有働 賢造 (1907〜1945)
『江戸時代と大阪』 大阪宝文館 1943 所収
平八郎は幕吏として、即ち大阪東奉行所与力として世に起ち、殊に廉潔の誉が高かつた。その強烈な正義感は、吏務に処して、紀州・岸和田二藩境界問題の裁決・破戒僧侶遠島一件・邪教徒豊田貢の検挙・醜吏西組与力弓削新右衞門の逮捕等の困難な問題を解決した秋霜烈日の行実に示されてゐる。嘗て平八郎が奉行矢部駿河守と共に国事を談じた時、忠憤の余り怒髪天を突き、傍にあつた金頭(カナガシラ)を頭より尾まで一気にわりわりと噛み砕き、その所為の余りにも激しいのに家人をして吃驚せしめ、狂人と恐れしめたといふことであるが、この『悍馬の如き *2』性格の反映として、彼の果断な行実が生れ得たのである。頼山陽は彼を「小陽明」と呼んだが、その名に相応しい洗心洞裡の充実した精神生活は、その知見と人格とを益々光あらしめたのであつた。寛政異学の禁以来、王学はその姿を濳め、鴻儒佐藤一斎でさへ陽朱陰王主義をとつて世に隠れなければならなかつたのに対し、平八郎が陽明学の再興者を以て任じたのには、彼の独立不覈の精神が示されると共に、学問に対する信念が如何に徹底したものであるかを物語つてゐる。文政十一年十一月、王陽明を洗心洞学堂に祭る文に曰く、
天保元年七月、平八郎は致仕して、専ら洗心洞に想を練るの境涯を迎へた。
彼は致仕に際して、
彼の致仕は矢部駿河守(管理人註・高井山城守)とその進退を共にしたのであつて、決して公務上の失態等に起因したものではなかつた。而も致仕の時猶三十七歳の壮齢の身であり、その溌溂たる生気は恐くや講壇生活のみを以て彼を満足せしめなかつたであらう。与力として縦横の手腕を揮つたその生活体験も、彼にとつて断ち難い絆となつたことであらう。加ふるに彼が操守する陽明学の実践的性格は、学問と社会との相関的契機に関しては不断に彼の反省を強ひたのではなかつたらうか。『学術陽明にて記誦詞章の徒と大に懸隔』と猪飼敬所は彼を評していつた。而も時代は社会の各方面に末期封建社会の様相を露呈してをり、この時代相は彼の社会的関心を不可避のものとし、平和なるべき洗心洞裡の生活に波瀾と生気とを添へしめなければならなかった。 文政十二年播州に百姓一揆が勃発し、その巨魁が尚縛に就かず、遠近大いに相警しむることがあつた時、平八郎は時事を論じて、時勢の憂ふべく吏の自戒すべきをいひ、その論辞激越、ために周囲の人々を驚かしたと伝えられてゐるが、このことは決して吏としての彼に於てのみ見らるべき事柄ではなかつた。政治談は彼の殊に好むところであつたといはれるが、それは実に知行合一・真知実践を理念とする陽明学信奉の徒として当然の帰結と見るべきであり、従つてそれは陽明学と共に彼に具存すべきものであつた。学問的信念に基礎づけられたこの情熱が、致仕と共に忽然として取去られるといふ如きことは到底理解し得られないところである。 平八郎に宛てた角田簡の書状に、
天保七年二月から全国各地とも洪雨に襲はれ、六・七月の交に二尺に逹する雹が降り、五穀実らず、暴風打続いて田稲悉く流蕩し、米価は銭百文に付て三合乃至二合五勺に暴騰し、忽ちの間に飢饉となつた。奥羽地方は殊に甚だしく、草根木皮はおろか、犬猫牛馬の類まで喰ひ盡し、餓死者数千人、『秋の末までは飢とよびて泣き叫ぶ声をきゝしが、のちにはその声も絶えたり、路傍に斃れし餓■は犬など噛みちらし、血肉狼藉実に目も当てられずとなり。 *8』といふ惨状を呈するに至つた。この頃平八郎は屡々天文を案じ、深く山中に入らんとするの意さへ洩したといふ。天保七年秋平八郎は播州甲山に遊び詩二首を詠んだがその一に曰く、
(中略)
