常太郎ハ茶と菓子とを取りて、恭く押戴き、例もながら御懇切なる御賜物、恭なう頂
戴致す由、御身より宜しう御礼を申してよ、と四角四面なる挨拶に、流石のおさきも
言寄る術なく、尚も一二江湖雑談をなして、暫時々を移せしが、頓て常太郎ハ言葉を
改め、おさきどの、織江様にハ来頃御病気にて、御引籠の由なるが、御風邪にてもあ
る事か、と何心なく問掛けしを、爰ぞとおさきハ膝摺寄せ、当座の御病気なれハ、好
けれども、旦那様の様なる御名医でも、又有馬、草津のやうなる名湯にても癒しかぬ
るといふ手重い御病気故、誠に御案じ申すなり、と聞きて、常太郎ハいよ/\驚き、
医術にても湯治にても癒しがたなき御煩とハ、夫ハ又如何なる御病気にや、と問へバ、
おさきハ声を密め、小娘に小袋とやらの世の喩、まだ小女よと思居りしに、何時しか
春情のつき給ひて、此間より去人に懸想なされ、其物思の慕りしより、遂に想思病を
差出し給ひしなり、と云へバ、常太郎ハ眉を顰め、想思病に疾み給ふ程深く懸想せし
人なれは、何とて御両親に打明けて、婿君にハ做給ハぬ、但恋ハ思案の外とか云へば、
身分の不釣合にて、迚も明白にハ調へ難き事情あるにや、
否々流石に村上先生の嬢様とて、業体の賤き男抔を思染め給ひしにはあらで、御両親
にも予て其おん方の才学を愛で給ひ、情願して織江の婿にもが、ふと折々寝物語にし
給ふ程なれバ、夫に差支ハなけれども、少し外に故障ありて、其事の遂げられぬより、
嬢様にも思煩ひ給ふにこそ、
夫ハ誠に御不便の至なり、若織江様の其病の募りて、不測の事にも成り給ハヾ、夫こ
そ悔みても帰らぬ事なり、如何なる故障か知らねども、某、先生に此理を説きて思を
遂げさせ参らせん、シテ其恋人ハ何人にや、決して他言ハ致さぬ程に、拙者の心得迄
にお漏しあれ、と真面目に成りて尋ぬれば、おさきは、莞爾打笑ひ、其恋人ハ別人な
らず、則ち貴卿に侍るなり、と断然云ハれて、常太郎ハ不意に匕首にて咽を刺され、
短銃にて胸を打たれしも此や、と思ふ計りの驚きにて、ナニ恋人ハ某とな、と思ハず
高く叫びけり、
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