Я[大塩の乱 資料館]Я
2016.7.20

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「洗心洞通信 61」

大塩研究 第73号』2015.8 より

◇禁転載◇


◇一月例会

 一月三一日成正寺において例会が行われ、澤田平氏(真田幸村公資料館館長、「開運!なんでも鑑定団」鑑定士、本会会員)から、「大塩先生と天文学」と題して講演いただいた。
 よく知られる大塩平八郎肖像画(複製、原本は東北大学図書館蔵)を参照しながら、そこに描かれている渾天儀、象限儀などの天体観測器具について触れ、高名な歴史学者が大塩は天文研究をしていないと言っているが、大塩は確かに戦術上の学問として天文研究をしていた、またこれらの天体観測器具はあとから描き加えられたものという説もあるが、これも誤りであるとの指摘があった。偽書かもしれないとの断りのうえで、大塩の天文研究に関する著書として『天象簡抜(てんしょうかんばつ)』(複製、原本は大阪府立図書館蔵)の紹介もあった。
 澤田氏は「文献研究よりもモノ(現物)に基づく研究を中心とし、講演は『動く博物館』と名付け、現物を手に取ってもらうよう心がけている」との方針を持たれ、当日も古文書のほか地雷火や銃砲類など参加者全員が手に取って確認できるよう配慮いただき、理解を深めることができた。
 また大塩平八郎の取った行動について、義挙か、暴挙かという問題提議があり、自分としては尊敬、礼賛はするが、その行動すべてがよい訳ではなく、中には暴挙という面もあったという立場をとるとの表明があった。その理解のためには、大塩の乱を桜田門外の変、寺田屋騒動、天誅組などと比較検討することが重要で、単に義挙とか暴挙とかで片づけるのではなく、自分としては歴史の真実をさらに見極めたいとの熱い抱負を語られた。
 当日の参加者は、(略)計二五名

◇成正寺法燈継承式

 大塩事件研究会の所在場所でもある「讀誦山 成正寺」様の法燈継承式が、二月二十二日(日)同寺本堂にて執り行われ、本会顧問の第二十世有光友信住職が退任、ご子息有光友昭師が第二十一世住職を継承した。
 式は日蓮宗の本山や干与人等のお上人方、総代をはじめとする檀家の方々、加えて本会からは藪田会長、内田事務局長が出席した。
 式典は日蓮宗の式次第に則り、昇堂の後、第二十世より拂子を託された新住職は力強く奉告文を読み上げ、今後の更なる精進を佛祖三宝に誓った。
 本会会員でもある松井英光日蓮宗大阪市宗務所長の祝辞や祝電披露のあと檀家総代の挨拶があり退堂となる。
 この後、会場をリーガロイヤルホテル大阪に移し祝宴が行われ、藪田会長が成正寺と大塩家、大塩事件研究会に触れた挨拶をした。(内田)

