Я[大塩の乱 資料館]Я
2018.4.5

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「洗心洞通信 64」

大塩研究 第76号』2017.3 より

◇禁転載◇


◇七月例会

 七月二四日午後一時三十分から、成正寺で、帝塚山学院大学教授 福島理子先生による講演「大塩平八郎の詩心」が行われた。
 乱の指導者として世間的には有名で、謹厳実直な面のみ強調される大塩平八郎が、実は繊細な詩心を持った詩人であったことを、残された詩軸を中心に説明された。
 会場に展示された詩軸三点は、酒井一前会長の遺品である。(遺品整理については、前号洗心洞通信の岸本隆巳氏報告を参照されたい)
 講演内容は、福島先生が「大塩研究」本号にご執筆いただいているので、ここでは多くを述べないが、普段余り目に触れることもない漢詩で、理解が難しいのではないかと心配していた受講生にも分かりやすく、感動的であった。
 題材となった大塩の漢詩は、展示三点の他、「洗心洞詩文」から三点の計六点だったが、それに関連する頼山陽や篠崎小竹の詩も四点取り上げられた。  歴史に題材を取りながら、時局を諷刺・慨嘆する詠史詩は、その詠み方が情感豊かである。また、春愁や秋愁を詠む詩でも、酒を飲み、春風に吹かれながら川の景色を楽しむ詩や、箕面に紅葉狩りに行った際、誤って枝を折り山僧に縛られた人を助けた詩などを読むと、大塩の人間性が感じられる。
 大塩のよく知られている厳しい面は、与力として・教育者としての必要性から出たもので、その裏には繊細な詩心が潜んでいたことを今回の講演でよく理解できた。
 当日の参加者は、【略】 計二七名(井上宏)

◇十月例会(フィールドワーク)

 十月二三日(日)、「西村履三郎・常太郎ゆかりの地を歩く」をテーマに、八尾の歴史にお詳しい本会会員 志村清氏のご案内で、近鉄志紀駅前を二五名の参加で出発した。午後からの天気の崩れが心配される空模様であったが、暑からず寒からず、日も照らずで、歩くには最適と言えた。
 道鏡の出身地と伝えられる弓削の街を歩き、まず弓削神社にて神明造りの御本殿を参詣し、次の西弓削神社では、西村家四代目の建立による燈籠や、履三郎父の寄進の狛犬を拝観して、往時の西村家の隆盛の様子が窺い知れた。
 さらに歩き、一族の西村市郎右衛門の頌徳碑を見る。一七〇四年の大和川付け替えにより灌漑用水が不足することになった村々のために、大旱魃の折、新大和川から樋を開いて罰せられた人という。裕福な庄屋階級にありながら、気高い意志を持ち、困窮の人々を救おうとした人が履三郎のみならず、同胞にもう一人あったということに深く感動した。
 そして履三郎屋敷跡にて後の常太郎が馬で通ったという冠木門や常太郎子息・左殿正逸建立の観音堂、また、西村家菩提寺である聞法寺では、帰阪した常太郎・謙三郎兄弟らが寄進した釣鐘等を見学した後、弓削霊園で履三郎一族のお墓に参加者一同が手を合わせた。
 最後に旧田井中村を延々と歩き、大塩平八郎門人渡辺良左衛門自刃場所とされる五条宮跡を通り、近鉄八尾駅で解散となった。随分長い道程であったが、この地に夥しい数の悲しみのドラマがあったことに心を打たれ、志を持つ人々の強さや人間の絆と思いやりの深さなど、考えさせられること多く、実りのある一日を終えることができた。
 志村清先生、有難うございました。
 当日の参加者は、【略】 計二五名(土井裕子)

