社地にあった本地堂もここに移築された。所威の文書もこの流れの中で伝わった。内容は表題から推察の程を。

◇「日本の革命歌百年」

 本誌第六一号(〇九年九月)に久保在久氏が「講座『民衆史を学び歌う―日本の革命歌百年』について」と題して、朝日カルチャーセンターにおける講座開催を紹介した。本会元副会長、故西尾治郎平さんの遺作『日本の革命歌』をテーマに、講座は予定通り実施され、本会会員の荒木伝氏が講演、アコーディオン伴秦を井上奉行氏が担当した。本会会員も数名が参加。なお、講演は本会会員島田耕・西山清雄両氏らの主宰する「プロダクション・スコーポ」社で録画された。

◇『朝日』に大塩紀事

 二〇一○年七月二三日付夕刊「歴ナビ旅する日本史Jの「ゆかりを紡ねて38」に大塩平八郎が取り上げられ、事件の概要とゆかりの地、成正寺、中嶋家の与力役宅門、洗心洞跡、槐、東町奉行所跡などが紹介された。酒井会長が「乱によって人々は幕府を公然と批判するようになり、その権威は失墜していった。明治維新のトップバッターといえるjと、その歴史的役割を明らかにされている。

◇志村清氏からの情報

 古書や文献の博捜と実地調査で本領発揮の志村氏から寄せられた大塩情報二話。一つは楳茂本(うめもと)陸平「日本舞踊」(『大大阪』昭和14年1月号、大阪都市協会)に、踊りの名手陸平さんが、「天神橋と梅」の項に「私の曾祖父は京都の宮家に奉仕した者で、後大阪に移り住み、時の文人墨客と交際広く天満与力、大塩平八郎とも交友があり、一種の変人で木彫仙人と呼ばれてゐました」とある。もう一つは、西村通男『海商三代―北前船主西村屋の人びと』(中公新書37、昭和39年3月刊)。北陸の加賀羽咋郡出身、北前船の忠兵衛家のことで、かれの主家「綿喜」は大阪に店があり、大塩の乱の時一九歳。入手の経路は不詳だが、「後年、彼は大塩平八郎書と称するものを掛け軸にして秘蔵していた」という。「おそらく大塩を線の太い直線的行動家として(銭屋五兵衛をも目標に)身近な存在に感じ、彼に傾倒していたのであろう」とある。初代忠兵衛(文政二年〜明治一八年)の墓は大阪中寺町の雲雷寺にある。

◇田村貞雄編『「ええじやないか」の伝播』

 幕末ええじゃないかの研究は実に多くあるが、本書は、二〇〇九年九月六日に京都府城陽市歴史民俗資料館において開催された「ええじやないか」関西シンポジウムの報告集。田村氏や長谷川伸三氏ら八人の報告に、ひろたまさあき氏がコメントを寄せている。降下した神札のもつ意味は大きい。大塩が与力を退いた文政十三年のお蔭まいり、お蔭おどりと幕末のええじゃないかは降札など共通のものがありながら、とりまく政治的社会的意味に違いがあると思われる。大塩檄文に伊勢御節の「お祓札」が張られていたことを想起しながら、これら一連の民衆運動の意味を正当に学びたい気持ちになる。(岩田書院、二〇二〇年、本体一五〇〇円+税)

◇酒井一『なにわの歴史八景』

 大坂落城から幕末・維新まで近世大坂を楽しむ八景五一話。チラシには「近世大坂の緒相を民衆の目を通しいきいきと描く歴史エッセイ」とある。近世大坂を満遍なく書いたものではないが、独自の歴史観で過去を過去にとどめずいまにもつ意味を問うことに特徴がある。分野も政治・経済・文化の全般に及ぶ。もと大阪民主新報掲載の五〇話に別稿一話を加え、配列を変え写真を加えて軽妙な筆致でまとめている。(せせらぎ出版、二〇一○年、税込み二〇〇〇円)