◇大塩中斎忌法要・記念講演と総会

 二〇一五年三月二八日午後一時半から成正寺において、同寺主催の「大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要」が有光友昭住職によって営まれ、本堂にて看経の後、墓碑に展墓した。
 その後、本会主催の記念講演会が行われ、森田康夫氏(本会会員)が「大塩陽明学と三宅雪嶺を結ぶもの」と題して講演した。三宅雪嶺(一八六〇〜一九四五)は、加賀国金沢の藩医の家に生まれ、草創期の東京大学で哲学を学んだ。一八八八年、志賀重昂、杉浦重剛らと政教社を設立し、雑誌『日本人』(後に『日本及日本人』と改題)に参画、日本主義を標榜する政論家として注目を集めた。森田氏によれば雪嶺の今一つの顔として、東洋哲学を代表する陽明学、とりわけ近世末の大塩平八郎の良知の哲学に着目し、西洋哲学を代表するヘーゲル哲学との対比の中で東西哲学の融合化を進めようとした。それがヘーゲル『精神現象学』に対する『宇宙』にはじまる『東洋の教政対西洋の教政』(法哲学)『人類の生活状態』(精神哲学)『東西美術の関係』(美学)『同時代史』(歴史哲学)として構想されていたことを明らかにされた。しかし雪嶺哲学は学界の長老井上哲次郎を始め哲学研究者からも無視され、発表機関の『日本及日本人』はマイナーな雑誌のために、大塩陽明学を継承する雪嶺哲学は見失われてきた。その意味から近代日本思想史の中に雪嶺哲学を位置づける意義を訴えられた。
 小憩の後、内田正雄事務局長の司会進行で総会が開催された。藪田貫会長の開会挨拶に続き、二〇一四年度事業報告、会計報告があり、土井裕子会計監査委員から会計監査報告がなされた。その後、二〇一五年度事業計画、役員改選の報告の後、閉会挨拶を経て総会は終了した。
 本年度は役員・委員の改選時期に当たり、新執行体制は以下の通りとなった。(会長)藪田貫、(副会長)常松隆嗣、(事務局長)内田正雄、(委員)井上宏、柴田晏男、島田耕、志村清、白井孝彦、辻不二雄、西山清雄、福敬二、松井勇、松浦木遊、松永友和、山崎弘義、(会計監査委員)土井裕子、政埜隆雄、(顧問)有光友昭。尚、今回の退任者は、久保在久(副会長)である。
 当日の参加者は、(略)計二七名

◇五月例会(フィールドワーク)

 五月三一日一三時三〇分JR福島駅を出発。今回のテーマは「大塩平八郎の時代を訪ねる」で、案内役は本会委員の内田正雄氏、山崎弘義氏にご協力いただいた。
 一行は駅から数分のところにある浄祐寺に向かい、酒井一前会長の墓所に詣でた。当寺は酒井前会長の実家であり、現在は実兄が住職を務められている。境内には忠臣蔵の矢頭右衛門七と五大力の墓もある古刹である。次いで堂島川に面して建つ福沢諭吉誕生の地(中津藩蔵屋敷跡)碑を経て、なにわ筋を南下、靭公園にて小憩した。その後、近くの天理教飾大分教会前にある「大塩平八郎終焉の地」碑に至る。碑文の草案は酒井前会長、題字は書道家澤村宗一氏の揮毫で一九九七年に建立されたものである。次に教会裏手にある終焉の地(美吉屋跡)に行く。現在は旧敷地内に法人所有のビル(石本ビル)とマンションが建っているが、大塩父子が匿われていた隠居所はマンションの西南の辺りで、その裏には現在も大阪市の下水道として使われている背割下水(太閤下水)が地下を流れる路地の細い道が残っている。
 一行は大塩平八郎の行迹に思いを馳せながらさらになにわ筋を下り、長堀通りの中央分離帯にある「間長涯天文観測の地」碑に至った。間長涯(重富)は質業を営む裕福な商人で、麻田剛立に天文学を学び、寛政の改暦事業に参加した。長男の重新(しげよし)も父の跡を継ぎ天文学者として名を成したが、大塩には天文学を教えたり、公刊書の蔵板主になるなど密接な関係であった。その後、和光寺、木村蒹葭堂邸跡を経て、最終目的地の土佐稲荷神社に到着した。
 土佐稲荷神社は土佐藩の蔵屋敷内にあった鎮守神であるが、名作『大塩平八郎』を書いた森?外には『堺事件』という佳品がある(ともに岩波文庫版に入っている)。慶応四年堺で起こったフランス兵と警備をしていた土佐藩士との武力衝突に材を取ったもので、フランス側の下手人二〇名差し出し要求に対して名乗り出た土佐藩士二五名からの人選を藩主の決断で次のように伝える場面が出てくる。
 「此度差し出す二十人には、誰を取り誰を除いても好いか分からぬ。一同稲荷社に詣って神を拝し、籤引きによって生死を定めるが好い。」
 ここに出てくる稲荷社が現・土佐稲荷神社と思われるが、神社側に記録は残されていない。これにて一七時解散となり参加者は帰途についた。
 当日の参加者は、(略)計二〇名

