Я[大塩の乱 資料館]Я
2019.2.23

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なにはいぶん  しほの なごり
「浪華異聞 大潮余談」
 その26
宇田川文海 (1848−1930)

『絵入人情 美也子新誌 第10号』所収 駸々堂 1882

◇禁転載◇

 第10回(3)管理人註
  

母上や兄妹の無事息災、乳母が幸福をも祈らなん、此姥の人形をバ、彼来山翁が 風流の好事ならねど、其方と思ふて、言語相手とせん、名残ハ尽ねど、最早出帆 の時刻とあれバ詮方なし、今ハ其方も罷るべし、再会の折迄ハ、堅固で暮せよ、 忠助も無事にてあれ、と謂はれて、おかねハ今更に、又悲しさも弥増して、和子 様にも御機嫌好う、と云ふも涙のおろ/\声、 忠助も、先刻より二人が切なる物語を傍聴して、貰ひ泣き、彼方様にも御堅勝と 云ふより外に言もなし、心なき警衛の小吏も主従の情愛厚きに感じて、密に袂を 沾せしが、最早好時機なるべし、と態と言を改めて、出帆刻限にやゝ時晩れたれ ぱ、名残ハ尽ざる可けれど、最早罷立れよ、と二人に向て催促するに、今ハおか ねも忠助も詮方、涙片袖に押へなからに、本舩を下りて、小舩に乗移り、元の浜 手に帰着き、陸へ上るを塗炭にて、彼の本舩ハ真帆引揚げ、沖を指してぞ漕出で ける、 おかねハ之を打見やり、如何にも御名残の惜ければ、責て御舩の見ゆる限りハ見 送らん、と忠助より先に立て、浜伝ふ舩を遂行くともなく、歩むともなく、天保 山の下迄慕行き、仮令公儀の法律にもせよ、父上利三郎様が罪を犯し賜ひしその 折ハ、未だ三歳の頑是なき御身にて、何事をも知し召さぬものを、今更大罪人の 子なればとて、遠き島根へ流し賜ふとハ、余りと云へば情愛なき御取計ひかと、 怨つ詫ちつ、其舩の見知る限りハ立尽し、足摺りしつゝ嘆磋しは、彼の小夜姫が 良人狭手彦の唐土に行くを悲ミて、領振し昔も思出されて最憐なり、 因に云ふ、一説に健三郎が遠流に処せられしハ、嘉永二年五月十八日にて、十五 歳の時なり、 又この日、母親菊枝も娘雪江の手を引て、本町橋迄見送りに来り、諸見物が健三 郎を見て、アノ美少年が大塩の徒党の子で、島流しにされるのださうな、他人の 吾々さへ不便に思ふに、其親達の見るならば、唯悲しからう、不便なと云ふを聞 て、思はず声を挙げて泣しとか、 又前章に兄常太郎と同じく隠岐へ流されしと誌せしが、隠岐にハあらで、五島へ 流されしものにて、即ち流人の迎ひに出来りし役人の名前は、真号弥五郎と云ふ 者なりしと、此弥五郎は、流人など取扱ふ者には珍しく、慈悲ある人物にて、お かねが健三郎に対面願を聞届けしも、此人の取計ひなりとゆふ


   
 


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