Я[大塩の乱 資料館]Я
2019.2.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


なにはいぶん  しほの なごり
「浪華異聞 大潮余談」
 その20
宇田川文海 (1848−1930)

『絵入人情 美也子新誌 第8号』所収 駸々堂 1882

◇禁転載◇

 第8回(2)管理人註
  

又何処の島へ流さるゝとも、其処に至らば公の制法を能守て、身の行を慎み、多 くの流人の表準となる人と成て、流石ハ利三郎の忰程ありと云はれ賜へ、喩へ申 すも最恐惶き事ながら、管原の御神の賢明きすら尚筑紫へ左遷せられたまふ、然 も御神にハ無実の罪なるに、其方ハ父の罪科の身に及ぶしものなれば、決して無 罪とハ云ひ難し、依て苟且にも、公を怨むなどの心得違ひある可らず、然し自ら 犯せし罪あるにもあらねば、頓て恩免の御沙汰ある可れば、其時こそ再び相見る 事もある可れ、返すがへすも身を大切に持て、自ら病を醸す可らず、顕基の中納 言殿とかいふ風流の君にハ、罪なくして配所の月を見ま欲しと仰せられ、又顔回 とかいふ賢者ハ、水を飲み、肱を曲て、睡る中にも楽ハありとか云ハれしとかや、 顕基朝臣の風流を心として、顔子の楽を楽み、心長に恩赦の時を待候へ、など細 々と意見しければ、常太郎は涙の顔を擡て、母公の御訓誡、一々肝に銘して忘れ 候ハじ、仰の如く十六歳に至れバ、遠流の身となる事は、予ての覚悟、巳に前年 おん手に掛て相果つ可きの命を、今日迄長経ミなれバ、流罪は偖置き、斬首の刑 に処せらるゝとも、遺憾にハ存ぜねバ、卑怯し振舞をなして亡父や母公の御名を 汚す如き事は致さねバ、此段御心安かれ、又島に至し後も、十分品行を謹て、身 を大切に守る可れバ、小生にハ御懸念なく、母公こそ御養生第一に奉祈る、頓て 恩赦の時に逢ふて、青天白日の身となり、再び恙なき御尊顔を拝す可れ、只返す /\も遺憾なるハ這へバ立、立バ歩めの御介抱に成り、やゝ物心をも覚えて、今 よりこそ形バかりなる御孝行をも致さんものと思ふ間もなく、御傍を離るゝ事こ そ悲しけれ、と又もや其処に平伏て、涙に袖を湿すなる、 孝子の悲嘆に母親も、耐え兼たる恩愛の、涙に膝を沾しつゝ、暫時言語もなかり けり、 暫時ありて、常太郎は落る涙を掻払て、雪江と健三郎に打向ひ、雪江よ今聞く通 りの訳にて、此兄は明日より遠き処へ行く成れバ、其方は吾等に成代て格別母公 に孝行をつくせかし、又健三郎も其通り、明日よりは頑囂を止て沈着うなり、母 公に御苦労を掛まゐらせぬ様、心をつけねばならぬぞよ、其方も此兄の年に成れ ば、矢張兄の居る処へ来ねばならぬ故、夫迄の間に文学武芸共普通覚て置ねばな らぬ身の上、兄も居らずなりしとて、毎夜の通学をバ、呉れ/\も惰らぬやうに せよ、と謂れて、雪江は女子気の只悲さに胸迫り、思ふことをばいへバ、江に岩 間の清水、それならでせきくる涙とゞめかね、あいと返辞も泣く計り、


















源顕基
(1000−1047)


顔回
(前521-前490)
中国,春秋時代
の儒者、字は子
淵。孔子の第1
の高弟。家貧し
くとも道を楽し
んだという


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