◇十一月例会

 十一月二七日(日)午後一時三十分から、成正寺で、平塚市博物館学芸員 早田旅人先生による講演「二宮尊徳の仕法と思想」が行われた。
 早田先生は四二歳と少壮気鋭の研究者。二〇一四年、東京堂出版から『報徳仕法と近世社会』を出版され、注目を浴びている。
 大塩平八郎と同時期に関東で活躍した二宮尊徳。平八郎が武の力で改革を企図した世の中を、尊徳は農の力でどのように改革しようとしたのか聞いてみたいと平塚市からご来阪いただいた。
 先生は今回講演に当たって、「近世後期、二宮尊徳により生み出され、関東地方を中心に荒村復興や領主財政再建を目指した報徳仕法。尊徳の思想もまた、その仕法実践における課題や状況との格闘のなかで生み出され、変化していきました。その意味と特質を近代の報徳運動を見通しつつ考えます」との言葉を寄せていただいた。
 講演内容については、早田先生が『大塩研究』にご執筆いただくことになっているので、ここでは詳細を述べないが、一般の人が抱く、「小さなことからこつこつと努力して偉くなった人」(積小為大)だけではない、「格闘する尊徳像」を見せていただいた。また、尊徳死後、その運動がどのように変容していったかも印象深いものがあった。
 筆者の感想を一部かいつまんで述べたい。
 まず導入部分での「金次郎像の虚実」に驚かされた。「金次郎は柴を背負って山道を歩きながら読書をしていた。その努力する姿を称える銅像が戦前はどの小学校にもあったが、戦後消えてしまった」と一般に信じられている。しかし、早田先生によると、実像は違う。どう違うかは、早田先生の玉稿をご覧いただきたいが、これは、通説と真相が如何に異なるかを象徴しているとのこと。尊徳の仕法・思想も近代に造形・改変・隠蔽されて理解されているとのお話に目を開かされた。
 本論に入り、尊徳仕法の核心、「分度」・「推譲」・「報徳金」について説明があった。
 「当時村落における格差の拡大・貧困層の増加は抜き差しならぬ状態になっていた。これでは共同体の維持が出来ないと考えた尊徳は、富者は分度内で生活して、余剰を貧者に推譲(再配分)し、全体としての繁栄を図る仕法を説いた。しかも、仕法で生み出される富は一村・一藩の所有物ではなく公共物として領域横断的に融通・分配されるべきだとした。また、天道(自然)に沿わねばならないが、人間営為がなければ富は生み出せないと、人道の大切さを強調した」とのこと。
 世界は今、格差による社会の分断に悩んでいる。尊徳の仕法は良い処方箋であると筆者は感じた。
 次いで、幕臣となった尊徳の苦悶・思想の変化、急変する国際情勢に対する尊徳の考え方、さらに尊徳死後の運動の変節等の説明があった。
 幕臣になることにより、理想の仕法を目指した尊徳が、上司である山内総左衛門の保身行為に阻まれるのは、大塩の献策が上司に入れられなかったことと通じる。そのため尊徳の仁政論(公権力の責任追及)は先鋭化していくが、体制の変革思想には至らなかったようだ。
 尊徳の死後、幕府の瓦解もあり、尊徳運動は変容していく。仁政論は切り捨てられ、人道は通俗道徳化していく。さらに太平洋戦争中は国家権力に奉仕する運動に変節する。戦後になっても公権力への主体性欠如の状態は変わらず、通俗道徳の域に留まっているとのことだ。
 このように、尊徳の思想が時代により変容していく様子をご説明いただき、非常に興味深く感じた。
 同じように大塩の乱が持つ意味も、時代により変わってくると思われる。我々の研究課題だろう。
 最後におまけとして、尊徳の大塩平八郎観の説明があった。大阪在住の小田原藩士伊谷治武右衛門から届いた悪評を信じ、悪印象を持ったことが、その後の書簡で窺える。しかし、それぞれの書面を額面通り受け取って良いものか、今後の研究が待たれる。以上
 当日の参加者は、【略】 計十六名 (井上宏)

◇大塩映画会

 「大塩事件研究会が造った映画があり、文部大臣賞を貰った」と言ったのがきっかけで、田辺敏雄さんが興味を示され、同氏が取り仕切っておられる「ワイルドパンチ」で十月二九日に実施された。古書店(蔵書約五千冊)と喫茶(酒類もあり)の店で、スクリーンの設備もあり最大五十人収容できる。最初に『大塩平八郎と民衆』を監督作品された本会の島田耕さんが解説をされ上映。その後、嵐寛寿郎主演の「風雲天満動乱」を鑑賞した。このほか嵐主演映画の紹介(一部上映)や資料も配付された。出席者は本会会員を含む二四人。同所は天神橋筋六丁目駅A出口を左(北)へ三つ目の辻を右。おついでの折古書の探索でもいかが。(久保在久)

