Я[大塩の乱 資料館]Я
2019.2.5

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なにはいぶん  しほの なごり
「浪華異聞 大潮余談」
 その15
宇田川文海 (1848−1930)

『絵入人情 美也子新誌 第6号』所収 駸々堂 1882

◇禁転載◇

 第6回(3)管理人註
  

却説西村利三郎の妻菊枝、及び三人の小児、二人の婢僕ハ、尚牢内に召置かれ、 其後も度々奉行所に喚出され、手を替へ品を換へて、数々苛酷の糺弾を蒙り居た る折ネ、利三郎にハ江戸の上野に於て、去る三月十五日の夜割腹して死せし旨、 早くも報知ありしかバ、頓て裁判落着となり、菊枝、雪江の両人は、女子の事故 搆なし、常太郎、健三郎の両人は、男子なれ共幼年の事故、十五歳迄親類預け、 其後流罪、忠助、おかねの両人は搆なしと言渡されけり 奥山のみきハ夫とも見えざりし、桜は花にあらはれにけり、 去る程に菊枝ハ裁判落着の其日より、弓削村なる同姓西村某の家に引取られしが、 元の家居并に家財諸道具ハ更なり、所有の田地田畑迄尽く公に没取され、今ハ親 子ハ着のみ着のまゝ、宛ら猿猴の梢を離れし如き体裁となり果、同姓某其他諸親 類の救助に依て、一軒の茅屋を搆造へて貰ひ、其処に親子が僅に膝を容るゝ事と ハ成ぬ、 然るに此時迄も忠助、おかねの両人ハ、尚も傍を離れずして懇に介抱するを、今 ハ公の罪人と成り、殊に親類の人々の扶助を受て、漸々其日を送る果敢なき身な るに、二人の家来を養ふハ、公に対し又親類に向ひても、誠に憚多けれバ、今よ り里方へ帰候へ、併是迄長の年月、真実に勤呉れし其上に、忠助ハ良夫の戦場の 伴をもして呉れ、おかねも亦牢舎の苦をも共にせし事なれバ、其志の程ハ決して 忘ハ置かず、世が世なれば如何なる報酬をもなす可きなれども、今と成てハ一言 の言の礼より外詮術なし、此儀ハ用捨し賜ひね、と涙と共に言諭せしに、忠助は 其理に伏し、奥様の仰、如何にも御尤、お上と御親類との二に憚りありと仰せら るゝからハ、誠に余儀なき次第、殊に未だ三十余の御身にて、後家を立てさせ賜 ふなるに、下郎ながらも同じ年頃なる男の附添ひ居参らするも何とやらん、心安 からず、世間の人の口の端も恐あれば、不本意ながらお暇を賜ハりて、蔭ながら の御奉公を致し参らせん、と夫より近郡某村なる吾里方に引取りしが、其後も絶 えず訪問す、其都度々々物を贈り、品を携て飽迄実意を尽すこそ殊勝と云ふも余 りあれ、 さりけれども、おかねのみハ其説諭に随ハず、妾事は女子の身、素より健三郎様 の御乳離迄も御奉公いたしたし、若御親類より御扶持を受るを懶しと思召さば、 里方より米なり麦なり取寄せ、小遣は糸紡ぎなと働て、妾一人ハ決して御扶持を 煩さねば、今暫くお傍にお置き下され、と只管に頼聞ゆるにぞ、菊枝も今ハ依頼 少き身の上なれバ、只扶助の行届き難きを心苦く思て暇を出すものゝ、其内心は 忠助なりおかねなり、傍に置度く思ふは山々なれど、果敢なき妾親子を左までに 思賜ふとあらば、姑く其意に任す可けれ、尚此末親子の介抱を頼むのみと、是よ り表向こそ主従なれ、其内情ハ菊枝はおかねを妹と思ひ、おかねは菊枝を姉と頼 て、互に杖とし柱として、物憂き月日を送りける


   
 


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