天地ハ万物の逆旅、光陰ハ百代の過客なりとかや、金烏の翅、玉兎の足、夢より
夢に歩行を運ひつ、今日と暮れ、昨日と過て、早くも八年の星霜を経、利三郎の
長男常太郎ハ、本年十六歳とハ成にけり、
身の丈高く、色白く、容貌より骨格迄、父利三郎に其儘にて、天晴の好男子なる
が、父が割腹の其後ハ、其身天下の罪人なればと、母の菊枝を始め、親類の訓誠
の厳しけれバ、昼は戸外へも出でざれども、夜な/\同姓某の許に通ひて、文武
の教を受け、然も一を聞て二を知るの才有バ、両道ともに世の童にハ優て好く出
来るのみか、普通の大人ハ遠く及ばぬ程なれバ、重罪人の子とハ謂へ、可惜才子
を島守とせんこそ遺憾なれ、と菊枝ハ更なり、親戚の人々も不便の者に思て、度
々其筋へ嘆願せしかども、私情に依て公法を曲るをハ協ハじと計り、遂に聞届け
られず、
彼是として月日を送る間に、早くも遠流の期限に臨ミけれバ、頓て其筋より、来
る何日何時迄に召達て出頭すべき旨達しありけり、遂に行く道とハ予て知りなが
ら、又今更のやうに思ハれて、菊枝の愁傷、常太郎の悲歎、中々筆にも言ふも尽
し難し、
さてしもあるべき事ならねバ、菊枝ハ弱る心を取直て、漸々に思絶え、西村利三
郎とも云ハるゝものの妻が、此期に臨て未練なる振舞ありしなど云ハれてハ、亡
夫が尸の懐なりと、平生の男魂を震起し、愈々明日ハ遠流といふ前日に、責て男
にして後、出し遣んと、菊枝が手親ら前髪を剃落し、世にありし時ならバ、加冠
の式とて様々の儀式をもせんものを、此身に成てハ何詮術もあらねども、明日の
餞別をも兼て、麁酒一献酌替さんと、親類の誰彼をも招て方計の式をなし、其席
上にて菊枝ハ、常太郎に打向ひ、回顧せハ、亡夫利三郎が大塩殿と共に事を挙げ
し其折ハ、今より八ケ年已前、其方ハ漸く九歳の小童、其時さへも此母の訓誠を
聴て、潔よく死を決せし程なるに、況て此度の事は予て覚悟の事にて、其時より
ハ年も増し、物の分別も出来たるなれバ、愈々未練なる心ハ出すましけれど、念
の為に言置くなり、明日其筋へ出し時、決して卑怯し振舞ある可らず、
|