Я[大塩の乱 資料館]Я
2018.4.3

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「洗心洞通信 65」

大塩研究 第77号』2017.8 より

◇禁転載◇


◇「大塩の乱 関係資料を読む部会」の報告

 平成二八年の「大塩の乱 関係資料を読む部会」は十二月十九日が最終日であった。出席者二六名で、学習会終了後は、年に一度の懇親会があり、藪田会長のサイン入り著書が当たる≠みだくじ等で大いに盛り上がり親交を深めた。
 翌年一月の報告によると、年一一回開催、延べ出席者一八六名、一回平均一七名とのこと。
 また、十一回出席の皆勤賞は【略】の七名。 十回出席の精勤賞は【略】の四名であった。
「大塩の読む部会」は原則として、八月を除く第四月曜日十八時〜二十時までの二時間、扇町の大阪市立北区民センター会議室で行われている。
 現在は藪田貫会長のご指導の下、古文書『難波美家解』と活字書『大阪市史史料近世U』を読んでいる。また、学習の成果として『難波美家解』の翻刻文を『大塩研究』に掲載しているのでご覧いただいていると思う。
 学習会では前記文書を参加者が数行ずつ読み、皆さんから読み方、歴史用語についての意見が述べられ、最終的に藪田会長から解説をいただいている。
 古文書は難しいと思われがちだが、歴史談義を交え楽しく学んでいるので、是非一度お立ち寄りいただきたい。(内田正雄)

◇平成二九年一月例会―酒井一先生七回忌法要ならびに論文集『日本の近世社会と大塩事件』献呈式

   【写真 略】
 三五年の永きに亘って大塩事件研究会会長をつとめられた酒井一先生の遺稿集『日本の近世社会と大塩事件』が一月二二日付けで和泉書院から発刊された。そこで同日、先生の七回忌法要と同書の献呈式が菩提寺成正寺で行われた。
 式後の会食で参加者全員が先生の思い出を語った。
 集まった方たちは、先生令夫人ならびにご親族、遺品整理を担当された教え子・ご友人・論文集解題執筆者・出版社・大塩事件研究会役員の皆さん。  【略】 計二二名(井上宏)

◆遺稿集『日本の近世社会と大塩事件』について

 大塩事件研究会では、先生の多数の論文が、ご急逝により、発表当時のまま放置されている状況を憂い、ご業績が次世代にも継承されることを願って、遺稿集を発行することを企画した。
 本書では、主要な論文二一篇を、T近世の領主支配と村々、U大塩事件、V幕末の社会と民衆、W地域史と民衆文化 に分類して収録した。
 冒頭には、先生みずからが半世紀の研究の軌跡を語られたインタビュー記事を掲げ、末尾には年譜と著作目録を付している。
 Tには本城正徳、Uには松永友和、Vには谷山正道、Wには藪田貫の各氏による解題が付され、先生の業績の近世史研究における位置づけが試みられている。
   【写真 略】
 本書の内容・目次等の詳細は和泉書院のホームページに掲載されている。ご覧いただきたい。(井上宏)

◇三月例会―一八一回忌大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要及び記念講演会

 三月二六日(日)午後一時三十分から、成正寺で、一八一回忌大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要が行われ、記念行事として、天理大学教授 谷山正道先生による講演が行われた。また、講演後、研究会の総会が開催された。
  【写真 略】

◆法要

 一八一回忌だが、事件後一八〇周年の記念すべき法要である。往事を偲びながらの厳かな法要だった。記録映画の撮影や新聞社・雑誌社の取材も入っていた。

◆講演:谷山正道教授「日本の近世社会と民衆運動―大塩平八郎の乱を視野に入れながら―」

 豊富な資料を駆使しながらのご講演は分かりやすく、興味深いものだった。
講演内容については、谷山先生が『大塩研究』にご執筆いただくことになっているので、それをご覧いただきたい。ここでは、ご講演の意図と、本稿筆者の感想を二・三述べるにとどめる。

  【写真 略】

◆ご講演の意図(レジュメ「はじめに」から)

○江戸時代は、「徳川の平和」と呼ばれる、世界史上でも稀な平和な時代であり、兵農分離制(身分制)・石高制(村請制)・鎖国制を国家の基本的枠組みとしていた。そうした体制のもとで、民衆は、生産や生活を守るために、地域に根ざしてどのような運動を展開したのか、それはどのような特質を有し、近世後期にはどのような変化を示すようになったのか。
○本講演では、合法的訴願と百姓一揆の双方に光をあて、日本近世における民衆運動の特質と展開のあり方について、大塩平八郎の乱も視野に入れ論じられた。

