仮令貴嬢が暇をやると仰のあるとも、いかなこと、妾は宿へは下りませぬ、情願
不便と思召し、お傍に置て下されまし、と怨の言に病人は、背撫摩るお兼の手を
取り、是も涙の声細く「アヽ是は仕たり、物体ない、此程親切にして呉れるお前
に対し、何の愛想のつきやうぞ、今のやうにいふたは、全くお前の行末を案ずる
よりの事、外に何も思はくのある事ではない程に、今いふた事をバ気に掛けず、
今まで通り何日までも、傍に居て下され、夫こそ妾計か三人の小児の為にも大僥
倖、と聞くよりおかねはさも嬉しげに「其お言を聞て漸々安心致しました、夫に
付ても貴嬢の御病気、全く御心配より起つた事と杏庵様の御診察、夫は最只今の
お身の上では御心配遊バさるゝのも決して御無理では厶いませんが、是も因縁づ
く世の成行ぢやとお明め遊バされて、少しは気をうき/\とお持なされ、一日も
早く病気御全快成さるゝやう、不吉な事を申上るやうで厶りますが、只今貴嬢の
御身に若もの事のあつた時には、三人の和子様は如何なされ升、といふ折しも、
裏手通掛る一人の百姓、野面稼の行掛と見えて、鍬を担げなから野声張上げ「酒
でもたべ/\うき/\さんせ、気から病の出ぬやうに」と是は此那の西村菊枝の
病気を、乳母のおかねが介抱の有様なり、
偖々菊枝はおかねの介抱と医薬の効験にや、病気も漸次に全快に及びけれバ、藻
にすむ虫の吾からと、弱る心を励ましツヽ、雪江、常太郎の二人の小児に学問裁
縫の道を教へて、今日と送り明日を過す其中に、光陰は流るゝ水の如く、早くも
八年余の星霜をぞ経にける
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