◇禁転載◇
◇七月例会
七月一九日成正寺にて二二名が参加し行われ、松永友和氏(徳島県立博物館学芸員・本会委員)から「天保改革期大坂の人足寄場」と題して講演を頂いた。
「人足寄場」と云えば、寛政二(一七九〇)年、火付盗賊改長谷川平蔵が老中松平定信に献言し、江戸に設置。無宿への授産・更正という無罪の無宿者に対しての知恵伊豆・鬼平の仁政程度の知識しかなかった。
今回大坂でも代官所の人足寄場が天保一四(一八四三)年に設置されたと、『大坂代官竹垣直道日記』を資料に指摘。村々からの資料により、「寄場人足」の活用を読み解き、歴史的背景にも考察された。
当日の参加者は、(略)計二二名(内田)
◇一〇月例会(フィールドワーク)
一〇月一一日(日)薄くもりの絶好のウォーク日和にも恵まれ、二六名が参加し行われた。
今回はテーマを「大塩平八郎ゆかりの史跡めぐり」と名付け、大塩の史跡・大阪城にくわしい本会委員の志村清氏に案内して頂く。歩き始めてすぐの八軒家船着場跡は、江戸時代には淀川水運の要衝であり、平安時代からは熊野街道の出発点として賑わう。右手に見える「天満橋」は寛永年間から幕府が直接管理し補修した一二の公儀橋の一つ。大塩の時代から幕末にかけての公儀橋、奉行屋敷・与力町の状況を古地図・古い貴重な写真を使っての説明。
大阪城内に入ってからは、専門家である志村氏自身がトレースした「大坂城総絵図(江戸末期)」・天守閣・本丸・各種櫓と現在の姿を見比べる。
長時間にはなったが、参加者の皆さんは志村氏の豊富な知識と資料による案内に十分満足を頂いたと思う。
それにしても平成二七年の流行語大賞「爆買い」の余波か外国人の目立つ、現在の大阪城であった。
[主なコース] 天満橋→八軒家→代官所跡→東町奉行所跡→弓奉行跡(近藤重蔵)→京橋口→大坂城→城代屋敷跡→本丸御殿跡→加番屋敷跡→玉造定番与力柴田勘兵衛屋敷跡→JR森ノ宮駅(解散)
当日の参加者は、(略)計二六名(内田)
◇一一月例会
一一月二八日成正寺において例会が行われ、藪田貫氏(関西大学名誉教授・本会会長)から「大塩平八郎と藤沢東」と題し講演いただいた。
大塩平八郎と藤沢東は、ほぼ同世代であり、大塩が洗心洞を、讃岐から大坂へ来た東?が私塾を開いたのも、ほぼ同時期である、二人はそれまでの懐徳堂中心の世界に新風を吹き込んだが、同時に漢蘭学の興隆も加わり、大坂の学問世界は活性化していったと述べ、続いて当代の学者・広瀬旭荘、篠崎小竹らの大塩平八郎の乱との関わり、それぞれの思いに触れるとともに、洗心洞に学び、乱後には東
と交流のあった田結庄千里の生涯を通して当時の大坂の学問世界を活写した。
そして大塩の乱は第二期のピークを迎えていた大坂の学問世界にとっては損失であり、その流れに水をさした格好となった、学者として別の行き方はなかったろうか、それだけ大塩の学問の水準が高かったと結んだ。さらにそのことから大塩平八郎という存在を大阪で回復することの重要性、必要性を加えた。
会場には東の出身地である高松の個人蔵になる東
の書状など古文書が展示され、藪田氏より解説が行われた。
当日の参加者は、(略)計二二名
◇大塩の乱の肥後への波紋
熊本日日新聞社では熊日新書というシリーズを発行していて好著が多いが、その中の猪飼隆明『熊本の明治秘史』(一九九九年)で大塩の乱の肥後の一地方への波及について取り上げている。
熊本市河内町船津の尾跡(おあと)という集落にある地蔵堂は、今も地蔵講により年一回の祭りが営まれていて、その祭りの記録である『地蔵講帳』が残されているが、内容は民情にも及んでいるため貴重な資料となっている。『熊本の明治秘史』より該当部分を引用する。
尾跡の『地蔵講帳』も、四ページにわたって、事件をこと細かに書き記している。平八郎が「文才日本に今頃多くはいない」学者であること、「世上飢渇の成行」「大坂町屋飢に及び候者間々多く」という状況を見かねて、「自身の大事な書物等を売り払い、難渋の者」に与えるなどしたこと、挙兵のいきさつ、そして「一向行方分からず、その後奥州・松前の辺に面出したる風聞なり」と記している。事件は「前代未聞のこと」ではあるが、「誠に万民の憐忍び難き候より起こりたるにや」と共感を示している。