◇種村道雄『大塩平八郎からの伝言』

 大塩のバックボーンを探って思いを込めてまとめた著作。少し脚色した部分もあり伝紀としての正確さに欠けるとした上で、大塩の公憤を理解し、「義挙」と見る評価に立ってまとめあげた。奈良県職員を務め、フリーになって古文書の研究を進め、津藩の平松楽斎文書なども参考にしている。建議書や大塩書簡など現在の到達点の研究に触れてないのは惜しい。同じ奈良県職員労組の友人・吉田智弥氏から久保在久氏、酒井氏へとリレーされて届いた。(エーシーエヌ、ANC、二〇一〇年、略)

◇愛知県あま市で大塩檄文の写しと新情報

 名古屋にほど近いあま市(尾張藩領、旧尾張国海東都)富塚の旧家から、檄文の写しが発見された。同市美和歴史民俗資料館の調査の中で、古文書研究会の片桐欣也氏が解読を担当、本会へ問い合わせがあり、その結果、中日新聞一〇年四月二七日号(担当稲垣氏)、毎日新聞四月二八日号、朝日新聞五月七日号(担当津島支局中村尚徳氏)で、それぞれかなりのスペースで報道された。尾張地方では檄文写しの所在はかねて予想されたところで、『新修稲沢市史』本文編上(一九七九年刊)にも、同市史資料編八所収の性海寺文書三六四号によって写真入りで紹介されている(ただし解読ミスがある)。本文編掲載の写真は「稲葉村山田家文書」の一部だが、ここにすでに、檄文が 瑞雲院与申者八幡之寺中也、右寺より去ル御大身様江山徴菱上候書付之亦写なり」とある。稲沢市本源寺にも「触願達留帳」に檄文が綴じられている。片桐氏によると、奉行所からの廻文(触) の写しや願書・達書の下書などを綴じ込んだ中に、大塩の檄文が入っているという。
 富塚村の旧家所蔵の文書は、表紙に「天保八酉歳ニ拵之」とある竪帳で、「富塚村鬼頭氏」とか「海東(郡)」、鳥の絵などがメモ風に書き込まれている。冒頭の部分を紹介すると、

 このあと「四海困窮いたし候ハ」と檄文に適宜ル ビを振って全文を紹介。つぎの文章が続いてしめくくっている。

 この史料のもつ意味は、山城国八幡町で乱の翌々日二一日の朝、町内の髪結いが檄文を拾い、年寄役へ届け、さらにかれから瑞雲院へ届けられ、二七日にしかるべき「御大身様」へ差し上げたことにある。この地での発見は初見である。国境に近い河内国交野郡尊延寺村の深尾才次郎が、事前に檄文を入手し、村民を率いて枚方宿経由、京街道を大坂に向かったことはよく知られる。その行動の中で撒かれた檄文の一つだろう。
 瑞雲院は現存しないが、八幡市八幡清水井73の正法寺の末寺で、もと境内地にあり、いまは保育園の用地となっている。正法寺は「徳川家系図」によると、家康側室、お亀の方が再興した寺で、寺領五〇〇石。お亀は清(志)水甲斐寺宗清の養女だが、実は洛陽石清水八幡の神職清水加賀守菅原清家の女で、尾張藩初代藩主徳川義直の母に当たる。家康の死後お亀は相応院尼と称し存命中に浄土宗正法寺を再興。寛永一九年(一六四二)九月一六日尾張名護屋で逝去、同国妙見山相応寺に葬ったという。家康−尾張徳川家につながる名刹だった。大塩本家は尾張藩士、史料のいう「御大身様」は尾張薄主かその重臣か。

◇心静かに「墓マイラー」

 読売新聞一○年八月八日付の記事。墓マイラーとは、大阪府大東市に住み、世界各国の墓を訪ね歩く文芸研究家、カジボン・マルコ・残月さんが自身を指して使用している言葉。何度も同じ墓を訪ねるのも墓マイラーの特徴という。記事によると「大阪市北区の成正寺には、飢饉に苦しむ庶民の救済を求め、江戸時代後期に決起した大塩平八郎の墓があり、カジボンさんは八月初め、足を運んだ。『三回目になるが、庶民の味方だった平八郎に会うと、いつもパワーがもらえます』と手を合わせたjとあり、大塩の墓前で数珠をもって合掌し「来る度に、思うことが違います」と話す姿が写真で掲載されている。研究会に参加して合掌する人は果たして何人いるのだろうか。(K氏提供)