◆講演を聞いて印象深かったこと(本稿筆者)

1.〈訴の時代〉としての日本近世、2.近世における合法的訴願の展開では、
○一般的に百姓一揆が注目されるが、現在知られているそれは三千余件に過ぎない。ほとんどが合法的訴願であるとのこと。
 要求を述べる際、自分たちのことを「御百姓」と述べている。これは「我々百姓が貴方たち武士を土台で支えているのだぞ」ということを表現している。訴願は数量的・合理的で、道理に貫かれている。また、文章表現力と論理構成力に優れている。
 お上の言葉を逆に利用する図太さを備えている。例えば、「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」の言葉で有名な勘定奉行 神尾春央の「有毛五分五分の条」(五公五民)を盾にとって、それ以上の年貢増徴を防ぐなどしている。
○国訴など、問題レベルに応じた広域化を図っている。そのため、村役人層による地域集会を開催し、議定書を制定するなどしている。また、頼み証文(委任状)などは、代議制の前駆的形態とも取れる。
○百姓側からお上に、法文や政策内容を提示して「国触」(くにぶれ)を要求するなど、地域運営主体・政策主体としての成長が見られる。
○明治になって自由民権運動が盛んになるが、近世における民衆運動の、このような成長が基盤となっている。
3.百姓一揆と幕藩領主、おわりにでは、
○百姓一揆も中期までは「作法」があり、規律ある行動をとり、盗みや放火は自制していた。一揆勢が得物として携えたのは農具であり、武器は封印していた。領主側も鎮圧に際して、飛び道具は不使用としていた。
 非合法な訴えの首謀者は厳罰に処することが公事方御定書に記されているが、これも但し書きがあり、事情によっては柔軟に対応していた。百姓を「国の宝」として扱った。
○ところが、明和頃から次第に硬直的な処分となった。民の方も文政頃から一揆に竹槍を使用するなど暴力化するようになり、鎮圧側も武力行使をするようになった。階層分化が進行し、民衆の窮迫度が増し、領主に対する恩頼感が低下し、直接行動によって「世直し」を実現しようとする動きが出だした。
○天保期、凶作による米穀の欠乏と高騰による民衆の窮乏が激しくなったのは、再生産構造の変化が影響している。脱農化が進展し、「買喰層」が多くなることで、米価高騰が一層打撃となった。このような状態に、大坂では跡部山城守の悪政が拍車をかけ、大塩平八郎の乱につながった。島原の乱後二〇〇年、弓鉄砲を用いた大塩の挙兵は明治維新の先駆けとなった。
○上記のように、一般的な認識と異なり、訴願に対する幕府政治の対応は柔軟で、民の側も訴願を通じて自治力の向上があった。しかし、中期以降、階層分化の進行、底辺民衆の窮乏化が増すことにより、訴願も暴力化することが多くなり、大塩の乱につながった。階層分化の激化が如何に危険かに、現代の為政者も心すべきだろう。
以上が先生の講義に対する筆者の断片的な感想だが、受講者さまざまの受け取り方があると思われる。講義の全貌については『大塩研究 第78号』(平成三十年三月刊行予定)で先生の玉稿をご覧いただきたい。
 当日の参加者は、【略】 計三三名   (井上宏)

