人間万事塞翁が馬とかや、
偖も菊枝ハ、知らぬ火のつくしの尽処の一孤島に、憂き歳月を重ねつゝ、世の楽をも
白波のよする渚に藻塩たくその海士の子と諸共に、宿も定めず居るならめ、と朝夕心
を悩ませし、最愛吾子の健三郎が、殿の抜擢に預りて、人なみ/\に世を送る、と知
せの音信の其上に、尋ねて来よとの文をも得て、手の舞ひ、足の踏み処を忘るゝ迄に
打喜び、直ちに支度を調へつゝ、良助男の舩に乗込みしが、海上恙なく廿日余の日子
を経て、五島の浦に舩ハ果てぬ、
斯と聞くより健三郎ハ、取物も取敢ずして出迎へ、吾宿所へと誘帰りしが、菊枝ハ、
健三郎が長大なる男となりて、然も容貌より挙動迄、父の利三郎に其儘ながら、思ひ
しよりも老生て見ゆるハ、幾許の艱難をせし故なるらめ、と邂逅ふたる嬉さに、又恋
さの先立て、マヅ胸塞りつ、健三郎ハ又母の痛く憔悴たるその上に、髪をも断り、姿
をも変へたれば、其人とも見分ぬ迄老朽たるに、依頼なき世を過し給ひ、幾層の劬労
を重ねたまひし故ならめ、と是も亦漫ろに涙さしくみて、直に手に手を取替ハし、暫
時言葉もあらざらし、親子の心ぞ憐れなる、
偖も其後健三郎ハ、母の菊枝を心の限に遇待しつゝ、今日よ、明日よと日を送り、一
年余りを過せしが、其翌年の夏の初より、菊枝ハ島の気候に守られしが、不図病に罹
りて、一時ハ余程危険の症に陥りしを、五島の侍医集ふ診察を請ふて、種々療養の述
をつくせしがば、其年の秋の末に至りて、漸く其元に復しける、
如何にせし、都の春もをしけれど、なれし東に花やちるらん、
是ハ平の宗盛卿が愛妾熊野が親を慕ひて詠める歌なりとかや、
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