Я[大塩の乱 資料館]Я
2019.5.11

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「大塩の乱関係論文集」目次


なにはいぶん  しほの なごり
「浪華異聞 大潮余談」
 その52
宇田川文海 (1848−1930)

18号』所収 駸々堂 1882◇禁転載◇

 第18回(2)管理人註
  

不思議の事に思ひつゝ、只今帰り候ふ、と声を掛けて内に這入れバ、清助ハ、先に帰 りて居り、下山の折に不図御身を見失ひ、夫より何程尋ねても、多くの人込の中にて 見分の附かねば、若や先へ帰て居る事もやと、空頼めして先刻立帰りしに、其事なけ れば、いよ/\案じ、若山奥に迷入て、不測の誤失の有りもせば、夫こそ此上なき大 事なり、今より家内の若者、且ハ村内の人々をも頼みて、尋索に行かんと、其支度を して居る処にてありしが、無事に帰て何より目出たし、と宛ら死せる者の蘇生りし計 りに打喜ぶにぞ、 常太郎ハ、山の奥に迷入りし事より、毒蛇に逢ひし事、又老僧に送られし事迄詳に物 語りしに、清助ハ之を聞て益々驚き、其老僧ハ、他国にて云ふ天狗、当国にてハ小禿 と云ふものにて、彼山にハ多少も住て居るなれども、是ハ決して人に害をなす者にハ あらず、木こり、草外などに行きし小童の、道に迷ひし者を送返せし事、是迄数々あ り、只恐るべきハ、彼の大蛇にて、之が為に一命を取られし者、此村に幾人もあり、 彼が目覚めぬ中に迯延られしハ、此上もなき幸福なり、と謂ハれて、常太郎ハ、今更 に寒毛卓竪つ思を為し、吾身の無事をぞ喜びける、 去程に、日月流るゝ水の如く、其年もやがて菊の花開く、重陽の節句近くなりしがば、 常太郎ハ、鴻雁那ぞ、北地より来ると唄ひし王勃が思ひ遍く茉萸を挿んで、一人を少 くならん、と吟ぜし王維の悲みも、頻りに吾身に摘されて、古郷の親兄弟妹の事、又 吾身の行末など日に/\思続け。流石年行かぬ身も心、更に浮立たず、吾身ひとつの、 など吟じつゝ、只大空のみ詠め暮しすを見て、清助ハ痛く胸を悩し、年行かぬ人を無 事に暮らさすれバこそ、此く陰気にもあるなれ、

寒毛卓竪
身の毛がよだつこと


王勃
(649-676)
九月九日望郷台
他席他郷送客杯
人情已厭南中苦
鴻雁那従北地来









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