◇講談「大塩平八郎事件異聞 西村常太郎物語」鑑賞の報告

 旭堂南海さん作の講談「大塩平八郎事件異聞 西村常太郎物語」が三月二四日、十八時三十分から、大阪千日前のトリイホールで上演された。
 同ホールは、法善寺横丁のすぐ傍、六十席程、落語・講談など演芸主体のホールらしい。硬い感じの演題なのに満席のお客さんで、南海師匠の人気が窺える。 南海師匠によると、この講談は、飯嶋和一著『狗賓童子の島』を、作者の許しを得て、師匠が講談化したもの。原作は司馬遼太郎賞を受賞したが、師匠は司馬より飯島和一のファンであるとのこと。
  【写真 略】
 原作は一二〇〇枚の大作で、大塩平八郎の乱に関係して隠岐島に流された少年・西村常太郎を主人公として、幕末から明治初期にかけての同島の激動の時代を描いた歴史小説。講談ではとても演じきれないので、導入部の一〇〇枚ばかりを講談化された。講談を聞いて、興味を持ってもらい、ぜひ原作を読んで欲しいとの意図。常太郎少年は罪人の子としての扱いを覚悟していたが、むしろ民衆のために立ち上がった偉人の子として遇されるのに驚く。少年はその年の「狗賓童子」に選ばれる。十人に一人しか生還できない過酷な大役のさまが迫力満点に語られる。そして、狗賓童子となった少年が医者としての教育を受け、島民と共に動乱を生き、島の危機を救うことが予告されて講談は終わる。話の全貌をぜひ知りたいと思わせる熱演だった。
 講談の後、「大塩事件の今を語る」というテーマで、大塩事件研究会会長・薮田貫先生と南海師匠による座談会があった。薮田先生の話で興味深かったことがある。
   【写真 略】
 大塩の乱によって島流しにあった子供は十四人にも上る。一人ひとりに興味深い物語があった筈である。その中で何故常太郎の物語が語られることになったのか。彼らのほとんどが流された土地に留まったのに対し、常太郎が明治二年大阪に帰り、医者となったことが大きい。明治十三・四年頃、毎日新聞の宇田川文海が常太郎から話を聞いた。それが左殿家文書の中に納められていた。
 左殿家文書は、本会会員森田康夫先生が長年調査・研究され著書に納められている。その著書が大塩をテーマに執筆を企画していた飯嶋和一氏の目に触れ、『狗賓童子の島』として結実した。
 ネットに、飯嶋和一氏の執筆動機を掲載している頁がある。(全国書店ネットワークe-hon、著者との60分)
http://www1.e-hon.ne.jp/content/sp_0031_i1_201503.html
 この中で、同氏は、森田先生の著書を読み、この視点でなら大塩平八郎の乱を書けると思ったと述べている。物語は常太郎主役だが、執筆の動機は大塩平八郎の乱であるとはっきり言っている。
 また、『大塩研究』 に森田康夫先生の西村常太郎・謙三郎兄弟に関する研究論文が掲載されている。
第十三号の「大塩の乱と隠岐騒動―弓削村七右衛門の子常太郎のこと―」、第二四号の「弓削村七右衛門の子・常太郎の隠岐体験―大塩の乱と隠岐騒動を結ぶもの―」がそれである。
 さらに先生は現地調査を重ねられ、その結果を踏まえて、一九九二年三月、成正寺で講演されている。「隠岐・五島に生きて―河内弓削村西村履三郎の子常太郎・謙三郎―」で、その概要は『大塩研究 第三二号』の「洗心洞通信二六」に掲載されている。(ホームページ「大塩の乱 資料館」参照) 
 もう一つ、薮田先生の指摘は、この講談は常太郎の母由美について触れていない。由美が非常に偉かったからこそ、あの常太郎があったということを言って欲しかったとのこと。
 南海師匠は、「先に言ってくださいよ。入れたのに」と悔しがっていた。次に語られる時には入っているかも知れない。乞うご期待である。(井上宏)

◇五月例会記録「大塩の乱 一八〇年記念映画会」

 平成二九年五月十三日(土)、午後二時から、大坂グリーン会館二階大ホールで、「大塩の乱 一八〇年記念映画会」が開催された。
  【写真 略】
上映作品は二本
新東宝作品『風雲天満動乱』 第二部 嵐寛寿郎主演(一九五七年)
 記録映画『大塩平八郎と民衆』 島田耕監督 文部大臣賞受賞(一九九三年)  当日の大阪地方天気予報は雨のち曇り。予報通り朝から雨だったが、幸い午後には上がり、約七十名の参加で盛況だった。
 研究会薮田会長の挨拶の後、二本の映画が上映されたが、合間には記録映画の島田監督から、若干の解説があった。
 会長からは、「新東宝映画は史実とかなり異なる娯楽作品である。決起した人たちは、自分たちのみでなく、家族にも累が及ぶことを覚悟して民衆のために行動を起こした。『無私』の行動である点を見て欲しい」との話があった。
 島田監督からは、「記録映画は史実と、それが歴史に持つ意味を追及している。そのため家族の流刑地にまで、ロケを敢行した。どの地でも、犯罪人の子としてではなく、民衆のために立ち上がった人の子、学があり、将来島のために役立つべき子として大切に扱った。このことは乱が民衆にどのように受け取られたかを示している。
 また、この映画会に当たって、事務局に、政権に刃向った大塩の乱の映画で文部大臣賞を受賞するとは何事かとクレームがあったらしい。コンクール用に作った映画ではなく、完成後勧められて応募した。審査にあたったのは政権内部の人ではなく、教育映画の専門家たちなので、評価されたのは意義のあることと思う」との話があった。
 参加者からは、「嵐寛の映画は懐かしかったし、それなりに面白かった。記録映画は、教科書にはない知識を得ることができた」「大塩マップを購入しました。自分の住んでいる所の歴史を知りたくなりました」「中・高の教員をやっています。学生相手にお話を聞かせていただきたい」等の感想があった。また、「今の官僚・政治家に無私の人は皆無だろうね」との声も聞いた。
 乱一八〇年のイベントとして、成功だったようだ。
 当日の参加者は会員十八名 【略】一般四八名、計六六名(井上宏)

