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気臆して居る丈を語れかし、など其余種々の物語をさせしに、世に稀なる才子なれバ、
弥五平ハ愈々不便の者に思ひ、心の限り慰撫りける、
斯て海上恙なく其月の廿九日の朝亦明に、肥前国五島の浦にぞ着にける、
柳も五島の規則にて、流人あれバ、一村の庄屋に一人宛を輪渡すことなるが、爰に該
島の吉田村に金正と云ふ人ありけり、元ハうち日さす京都六條の辺なる、或る浄土寺
の住持にて、鶴の林の茂きを分き、鷲の嶺の高きを仰ぎて、出離生死の要道を修し、
道心堅固の聖僧なりけり、
然るに年尚三十に足らぬ程にて、未だ肉体の欲の全く去りやらねバ、一日不図一椀の
盤若湯に浮されて、祇園の花に遊びしが、坐に連なる絃妓舞妓の、美にして艶なるハ、
天女の天降り、歌舞の菩薩の来迎するかと怪まれ、盤に堆き水陸の佳青ハ、百味の飲
食にも弥増るべく、瓶に溢るゝの美酒は甘露、醍醐もかくやと思ふ計り、其余家居の
壮観なる調度の綺麗なる生活ながら、極楽浄土に至りて天堂の快楽を受るに思ならね
バ、爰に始めて温柔郷裏の楽み、花柳社会の興を知て、其後ハ道心日に微に、人心日
に危に陥りて、果ハ御仏に向へば、絃妓舞妓の面影の目に浮び、鉦木魚の響ハ、琴三
絃の声に聞なさるゝやうなり、一日片時も寺にハ心の落着かで、夜となく日となく、
祇園の其楼にのみ流連なしつゝ、吾吉水の僧正すら松と時雨の染兼ねて、まくづが原
に風さわぐとハ仰せられしものと、況て学行両ながら未熟なる全正如き者の、聊か酒
色に惑溺るゝとも、三世の諸仏も黙許したまハなん、抔吾身勝手なる道理を附て、今
ハ何故に世をば背きしと、折々吾墨染の姿に惚る心もなくなり、寺務法要、両ながら
放擲て、只管遊興にのみ心を奪はれしが、遂に此事其筋に聞えて、破戒の罪を糺され、
遠嶋の処刑を蒙りて、前年此島へ漂流されしなり、
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出離生死
(しゅつり
しょうじ)
悟りを開いて
生死の苦海か
ら脱すること
温柔郷
遊里、花柳界
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