Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.4.4

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「洗心洞通信 52」

大塩研究 第64号』2011.3 より

◇禁転載◇


◇九月例会

 一〇年九月二五日午後一時三〇分から、成正寺で斎藤正和氏による「天保飢饉と伊勢津藩の対策−斎藤拙堂の著作を中心に−」と題して講演が行われた。大塩と交流のあった拙堂の玄孫にあたる方で、天保五年に大塩が拙堂に贈った刀の鋒先部分を持参。一九四五年七月二四日の津市大空襲で自宅にあった刀に爆弾が当たり、銘「兼元」があったというが今は見えない。この刀が同氏のアイデンティティ。飢饉の始まる天保四年から津藩と大塩との交流が生じ、拙堂は「救荒事宜」と「三倉私議」(常平倉・社倉・義倉)を出版して飢饉対策を提言。その内容を解説し、盟友の同藩平松楽斎の「骨董粥」にも触れた。斎藤氏はかねてから藩士のあり方や藩制機構についても関心が深く、今後支配側のシステムや民政の解明が必要だとする意見を表明された。
 当日の参加者は、(略) 計二四名

◇一〇月例会

 歴史のまち『平野郷』を歩く野外フィールドワーク 一〇月一七日(日)午後、JR平野駅集合で実施された。コースは同駅→馬場口地蔵→大念仏寺→長宝寺→全興寺→含翠堂跡→古河藩陣屋跡の碑→杭全神社→平野郷環濠。案内は、松永友和氏(本会委員)、内田正雄氏(本会委員)が担当した。
 この日は一〇月半ばと言うものの快晴、汗ばむほどの暖かさで絶好のフィールドワーク日和となった。酒井会長の挨拶、歩行中の安全確認の話、松永委員から本日のコース、平野郷全般の説明を受けて出発。
 駅前の商店街を南下し、国道二五号線を渡ると「馬場口地蔵」に着く。かつて平野郷にあつた一三の木戸の一つで、各木戸の傍らには地蔵堂が設けられていた。濠で囲まれた平野から外へ出る時には、地蔵尊に一身の加護を、また外からの凶事は、入口で退散させることを祈った。向かいが融通念仏宗本山「大念仏寺」。開祖は融通念仏の創始者とされ、日本声明学の中興といわれる良忍。現本堂は昭和一三年の再建で、大阪府内で最大の木造建築物である。また、南門はもと古河藩の陣屋門で移築保存されている。
 更に南下して「長宝寺」へ進む。真言宗の寺で、本尊の十一面観音像は坂上田村麻呂の守護仏として伝わる。平野郷の開発領主坂上広野麻呂の妹(田村麻呂の子)春子(慈心大姉)が開基。
 昔懐かしい商品も売っている平野本通商店街の中ほどの「小林新聞舗」(国登録文化財)を過ぎて右側に「全興寺」はある。ここも真言宗の寺で、聖徳太子が平野の野中の地に小字を建立し、薬師如来の像を安置したことが創建とされる。境内には、閻魔大王のいる「地獄堂」、「小さな駄菓子屋さん博物館」等の見学施設のほか、きれいなトイレもあって我々もここで小休止を取った。元気を回復して次は「含翠堂跡」。享保二年(一七一七)郷学の場として平野郷に開校された。町人の学校としては、懐徳堂創立より七年早く、大坂最初の町人の私塾といわれている。碑は予定していた場所以外に一〇〇m程離れたところにもあると、同行の本会会員志村清さんから教えて貰う。
 次に二五号線を西へ進むと、平野小学校前に「古河藩陣屋跡の碑」がある。古河藩は下総国周辺の譜代大名であるが、平野郷にも飛領地があり、大塩の時代は大坂城代でもある四代藩主土井大炊頭利位が治めていた。酒井先生の補足説明によると、土井利位は優秀な人物で後に徳川幕府の老中(首座)を務め、また雪の結晶を二〇年にわたり観察し「雪華図説」を著し「雪の殿さま」とも呼ばれたとか。ここから少し東へ戻ると「杭全神社」の大きな鳥居のある参道へ出る。この日は勇壮な大人主体の夏祭り″ に代わる子どもカーニバル″が、近隣の方々により催されており、子ども神輿や出店で大賑わい。平安時代の初め、広野麻呂の子当道がスサノオノミコトを氏神としてまつったのが起源(第一殿)。お忙しい中、禰宜さんにご案内を頂き、更に第二殿、第三殿と石灯龍が並ぶ境内を回る。普段は入れない「連歌所」へも特別に入れて頂き、三十六歌仙の額を見つつ連歌所の説明を受ける。この後、別室で藤江宮司から神社の歴史等の話を伺い、茶菓をふるまわれ休憩を取った。すっかり元気を取り戻し、最後は「平野環濠跡」。環濠都市・平野を囲む濠は内側には土居が築かれ、所によっては二重になっていた。埋め立てられたところも多いが、一部が今も残り豊かな「平野郷」を偲ばせる。ここからJR平野駅までは近く、解散は予定よりやや遅れて一六時五〇分であった。
 今回の「平野郷を歩く」では、下見・細部にわたる資料の作成・当日の案内役と松永友和委員に大変お世話になり深く感謝致します。(内田正雄)
 当日の参加者は、(略) 計二三名

