神楽の音に、常太郎ハ不図眼を覚し、此る物の音のするからハ、必ず近きに村あるべ
し、便りて有木への道を尋ねんものと、独心に勇を為しつゝ、笛太鼓の声を便りに、
麓の方へと疾行る、
折ネ眼尖く鼻高く、童顔仙骨なる一人の老僧、行手の木の間 露出で、常太郎に向て、
コヤ/\と声を掛け、足を疾めて進来るにぞ、
さてハ世の風説に伝聞くなる天狗とハ、此者ならん、よしや夫にもせよ、若も障碍を
為すならば、やはか平穏にしておく可きかと、刀の柄に手を掛けて、寄ば切らんと身
搆しハ、さすが西村利三郎の子程ありと、少年にハ最珍らしく、胆気勝れし振舞なり
けり、
老僧ハ此体を見て、莞爾笑ひ、ヤヨ少年よ、吾等を変化の種類と思ふて、其用心ハさ
る事ながら、我等ハ決して人に仇する者にあらず、御身が只一人道に踏迷て、此る山
中に時を移し、毒蛇悪獣の為に身を誤りて、事の最愛しさに、此ハ態々出来りしなり、
いざ給へ、村迄送りて参らせん、と謂ふ其様の如何にも慇懃に見ゆれバ、常太郎ハ漸
く心を安じ、夫ハ千万、辱けなし、此る山路の事故、若や山鬼天狗の種類かと、疑念
を起して、図らず失礼なる振舞を致せり、其段ハ幾重にも用捨ありて、情願道知辺を
願入る、と叮嚀に挨拶なし、是より其老僧に伴ハれて、龍灯会の見物に来りて、同伴
に外れ、思ハず道を失ひし事など物語り、十丁余も歩みしと思へば、最早有木村に着
きしかば、弥々心嬉しく、是よりハ己老僧の先に立て歩みつゝ、頓て岡部の家の前迄
来りしかば、道案内の謝礼を述べんものと、急に後を振廻れば、今迄有りつる老僧の、
影も形も見えざりけり、
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