◇福田世耕について(続報)

 前号本欄の「湯川麑洞と福田世耕」で紹介した福田世耕について、その後いくつか情報が寄せられている。入手順に続報として掲載させていただく。
@前号紹介の際、「湯川と福田の間に直接交流があったかどうかは不明であるが、共に新宮の生まれであり、福田世耕にはある種の共感があったかもしれない」と書いたが、それについて杉中浩一郎氏(和歌山県田辺市在住)より、次の示教をいただいた。
 「先号の「洗心洞通信」の「湯川麑洞と福田世耕」には私も関心を持ちましたが、この二人の間には直接の関係はほとんど無いとみられます。福田世耕(いくつもの雅号を持ち、一般には福田静処として知られています)は、慶応元年(一八六五)生まれで、湯川麑洞の方は明治七年(一八七四)に亡くなっているからです。ただ麑洞は明治六年に新宮小学校が設立されて教授に任ぜられていますので、世耕はそのころ同校の生徒であった可能性があります。教師と子弟の関係は別にしても、二人とも熊野の代表的な漢詩人ですから、世耕の方には先輩詩人としての認識があったことは言うまでもありません」
A前号本欄の記事に情報提供いただいた荘茂樹氏(大阪府枚方市在住)より福田世耕についての論文・山本四郎「福田静処(破栗・古道人)小伝―その前半生―」(『神戸女子大学紀要』二六巻文学部篇一九九三年所収)を紹介いただいた。前号掲載以降、「福田世耕とはどのような人ですか」と尋ねられることがあるので、その人となりについて同論文より引用したい。
 「古道人福田静処(慶応元年・一八六五−昭和一九年・一九四四)は和歌山県新宮の生んだ、隠れたる高雅な文人である。生涯高風を持し、名声を求めず、金のために描かず、ためにその名声の世に顕るることすくなく、八十の生涯を孤高の裡に過ごした。本姓中村氏、のち福田家を継ぐ。十五歳京都に遊学して絵画と詩文を学び、二十歳頃俳句に傾倒したが、その本領は漢詩にあったという。雅友多く、奇行また少なくない。」
 「静処は名は世耕、字は子徳、雅号は静処、別に古道人、また碧翁と号し、俳号は初め破笠、のち杷栗と改め、別に遠人とも称した。」
 世耕は新宮藩士・与力の家に生まれた。一五歳のとき京都に出て数年間、絵画と詩文を学び、帰郷の後数年して上京、中国文学の塾を開いた。三一歳のとき俳句の研究を始め、正岡子規、高浜虚子らと交わった。翌年新聞『日本』に校正係として入社、このとき天田愚庵と出会い意気投合し、その後も交友が続いている。三六歳のとき京都に移り、文人生活を送った。スポンサーも得たようであるが、狷介孤高な生き方のためか、生活苦に悩まされたようである。
 その後荘氏からは、論文・松本皎「桃山泰長老の蓑笠亭主人」(『立命館百年史紀要』第十三号二〇〇五年所収)の中の「六 杷栗と愚庵と蓑笠亭」にも福田世耕について天田愚庵との交流を軸に略述が書かれているとの情報をいただいている。
B二〇一五年二月一七日放送の『開運!なんでも鑑定団』(テレビ大阪:テレビ東京系列)の中の「出張!なんでも鑑定団IN神戸」のコーナーで、「『こどうじんの掛軸』ということ以外、何もわからない」という依頼人が登場し、鑑定を仰いだ。鑑定士の安河内眞美(古美術商店主)によれば、「こどうじん」とは「古道人」であり、「近代南画の大家」である「福田古道人」のことで、独特の色遣い、目に焼き付くような原色などにより米国でも人気が高いという。新宮生まれで、「古道人」は近くの「熊野古道」からきているとの説明もあった。鑑定結果は真作で、依頼人の評価額一〇八万円に対し、一五〇万円の評価となった。