◇会創立三十五周年記念行事

 本誌2頁〜40頁の「創立三五周年記念行事の概要」を参照されたい。

◇研究会忘年会

 一〇年一二月二〇日JR加美駅に近い「がんこ平野郷屋敷」で実施された。この店は平野郷の東端に位置し、江戸時代豪農で庄屋であった辻元家の屋敷を利用して営業しており、十月例会「歴史のまち平野郷を歩く」の仕上げの意味も持つ。
 今回は三味線で上方落語を支える下座を務めるほか、「女道楽」の看板を掲げ、天満繁昌亭などの舞台にも立つ内海英華師匠をお呼びした。食事の前、英華師匠の楽しい話術・都々逸に笑い、そして「咲くやこの花賞」を受賞した三味線の技に、酒が入る前から酔い痴れた。会は酒井一会長の挨拶、柴田晏男委員の音頭での乾杯に始まり、店名物の京生ゆば豆富料理「はな紅」コースを食す。料理を味わい酒もまわり始めると、近くの方との会話も弾む。
 中頃から恒例の参加者が順番に自己紹介・近況報告・大塩平八郎への思い入れを話す「ひとり一言」を行う。皆さんのユニークな話で親睦を深め、大塩平八郎賛歌″まで飛び出す楽しい一時を大いに飲んで食べて過ごす。久保在久事務局長の中締めの後、早くも「来年も是非」「今度はどんな芸人がいいかなあ」との声を残し皆さん家路につきました。(内田正雄)
 当日の参加者は(略) 計二一名

◇一一年一月例会

 一一年一月二二日午後一時半から成正寺で、村田路人氏(大阪大学大学院文学研究科教授)が「享保改革と幕府上方治水政策の転換」と摩して講演した。同氏はこれまで大坂を中心とした幕府支配のあり様を検討されてきたが、近年では幕府の治水政策という観点から研究を進められており、今回の講演もそれに基づくものであつた。講演では、貞享・元禄期の堤外地(堤防と堤防に挟まれた川側の土地)政策が治水に重点を置いたものであったのに対し、享保期には年貢増徴を目論む開発優先主義へと変化したことを明らかにし、開発を優先することで後退する治水政策については、それまでの摂津と河内から人足を徴発していた摂河国役普請制度から、五畿内村々に課す畿内国役普請制度へと変更し、水害が起こった場合の大規模な普請に対応できるような制度を構築したと述べた。詳しくは同氏の『近世の淀川治水』(日本史リブレット九三、山川出版社、二〇〇九年)を参照されたい。
 当日の出席者は、(略) 計三八名