同書は少し前の発刊であるが、『別冊歴史読本・熊本』(二〇一三年)でも同じ著者の文章の中で取り上げられている。
◇西條奈加『六花落々』の中の大塩像
三嶋明氏(東京都渋谷区在住)より、西條奈加『六花落々(りっかふるふる)』(祥伝社二〇一四年一二月刊)の中に大塩平八郎が登場しているとの情報をいただいた。
古河藩下級武士の主人公・小松尚七は「何故なに尚七」と綽名されるほどの質問魔で周囲の者から五月蠅がられているが、先手物頭(のち家老)の鷹見忠常(のち泉石)の目に留まり、次期藩主の土井利位の御学問相手に抜擢される。尚七はやがて藩主となった利位とともに雪の結晶の研究に没頭し、『雪華図説』の刊行に漕ぎ付ける。
その二年後、土井利位の大坂城代拝命に伴い大坂に来た小松尚七は書籍商で大塩平八郎と邂逅するのだが、その傲岸な態度に少々面喰いながらも勧められるままに洗心洞に入塾する。やがて尚七は大塩の「治世」の考え方に小さな矛盾を感じ退塾するのだが、その後大塩の乱が勃発するというストーリーである。
大塩の乱に関してこの小説の特徴を云うならば、制圧者側から乱を見ている点である。書中の鷹見忠常の大塩を批判している言葉にそれがよく表れている。
◇早見俊『大塩平八郎の亡霊』
祥伝社文庫・二〇一五年七月刊の時代小説であるが、編集子は著者について知らないので、著者自身のホームページを覗いたところ、一九六一年生まれ、二〇〇七年から執筆活動に専念している作家で、「時代小説とは、歴史的事実に関係なく歴史上の一時代が舞台になった物語で、登場人物や事件などはほぼすべてが創作によるものです。(後略)」と断り書きが記されていた。
本書はシリーズ第三作で、主人公・寺坂寅之助は時代遅れの戦国武者のような武士で得意の鑓を手に悪人を成敗するという内容になっている。著者自身が「肩の凝らない娯楽時代小説です」と言っているように、大塩平八郎の弟子で乱の直前に建議書を持って逃亡した首謀者が幕閣に取り入り、水野忠邦暗殺を企むことをモチーフに、逃亡中の大塩平八郎が乗船しているという風聞のあるモリソン号から逃げ出し海賊行為をする「大塩海賊」、悪徳米穀商に天誅を加える「大塩天狗」が加わり、娯楽性満載の小説となっている。
◇飯島和一『狗賓童子の島』が司馬遼太郎賞受賞
司馬遼太郎記念財団主催の第一九回司馬遼太郎賞に飯島和一の『狗賓童子の島』が決定した。産経新聞二〇一五年一二月二日号より引用する。(本会会員・志村清氏からの情報提供)
受賞作は大塩平八郎の乱に関係して隠岐島に流された少年を主人公として、幕末から明治初期にかけての同島の激動の時代を描いた歴史小説。「司馬遼太郎もこだわった幕末史に新しい光をあてた」と高く評価された。飯島さんは会見で「従来の『正史』とは違う角度でものを見てみたかった。こういう機会を与えていただき感謝している」と話した。
◇『狗賓童子の島』時代小説ベスト1
『オール読物』一二月号に「時代小説、これが今年の収穫だ!」という年末特有の企画がある。―当代きっての目利きが選んだ絶対読むべきベスト10―と副題も付く。
今回は二人お目利きが、それぞれ一〇冊の収穫を選び、選評と簡単な内容を紹介している。選者のひとり時代小説作家末国善己は、十選からあえてベスト1を選ぶなら、徹底した考証と骨太の物語、重厚なテーマが一体となった飯島和一の「狗賓童子の島」を挙げると書いている。(内田)
◇大丸と大塩平八郎(続報)
前号本欄の「大丸と大塩平八郎」で、大塩が乱に当たり「大丸は義商なり、犯すなかれ」と部下に命じたため攻撃目標から外され、事なきを得たことが大丸の社史に載っていると紹介したが、日本経済新聞二〇一五年一二月一一日号の「私の履歴書」欄にJ・フロントリテイリング相談役の奥田務氏が大丸入社時の新入社員研修で同様の話を聞いたことが出てくる。それに対する若き日の奥田氏の気概とその後の成長振りを思わせる記述が関心を惹いたので紹介する。(註・J・フロントリテイリングは大丸と松坂屋の経営統合により設立された持株会社)
