Я[大塩の乱 資料館]Я
2019.2.17

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なにはいぶん  しほの なごり
「浪華異聞 大潮余談」
 その23
宇田川文海 (1848−1930)

『絵入人情 美也子新誌 第9号』所収 駸々堂 1882

◇禁転載◇

 第9回(2)管理人註
  

おかねは端なくも、西村親子の事を思出て心を傷る折しもあれ、以前吾身と同じ く西村家に奉公せし忠助の尋来りしと聞て、一度ハ喜びしが、又一度ハ若や主家 に変事にでもありしにや、と心密に危みつゝ、やがて己が部屋に忠助を呼入て、 互に一別以来の挨拶をすまするが否や、おかねは言を改めて、今日態々お尋ねあ りしハ、西村のお家に何か変りし事にてもありて、夫を知せにお出にハ候はずや、 と言へば、忠助小膝を進め、然ば其変事と云ふにハあらねど、阿嬢のお乳を上げ られし那健三郎様にハ、本年丁度十六にならせられし故、兄御の常太郎様同様、 隠岐の国へ遠島を仰付けられ、今日只今、本町橋の西御番所の、浜よりお船に召 さるゝ所なるが、余りの御不便さに、吾等只一人、責て安治川までもお見送申さ ん、とお傍に附添居たりしに、今お船に召さるゝといふ前に成り、吾等をお傍近 く召され、吾が一の時より十歳に成る迄、家の変をも憚らず、母と辛苦を共にし て、育呉れたる乳母のおかねが、幸ひ此大坂の新町南通り一丁目にて、席貸と云 ふ事を渡世にして居る、山本安兵衛(通名大安)と申す者の方に、乳母奉公をし て居る由なるが、娑婆の名残に、一目逢て、責て一言鞠育の恩の謝したければ、 其方大儀ながら新町の大安方まで行て、おかねに逢て吾が志を告け、成るべくは                                   ゆるし 此処迄同道して呉れよ、と思入たる其お言、早速警護の官吏に其旨を願て、免許 を受け、息を限りに馳参ぬ、 御都合好くば、今より直に彼処迄、と謂はれて、おかねは心も座ろ、今も今とて 和子様の事を思出し、本年は最お十六にお成り遊ばさるれば、頓て遠島とやらに おやられ遊バさるゝ事ならんが、思へば誠にお傷しい、と独語を申して居りしに、 さては虫が知せた事であつたか、お年も召さぬに、お情愛深く此乳母が、心計り の御介抱申せしを、今にお忘れ遊ばされず、逢て一言礼が言度とハ、アヽ恭けな や、お最愛しや、此様な賢い和子様を、遠い島根へおやりになる菊枝様の、お心 の裡ハマア、如何様なものと計り、思ハずワツと泣臥せしが、果敢なき愁嘆に時 刻を移し、時遅てハ甲斐なしと思直して立上り、サア忠助殿、御一処に、と店迄 出でしが、待て暫時和子様ハ兎も角も、多く警護の官吏の居併ぶその中へ、此形 にて行くも余りに不作法なり、且は汚穢しい老婆が暇乞に来しと謂はれてハ、和 子様にも御外聞悪し、と頓て西村家を去る折から、是は心計りの引出物よ、と菊 枝が与へたる小紋紬の紋附の小袖に着改て、髪撫つけ、いざと計りに立出る、昔 忘れぬ忠婢忠僕、おかねを先に忠助ハ、後に引添ひ喘ぎ/\、本町橋へと馳去け り


   
 


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