◇二月例会

 一一年二月一九日午後一時半から成正寺で、平川新氏(東北大学東北アジア研究センター教授)が「大塩平八郎論を再考する」と題して講演した。今回の講演は、二〇〇八年に小学館から出版された『全集日本の歴史 第一二巻 開国への道』の第五章第一節「大塩平八郎の乱」をベースに、著書では紙幅の関係から省略された史料を補足されながら持論を展開されるとともに、本会創立三五周年記念シンポで相蘇一弘氏から出された批判に答える形で進められた。
 さらに「大塩論をとらえなおす視覚−今後の課題を含めて−」では、大塩が蜂起した理由のひとつに町奉行の無為無策が挙げられるが、実際には町奉行が取りうる米対策のほとんどを講じていたことや、乱による被害者は「大塩焼け」による焼死者だけでなく、焼け出された者やその後の疫病流行によって死亡した者も含めて考える必要があるとされ、大塩の人物像や乱の意義をはじめとする、従来の大塩研究に一石を投じる貴重な講演であつた。講演は三時間にも及ぶ熱のこもったお話であり、会員も熱心に耳を傾けていた。なお、講演要旨は本誌に執筆いただく予定である。
 当日の出席者は、(略) 計四三名

◇ジュンク堂書店の「大塩平八郎フェア」

 同書店大阪本店(大阪市北区堂島)で、一〇年一〇月から一一月末まで開催された。大塩事件に関する書籍などが展示された。本会からは檄文のほか「大塩平八郎を解く」「乱のあとをたどる」(マップ)ほか、最新の『大塩研究』などを展示した。反響が良く当初一か月の予定が二か月に延長された。担当されたのはWさん。意欲的に取り組んで下さり、本会の紹介に協力いただいた。本会会員も多数参加。なお、『帝国芸術新聞』(10・10・16)にも、このことと本会行事などが紹介された。

◇森田康夫氏の講演

 一〇年九月一、八日大阪市社会福祉研修・情報センター(大阪市西成区)で本会会員森田康夫氏(樺蔭東女子短期大学名誉教授・文学博士)が「社会福祉思想の先導者・大塩平八郎−森鴎外歴史小説『大塩平八郎』の言説に関連して−」と題して講演した。

◇石阪孝二郎「天保飢饉助成金の一札」

 『兵庫史学』第29・30号掲載(一九六二年)の旧稿だが、天保七年極月に兵庫の日雇仲間の頭、京太組の京屋太兵衛が、石屋生駒治兵衛(兵庫の豪商、魚棚町、諸国物産問屋)に、銭二〇貫文の拝借を求めた史料の紹介。米価高直で恩借を願っている。石屋生駒家は、維新前後には、三軒の生駒家と別家三六軒があり、魚棚町も俗に石屋町と呼んだという。慶応二年五月の「兵庫打毀し」の折にも、京太組は銭五〇貫文の助成金を借りている。この豪商も、明治二四、五年頃ごろ兵庫の廻船問屋で同じく豪商で知られる北風家と相前後して衰運に傾いたという。天保・慶応と兵庫豪商の問題点がこの史料から推察できる。石阪氏による天保四年からの兵庫津天保飢饉助成史料は、本誌62号に紹介済み。

◇井上保蔵「記臆之友」(一名見聞記)