◇福田世耕と三宅雪嶺

 前項Aにて引用した論文「福田静処(破栗・古道人)小伝−その前半生−」によれば、福田世耕は三宅雪嶺と雑誌『日本』で同僚だったということである。三宅雪嶺は森田康夫氏により、三月の総会記念講演で取り上げられ、また本号巻頭論文の中でも触れられている。これで福田世耕は大塩平八郎に関して、湯川麑洞(七十二号九七頁参照)と三宅雪嶺という二つの情報源を持つことがわかったが、果たして耳に入っていただろうか。上記論文の当該部分を引用する。(傍線は編集部)
 「静処は明治三二年に新聞「日本」に校正係として入社した。同紙は明治二二年に、明治の言論界の雄陸羯南(本名中田実)が創立した国粋振起のための新聞で、子規は明治二五年に社員として入社し、和歌・俳句その他に健筆をふるった外、和歌・俳句の選者でもあった(中略)から、或は静処の入社もその推挙にかかるものであろう。社内では三宅雪嶺や中村不折画伯と机を向いあわせていたという。」

◇今治藩における天保の飢饉

 前号本欄にて「大塩平八郎の乱と今治藩」について紹介したが、同記事を読まれた今治市在住の越智悦夫氏(伊予史談会、今治史談会)より、ご自身が編集・発行された『大山積神社御當記録』(二〇一二年刊)の中に描かれている同地域における天保の飢饉の状況についてご教示いただいた。内容は次の通りである。(いずれも天保八年の記録)

 一 去申秋ハ、郡中大凶作ニ而、稲作ハ勿論其外諸作、何ニ不寄不作ニ而一統及難渋候。酉夏麦作を相祈    候所ニ、又候麦作も半作位与申唱候。是ハ当所ニハ不拘、諸国大不作ニ而有之、申暮ハ村々作喰年    越米等相歎キ出、御上凡二千俵も村々百姓共へ被下置、右ニ准シ飢人願も過分ニ有之、酉四月中旬    迄ハ飢扶持下置候処、四月廿一日極難渋者、物嘱ひ者等村々申出、当村明神社ニおゐて御救小屋    相懸り、日々粥被下置、漠大成難有事、難尽筆紙、九月壱合宛右粥被下置候所、夫又壱人前釣五勺    も、粥米与して被下置候。尤九月一杯被下置候事。  一 米直段も二俵ニ付、二月銀納当札四百五拾四匁四分、麦も右ニ准シ高値、其外大豆小豆何ニ不寄、喰    物ニ相成候品高値ニ而、右御上御救有之候而も、野辺ヘ飢死有之事。数多之事。  一 猟師町辺、物嘱ひ日々夥敷参り、こまり入申候事。  一 翌子秋ハ大豊年与申唱、九州四国路ハ別而豊年ヲ申沙汰有之、乍併前年不作有之故歟、又大洲辺凶作    之趣ニ相聞、上方筋御初米、小廻ニ而(米)直段九月頃迄も四百目程もいたし、殊ニ小前之者共、日    用立方必至ニ相逼り候儀ニ候。追々秋作苅入時合、霜月頃ニも相成候ハ、直段引下ケ候与申察候ニ有    之、先右荒々於当席、丈略相印置候者也。

 「御當(オトウ)」とは「同族団もしくは地縁共同体としての氏子が祭祀集団を構成し、当番制でその集団が奉斎する神社の祭祀を執行するための組織および行事」のことであり、本記録は慶長年間から大正六年の三二〇年間に及んでいて、地方史のみならず、大塩の乱及びその各地への影響を天保の飢饉の全国的な広がりとの関連で捉えることのできる貴重な史料である。
 神社の現表記名は「別宮大山?神社」であり、今治市別宮町に所在、四国霊場第五五番札所の南光坊に隣接している。(明治期の神仏分離まで両者は一体であったとも言われている)また、別宮大山?神社には、「理海尼の石燈籠」と呼ばれる天明三年銘の飢饉記録が刻された珍しい石燈籠も現存している。

