Я[大塩の乱 資料館]Я
2018.4.4

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「洗心洞通信 63」

大塩研究 第75号』2016.9 より

◇禁転載◇


◇二月例会

 二月六日成正寺にて、二二名が参加して行われ、山形隆司氏(日本福祉大学知多半島総合研究所)から「文政一三年のおかげ参りと大坂」と題して講演をいただいた。
「おかげ参り」は、江戸時代に全国各地から伊勢神宮へ群集が押し寄せた現象で、神意の現れとしての奇瑞(飛び神明)を根拠として展開した。慶安三年(一六五〇)以降数回起こっている。
 今回は阿波から始まり全国に波及、参宮者が約四二八万人と云われている文政一三年(一八三〇)の事例を取り上げた。
 大坂からの参宮の事例としては二組が、同伴者・ルート・費用まで明確に検証されていた。
 また、南河内において「お陰踊り」が発生するが領主より禁止されたこと。故長谷川伸三先生より「読む部会」で学んだ、『竹園日記』に記載された内容も取り上げられており、非常に興味深かった。
当日の参加者は、【略】 計二二名(内田)

◇大塩中斎一八〇回忌法要・記念講演と総会

 二〇一六年三月二七日午後一時半から成正寺において、同寺主催の「大塩父子・殉難者一八〇回忌怨親平等慰霊法要」が有光友昭住職によって営まれ、本堂にて看経の後、墓碑に展墓した。また、本行事はテレビ(BS11)や、日蓮宗新聞の取材があった。
 その後、本会主催の記念講演会が行われた。講師は神戸大学経営経済研究所准教授 高槻泰郎先生、演題は「御用金政策に見る豪商と大坂町奉行所与力の関係」だった。(講演の概要は後述)
 小憩の後、内田正雄事務局長の司会進行で総会が開催された。藪田貫会長の開会挨拶に続き、二〇一五年度事業報告、会計報告があり、土井裕子会計監査委員から会計監査報告がなされた。その後、二〇一六年度事業計画の報告の後、閉会挨拶を経て総会は終了した。
 なお、本年は役員の改選期ではないが、委員で「大塩研究」の編集長を務めておられる辻不二雄氏が、社業の都合で編集長を退かれることになり、会員の宮元正博氏(池田市立歴史民俗資料館学芸員)が委員に就任され、編集長を引き受けていただくこととなった。
 当日の参加者は、【略】 三四名 (以上 内田)

◆講演の概要について

 二〇一五年度下半期に放送された、NHK「連続テレビ小説 あさが来た」は、今世紀最高の視聴率を記録したようである(平均視聴率二三・五%)。その放送がまだ終わっていない三月二七日に、時代考証や資料提供を宮本又郎氏らとともに行った高槻泰郎氏によって、研究会総会の記念講演会「御用金政策に見る豪商と大坂町奉行所与力の関係」が行われた。
 講演の前半は、「あさが来た」のヒロイン・白岡あさのモデルとなった加島屋(廣岡家)についてであり、後半は、御用金政策の実態と与力との関わりについての内容であった。まず、加島屋の概要説明の後、続く「加島屋久右衛門の商いとは?」において、大名貸と入替両替(米切手を担保に金を貸す)について、詳しい説明がなされた。すなわち、大名貸というと借金が踏み倒される場合が多く、商人は泣き寝入りしたと思われがちだが、うまくやれば踏み倒されなかったこと、もし大名が借金踏み倒しを行えば、大坂商人の強烈なしっぺ返しを受けることなどが解説された。さらに、萩藩が加島屋とパートナーシップを構築したように、一八世紀以降、大名貸商人と大名との間で新たな関係が形成された点も指摘された。また、古文書・史料についての説明もあり、二〇一五年五月に発見された「岡橋家旧蔵廣岡家文書」に触れられ、研究のまさに「最前線」を、ご披露いただいた。
 講演の後半は、御用金政策についてである。これまでの研究では、御用金は「強制的」に行われたと説明されることが多かったが、そうではなく「(半)強制的」だったと述べる。この「半」がポイントであると高槻氏は言う。それは、江戸から降てくる政策が、大坂において必ずしも円滑に達成されたわけではなかったためである。まず、御用金政策の説明の後、「初期の御用金政策」と「文化年間以降の御用金政策」について述べられた。特に政策の実施過程に注目され、江戸幕府と大坂町人との間の上納金額を巡る交渉時に、与力が両者の間を取り持ったこと、その役割が大きかったことなどが解説された。
 今回取り上げられた加島屋久右衛門については、大坂研究に少しでも関わる者にとっては馴染みのある名前だが、その商いの内実を語れる者は決して多くはない。それは、大名貸や御用金などの大坂金融市場については、その構造が複雑であり、前提となる経済史的な知識なしでは理解し難いためである。今回、この難解なテーマをわかりやすく、かつテレビ放送と関わってご苦労された点なども含め、楽しくお話しいただいた。参加者一同、非常に意義深い時間を過ごすことができた。 (松永)