 神戸の兵庫井上勉氏所蔵文書で、『神戸市文献史料』第六巻(神戸市教育委員会、一九八四年)に収録。公的記録ではうかがえない民衆の目でみた兵庫湊の幕末が語られている。「川崎の御台場建築中ニテ、大将勝麟太郎さんの道場ニテ共弟子モ沢山ありました」から始まり、将軍様(家茂)の兵庫表通行、長州征伐の頃、「兵庫ニ強訴暴徒起ル 慶応二丑年五月八日夜」「公儀ノ信用地ニ落チ長州ノ勢力アリシ事」。慶応二年五月に打ちこわし、北風庄右衛門家が潰されるなど、「漸ク一夜一日ニて平ケられ」とある。この北風家は、大塩の時代に大坂町奉行与力内山彦次郎らから強請されて江戸回米を行ったことが知られるが、幕末の権勢を示す文章が生々しい。「北風は、兵庫ニテ大名の如ク、東出町の浜蔵等の多数は皆北風家の所有ニテ、中浜南浜寺ニテモ南北両海岸の浜は、北風の為メ多数の人民が生活した」として地域の生活を活写、そのあと旧幕時代の御番所(兵 庫勤番所)の記事などがつづく。

◇兵庫津の天保期施行

 北前船の重要な湊で、江戸回米にも大きな役割を果たした兵庫津の研究は、大坂が町組をはじめ優れた研究の蓄積があるのに比べて、はなはだ見劣りがする。大坂と兵庫をセットにしなければ、大塩の檄文にいう廻米問題は解けないだろう。当面、町方の困窮を施行などからたどることができる。天保五年正月「米直段高直ニ付難渋之者江」致施行候名前品書帳 兵庫津 三方」(『兵庫岡方文書』第二輯第一巻、神戸市教育委員会、一九 八一年)をみると、安売米所への助成などに協力する町方商人の名前と拠出物品・金銭が判明する。各所の町内で難渋者へ一軒前に米三升とか五升ずつ与えている。その中に、「一金百両 西出町柴屋長太夫」がある。大塩の兵庫津の門人で、乱に参加を求めながら危うく助かつた豪商、船持ちで穀物仲買と推定される人物である。
 これらの史料に、神戸市立中央図書館所蔵の「天保七申年ヨリ 米価高直略記」、天保七年正月〜天保八年四月までの「諸事上之控」などを加えると、天保期の町方への窮乏とこれに対する施行の実態がわかる。大塩の施行行動は、これら一連の町方・村方の動きに連動している。

◇伊波普猷『沖縄歴史物語』に大塩

 いま沖縄問題は、国政を動かす大事な課題をかかえている。那覇出身で「沖縄学の父」と呼ばれた伊波普猷(一八七六〜一九四八)は沖縄文化の研究と啓蒙活動に多大の功績を残した人物であるが、一九二八年から翌年にかけてハワイおよび北米を旅行して講演した時の『沖縄よ何処へ』を参照して、その後加筆した後半部分をまとめて、一九二二年に、標記の本が出版された(平凡社、一九九八年)。この本に、一九〇九年に『沖縄新聞』に所載し、三二年に改稿した「進化論より見たる沖縄の廃藩置県」という文章が加えられている。徳川幕府に薩摩藩の「付属国」として従い、一方明清の冊封体制に組みこまれて、両属の世界に生きて「万国津梁」に努めた琉球王国が、一八七九年「琉球処分」によって沖縄県となる。ここから明治政府の圧制が加わる。伊波はむしろこの処分を歓迎しているものの、三百年間の圧迫に馴れた沖縄人に「意思の教育」が何よりも必要という。その流れの中で、薩摩を介して入ってきた「活気のない朱子学」に対して、陽明学を教えたとしたらどうであろうかと問い「幾多の大塩中斎が輩出して、琉球政府の役人はしばしば腰を抜かしたに相違ない。そして廃藩置県も風変わりな結末を告げたに相違ない」と言う。沖縄には何人もの大塩が必要だったと。

