爰に青柳の河内国石上古市村に毛谷村善兵衛といふ百姓ありけり、一人の娘あり
うまれつきさかし きりやう ひとなみ
て其名をかねとなん呼びける、性質怜悧く姿色も普通なれバ、然る可き縁を求め
むこ
て嫁にやらん者と婚選みして、二十を一つ過る年迄家に養置きしに、日蔭の豆も
は じ
時の来れば発生けると、世の諺にも云ふ如く、おかねハ父母の許しを待兼てや、
い つ わり ちぎり
同村なる仙太郎と云ふ若者と、何日しか理なき契を交し、夜な/\人目を盗居り
す ゑ
しが、其結果遂に仙太郎の胤を身に宿せしかバ、おかねの憂ひハ更にも謂はず、
かく かく たとへ
父善兵衛も此と知て痛く打腹立ちしかど、今更兎や此云ふも十日の菊の比喩に漏
あだしむら
れねバ、せん事なくて、おかねを他村なる去る親類の家に預遣はし、彼仙太郎の
しか/\ つや
許へ事云々と懸合ひしに、仙太郎は薄情にも、今更不実なる挨拶のみして一向取
かゝ ひと
合はねば、善兵衛は殆ど愛想を尽し、此る畜生に斉しき男ハ、最早思切りねと、
げ ふ つ
篤くおかねに諭せしが、おかねも実にもと悟て、其後仙太郎の事をバ断然に思絶
やもめ く ら
え、その子を産落すと、間もなく仙太郎の不実に懲りたれば、生涯寡婦にて活計
たつき
す可けれと言張て、去る人に枢機を求め、同国弓削村なる豪農西村利三郎方へ乳
母奉公に雇はれ、利三郎の三男健三郎(そのとき一才)に乳を飲せしは、天保六
年の夏のことにて今より四十七年の昔なりけり、
そも
抑このおかねの雇主西村利三郎(そのとき三十八才)と云ふ人は家業の農事をば
ひたすらこのみ わざ
少も心に懸けづ、幼年より文学武芸の両道を只管好て、其業にのみ身を委ね、文
学はその頃大坂にて有名の学者与力大塩平八郎の門に学びて、陽明良知の学を窮
めしが、所謂る一を聞て十を知るの才あれば、遂に塩門四哲の其一に数へらるゝ
までの人物とハなりにけり、
とみうえ うえじに 利
時に天保八年、饑饉て米価非常に騰貴し、貧民餓死せんとす、治三郎の師なる大
塩平八郎、之を憂て一策を設け、府下の富商に金を出させて、之を救ハんと欲し、
其子格之助をして時の町奉行跡部山城守に説かしめしに、山城守之を聞て悦バす、
たちどころ ゆる
即時に平八を召し、病を以て辞すれども敢て聴さず、強て迫て面前に呼出し、大
うゑ もとよりかんがへ こと いんきよ み
声に罵つて曰ふ、荒を救ふ事ハ我自成算あり、豈汝の言を待んや、告老の人とし
ですぎ かきつけ おもて
て職を越て事を言ふハ、跋扈たる振舞なり、と平八が捧けし牘を取て平八の面に
なけつ しりべ
放榔け、其子格之助に命じて平八を引去らしめ、尚も後より罵つて曰ふ、
【図 跡部山城守と大塩平八郎の対座 略】
おぴやか ぜにかね
聞く所に拠れば、汝ハ近頃貧民を救ふを名として、富民を威劫し、多くの銭穀を
うわさ
借るとの説なるが、病のために心を奪ハれて、狂気バし致せしか、と平八之を聞
いかり やつがれ つかま きでん きちがひ
て憤怒に耐かね、下官未だ狂気ハ仕つらねど、閣下狂人と仰せらるゝならバ、狂
人に成て御目に懸けん、と已に刀の柄に手を掛けしが、格之助に抱止られて、漸
ひそか
く家に帰り、是より門を閉して、自ら其罪を責る体に見せ、密に門人を集め、且
怒り、且嘆じて曰ふ、
禄
四海困窮せば天録永く終らん、
又曰く
をさ し
小人をして国家を為め使むれバ災害並至ると、
あゝまこと かぞ やくにん おぼ まいない
吁信なる哉、此言や近年天災地変、挙て算ふ可からず、有司ハ酒食に没れ、賄賂
をほやけ うり
ハ公に行はる、吾豈坐して之を視るに忍びんや、とて蔵書一万巻を鬻て、金六百
すこやか えらみ
円に換へ、貧民一人に金一銖を施す事凡そ一万人、其内強壮なる者三百人を撰て
ふしん
其姓名を録し、此者共にハ別に吾家にて土木をなせば、其時必づ来て助けよ、謝
かはり
礼にハ金百疋を遣さん、と約束して置き、又天に代て民を救ふ文意の檄文を作て、
せつゝ かはち いつみ はりま ひそか な はかりごと めぐら
摂州河州泉州播州等に散布して窮民を煽動なし、陰に乱を作すの謀 を廻せしが、
あひだから
利三郎も素より師弟の交際、殊に慷慨激烈の気性ある者なれば、第一に之に与し、
頻に其陰謀をぞ助けゝる、
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