◇春日庄次郎の大塩観

 同氏(一九〇三〜七六)は、戦前非合法下の共産党員。三・一五事件(一九二八)で検挙され、一番重い懲役十年を課せられたが、非転向で出獄。戦後党の中央委員に。しかし六一年路線問題で対立し党を逐われた。八六年三品とみ子が自伝『草の実―一革命家の手記』を発刊した。その中で春日が大塩について触れた部分がある。
 「この大阪で天保の飢饉の際、大塩平八郎という儒学者が叛乱をおこし、貧窮者の救援のために、金と米を放出するように金持どもを強要したという、いわゆる 「天保の乱」というものを知った。私の祖父はよく『大塩さん、大塩さん』といってこの天保の乱を語ったものであったし、今橋の鴻ノ池の本宅の前を通ると『ここが大塩さんがどなりこんで金を出させようとしたとこや』、ある時は、『この高麗橋筋はもう一揆のもんでいっぱいやった。あっちこっちとおしかけまわして、とうとう、天満から船で逃げたんや』と話してくれたものである。しかし、その時は、ただの話としてしか判らなかったが、今になってはじめて判るようになった。そうして祖父がなぜに『大塩さん』と尊敬して呼んだかということも判った」。(前掲書、十二頁)
 昭和期大阪生まれの革命家が大塩から深い影響を受けたことが窺われ興味深い。(久保在久)

◇『吹田市で大塩関連講演会』

 藪田貫会長による講演会が四月に行われた吹田市で九月にも二件「大塩平八郎」関連の講演会が催された。
「大塩平八郎の乱と吹田」
 九月二九日、於吹田市立東山田公民館、講師 吹田市立博物館学芸員池田直子氏で、地区の住民三十人程が出席。演題に従って、将軍徳川家斉の時代の幕政・天保の飢饉など「大塩の乱」の背景にある歴史の話。続いて大塩平八郎の人物像と「大塩の乱」についての説明。最後に地元吹田との関連を宮脇志摩・橋本清太夫を取り上げて分りやすく話された。
「橋本家と老中駕籠訴事件」
 九月十五日、於歴史文化まちづくりセンター(通称 浜屋敷)、講師 元吹田市市史編纂室長 中口久夫氏、「すいた昔さろん」というイベントで市民四十名程出席。
 大塩平八郎と親交のあった吹田の豪農橋本清大夫の長男で、洗心洞の元塾生であった磯五郎が起こした事件。橋本家は旗本竹中家を主家とし代々庄屋を務めた家柄で、大坂の陣での先祖の功績で苗字帯刀を許されていた。文政年間清大夫は竹中家のため借財の整理など実直に務めていたが、文政十一年同輩の讒言により在郷謹慎を命ぜられる。竹中家役人の査問を受け、種々陳弁したが聞き入れられない。翌十二年には磯五郎まで、「不埒の至り」と役儀放免処分となる。
 清大夫の悲嘆を見た磯五郎は天保四年三月死罪を覚悟の上で、老中大久保加賀守へ駕籠訴に及ぶ。寺社奉行土井大炊頭に引き渡され再三の吟味に主家の非道を訴えたが聞き入れられず、竹中家と和解するように命ぜられ帰村を許された。
 参加者は地元でも余り知られていない郷土の歴史話に、感慨深げに聞きいっていた。(内田正雄)

◇泉殿宮(いづどのぐう)正還座祭

 大塩平八郎の叔父宮脇志摩が宮司を務めていた、吹田市の泉殿宮では社殿葺き替えを始めとする社殿境内整備事業を行って来たが一部を残し終了した。
 平成二八年十月二一日、修復された銅色(あかねいろ)に輝く社殿に神様を遷す「正還座祭」が、多数の関係者が参列して厳かに斎行された。
 残りの工事完了後に、例会フィールドワークで訪ねたいと思っている。(内田正雄)

◇会員の動静

◆久保在久氏が聞き書きし、一九九一年に上梓した高田鑛造自伝『一粒の種』が、目下話題となっている写真集『美しい刑務所―明治の名煉瓦建築 奈良少年刑務所』の中で取り上げられている。高田氏は昭和三年(一九二八年)に三・一五事件で思想犯として検挙・投獄され、三年強を奈良刑務所(旧奈良監獄)で過ごしているが、写真集ではその際の回想が一頁強に亘って引用されている。
 因みに奈良少年刑務所は、明治四一年(一九〇八年)の建築で、設計者の山下啓次郎はジャズピアニストの山下洋輔の祖父に当たる。また奈良少年刑務所は本年三月を以って閉鎖されるが、PFI活用による保存が予定されている。加えて昨年十月には重要文化財指定の答申がなされている。
 なお、『一粒の種』は、府立労働センター(天満橋)四階の「エルライブラー」に寄贈されている。(辻不二雄)


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