◇中尾捨吉『木内宗五郎一代記』

 土佐出身で、裁判官、のち弁護士となつた中尾捨吉は、大塩後素(平八郎)の遺稿をまとめた『洗心洞詩文』上・下を明治十二年十一月二七日に出版した。よく知られる事実で、当時「大阪府士族」「西区土佐堀裏通三一番地」が住所となっている。かれのプロフィールは、勝海舟の「氷川清話」に「奇傑だよ」といわれ、大塩中斎に私淑した姿が描かれているが、『詩文』に先立って明治十一年三月に標記の著書を出版。住所は東京第四大区二小区北神保町一番地で「水々居士」の名になつている。有名な総州佐倉(千葉県)の堀田正信による苛政に対して、佐倉宗五郎がが立ち上がる話で、漢文で書かれている。明治に入り民権の声が高まるとともに、江戸時代の一揆や大塩の乱が想起され、刊行物が相次いだ。日本に伝わる「異議申立て」運動に学ぼうとする姿勢である。佐倉藩政のもと飢饉に喘いだ七万人が、「宗五郎」という人傑を得て蘇生する。結びは「近世有民権説、余不知其為何説也、真能知民権者其唯在宗五郎也乎」とある。「自由は土佐の山間から」といわれる流れの一つで、一揆と人物発掘の仕事。

◇『堺市史』刊行80周年資料展

 一〇年一〇月九日から二八日にかけて堺市立中央図書館一階ロビーで、標記の資料展が開かれた。今から80年前、京都帝国大学の三浦周行博士の監修で刊行された『堺市史』全八巻を記念する小展示だが、昭和恐慌の財政難のなかで異論に堪えながら今日生きる貴重な資料の数々を収集・記録し、名著の誉れの高い市史を完成させた。その時に複写された「堺市史史料」は戦災を免れて今も学界に貢献しつづけ、基礎資料の大切さを伝えている。
 展示品のうち、大塩事件とのかかわりでは堺奉行関係を紹介しておきたい。天保飢饉対策として「堺港湾変遷図」元禄五年(一六九二)〜明治十八年(一八八五)までの七図があり、岡村平兵衛所蔵絵図の写しである。その第六図「文久三年現形図」に、つぎの書込みがある。(/は改行)

 天保七〜九年に窮民対策事業として新川を掘り、その土砂を築いて「御影山」と称したという。天満の新堀川工事と共通、この種の対策事業の一つ。
 堺奉行所絵図(同館蔵)も興味深い。享保十三年(一七二八)の「堺御役屋敷絵図 比内組屋敷有」に、与力屋敷六軒が、左右三軒ずつに分かれて、表口拾五間、裏行拾七間で奉行所の外にある。同心長屋として「弐間梁(間)三拾間 但壱人三間宛十人」(この方は、奉行所の外で四軒と三軒に分かれた与力屋敷の中間に位置する)「弐間梁間拾八開 但壱人三間半宛拾六人」「弐間梁(間)五拾二間壱尺拾五人内壱人ハ三間壱尺、十四人ハ三間半宛」とあり、奉行屋敷内に横に二列に並んでいる。屋敷の大きさは少しずつ違い、与力が一戸建であるのに対して長屋形式をとる。また「西御屋敷惣坪数五千百六拾弐坪、東御屋敷惣坪数二千百五坪二分五度余」とある。展示目録に全図写真で紹介されている。
 文政二年(一八一九)「堺御役屋敷絵図」(大正十二年十二月六日写、三浦周行所蔵)では、土蔵(弐間と弐間半)を挟んで三軒ずつの長屋二棟がある。同心屋敷は三拾壱軒とする。正面の門を入ったところに、垣外部屋、惣代職事詰所、腰掛などがあり、奥に与力詰所、川方詰所、寺社役所、地方役所、盗賊吟味方役所など、役職に応じた部屋が畳数つきで図示されている。奉行所の雰囲気が伝わってくる。「堺牢屋舗図」は、大正十四年二月四日に甲斐町東二丁の青木長栄所蔵の写しで「享保初年ノ手鑑記載卜符合セリ」と注記があり、これも目録に写真がある。