◇新しい大塩平八郎画像の掛け軸が発見された

 この法要・記念講演の際、新発見の大塩平八郎像掛け軸が披露された。
これは、前会長・故酒井一先生の未整理の遺品から出てきたもので、大正年代に制作されたもののようである。掛け軸の状態はそれほど悪くはないが、羽織の家紋が大塩家の揚羽蝶でなく、白地になっている等、疑問点も多く、今後の調査が必要である。
 賛には「大塩平八郎名は後素字は子起中斎と号す大阪の与力なり少より読書を好み尤も王陽明の人物と学問とを慕う又能く吏務に熟達し大阪町奉行高井某に徴用せらる文政十二年姦吏等窃かに豪商数人と謀り政を乱り人を苦しむるの事あり事権貴の家人某に連及せるを以て人懼れて敢て之を問ふ者なし平八郎憤然捜索して悉く之を執へ其私する所三千余金を収めて市民に与ふ其成績大に揚て其名遠近に聞ゆ後致仕して専ら諸生に教授す天保八年米価俄に騰貴し市間餓死する者多し平八奉行に説て貧民を賑さんことを望めども言納れられず乃ち蔵書を売りて貧民を賑わし又危激の策を廻らし暴吏と富豪とを懲らして其財を貧民に分かたんとす謀露れ囲まれて自殺す年四十六」とある。なお、画像は「大塩事件研究会のブログ」にカラーで掲載しているので、ご覧いただきたい。(井上)

◇五月例会(フィールドワーク)

 五月七日(土)、兵庫県立美術館で開催されている「生誕一八〇年記念 富岡鉄斎ー近代への架け橋ー展」を見学した。
◆何故、富岡鉄斎展へ?
 近代文人画の巨匠 富岡鉄斎は大塩平八郎の肖像を所蔵し、大塩の乱に関心を持っていたらしい。
 有名な菊池容斎画の大塩像は同じものが二点存在する。その内の一点は大阪城天守閣蔵、もう一点は東北大学蔵だが、後者は富岡鉄斎が所蔵していたものである。
 なぜ彼がそれほど大塩平八郎に心を寄せたのか、大塩事件研究会員としても、富岡鉄斎に関心を持ってしかるべしと、鉄斎展に出かけた次第である。
◆富岡鉄斎とは何者か
 一八三六年、大塩の乱前年に京都の法衣商で石門心学者・富岡維叙の次男として生まれた。幼少から国学・儒学・仏教等の学問を広く修め、書画にも親しみ、幕末の動乱期には勤皇学者として国事に奔走し、明治維新後は神官(堺大鳥神社宮司)を経て、八九歳で亡くなるまで、文人画家として多くの書画を世に送り出した。多岐にわたる壮大なスケールの作品は、後世の画家たちにも大きな影響を与えた。彼は画家として食を得ていても、あくまで学者としての矜持を失わなかった。万巻の書を読み、万里の路をゆき、以て画祖をなす というのがモットーだった。
◆展覧会の構成
 鉄斎のモットーに従い、一.万里の路 二.万巻の書 三.画祖となる 四.文人鉄斎の娯しみ 五.画家たちが見た鉄斎 の五構成で約二〇〇点の作品・資料が展示された。
◆参加者一行は、まず学芸員 飯尾由貴子さんの懇切丁寧なレクチャーを受け、鑑賞した。予定した時間ではとても足りず延長したが、それでも後ろ髪を引かれながらの解散となった。自由解散後は皆さん食事や神戸散策を楽しまれたようだ。
 当日の参加者は、【略】計一三名。(井上)