◇「拙堂文話」の今日的意義

 齋藤正和氏(本会会員)はこの度、齋藤拙堂『拙堂文話』を全訳注した『全釈拙堂文話』を上梓された(明徳出版社、七月三〇日刊、A5判上製箱入り、六七二頁、定価八千円+税)。詳細は本号所載の氏による「『全釈拙堂文話』の発刊にあたって」を参照いただきたい。
 原著は漢文で書かれたものであるが、周知のごとく日本は前近代において漢文を公式文章語としてきた国柄である(視点によっては敗戦まで続いていた)。江戸後期の外憂内患時代に生きた拙堂にとって文章は形式的なものではなく内容が重要であること、そして文章とは、それを貫く思考が中心となり、気が満ちていることが大切なのであって、修辞はそれを補うものであると主張した。
 『拙堂文話』は武士のために書かれたが、今日武士はいない。しかし今こそ「士」が求められている時代もなく、本書の今日的意義はそこに存在すると思料する。

◇謎解き 人物伝

 讀賣新聞六月二三日(火)夕刊「ええやん!」欄で『大塩平八郎が選んだ破滅的最期」との記事が半頁に渡り掲載されています。
 大坂東町奉行所与力時代の活躍、乱の背景・経過などと「大塩平八郎終焉の地・石碑」の説明。
 また「不正告発 江戸に届かず」の見出しで、決起前日に幕府首脳・林述齋・水戸藩主徳川斉昭に送った『建議書』についても触れています。
 これには「建議書が物議を醸す中、大坂で乱が起これば幕府も動かざるを得ないと考えた。ただの暴動でなく、計算の上の両面作戦だった」と推測する本会藪田会長のコメントが掲載されています。
(注)見出しの「不正告発 江戸に届かず」、記事中の「この建議書は江戸に届かないまま、長く埋もれていて、内容が知られることはなかった」、また「歴史にイフはないが、もし建議書が江戸に届いていたら・・・」との表現は誤解を生みます。
 建議書類の現物は、盗難事故により遅れたものの、大塩父子自決の一〇日以上前に幕府に届きました。しかし秘密裏に処理され、幕政改革に結びつくことはありませんでした。「もし建議書に込めた大塩のこころが幕閣に届き、改革が実行されたなら、大塩父子も本懐を遂げて自決したことになるのに」「その心中は絶望だったろう」というのが藪田会長発言の趣旨です。(内田)

◇住吉と天満の御文庫と大塩平八郎

 大阪の代表的な古社である住吉大社と大阪天満宮には江戸時代中期から大阪の書籍商が初版本を奉納するという、現在の国立国会図書館と同じような仕組みがあり、その収納場所としての「御文庫(おぶんこ)」がそれぞれ現存している。
 五月二二日と二五日の朝日新聞夕刊の『大峯伸之のまちダネ』という連載コーナーでその紹介をしているが、その中に大塩平八郎について触れた部分があるので転載する。
 (五月二二日・住吉大社)「御文庫に収蔵されていた本は、江戸幕府の禁書となった陽明学者の大塩平八郎著『洗心洞箚記』、幕末に米本土に渡り帰国したジョン万次郎の取り調べ記録『漂巽紀略』をはじめ、約五万冊にのぼる。」
 (五月二五日・大阪天満宮)「大阪天満宮でも一七三〇(享保一五)年、天満文庫講という組織ができ、そのころ御文庫が建った。(中略)だが一八三七(天保八)年、大塩平八郎の乱で御文庫の建物と蔵書は焼失した。現在の建物はその後にできた。」(傍線は編集部、大峯伸之氏は朝日新聞社・社会部記者)