◇大塩ファン

 『週刊新潮』(10年12月2日号)に「亀井静香代表が獄中の「守屋武昌」に面会したワケJという記事が載った。以下はその抜粋。

 ちなみに亀井氏は大塩平八郎のファンとして知られた人物なので、我が意を得た思いだったかも。どんな本が差し入れられるか興味が惹かれる。

◇岡田播陽『殺される我等』

 「ワシラノシンブン」大正13年(1924)12月15日付第11号に、表記の本が万有社からいよいよ再版されるという広告が載った。当時大阪府南河内郡野田村西野四四三(現・堺市東区)に事務所をおき、月二回の発行。水平社運動あり、小作争議あり、民衆演劇ありと味合いたっぷりの新聞である。この号に先立つ同年11月15日付第9号には、山本宣治の「性学」と岡田播陽の大塩平八郎講習が予告されている。
 岡田播陽(一八七三〜一九四六)は播州、姫路市大塩町の出身、陽明学を修め、大阪心斎橋で呉服店を営むかたわら、いくつもの著作を発表、ユニークな視点から鋭い筆致で健筆を振るった。『殺される我等』は大正13年11月25日発行、早くも11月28日に再版されている。挿絵に天罰起請文を折り込みで入れ、「此書を亡き父母兄妹の霊に捧ぐ」として二七項目を収め、その一つに「中斎と富獄−山頂に箚記を捜るの記」がある。富士登頂でここの石室に「洗心洞箚記」を納めた「人中の龍」中斎を偲んでいる。
 興味深いのは、これに続く「天鞭か魔杖か」は「大正7年8月11日夜、突如、大阪南部の一角から沸き上がった×××の洪水は」の文章で始まる。文中伏せ字が頻出。米騒動の記事である。大塩と米騒動は切り離せない。宮武外骨といい、いかにも明治・大正の文筆の冴えが目立っている。  播陽の子、岡田誠三も直木賞受賞の大塩ファン、『雪華の乱』は有名である。

◇『三閉伊一揆通信』第一号

 岩手県下閉伊那田野畑村野畑一二八ノ一、田野畑村民俗資料館内に事務局を置く三閉伊一揆を語る会会報、〇九年一〇月発行。南部盛岡藩額であった閉伊地方の野田通、宮古通、大樋通の三つの通(とおり)で起こった弘化四年(1847)と嘉永六年(1853)の二度にわたる一揆を 語る機関誌。ここに武田功氏が「明治六年(1873)田野畑村騒擾再考」を発表。「太政類典」によった土屋喬雄・小野道雄編『明治初年農民騒擾録』を地元史料から再考し、地租改正に伴う事件の実相を紹介した。

◇土佐の岡本寧浦の交友

 昨年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の影響で、ひとしきり龍馬ブーム。その一つだろうが、『歴史街道』(PHP発行)〇九年二月号に八尋舜右氏が「坂本の寝小便(よばれ)垂れと負けず嫌いの地下(じげ)浪人 土佐から江戸」を書いている。その一節に、岩崎弥太郎(三菱の創始者)が15歳の時、私塾紅友舎に入塾したが、師匠の岡本寧浦は弥太郎の伯母トキの夫で、大塩平八郎や頼山陽とも親交のあつた陽明学の大家だったとある。また安政元年(一八五四)に土佐藩留守居組の奥宮忠次郎(号は慥斎、藩校教授を務める陽明学者)が江戸詰になる話を耳にすると、弥太郎は奥宮家におしかけ、従者として江戸へいく許しを得たともある。
 慥斎は、当時大坂にいた八松旭山という易学者の紹介で、大塩と親密な交際を為し、学問上についても書簡の往復がすこぶる頻繁で、大塩の書面に天保七年に土佐へ遊ぶべしと認めてあったという(石崎東国『大塩平八郎伝』。)土佐と大塩の交流を示すものだが、寧浦と中斎・山陽の交際は果たしてあったのか、情況証拠はあるが、史料は未見、実情が知りたいところ (K氏)。

