和田の原、八十島掛て漕出でぬと、人にハ告げよ、蜒の釣舩、とハ、参議篁郷の隠岐
の国へ流され賜ふ時、舟に乗て出立つとて、京なる人の許へ遣ハし賜ひける和歌なり
とかや、
話頭分岐却説、西村健三郎は嘉永二年五月十八日、浪花を舟出して、風に従がひ、潮
に引かれ、いつを果とも知らぬ火の、筑紫を指してぞ洶れ行く、昨日迄ハ母に親み、
姉に睦みて、世の憂き事をも知らざりし身の、今日ハ昼さへ暗き檻の内に、只一人居
て物言替す友とてハ、物の憐も得知らざる羅刹に斉しき囚卒のみ、
偶々檻窓を開きて、眼を放てハ、只渺々たる蒼波と、彷彿たる青山のみ望に入り、時
として耳に触る物ハ、洲崎に騒ぐ千鳥の声の、暁の怨を増し、磯間に掛る楫の音の夜
半の心を傷むる計りなれバ、心細きの限りなく、海士の焚く藻の夕煙、尾上の鹿の暁
の声、渚々に寄る波の音、袖に宿れる月の影、千草に鳴く蟋蟀、総て目に触れ、耳に
触るゝ事、一つとして哀を催し、心を傷めずと云ふ事なし、と昔の人の綴りたる筆の
文も、今ハ吾身に摘されて、悲さ謂ハん方もなければ、母と兄姉との身の成行き、吾
身の行末など、夜昼となく思ひ遣りつゝ、犯せる罪も、あら波の寄する嶋根に流され
の身の悲シサハ、菅原の神ぞ、昔に思ひ知り、一入不便と見そなハすらめ、と只管天
満天神をのみ心に念じて居りしが、只不幸中の幸ひともいふべきハ、囚卒の長なる真
弓弥五郎ハ、此る職務を為す人にハ珍らしく、極めて慈悲ある武士にて、健三郎が年
少く、殊に罪なくして流人の身となりしを痛く哀み、此人ハ尋常一様の流人ならねバ、
其心して丁寧に扱ふやう、と囚卒共に云付けて、三度の食事ハ、己が食物を分て喫さ
せ、起臥の介抱も最懇ろに扱ひ呉るゝのみか、馴れぬ舩路にさぞつれづれなるべけれ、
と折々ハ茶や菓子などを与へて、大塩の事ハ定めて母より伝聞て居るならん、
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