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又何処の島へ流さるゝとも、其処に至らば公の制法を能守て、身の行を慎み、多
くの流人の表準となる人と成て、流石ハ利三郎の忰程ありと云はれ賜へ、喩へ申
すも最恐惶き事ながら、管原の御神の賢明きすら尚筑紫へ左遷せられたまふ、然
も御神にハ無実の罪なるに、其方ハ父の罪科の身に及ぶしものなれば、決して無
罪とハ云ひ難し、依て苟且にも、公を怨むなどの心得違ひある可らず、然し自ら
犯せし罪あるにもあらねば、頓て恩免の御沙汰ある可れば、其時こそ再び相見る
事もある可れ、返すがへすも身を大切に持て、自ら病を醸す可らず、顕基の中納
言殿とかいふ風流の君にハ、罪なくして配所の月を見ま欲しと仰せられ、又顔回
とかいふ賢者ハ、水を飲み、肱を曲て、睡る中にも楽ハありとか云ハれしとかや、
顕基朝臣の風流を心として、顔子の楽を楽み、心長に恩赦の時を待候へ、など細
々と意見しければ、常太郎は涙の顔を擡て、母公の御訓誡、一々肝に銘して忘れ
候ハじ、仰の如く十六歳に至れバ、遠流の身となる事は、予ての覚悟、巳に前年
おん手に掛て相果つ可きの命を、今日迄長経ミなれバ、流罪は偖置き、斬首の刑
に処せらるゝとも、遺憾にハ存ぜねバ、卑怯し振舞をなして亡父や母公の御名を
汚す如き事は致さねバ、此段御心安かれ、又島に至し後も、十分品行を謹て、身
を大切に守る可れバ、小生にハ御懸念なく、母公こそ御養生第一に奉祈る、頓て
恩赦の時に逢ふて、青天白日の身となり、再び恙なき御尊顔を拝す可れ、只返す
/\も遺憾なるハ這へバ立、立バ歩めの御介抱に成り、やゝ物心をも覚えて、今
よりこそ形バかりなる御孝行をも致さんものと思ふ間もなく、御傍を離るゝ事こ
そ悲しけれ、と又もや其処に平伏て、涙に袖を湿すなる、
孝子の悲嘆に母親も、耐え兼たる恩愛の、涙に膝を沾しつゝ、暫時言語もなかり
けり、
暫時ありて、常太郎は落る涙を掻払て、雪江と健三郎に打向ひ、雪江よ今聞く通
りの訳にて、此兄は明日より遠き処へ行く成れバ、其方は吾等に成代て格別母公
に孝行をつくせかし、又健三郎も其通り、明日よりは頑囂を止て沈着うなり、母
公に御苦労を掛まゐらせぬ様、心をつけねばならぬぞよ、其方も此兄の年に成れ
ば、矢張兄の居る処へ来ねばならぬ故、夫迄の間に文学武芸共普通覚て置ねばな
らぬ身の上、兄も居らずなりしとて、毎夜の通学をバ、呉れ/\も惰らぬやうに
せよ、と謂れて、雪江は女子気の只悲さに胸迫り、思ふことをばいへバ、江に岩
間の清水、それならでせきくる涙とゞめかね、あいと返辞も泣く計り、
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源顕基
(1000−1047)
顔回
(前521-前490)
中国,春秋時代
の儒者、字は子
淵。孔子の第1
の高弟。家貧し
くとも道を楽し
んだという
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