Я[大塩の乱 資料館]Я 2000.7.17訂正
2000.5.20

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 事 件 と そ の 影 響」
その1

有働 賢造 (1907〜1945)

『江戸時代と大阪』 大阪宝文館 1943 所収


◇禁転載◇

は し が き

 天保八年(皇紀二四九七年)大阪に起つた大塩の乱は、都市の打毀しや農村の百姓一揆等とその趣きを異にし、寛永の島原の乱若くは慶安の由井正雪の乱等と並んで、江戸時代の歴史に波瀾を添へてゐる。乱の規模に於ては、前二者と比較し格別強調せらるべきものはないが、その内容には歴史的意義の深く顧みらるべきものが存してゐる。而もその影響が、当時の人々のみに止らず、遥か後世の人々にも及び、これらの人々に現実的な感銘と興奮とを与へてゐることに於て特に興味深いものがある。


 天保の乱が何故に起り、又何を目的とし理想としたかは、挙兵の直前、摂・河・泉・播一帯の地に撒布された檄文の肉容が最も明瞭にこれを物語つてゐる。その全文を引用すれば、

 

 檄文は、先づ幕府の秕政によつて四海困窮に陥れる旨を論じ、斯かる一般の窮乏にも拘はらず、奸吏貪商の不正止まざるを痛憤し、仔紬に亘り具体的な事実を挙示してこれを弾劾し、これらの腐敗分子に天誅を加ヘ、義を天下に布くために挙兵の止むなきに至った所以を陳べ、挙兵の上は大阪市中富商の蔵慝する金銀米銭を窮民に散ずべきことを書き、今度の行動が一己のために出でたものでないことを切言してゐる。

 檄文に於て激しい攻撃と排斥を受けてゐるのは奸吏・貪商であり、そのために生じた社会的弊害である。そこに激しい憤りが見られる反面に、斯かる社会の弊竇によつてより一層苦境に沈淪せしめられた窮民への深い同情が見え、乱がそこに大きな導火線を置いてゐることが知られる。この攻撃と排斥とに於て見られる破壊的な面と並んで、挙兵の理想ともいふべき建設的な面が檄文に於て披瀝されてゐることは、天保の乱が一揆・打毀し等と同列に論じ得ない点であつて、ここに乱の質と価値とを考へしめるものがある。即ちそれは、『天子は足利家以来別而御隠居御同様、賞罰の柄を御失ひに付、下民の怨何方へ告愬とてつげ訴ふる方なき様に乱候付』とか、『都て中興、神武帝御政道之通、寛仁大度之取扱に致し遣』とか、『天照皇太神之時代に復しがたく共中興の気運に恢復とて立戻り申すべく候』等と書くところに見ゆる皇政復古の理想である。彼が目前の世態を熟視し、これが救解の道を求め、次いで江戸時代に於ける皇室式微の事実を考へ、朝権恢復に時患解決の終局的目標を樹て、これを堂々と宣言したことは、檄文に於て最も注目せらるべき点である。

 併しながら、檄文には幕府打倒の文字は明瞭に記されてゐない。その打倒の対象は大阪の幕吏・富商であり、地域的に限界づけられてゐる。又復古の主張に就いても、建設的企図として詳細な説明が加へられてゐるのでもなく、また何故に皇政復古すべきであるかの理論の開陳も薄弱である。檄文が幕府打倒をいはず、専ら大阪に限られたことは、平八郎の生活が殆ど大阪を中心として営まれたことによるであらうし、より多く、当時の日本に於ては幕府打倒をいふ如き運動の日本的地盤とその横断的連鎖とが未だ存しなかつたことに負ふであらう。皇政復古に関する理論の開陳が薄弱であることも、簡潔明快を尊ぶ檄文の性質として敢へて避けられたものとすべきではなからうか。平八郎が皇政復古を呼号して起つたことは、乱の質と価値とを決定する重要な点であるが、然らばそれは、従来解釈されて来たように平八郎に与へた頼山陽の思想的感化として考へられてよいものであらうか。

 平八郎が、『一生之心血半在于此書』とした「洗心洞箚記」(乱に先だつ四年の天保四年刊)にも、彼の尊皇論若しは復古論に関する主張は不幸にしてこれを発見することができない。彼の著書にも特に尊皇論若くは復古論と看做すべきものは存しない。このことは彼の主張を頼山陽の影響であるとして過少評価する従来の解釈を導いたものであつたらう。平八郎は、「亡友陽山陽之序と詩とを箚記附録に入刻する自記」に山陽を評して、『余の山陽を善みするものは其の学にあらずして而て竊に其の膽にして誠あるを取る。*1』と書き、彼の人物に学ぶところのあったことを述懷してゐる。平八郎と山腸との交際は必ずしも長いものではなかつたが、平八郎にとって山陽は最も貴重な知己であつた。時々の書信に贈品に、信結の交りが続けられ、それは山陽の没する時まで及んでゐる。山陽が抱懷した経世の思想が、平八郎を喜ばせたものヽ一つであつたことは容易に推測しうるところである。併しながら、ただそうしたことだけが、平八郎の復古思想を培つたとするのは、固より危険であり、又考へ得られないことである。彼の著書が多く儒論に属し、復古思想を窺ふべきものが存しないからといつて、彼の主張が山陽の影響によるものとすることは到底許されないことである。平八郎は「洗心洞箚記」の成つた時、一本を富士の石室に収め、一本を伊勢朝熊山々頂に燔き、以て天照大神の神霊に告げ、更に一本を伊勢の神庫に献じた。檄文が撒布された時、祓札が添附されてゐたことも、彼の理想と無関係に考へられてはならないであらう。そこには彼の敬神思想の明白な表現がある。これこそは檄文に於て復古を主張し、朝権恢復を叫ぶ彼の理想と連るものであり、そしてそれは実に当時に於て国民的自覚にまで高められつつあった日本的思潮の顯現に外ならなかつたのである。

 平八郎が一処士の身を以て、牢固たる幕府政権に対して堂々皇政復古を呼号し、幕府政治の排撃・時弊匡救の徹底のために敢然たる行動に出たことは、天保の乱が一揆・打毀しの類とその質を異にする重要な点であり、この点に於てこそ、天保八年より三十年を距てて逐行された明治維新の大業との内部的関連を誇称することができる。



*1 岩波文庫「洗心洞箚記」附録 四五四頁

檄文」/ 「檄文」(画像)


有働賢造「大塩事件とその影響」目次その2

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