◇御役人長寿一覧

 江戸時代の役人には定年がなかった。元気でさえあればいつまでも現役。肥前平戸藩の居候松浦静山の『甲子夜話』に面白い御役人年齢ランキングがある。昌平坂学問所の林述斎は、江戸城西の丸御旗奉行松下伊賀守が役人の高齢を調べる趣味があることを知り、天保五年元旦に大広間に老人輩が寄り集まった時、松下に年齢順に並べた一覧を希望して、四月に入手。これを静山に提供した。「視ルニ布衣以上ノ御役人ニモ、毎ニ多算ノ人少カラズト」という。布衣(ほい)とは六位の身分のこと、布衣を着ることを認められた。
 この一覧には、五一名の人名と年齢・役職名がある。最高齢は西丸御槍奉行の堀甲斐守九四、以下八〇代一〇、七〇代四〇となる。「田安殿家老 高井山城守 七十二」とあり、大塩を重用した高井美徳の大坂東町奉行引退後四年目の姿がある。重職勘定奉行の明楽飛騨守も七十五歳。みんな大したもんだ。

◇大坂浪人夫婦の哀史 同じく『甲子夜話』の一節。夫は加賀の浪人、仕官を願うが、労咳を病んでいる。家に貯えなし。妻が近辺の寺社へ願掛けに行くと称して夜ごとに浜立ちした。浪華の私娼、独り川べり に立つ。ある日浜立ちの夜妓(よたか)に縄張りを荒らしたと取り囲まれる。年かさの夜妓が事情を知って助けてくれる。この時群衆の一人、薬屋の手代が不びんに思った。見れば最も美色ありて人品も好し。明夜来るべしと言って翌夜、浜立ちする女性に薬四、五包みを渡して去る。妻が喜んで帰宅すると夫は死んでいる。折角夫の貧を救おうと浜立ちしたのに、「不義」のためかと夫のかたわらで自刃した。
 町役の者から町奉行所に訴えて吟味し、薬屋も取り調べをうける。五、六人の手代の一人と判明し、薬・金子などを与えたことから奉行所の賞品をうけたという。妻の書き置きに、諸物は売り払ったけれども、刀はまだ売り申さず、夫の仕官に備えていたという。この刀がさきの手代に与えられることになったが、町人に刀は不要として奉行所から金三〇両が与えられたという。小説にしたい話。史料の裏付けをさがしたい。

◇鴻池家の古文書

 産経新聞(11・1・12)に「乱の際、焼き討ちに遭った豪商、鴻池家への火事見舞いの品や屋敷再建について記した古文書が、鴻池別家だった大阪市内の「田中家」に残されていたことが府教委の調査で分かった」との記事が掲載された。以下その全文を転載する。
  【略】

◇柳沢家の歴代藩主展

 一一年一月〜三月二〇日の間、大和郡山市の柳沢文庫で表記の新春常設展が開かれ、大塩の乱の際の手配書「大塩平八郎人相書」(「豊田家文書」、大和郡山市教委所蔵)などが展示された。案内書には次のように記されている。
  【略】

◇「枚方を訪れた画家−田能村直入」展

 一〇年一〇月一六日から一一月一二日まで、市立枚方宿鍵屋資料館にて、大塩平八郎の門人・田能村直入(一八一四〜一九〇七)にっいての展示が行われた。直入は、大阪や京都を拠点に活躍した文人画家。展示では直入ゆかりの書画が出品された。(松永友和)

◇堺の講演会

 一一年二月一五日泉北ニュータウン内喫茶「結」で郷土史家桧本多加三氏による「大塩平八郎と江戸時代」と題する講演会が開かれた。聴衆は百余名で、大塩について様々な評価を紹介した後、乱の積極面を評価しつつ、最後に酒井一先生の言葉で締めくくられた(井上宏)。


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