◇広報用リーフレットとホームページの作成

 来年大塩の乱一八〇年を迎えるに当たって、会員増加を図るため、懸案となっていた、当会を紹介するリーフレットとホームページを作成した。リーフレットは、A4裏表カラー印刷を三つ折りにしたもの。表紙は菊池容斎画の大塩平八郎像。「大塩事件研究会入会のご案内」 「大塩の乱とは」「研究会活動内容」「大塩事件研究会の歩み」「大塩の乱ゆかりの史跡」「ご入会について」等を記載している。会員諸氏も是非ご利用いただきたい。
 ホームページは経費の関係で一応ブログを利用しているため「大塩事件研究会のブログ」という名で展開しているが、限りなくホームページに近い作りにしている。
 大塩の乱を扱ったホームページとしては、従来、当会会員の個人的ホームページ「大塩の乱資料館」があって、乱に関する諸資料が豊富に掲載されており、研究者を中心に重宝がられている。従って、研究会のホームページは、会の行事予定や活動実績、各種お知らせを中心として掲載することとした。アドレスは
http://oosio-jiken-kenkyuu.cocolog-nifty.com/blog/
ホームページ名で検索可能なので、ぜひご覧いただき、ご喧伝いただきたい。(井上)

◇『大塩事件と泉殿宮・宮脇家』

 藪田貫会長による講演会が四月二八日吹田歴史文化まちづくりセンター(通称 浜屋敷)で行われた。
 通常は古民家の藏を改装したサロンで行われているが、今回は多数の出席が見込まれ同センターの和室に変更。満員の出席者の中には、泉殿宮宮脇一彦宮司(本会賛助会員)・吹田市立博物館中牧弘允館長の姿も見られた。
 講演では「大塩事件」の概要と三枚の肖像画を見比べ、大塩平八郎は大坂の近代の鍵を握る人物であったと説明。また、時の文化人との交流などから、人間くさい人であり、文人としての再評価が必要と語る。
 吹田市民が知りたい、平八郎の叔父に当たる宮脇志摩については、当日乱には加わらないが、遺棄された大砲の台車に氏名が書かれた主謀者の一人と述べる。
 終了後の質疑応答では、大塩と交友があり、子息二人を洗心洞に入れた、旧吹田村の豪農橋本清大夫についての質問が出るなど、地元の関心の高さを感じた。(内田)

◇ BS11「尾上松也の古地図で謎解き!にっぽん探究」で「大塩平八郎の乱」が放映された

 同番組の第三三回 腐敗と格差への反逆「大塩平八郎の乱」が五月二四日午後九時から一時間に亘って放送された。
 大塩の乱において、
  @役人・大塩が幕府にはむかった理由、
  Aなぜ自らの豪邸に火をはなったのか
  B事件後の逃亡・・・歴史を変える新事実
 これらの謎を、歌舞伎俳優・尾上松也さんと尾上右近さんが古地図を片手にひも解いた。
 案内人は当会の藪田会長、内田さん、志村さん。志村さんはロケのお膳立てに尽力いただいたが、画面には藪田会長と内田さんだけの登場となった。
 この番組の取材から放映に至る詳細については、本誌別欄で内田事務局長が報告しているので、ご覧いただきたい。(井上) ◇『瓦で政治の動きがみえる!』

 吹田郷土史研究会藤原学会長による『吹田の古瓦を観る楽しみ』と題する講演会が、五月二九日吹田市のメイシアターで行われた。
 この中で、白井孝右衛門衛門宅の瓦が取り上げられていたので、配布資料より転載する。
 守口市の旧白井家住宅には、なんと江戸後期(文政七・九年)の吹田瓦が葺かれていた。白井家の当主孝右衛門は大塩平八郎の私塾・洗心洞の門下に入り、当家の離れ座敷で大塩は陽明学を講義していたという。天保八年(一八三七)に勃発した大塩の乱では泉殿宮宮司の宮脇志摩が乱に及んで行動を起こし、志摩の自害(実際は、さらに逃亡して豊中市内で死亡という。)と宮司家追放という大事件へと発展する。瓦は淀川をはさんだ吹田と守口の激動を示していたことになる。(内田)