経営理念の話もあった。儒学の祖の一人である荀子の言葉から採った「先義後利」というもので、その意味は「企業の利益はお客様と社会への義を貫き、信頼を得ることでもたらされる」。天保八年(一八三七)に大阪で多くの豪商が一揆の焼き打ちに遭った大塩平八郎の乱があったが、大丸は逃れることができた。大丸は徳義を重んじる家風が庶民にも広く知られ、乱の頭領の大塩が「大丸は義商なり、犯すなかれ」と命じて難を逃れたこともある。 先義後利の話を初めて聞いたときに「利益を追求するためにお客さんや社会への言い訳のようなもので詭弁だ」と思った。しかし後に経営者となってすべての経営活動において先義後利の視点を欠くと、必ずと言っていいほどうまくいかなかった。(傍線は編集部)
◇大阪天満宮の御文庫(続報)
前号の本欄にて朝日新聞夕刊の連載コラム『大峯伸之のまちダネ』で「住吉と天満の御文庫と大塩平八郎」について取り上げている記事を紹介したが、その後同紙二〇一五年一二月一七日号の同コラムで大阪天満宮の御文庫に収蔵された書物の曝書(虫干し)の様子に触れているので、その一部を転載する。
2階建ての天満宮の御文庫に入ると、書棚には本がぎっしり積み上がり、文字通り「書林」のようだ。1837(天保8)年、大塩平八郎の乱で建物と蔵書が焼けたが、その後、大阪の出版元が漢籍や和書などを奉納してきた。慶長年間に刊行された古い本も含め、いまでは10万冊余りが収蔵されている。
この日、法被姿の出版協会の人たち40人余りと天満宮の神職らが御文庫から主に漢籍を外に運びだした。別の建物でほこりをはたき、ページをめくって空気にあてる。全部の本の虫干しが終わるまで10年はかかるという気の長い奉仕作業だ。
◇井形正寿氏の反戦への思い(続報)
本誌第七二号の本欄にて元本会副会長の故・井形正寿氏に関して、その特高時代の経験を通じての反戦への思いを島田耕氏(本会会員)が語っている新聞記事を取り上げたが、その後の動きについて島田氏より次の通り情報をいただいたので紹介する。
十一月二三日付信濃毎日で「特高」の連載記事で島田とあってと、連絡があった。
九月、共同通信社の記者が東京から井形正寿さんを調べていると訪ねてきた。
昨年は東京新聞が、戦後七〇年にむけて特高を取材している、井形正寿についてとやってきた。
大塩事件研究会、大阪民衆史研究会で私は井形さんに親しくしていただいた一人。
また、映像による井形さんの証言をと、大阪民衆史研究会の例会で井形さんが話をし、その取材を了承いただき、友人山添哲也やカメラマンが記録した映像が私の手許にある。
井形さんと同世代で大塩事件研究会などで親しかった方々がもういないことから、私は二度の取材を受けたことになる。
共同通信社からの連絡はまだないが、信濃毎日紙の他にも、特高特集で井形さんをとりあげていると思う。
◇泉殿宮(いづどのぐう)社殿葺き替え
大塩平八郎の叔父で乱にも深く関わる宮脇志摩が第三二代宮司を務めた吹田市の泉殿宮(大塩研究七二号に訪問記事がある)で、社殿葺き替えを始めとする境内等の整備事業を行う。
ご子孫で第三六代宮司宮脇一彦氏(本会賛助会員)のお話によると、明暦三(一六五七)年に再建された現在の本殿は屋根を銅板に改め五五年経過し、建物全般にも損傷が出始めた。受け継いだものを後世に伝えるため、新築とせず屋根の葺き替えと各所修復・境内整備を行うとのことである。
平成二八年二月着工で一一月竣工の予定。(内田)
◇会員の訃報向江強氏(元副会長)
二〇一五年九月二〇日午前七時、寝屋川市の小松病院で肺炎のため逝去され、同二二日ご長男正一氏を喪主とする家族葬が同市玉泉院で執り行われた。享年八六。同氏の経歴、本会とのかかわり等については、本稿掲載の追悼記事を参照されたい。