米穀払底に付、前にもいへる如く厳重に津留仰渡されし事なれば、大阪三郷を離れし所へは、米穀を出す事成難きに、在所々々は何れも年貢・飯米等差支へぬ程なれ共、之を買入るゝ手術(テダテ)もなく、又市中続きの在領福島・北野・曾根崎新地・難波新地などの在町等は、市中よりは売らず、在々よりは出さざる故、何れも米の手当むつかしく、多くの金銭貯へし身分にて も困じ果てぬる由なれば、下々の困窮思ひやられぬる事共なり、先逹て迄は行倒の乞食日々十二三人になれると聞きぬるに、近き頃よりは日々四十人宛になれぬる由、真実の乞食は幼年の頃よりして飢渇・寒暑等にもよくよくなれぬる事なれば、飢死するも少くして、定めて貧人共の暴(ニハカ)に乞食となれる者の、飢渇に苦しみ風寒に犯されて、道路に倒死せるならんと思はる。憐れむべき事なり。悪党なる真実の乞食等は、餅・饅頭など商ふ家の店に立ちて、十人許りも一群になりて餅・饅頭抔を取喰うて払へ共去らず、打擲に遇へるをも覚悟にて斯かる業をなし、往来の人の手に持てる風呂敷包抔をも奪取り、白昼に斯くの如き有様なれば夜中の所行思ひやるべし。
(中略)
同四日 註、天保七年十二月四日 より六日迄日々微雪降りて、寒気近年になき烈しき事なる故、来年は豊作ならんと諸人寒さの堪え難きを悦びぬ。され共非人・乞食は申す及ず、貧窮なる者共の、飢寒に苦しみて死せる者共は日々に多く、盗賊・押入・追剥等益々甚しくなりて、盜賊方の役人の弁当を奪取り、履物を盜取りし事抔ありと聞く、其外白昼両替の店に到りて、金銀を掴取り走れる抔あり。斯かる様なれば巾着切又は往来にて人の手に 持ち、背に負ひぬる風呂敷包、又は赤飯・餅の類を配り歩く丁児・小女中の類をば、横面を張倒して奪取るといふ騒々しき有様なり、
(中略)
斯かる世間の様子なるに富田・茨木其外近在にて、酒屋其外町人・百姓抔に多くの米を買占め囲いぬる奸悪の輩ありて、数十人召捕られて入牢す、悪むべき事なり、又京都は大阪よりも米一升につき六七十文の高き事なる故、当所にて買はんと思ひぬれ共、津留にて其事成難き故、行李・葛籠・塩俵・風呂敷包等にして一斗・二斗・五升・三升宛の米抔隠しつゝ忍び々々に買登せしに、後には此事露顕しして、八軒屋其外船場々々にて取押へられ、数十人入牢せしといふ。*10
平八郎は奉行跡部に対する献策に解決の第一の方法を見出した。即ち嗣子格之助をして奉行跡部に対し、官庫を開いて窮民に給すべきを献策せしめたのである。再三の進言の結果跡部は彼の意見を納受したが、容易に実行に移さず、平八郎は頻りに施米断行を迫ったにも拘はらず、遂に拒絶せらるるところとなり、彼の期待は空しく潰え去らねばならなかつた。斯くして天保八年が迎へられ、窮状はより深刻となつた。饑饉に加へて悪疫流行し、大阪の死者一日に七八十人乃至百人、これに凍死者を加へて、旧冬より正月にかけて死者四五千人を出し、救民は愈々焦眉の急を思はしめた。斯かる周囲の状勢が、平八郎をして更に新なる対策へ奮起せしめたことは誠に当然であらねばならない。乱後縛に就いた平八郎の婢妾等の口書に、『平八郎平生 至りて気質堅く候処、当春より少々乱心の様子に相見え申候 *13』とあるのは、彼がこの頃如何に異常な関心を示したかを裏書きするものといへよう。天保八年正月、彼は自ら鴻池・加島等の富商に謀り、彼等の諸大名に対する金融を制限することによつて、大阪廻米の増加を促し、以て難民救済の資に充てんとした。この方法は、彼によつて企てられた第二の方法であつたが、これも亦富商と大名との反対によつて実施不可能となり、平八郎は最後の手段として鴻池その他の富商より金六万両を借り入れ、改めてこれを富商に提供し、これに相当する米を農民に払出し、八月までこの方法による救済を続け、農民は一石一匁の利子を附して三箇年間にその全部を償却せんとする方策を案出し、平八郎自らこれが責任者たらんとし、鴻池その他の富商を歴訪して、略々その内諾を得大いに喜んだが、幕吏の干渉するところとなり、この最後の方策も亦画餅に帰し去らしめられたのである。
救世の義魂に燃えて企てられた一切の方策が、幕吏・富商の遂に顧みるところとならず、平和的解決の希望が消え去つた時、平八郎の心頭に燃え上つたものは、『血賊の禍を犯し』一切の犠牲を超越して所志を貫徹せんとする悲愴な決意であつた。天保八年正月八日、平八郎を中心として門人三十名の洗心洞義盟は結成され、越えて二月二日、平八郎は蔵書五万巻を売つて近郊三十三箇町村の窮民を賑ははし、同七日妻子を離別して後顧の憂を断ち、十七日夜檄を四方に飛ばして、敢然挙兵の非常手段に訴ふるに至つたのである。