◇大塩が好物にしていた「とりゐ味噌」

 会員の上島朱實さんから「江戸時代から続くキタのとりゐ味噌」という見出しの、五月三〇日付産経新聞朝刊の切抜きを送って頂いた。
 記事によると大阪天満宮の近くにある老舗みそ店「とりゐ味噌」は江戸時代から続く伝統の味が、今でも地元の方や参拝客のほか、外国人観光客にも人気がある。
 現在の店主が伝え聞いた高祖母の話しでは、『江戸後期の大坂町奉行所の与力、大塩平八郎も常連で好物にしていた』という。
 また文豪、谷崎潤一郎の妻松子は同店宛の礼状に、「白みそで作った上方風の雑煮で正月を祝えたことへの心遣いに感謝している」と書いているとのこと。(内田)

◇酒井一先生蔵書と所有史料などについて

 先般、先生の蔵書約一万冊の納め先についてはドイツ(ベルリン国会図書館、ボン大学)へ送付したとのご報告をさせていただきました。ドイツが引き取るものは雑誌、手書き原稿、古文書類を除いたものとなっていましたので、古典籍、古文書類は自宅に残しました。
 古典籍については、酒井先生教え子(坂野加代子氏)が京都大学図書館司書であったことから協力を得て、京都大学にない古典籍なら引き取るということで、京都大学に寄贈しました。
 残る物については、手付かずでありましたが、藪田先生と相談の結果、史料的価値がありそうなものも存在するということから、関西大学なにわ大阪研究センターに送ることにしました。そこで分析してもらい、しかるべきところに置いてもらうことになりました。
 送る史料の総量(内容は別として)は、段ボール大箱1箱、ミカン箱4箱、プラスチック化粧箱4箱となります。
 また生前、大塩関係の史料の散逸を避けることから、収集されてきた大塩関連「掛軸」については、藪田先生と相談して、成正寺に寄贈し保管されるのがいいのではないかとアドバイスを頂きその方向で進めていきます。
 中身については包装紙に包んだままのものは開封せずに送ります。研究会のほうで見ていただきたいと思います。分かるものとしては、思文閣から購入された「平松君の要望で書いた軸」(購入価格は六〇万円)などがあります。全部で9幅。
 これにより、酒井家にある酒井先生の研究事項、大塩並びにその時代に関連した史料などについては全て関係諸機関などへ寄贈・送付されたことになります。(岸本隆巳)
◇会員の動静

◆島田耕氏が監督として制作したドキュメンタリー映画『びわ湖・赤野井湾 2015』については、本誌七三号の本欄にも紹介された。
 この度「オール沖縄」のたたかいの源流を描いた、長編ドキュメンタリー映画『沖うちなあ縄ぬ思うむい』を、制作委員会の副代表として完成した。
 現在、各地で試写会・上映会を開催中。今も基地がある故に、いろいろな事件や事故が起きて県民が苦しんでいる沖縄。機会を得て沖縄の歴史、県民のご苦労、また豊かな自然を知るためにも是非見たいと思う。(内田)

◆長尾武氏は退職後、地震・津波研究に打ち込まれ、「安政南海地震津波の教訓」等の著作があり、当会でもご講演いただいている。この度、氏の論文「宝永地震(一七〇七年)津波による大坂市中での津波高・浸水域」が立命館大学歴史都市防災研究所の「京都歴史災害研究第一七号」に掲載された。
 宝永四年一〇月四日未刻(午後二時頃)日本史上最大級の地震、M八・六の宝永地震が起こり、津波が伊豆半島から九州に至る太平洋沿岸を襲った。海上交通の要衝であった大坂は津波によって、特に甚大な被害を被った。
 氏は主に三つの観点から検討を重ね、宝永地震による大坂市中での浸水域を推定された。現在の大阪市は、近代以前には田園地帯であった湾岸部が人口稠密な市街地となった。さらに都市化・工業化の進展による地下水の過剰な汲み上げによって、今や海抜〇b地帯が二一平方キロに及んでいる。宝永地震クラスの津波が襲ったなら、江戸時代よりもさらに大きな被害を受ける恐れがあると、氏は警告している。(井上)