◇マンガ日本史30『大塩平八郎』

 50人の人物で時代を読み解く週刊誌、朝日ジュニアシリーズに、岩田やすてる氏によるる「あげよ、救民ののろし」「腐った役人に炎の制裁を!!」「民衆を飢饉から救うためすべてを捨てて立ち上がった男」と精悼な白鉢巻姿の平八郎(なんだか近藤勇のイメージだが)。「わいろはゼッタイ受け取らない!」など一部政治家諸先生の耳に痛い一節もある。マンガは下手な歴史談義より子どもへの影響は大きい。このマンガで子どもたちが人物と時代を考えてくれたらうれしい。(小学四年生Kさんから酒井会長への献本)

◇さかもとけんいち『浪華の古本屋 ぎつこんばったん』

 大阪市北区黒崎町に青空番房(電話06・6371・8904)を構える坂本健一さんの戦後65年記。浪華の古本屋(特別集録若冲はんとらかんさん)、映画が活動であった街、路地と花と地蔵さんと、の三章構成、ご自身によるイラストも楽しい。「大阪ふるほんやMAP」もついている。大阪の焼跡闇市に若者が群がった店から、戦前戦後の大阪を活写。新聞各紙が大きく取り上げた生き生きとした古本人生。ことし八七歳のさかもとさんは大塩ファン。いやそれ以上に大塩の心を知っている。かつて毎年三月二七日に成正寺で中斎先生顕彰会による法要と講演に参加したという。古本市の日程と重なつてその後ご無沙汰してしまったという。細長い店の奥に酷暑を扇風機だけをたよりに座っている。大塩の研究会が35年も続いたことは大阪にとって大塩が大事な人物だからと一言。筒井康隆氏とも長い交流、出入りした人たちの名を聞くだけでも立派な大阪文化論。一度ゆっくりと聞き取りしたいというと、「大したことおまへん!」とつれない。このの出版を企画、成功させたのは本会会員の辻不二雄さん。大企業に勤めてアメリカ暮らしも経験した広い目で、若い頃から交流のあったさかもとさんの魅力を見事に世に引き出した。辻さんにとつて第二の人生の大仕事で、オンライン出版のSICの代表取締役に就任し、問題作を出版しはじめた。見事なものだ。(SIC、二〇一〇年刊、税込み一六八〇円、電話03・6824・9604または06・6445・1100)

◇『大阪弁川柳』

 なんだか大阪は川柳そのもののマチのようで、川柳を愛好する田辺聖子さんの小説の世界も、まさにそれにあてはまる。直木賞作家難波利三氏らを審査員とする大阪弁の川柳コンテストの本をみると、そう感じる。「命までかけた女でこれかいな」「おおきにで明けおおきにで暮れる街」「まかしとき大阪弁で値切ったる」「いとはんがナンパしてはる橋がおま」(戎橋)等々。「平成の世直しやりまひょ大塩はん」と夏田信身さんの句、難題発生、大塩登場か。(英文館出版・出版部、一九九八年)。

◇東北大学附属図書館に大塩肖像

 富岡鉄斎が収集したとみられる書画軸の中に、「大塩中斎肖像」が見つかったと、二〇一〇年八月二四日付朝日新聞で全国的に報道された。
 【記事「大塩はん 仙台におった」 略】

◇会見の訃報

中馬英夫氏 本年三月二七日に六八 歳で急逝。会社同僚の志村清氏の紹介で〇三年一一 月八日入会。例会に熱心に参加され、昨年暮れの阪 口楼忘年会にも元気に出席されていた。音楽を愛し、 合唱グループにも加わり、旭堂南海師の講談のファ ン。多趣味の人だった。早すぎた旅立ち。惜しい。


★管理人註
洗心洞通信 34」(『大塩研究 第45号』)「◇二人の門人」に秋田晴吉に関して同様の記載がある。


洗心洞通信 50」/「洗心洞通信 52」/「洗心洞通信 一覧

玄関へ