◇大塩はんの刀鍛冶
 四月一一日読売テレビ番組「あさパラ!」の天神橋筋商店街を巡るコーナーで、同三丁目の水田國重本店が紹介され、水田裕隆氏(七代目・現当主の水田雄一朗氏のご子息)が包丁などの製品の説明に加え、二代目、三代目店主が大塩平八郎の刀を作っていたことを述べたシーンが放映された。
 同店屋外の展示ショーケースには「大塩平八郎の愛刀」として、その刀の写真が刀匠に関する資料とともに展示されていて、謂わば「まちかど博物館」の観を呈している。大塩平八郎が大阪市民に身近に感じられている例証でもある。近くに来られる機会があれば是非ともご覧いただきたい。
 この刀は『門真町史』(昭和三七年刊)によれば、大塩一党の高橋九良右衛門が乱に参加した際使用したものであるという。また、水田雄一朗氏は『天満人』第二号(平成一五年発行)の「大塩はんの刀鍛冶」で國重本店の由来、大塩平八郎との交流などを語っている。

◇大丸と大塩平八郎

 二〇一五年七月五日読売テレビでクイズ番組『クイズ!アナドレナイ大阪』が放映された。これは大阪市内及び近郊の企業をマイクバスで廻りながら車中でその企業に関するクイズを出題し出演者から回答を得るという趣向の番組である。
 四番目の出題は、「大塩平八郎の□□□に対する愛情がアナドレナイ!?」というものだが、皆様は□□□の中には何が入ると思われるだろうか。
 答えは「大丸」。『大丸二百五十年史』によれば、大塩は「大丸は義商なり、犯すなかれ」と部下に命じたという。大丸の創業時からの社是は「先義後利」、つまり「義を果たしたあとに利がついてくる」というもので、ナレーターは「『掛け値なし』などに見られる公平な商売が大塩の心に響いたのかもしれない」と結んでいる。
 番組には、本会会長の藪田貫氏がビデオ出演で登場、人と人の信頼関係=義を重視した大塩には義に厚い商人と厚くない商人が見えていた、また可能性として、大丸と共鳴し合える関係があったと思うとコメントを寄せている。

◇テレビ番組の劇中劇に大塩平八郎が登場

 四月二一日NHKテレビで放映されたドラマ『美女と男子』第二回「大物新人、誕生?」の劇中劇に大塩の乱が取り上げられていた。
 仲間由紀恵扮する主人公はIT企業のキャリアウーマンだが、ある日突然グループ会社の弱小芸能プロダクションに出向を命じられてしまう。エリート意識満々の主人公は、全てが未経験のことばかりで戸惑いの日々を送るが、自身でスカウトした男優を売り出すために奔走、時代劇のオーディションには落ちるものの、そのエキストラに潜り込ませる。その時代劇が大塩の乱である。
 名高達男扮する大塩平八郎が橋の上で役人相手に「大立ち回り」をする背後で、乱に加わった農民が豪商の蔵を襲撃、略奪をするシーンが続いていた。劇中劇の性格上、ドラマのストーリー展開とは直接関係はない場面ではあるが、深読みを許してもらえれば、大塩の乱がこれから起こるであろう主人公たちの数々の困難を隠喩しているのかもしれない。

◇「大塩平八郎の娘・その謎」

 古書市で求めた、脇哲『物語北海道人物誌』(沖積舎一九八一年)の中に「蝦夷流離譚 大塩平八郎の娘・その謎」という章があった。大意は次のとおりである。
 乱の後、大塩平八郎の娘・チヨは越後から北海道の江差に逃れ、同地の分限者・関川与左衛門の庇護を受けた。それから二五年後、江差を訪れた俳諧師・多胡無外は関川家に逗留するが、その際に「大塩平八郎の娘」というチヨに引き合わせられた。二人は結ばれるのだが、正式の入籍は慶応二年(一八六六)という。そして多胡はこれより大塩姓を名乗り、維新後は開拓使函館支庁会計課勤務ののち、函館公園看守、函館八幡宮主典を経て、明治二六年に没している。
 肝心の「娘・チヨ」について著者は「資料は全く乏しい」としながら、格之助の妻である「みね」ではないかという推論を最後に披露している(推論の過程は省略する)。著者はHBC(北海道放送)出版事業の担当課長(当時)。全般に唐突感は否めないが、夫である多胡の経歴などが妙に詳しく現実味があるのでここに記しておく次第である。