◇「まんが 大塩平八郎」

 (株)くもん出版発行、著者・ムロタニ・ツネ象の、時代を動かした人びと『日本の歴史人物伝』という子ども向け漫画本に、大塩平八郎が取り上げられている。
 なにげなく書店で手に取り驚いたのは、一九九九年発行で四一四頁にわたる児童書としての大作が、今日まで第四二刷発行され読まれ続いていることだ。
 大塩平八郎は二章―新しい道をきりひらいた人びと―に七頁に渡って掲載されている。内容は丁寧に史実に沿って書かれており、子どもの時から、大塩平八郎を正しく理解してくれるものと思われる。(内田正雄)

◇大橋幸泰著『近世潜伏宗教論』―キリシタンと隠し念仏― 校倉書房 (歴史科学叢書)

 同著を著者で本会会員の大橋幸泰氏から贈呈されたので、紹介する。
 江戸時代の切支丹をはじめ異宗と思われていた、宗教活動に信仰・邪正・幕府藩の対応と広い範囲で考察する。この中で、大塩平八郎が与力時代の三大功績の一つとされている「キリシタン逮捕一件」については「文政期京坂キリシタン考」と題し詳しく論考している。(内田正雄)

◇田能村竹田―吹田・なにわを愛した文人画家―展

 大塩平八郎と親交があり、養子(弟子)直入を洗心洞で学ばせた田能村竹田展が、吹田市立博物館二五周年記念 春季特別展として四月二九日〜六月四日まで開催された。
 竹田は豊後国岡藩医の家に生まれたが、文芸や書画に秀で諸国を旅し大坂では木村兼葭堂、頼山陽とも出会う。
 天保六年(一八三五)療養のため吹田に来た竹田が描いた「吹田養痾図」が今展示のため、竹田市立歴史資料館から里帰りして目玉の一つとなる。
 展示作品には大塩自詠の七言絶句詩を揮毫した、力強く雄大な紙本墨書一幅(署名 洗心洞連齊)もある。(内田正雄)

◇会員の動静

◆当会元副会長 故 井形正寿さんがNHKテレビ「探検バクモン」に登場

 当会副会長として永年功績があり、二〇一二年に亡くなった故 井形正寿さんがNHKテレビ「探検バクモン」のお札特集で取り上げられた。ただし、井形さんは福島区の歴史研究会事務局長も永く務めておられ、その仕事に関係した取材内容だった。
 放映日は十二月二八日(近畿では三〇日)。この回のテーマは「お札」。お札は新札となる度に、若い番号が縁の公的機関に交付されるそうだ。一万円札の顔が聖徳太子から現在の「福澤諭吉」に替わったのがD号券の一九八四年。さらにそれが偽造防止技術を施した、現在のE号券に替わったのが二〇〇四年である。
 そのE号券の印刷七枚目A000007Aが、井形さんが事務局長を務められていた福島区歴史研究会に交付され、井形さんが交付式で受け取られた。(06Aは大阪市)。
 若い番号が民間に交付されるのはレアケースなので、当時多くのマスコミが取材に来たそうだ。今回の探検バクモン「お札特集」でも、その経緯に番組ディレクターが注目した。
 交付理由の大略は、一万円札表紙が福澤諭吉となった一九八四年当時、諭吉が中津藩大坂蔵屋敷(現福島区福島一丁目)で生まれ、大坂の適塾で学問に励んだことを顕彰するものがほとんどなかった。そのため、福島区歴史研究会が猛運動をし、福島図書館に「福澤諭吉記念室」が創られた。(福島区歴史研究会ホームページに詳細掲載)。
 番組中の該当部分は数分だったが、交付式や中津藩跡(福島区)の福沢諭吉誕生碑前での井形さんの写真等が放映された。(N.M.)

◆森田康夫著『評伝/ことば 大塩平八郎』

 本会会員である森田康夫先生が、近く和泉書院より出版する。発行日・価格は未決定。
 本書は、同氏が永年続けてきた大塩研究を集大成したもの。平八郎の「生い立ち」「大坂町奉行所」「呻吟語との出会い」と書き進め、「大塩の言葉」についても記述。


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