◆久保在久氏(本会前副会長)が、文芸投稿誌「蔕(へた)文庫」(当会委員松井勇氏主宰)に連載しておられる「大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう)物語」が、大阪産業労働資料館のエル・ライブラリーで紹介されたので、その一部を転載する。
 「若い人には『大阪砲兵工廠』といっても、今は大阪城公園として整備されている所が、戦前日本最大級、アジア最大級の兵器工場であったことを知らない人が多いと思うが、今回の連載は一九八七年に久保が編纂した『大阪砲兵工廠資料集』(上・下/日本経済評論社)にもとづいており、その大部な『資料集』の実績の上に、明治以降の新聞記事を丹念に追って、見開き二頁の読みやすい分量で、テーマごとにわかりやすく解説されている。
 『資料集』編纂当時は『戦争の残骸にあたる施設などの研究』は進んでおらず、その頃まだ存命中であった関係者またはその遺族らを訪ね歩いて集めたこの資料集は、『日本産業技術史学会資料特別賞』を受賞したほどに、高い評価を得た。
 著者の『大阪砲兵工廠』検証の基本的姿勢は、『大阪産業革命の原点』としての評価にあり、この視点が今回の連載にも貫かれている。
 連載の始まり(一)は、そのような連載の意図が書かれている。
 (二)では、一八七〇年に始まる工廠の歴史、日本最後の内戦となった西南戦争(一八七七年)における兵器補給廠としての役割が描かれている。東京砲兵工廠に対して、大阪は大砲を中心とする重兵器の生産を任務としていて、西欧先進国の最新技術が取り入れられた。
 (三)では、西欧の最新技術を吸収するために、イタリアから『外国人教師』を総理大臣を上回る厚遇で招き、その技術指導の果たした役割を追っている。
 (四)では、『最初の大規模労災』として、一八八〇年八月爆発事故で三〇人が即死、一二名が危篤状態で病院に運ばれたが死亡、この事故の悲惨さを、一二歳の少年工の死去についての新聞記事から拾って記述している。
 一二歳の少年を雇用していた労務構成への注目や、この事故を『労働災害』として追っている、労働現場を経験している著者ならではの視点が興味深い。
 紙幅の関係で順を追って紹介はできないが、近く発行される(七)では、大阪砲兵工廠の技術が全国各地に広がった展開が追われている。日清戦争直前に建設された砲台を追って今春対馬まで行き、『砲台跡』を検分して、『歴史を学ぶものはやはり現場に立つべきだ』との思いを強くしたと述べている。
 この連載を所収している『蔕文庫』(編集・発行人=松井勇と編集スタッフ)は、年四回発行の文芸投稿誌で、ジャンルを問わずユニークな投稿作品が寄せられている。この種の文芸誌が規則正しく季刊で発行され、すでに六〇号を突破していること自体に、心から敬服し、定期発行のためのご努力の大変さを推測する。
 久保氏は『蔕文庫』が続くかぎり頑張ると言われており、連載をまとめての出版を期待したい。久保氏はこの『蔕文庫』の編集委員でもあり、歴史研究者として知る人ぞ知る存在である。・・(伍賀偕子)
 以下、久保氏のプロフィールが紹介されているが、これは本誌七一号の「大塩と私」(一八)「久保在久氏に聞く」に詳しいので略す。(井上)

◇会員の訃報

 土居年樹氏 二〇一六年八月二三日前立腺ガンのため逝去。享年七九歳。
 永く天神橋筋商店連合会会長を務め、商店街の振興・活性化に取り組む実戦派まちづくりのリーダーであった。
また、上方落語の定席「天満天神繁昌亭」の会館に尽力された。
 本会には二〇一一年六月に入会。入会前の二〇〇六年に「天三おかげ館」を中心に行われた「大塩事件研究会創立三〇周年行事」などにご協力をいただいた。(内田)


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