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今宵計の命ぞと、知でや妹の吾を待つらむと、彼菊池寂阿が最後の歌の、夫なら
ねど、故郷に残せし妻や子の、定て汚吏の手に執へられ、苛酷の糺弾に逢ふて居
るならん、然れども吾妻も亦気節あり、元より孝貞忠義の道をも弁へたれバ、他
の婦女子の如く卑怯未練の振舞ハある可らす、又仮令某が死を聞くとも、予て覚
悟の事なれバ、今更周章もなす可らず、よしや吾今想像する如くならで、卑怯の
振舞、周章の行ひあるにもせよ、今更詮術なき事なれバ、此る事に心を傷むるハ、
抑々愚痴の至りなり、
吁々巳矣々々切て最后に一篇の詩を吟じて、吾志を後世に伝ふ可けれ、ど腰なる
矢立を取出し、白木綿の肌着の袖を引切て、之に左の一詩を書附て、桜の枝に釣
下げけり、其詩に曰く、
曾把成敗付蒼冥。孤節只期侠骨馨。古廟花寒戦後月。一痕春夢墜烟青。
折柄遥かに不忍池の方に当て、誰人の吟味にや、三筋の絃の調に合して、
行暮て、木の下蔭を宿とせバ、空に知られぬ雪ぞふる、花の枕にふゞきのひとへ
にくや、嵐のあてこをも聞て、流しの花の枝
と唄ふ、唱歌の風のまに/\吹き送られ、手に執る計り聞ゆるにぞ、
彼武士ハ之に耳を傾け、今唄ふ唱歌ハながしの枝とやらん、今専ら京阪にて唱ふ
流行歌なるを、誰人が何日唄ひ伝へしものならん、何となう古郷へ帰りし心地の
して感深かり、いでや此隈なき月と、盛りなる花と、此唱歌とを、此世の思出に
して此浄刹の土とならん、アナ此地好や、面白やと云ひつゝ、頓て肌おし脱ぎ、
短刀を以て腹一文字に掻切り、返す刀に咽管を刺貫き、其儘前に打伏して、敢果
なく息は絶にけり、
抑此武士を誰とかする、大塩平八郎が一方の大将と頼みたる河内国弓削村の豪士
西村利三郎、則ち是なり、生年三十二歳、其行事を論ずれハ、時の政府の法律に
背くの暴徒、則ち国事犯罪人たるを免れずと雖も、其心術を謂へバ、又世を憂ひ、
民を救ふの志なきにしも非ず、身を殺し、仁を為す、復侠客の風ありと云ふべし、
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菊池寂阿
菊池武時
(1292-1333)
鎌倉時代の
肥後の武将、
後醍醐天皇
の隠岐脱出
に呼応した
実際の
西村利三郎
は江戸に逃
れて病死
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