◇ソーシャルゲームの大塩平八郎

 ソーシャルゲームのカードに大塩平八郎がキャラクターとして登場しているという情報をいただいた。ネットで当たってみると確かに「大塩平八郎」となっているものの、劇画風で、嫌な言葉だが「イケメン」の若侍が描かれている。残念ながらここに画像を掲載するのは著作権上リスクがあるということなので、ご覧いただけない。
 ソーシャルゲームとはパソコンやケータイ(携帯電話のこと)で、SNSを通じて、複数のプレーヤーとコミュニケーションを取りながら楽しむというオンライン上のゲームである。
 この大塩平八郎のカードは、『疾風幕末演義』というゲームで使われる「志士」のひとつである。ゲーム内で用いるカードは「物語」で入手可能だが、自分の「志士」を強力にしようと思ったら、別途カードを抽選で購入しなければならない(カプセルトイに似ているので「ガチャ」と呼ばれる)。カードを増やすことにより、志士は「進化」・「強化」することができ、また知り合いと「志士隊」を結成することもできるなど、ゲーム自体が際限無く拡がっていくため高額な課金がされることのないよう注意が必要である。なおカードと言っても、仮想的なものであるから手に取ることができる訳ではない。
 以上の編集子の拙い説明でよくわからない方は若年層の知り合いの方にお尋ねすることをお勧めしたい。説明の過誤、不足についてはご寛恕願いたい。

◇木更津古文書サークル

 四月中旬、同会の新沼三正氏から電話を頂き、勉強中の『檄文』が一部抜けており、全文と翻刻文の購入依頼があった。  偶然ではあるが、「大塩の乱関係資料を読む部会」も丁度『檄文』を自主学習中で何かの縁を感じた。
 乱当時上総・貝渕藩(請西藩)の藩祖・林肥後守忠英が若年寄の時代であり、大塩平八郎にも関心が深い由。(内田)

◇長谷川先生を偲ぶ会

 本会顧問、「大塩の乱関係資料を読む部会」の講師であった、故長谷川伸三先生の一周忌法要と偲ぶ会が六月七日に行われた。
 会場は先生が発掘・古文書の翻刻に関わった奈良市のl寺(紀寺)。奥様、大阪樟蔭女子大学佐久間貴士教授、教え子、本会から藪田会長他四名など二十名ほどが参加し、在りし日の先生を偲んだ。
 また、長谷川先生らの研究の成果を記録した、『奈良市l寺の歴史と下間家文書目録』の発行が披露された。(内田)

◇会員の動静

 島田耕氏は、映画監督として活躍中であるが、この度ドキュメンタリー映画『Report びわ湖赤野井湾 2015』が二年を経て完成した。本映画は本誌七十一号の本欄でも紹介させていただいたが、琵琶湖で最も水質が悪化している赤野井湾(守山市)の現状を伝え、再生にむけていくつかの問題を提起した作品(六七分)である。
 本映画を心待ちにしていた有志が実行委員会を立ち上げ、七月二六日にその完成試写会がライズヴィル都賀山(守山市)にて盛大に開催された。

◇会員の訃報

鈴木 良氏 二〇一五年二月一六日肺炎のため東大阪市の病院で逝去。享年八〇才。本会には二〇〇七年三月入会。元立命館大学教授。歴史科学協議会代表委員、部落問題 研究所理事など歴任。著書に『水平社創立の研究』(二〇〇五年部落問題研究所)など。本会の運営に種々ご協力をいただいた。(久保)


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