Я[大塩の乱 資料館]Я
2019.2.16

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「大塩の乱関係論文集」目次


なにはいぶん  しほの なごり
「浪華異聞 大潮余談」
 その22
宇田川文海 (1848−1930)

『絵入人情 美也子新誌 第8号』所収 駸々堂 1882

◇禁転載◇

 第9回(1)管理人註
  

           うなだれ 暫時ありて、那の乳母は頂重し頭を徐に擡げ、人の心も知らないで、暇さへあれ                   どうぞ ば三味線三昧、アノマア面白さうな事、情願一日半日でも、彼人達のやうな気に なつて見たい、アノ西村様の奥様が、三人と云ふお子様を抱て、寡婦活計御苦労 なさるを、見るに見兼て、一生涯お傍に附添参らせん、と心を定て、此年頃奉公 大事と勤め居しに、菊枝様には中々に夫を不便と思召され、御長男常太郎様が隠 岐国とかへ御遠島に成りし其夏の初に、次男の健三郎も最早十にも成り、姉の雪 江も少しは妾の手助になるやうにも成りたれば、妾も大きに気安く成りぬ、夫に 就て案じられるはお前の身の上、何日が何時迄妾のやうな日蔭者に奉公して居た からとて、迚も末始給の見込もなし、女子は三従、といふ世の教訓もあるなれバ、 左まで老朽ぬ中に、然るべき縁を求め、良人に従ひ、子に従ふ終身の計策を立ね ばならぬもの、然るに其方の真実の嬉く、又妾の為に都合の好ければとて、何日 迄此して傍におくのも余り心なしの仕方、と此気が附て見ると、気の毒やら不便 やらで、一日も此儘にしておく事の成らぬ成た程に、情願少しも遠慮なく、相当 の縁を求て方附きてよ、と度々の御説諭、 最初此方へ御奉公に上りし其日より、生涯お家の御厄介に成度い私の願ひ、夫に 又今の御貧苦を他に見て、如何マア外へ縁附かれませう、今更身の落着を計る位 ならば、八年以前のお家の大変、多くの朋輩にお暇の出た彼時に、一処に里方へ 帰り升、と幾度御辞退申しても一向聞かれぬ例の御気象、果ハ御自身に奔走て、 御親類中へお頼み下され、漸々探した嫁入口、此処なら身上も良人の気性も言 分のない内だ から、兎や角言ハずに方附け、と強ての勧慫に、為術なく左様ならばとお請を申 して、嫁入したのハ其歳の、忘れもしない七月初め、夫から丁度丸三年、夫婦中 よく子設け、共に白髪の末迄もと、楽み暮した其甲斐もなく、僅か一年の立か 立ぬに、夫にも子にも死別れ、拠なく此家に雇ハれ、再び元の乳母奉公、三十に なるかならぬない其中に、二人の亭主と二人の小児ハ持ちながら、生別やら死別、 妾程果敢ない者ハない、夫に附て西村の和子様達、隠岐国に御在る常太郎様もお 傷しけれど、健三郎様ハ、お一の時より妾が朝夕抱守して、お乳を上げたる夫丈 に、最愛う思ふも又格別、本年ハ最早お十六に成られたれば、頓て常太郎様と同 じやうに、遠処へお流されになるであらふ、思へば誠に御不便な、とホロリと落 す一滴の涙に、見せたる心の真、暇を貰ふて五年余の、月日を過ても今に尚、古 き因縁を忘草、うちも忘で忍ぶ草、忍び出つゝ今更に、しづの小田巻くりかへし、 昔を今の独語、 折ネいきせき駈来る了髯、アノおかねどん、今お前に逢度いと云ふて、河内の柏 木村の忠助と云ふお方が尋て見えました、と聞くよりおかねハ気もそゞろ、ナニ 忠助どのが見えたとへ、今も今とて西村様のお家の事を思出して居た処ヘ、アノ 忠助どのが尋て見えるとハ、不思議なこと、今直に行き升から、店へお揚げ申し ておいてお呉れ、と謂れて了髯ハ、アイ/\と表を指して馳て行く、


   


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