Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.17訂正
2000.6.28

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 事 件 と そ の 影 響」
その2

有働 賢造 (1907〜1945)

『江戸時代と大阪』 大阪宝文館 1943 所収


◇禁転載◇

 天保の挙兵は、決して唐突として平八郎によつて考へ出されたものではなかつた。この非常手段に訴へて救民済世の目的を貫かんと決意するに至るまでには、幾多の苦心と努力とが彼によつて払はれたのであつた。

 平八郎は幕吏として、即ち大阪東奉行所与力として世に起ち、殊に廉潔の誉が高かつた。その強烈な正義感は、吏務に処して、紀州・岸和田二藩境界問題の裁決・破戒僧侶遠島一件・邪教徒豊田貢の検挙・醜吏西組与力弓削新右衞門の逮捕等の困難な問題を解決した秋霜烈日の行実に示されてゐる。嘗て平八郎が奉行矢部駿河守と共に国事を談じた時、忠憤の余り怒髪天を突き、傍にあつた金頭(カナガシラ)を頭より尾まで一気にわりわりと噛み砕き、その所為の余りにも激しいのに家人をして吃驚せしめ、狂人と恐れしめたといふことであるが、この『悍馬の如き *2』性格の反映として、彼の果断な行実が生れ得たのである。頼山陽は彼を「小陽明」と呼んだが、その名に相応しい洗心洞裡の充実した精神生活は、その知見と人格とを益々光あらしめたのであつた。寛政異学の禁以来、王学はその姿を濳め、鴻儒佐藤一斎でさへ陽朱陰王主義をとつて世に隠れなければならなかつたのに対し、平八郎が陽明学の再興者を以て任じたのには、彼の独立不覈の精神が示されると共に、学問に対する信念が如何に徹底したものであるかを物語つてゐる。文政十一年十一月、王陽明を洗心洞学堂に祭る文に曰く、

 学に忠実ならんとするこの純一な希求も、帰するところは彼の透徹した精神生活の所産に外ならなかつた。平八郎は常に学界の不振を慨して、『天下無儒者』といつたといふが、これも亦学に徹する信念がいはしめるのである。その徹底した性格と相俟つて、陽明学はその最も忠実な学徒を平八郎に於て見出したのである。

 天保元年七月、平八郎は致仕して、専ら洗心洞に想を練るの境涯を迎へた。

 洗心洞裡に於ける平八郎の生活とその心境とが、彼自らの筆によつて淡々と描写されてゐる。

 彼は致仕に際して、     

と詠み、その心境を示したが、それはそのまま洗心洞裡の彼の生活に移し植えられたものであつた。併しながら、人々はここに『只だ学んで厭はず、人を誨へて倦まざるの陳迹を粉し得るのみ』とする平八郎の言葉が、洗心洞裡の彼の生活の全部であつたと理解し得るであらうか。誦句述教をこれこととする講壇儒者の生活は、一応彼の承認するところであつたとしてもそれに終始し得ない各種の事情を人々はそこに認めなければならないであらう。

 彼の致仕は矢部駿河守(管理人註・高井山城守)とその進退を共にしたのであつて、決して公務上の失態等に起因したものではなかつた。而も致仕の時猶三十七歳の壮齢の身であり、その溌溂たる生気は恐くや講壇生活のみを以て彼を満足せしめなかつたであらう。与力として縦横の手腕を揮つたその生活体験も、彼にとつて断ち難い絆となつたことであらう。加ふるに彼が操守する陽明学の実践的性格は、学問と社会との相関的契機に関しては不断に彼の反省を強ひたのではなかつたらうか。『学術陽明にて記誦詞章の徒と大に懸隔』と猪飼敬所は彼を評していつた。而も時代は社会の各方面に末期封建社会の様相を露呈してをり、この時代相は彼の社会的関心を不可避のものとし、平和なるべき洗心洞裡の生活に波瀾と生気とを添へしめなければならなかった。  文政十二年播州に百姓一揆が勃発し、その巨魁が尚縛に就かず、遠近大いに相警しむることがあつた時、平八郎は時事を論じて、時勢の憂ふべく吏の自戒すべきをいひ、その論辞激越、ために周囲の人々を驚かしたと伝えられてゐるが、このことは決して吏としての彼に於てのみ見らるべき事柄ではなかつた。政治談は彼の殊に好むところであつたといはれるが、それは実に知行合一・真知実践を理念とする陽明学信奉の徒として当然の帰結と見るべきであり、従つてそれは陽明学と共に彼に具存すべきものであつた。学問的信念に基礎づけられたこの情熱が、致仕と共に忽然として取去られるといふ如きことは到底理解し得られないところである。 平八郎に宛てた角田簡の書状に、

