Я[大塩の乱 資料館]Я
2019.4.1

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「大塩の乱関係論文集」目次


なにはいぶん  しほの なごり
「浪華異聞 大潮余談」
 その37
宇田川文海 (1848−1930)

『絵入人情 美也子新誌 第14号』所収 駸々堂 1882

◇禁転載◇

 第14回(1)管理人註
  

偖も健三郎ハ、図らずも金正の許に身を寄て、学問の世話より衣食の介抱迄、親にも 勝る恩恵を受け、流人といふは只名のみにて、何一不自由といふ事もなく暮し居りし が、金正ハ日月と経るに随ふて、弥々健三郎の才気と其温厚なるを愛し、往々は吾家 の養子にせんものと、学問の外に己が好める囲碁、茶の湯、庭造の業をも教へけるが、 健三郎ハ諸芸共に能く出来、就中庭作の業に巧みなれバ、十八の年より金正と共に、 五嶋侯のお庭に入込み、木を栽ゑ、石を移し、池を鑿りなど、日々に其業に従ひしが、 素より世にも稀なる美男なるに、然も気高き生れなれバ、役人達の目に留り、庭作り にハ珍らしき人物なれとて、漸次に物言替す人も出来たりしが、何れも其才気勝れた るに、舌を巻き、時に鈴木氏お庭方の金正が弟子なりとて、此頃日々お庭に参り居る 健三郎と云ふ者を御覧なされしか、 イヤ中村氏の仰せ迄もなく、拙者疾より懇親に相成しが、彼は大塩の加担人西村利三 郎と云ふ者の忰なる由、流石学者の子程ありて、読書算術とも好出来、当藩中の少年 輩には彼程の才子ハ恐らく御座の升まいの、 左様で御座るか、拙者は其処迄の吟味は行届き申さず候へども、美少年といひ、殊に 言語応対も平凡の職人共とは事変り候ふ故、聊か不審に存知居候ひしに、貴殿のお語 談を承つて、始て疑念が晴れました、 夫程の才子をアヽして庭作位を致させて置のハ、惜い者で御座る、抔と表方にて喋々 噂をするのみならず、奥向にても女中の面々が、近来お庭へ参る職人共の中に、健三 郎といふ者が居り升が、丸で歌舞伎芝居の蓑作のやうで、御座り升ねへ、ソシテ役者 は標致の好い計ではなく、学問も算術も大層能く出来ますと、夫も其筈、大塩とかい ふ謀叛人に組した西村といふ者の子ださうでござります、あのやうな戦い事をさせて 置のは、誠に可愛さうなものでござり升、と寄合さへすれバ、口々に健三郎の評判の みする故、遂には家老用人より殿の御聞にも達しさる、

蓑作
「本朝廿四孝」の
蓑作(武田勝頼)か











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