うつゝ さめ かの
夢と見て、現と覚て世の中を、つひ住捨る山科の、彼大石が詫住居、夫にハあら
ところ ものゝふ ちなみ る す
で此処ハ又、土地の名さへ武夫に、因縁も篤き弓削村なる西村利三郎が留主の家、
さ いや
軒端に開ける鎗梅の、花の匂に弥増さる、香ばしき名をうつせみの、世に流さん
いとなほ
と最直き矢竹、心の一筋に世の為人の為とのみ思込みつゝ、朝露の吾身ハ更なり、
こども わがつま い か
若草の妻や小児を春雨の、振捨行きし吾夫の、身の上如何にと案じつゝ、妻の菊
たより
枝(そのとき三十二才)ハ三人の、小児を守て昨日今日、便宜待つ身ぞやるせな
き、
いつゝ あたり
頃ハ天保八年丁酉二月十九日の朝五時頃、遥に大坂の方に当て、頻に大砲の音の
聞えければ、菊枝ハスワこそと長男常五郎(このとき九才)、長女雪江(たうじ
五才)、二男健三郎(たうじ三才)の三人に夫々衣裳を調へさせ、吾身も身軽に
いでたち いだか
装束て、常五郎と雪江の手を取り、健三郎をば乳母のおかねに抱せて、書院の椽
たゝかひ さなか
側に立出つゝ、西の方をば見渡せば、今や戦争の最中と覚しく、処々に黒烟の
のぼり
立上て、頻に大小砲の音するにぞ、
そなた ゆびさ みたり こども
菊枝ハ其方を指示して、三人の小児に打向ひ、彼火の手の様子といひ、烈き鉄砲
くはだて をつと
の音といひ、弥々大塩殿が兼ての企望を発し賜ひしと思ハれたり、定て所天利三
かけある
郎殿にも彼黒烟の中を奔走き、日頃の武勇を顕し賜ひて、世にも人にも優れたる、
も をなご いましら
功名手柄を成し賜ハん、吾身若し女子に非ず、又汝輩も今少し背丈の延てあるな
らば、父御の伴して身を放ち、天晴功名せんものを、さハさりながら所天の矢に
たま のぞみ
にも丸にも疵附かず、命目出度望を遂げ、早く凱陣あるやうにと、勇みつ憂ひつ
たゞそなた なが ひるげ
余念なく、是其方のみ詠めやり、昼食の時さへ打忘れ、立尽すこそ道理なれ、
かく
いりあひ
此て其日も暮近く、日ハ山の端に入相の、諸行無常と告渡る、兼て忠義の忠助が、
いきせき つゝくは め
息喘帰り、北向なる玄関前に蹲踞ひ、御新造様、忠助奴で御座り升、只今罷帰り
びつくり
升た、といふ声聞より、予てより待設けたる菊枝ハ、吃驚、ナニ忠助が帰りし、
みのうち ど ろ
といひつゝ三人の小児諸共其儘其処も立出て、忠助の顔吃度詠め、身体一面塵泥
まぶれ いとあはたゝ をつと
班点、然も色さへ青醒て、最急遽しき其方の様子、良人の安否も心許なし、今日
いくさ ど う そゝ ぐわんせ
の戦争の摸様ハ如何ぢや、早う語りや、と心も坐ろ、常五郎は頑是なく、コリヤ
とゝさん
忠助よ、父様のお手柄遊ばした話をせへ、と云へば、雪江も見やう見真似、サア
/\早う、と右左、忠助ハ力なげに、今日の戦争の一部始終、又旦那様のお身の
いで
成行き、詳しくお話し申さん為め、危き中をば逃延て、漸々帰りし忠助奴、出物
語らんと坐を搆へ、
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