と記すのも、彼を高評するの意に出るものであらうが、蓋し彼の洗心洞裡の生活を全面的に表現するものとはなし難いといはねばならぬ。陽明学が彼に於てある限り、致仕は決して平八郎から政治に対する関心と情熱とを奪ひ去ることはできなかつたのである。寧ろ洗心洞裡の自由にして静閑な思索生活は、彼に批判の自由を与へ、彼をして現実に封する深き省察を持たしむるに与つたのであった。彼が致仕後に於ても政治に関心をもつたことは、門弟平山助次郎の言葉に、『一体平八郎は平常軍論又は政談専ら致し剛気之者故 *7』といふにも徴することができよう。致仕後五年の天保五年、彼は「地水録」「救荒十種刪略」等を著して、この時代の経世家が斎しく考察の対象とした治水救荒等の農村問題に対して関心を示したが、これこそ彼の学問生活の実践的意義を分明ならしむるものである。この関心と情熱とは、所謂天保の飢饉の惨状を目睹するに及んで激しく高められたのであつた。

 天保七年二月から全国各地とも洪雨に襲はれ、六・七月の交に二尺に逹する雹が降り、五穀実らず、暴風打続いて田稲悉く流蕩し、米価は銭百文に付て三合乃至二合五勺に暴騰し、忽ちの間に飢饉となつた。奥羽地方は殊に甚だしく、草根木皮はおろか、犬猫牛馬の類まで喰ひ盡し、餓死者数千人、『秋の末までは飢とよびて泣き叫ぶ声をきゝしが、のちにはその声も絶えたり、路傍に斃れし餓■は犬など噛みちらし、血肉狼藉実に目も当てられずとなり。 *8』といふ惨状を呈するに至つた。この頃平八郎は屡々天文を案じ、深く山中に入らんとするの意さへ洩したといふ。天保七年秋平八郎は播州甲山に遊び詩二首を詠んだがその一に曰く、

と。世相に心穏やからぬ彼の姿がそこにある。『思深似前海』とする深沈の考慮をよそに、時患は次第にその度を強めて行つた。即ち飢饉は単に地方的に終らず、京阪の地も亦その惨害を蒙ることとなり、幕府は諸藩に令して廻米の増加を促し、或は囲米の売払等を勧奨したが、その効果も充分でなく、京阪の地にも惨憺たる地獄図が出現せしめらるることとなつた。

 この年十一月、大阪町奉行は津留を令して、大阪在米の他所積出を制限し、世態の険悪化に鑑み、万一に備ふべき大阪在米の維持を計らんとした。このことは、江州の飢饉のため、全く大阪からの廻米に依存しなければならなかつた京都の窮状を殊に甚だしからしめ、而もその裏面には、飢饉に乗じて利を獲んとする貪商と奸吏との結托があつて事態ば愈々深刻の度を加へた。

