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不思議の事に思ひつゝ、只今帰り候ふ、と声を掛けて内に這入れバ、清助ハ、先に帰
りて居り、下山の折に不図御身を見失ひ、夫より何程尋ねても、多くの人込の中にて
見分の附かねば、若や先へ帰て居る事もやと、空頼めして先刻立帰りしに、其事なけ
れば、いよ/\案じ、若山奥に迷入て、不測の誤失の有りもせば、夫こそ此上なき大
事なり、今より家内の若者、且ハ村内の人々をも頼みて、尋索に行かんと、其支度を
して居る処にてありしが、無事に帰て何より目出たし、と宛ら死せる者の蘇生りし計
りに打喜ぶにぞ、
常太郎ハ、山の奥に迷入りし事より、毒蛇に逢ひし事、又老僧に送られし事迄詳に物
語りしに、清助ハ之を聞て益々驚き、其老僧ハ、他国にて云ふ天狗、当国にてハ小禿
と云ふものにて、彼山にハ多少も住て居るなれども、是ハ決して人に害をなす者にハ
あらず、木こり、草外などに行きし小童の、道に迷ひし者を送返せし事、是迄数々あ
り、只恐るべきハ、彼の大蛇にて、之が為に一命を取られし者、此村に幾人もあり、
彼が目覚めぬ中に迯延られしハ、此上もなき幸福なり、と謂ハれて、常太郎ハ、今更
に寒毛卓竪つ思を為し、吾身の無事をぞ喜びける、
去程に、日月流るゝ水の如く、其年もやがて菊の花開く、重陽の節句近くなりしがば、
常太郎ハ、鴻雁那ぞ、北地より来ると唄ひし王勃が思ひ遍く茉萸を挿んで、一人を少
くならん、と吟ぜし王維の悲みも、頻りに吾身に摘されて、古郷の親兄弟妹の事、又
吾身の行末など日に/\思続け。流石年行かぬ身も心、更に浮立たず、吾身ひとつの、
など吟じつゝ、只大空のみ詠め暮しすを見て、清助ハ痛く胸を悩し、年行かぬ人を無
事に暮らさすれバこそ、此く陰気にもあるなれ、
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寒毛卓竪
身の毛がよだつこと
王勃
(649-676)
九月九日望郷台
他席他郷送客杯
人情已厭南中苦
鴻雁那従北地来
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