 飢饉が齎した惨状の委曲は右に尽きる。盗賊横行して無警察状態に近く、風教地に墜ちて末世的様相を呈し、慓然の気を禁じ難きものがある。天保七年も暮れ、八年を迎へたが、状況は更に好転しようともしなかつた。『只諸人相寄りて咄しさへすれば、諸色の高価なると、盗賊の噂と餓死人・行倒者の噂のみにして、余の咄しをなすことなく *11』、浮説雲出して人心澆期を思ひ、餓死者続出し、京阪間に於てすら、天保七・八年の餓死者五万六千人を数ヘ、惨憺たる光景を呈した。斯かる際に幕府は、大阪奉行に江戸への廻米を命じ、奉行跡部良弼は目前の惨状を無視して命に従ひ大阪附近の米を買上げ、これを江戸に送るの暴挙を敢てしたのである。窮状が更に拍車づけられたことはいふまでもない。天保七年八月、甲州に百姓一揆が起り、数千の暴徒甲府城下に乱入の報があつた時、嗣子格之助並に門弟に対して砲術を教へ、有事に備ふべきを説いたのが平八郎であつた。そこには後年の乱魁としての平八郎ではなく、寧ろ斯かるものに対する鎭撫者としての彼の妻が見られたが、窮民の惨状を目前に控へ、これに処する幕吏・富商の無情非道の行為を見るに及んで、彼の立場は次第に庶民的立場へと移行して行つた。大阪の米は紐で縛られてをると海保青陵がいつた *12 経済組織の矛盾、庶民の痛苦をよそにみて江戸廻米に奔走する幕吏、それらの存在は、鉄石の覚悟を以てこの窮境を切拓かんとする決意を、平八郎の胸奥に急激に燃え上らしめたのであつた。

 平八郎は奉行跡部に対する献策に解決の第一の方法を見出した。即ち嗣子格之助をして奉行跡部に対し、官庫を開いて窮民に給すべきを献策せしめたのである。再三の進言の結果跡部は彼の意見を納受したが、容易に実行に移さず、平八郎は頻りに施米断行を迫ったにも拘はらず、遂に拒絶せらるるところとなり、彼の期待は空しく潰え去らねばならなかつた。斯くして天保八年が迎へられ、窮状はより深刻となつた。饑饉に加へて悪疫流行し、大阪の死者一日に七八十人乃至百人、これに凍死者を加へて、旧冬より正月にかけて死者四五千人を出し、救民は愈々焦眉の急を思はしめた。斯かる周囲の状勢が、平八郎をして更に新なる対策へ奮起せしめたことは誠に当然であらねばならない。乱後縛に就いた平八郎の婢妾等の口書に、『平八郎平生 至りて気質堅く候処、当春より少々乱心の様子に相見え申候 *13』とあるのは、彼がこの頃如何に異常な関心を示したかを裏書きするものといへよう。天保八年正月、彼は自ら鴻池・加島等の富商に謀り、彼等の諸大名に対する金融を制限することによつて、大阪廻米の増加を促し、以て難民救済の資に充てんとした。この方法は、彼によつて企てられた第二の方法であつたが、これも亦富商と大名との反対によつて実施不可能となり、平八郎は最後の手段として鴻池その他の富商より金六万両を借り入れ、改めてこれを富商に提供し、これに相当する米を農民に払出し、八月までこの方法による救済を続け、農民は一石一匁の利子を附して三箇年間にその全部を償却せんとする方策を案出し、平八郎自らこれが責任者たらんとし、鴻池その他の富商を歴訪して、略々その内諾を得大いに喜んだが、幕吏の干渉するところとなり、この最後の方策も亦画餅に帰し去らしめられたのである。

 救世の義魂に燃えて企てられた一切の方策が、幕吏・富商の遂に顧みるところとならず、平和的解決の希望が消え去つた時、平八郎の心頭に燃え上つたものは、『血賊の禍を犯し』一切の犠牲を超越して所志を貫徹せんとする悲愴な決意であつた。天保八年正月八日、平八郎を中心として門人三十名の洗心洞義盟は結成され、越えて二月二日、平八郎は蔵書五万巻を売つて近郊三十三箇町村の窮民を賑ははし、同七日妻子を離別して後顧の憂を断ち、十七日夜檄を四方に飛ばして、敢然挙兵の非常手段に訴ふるに至つたのである。



*2 跡部山城守の問に答へ平八郎を評した矢部駿河守の言葉
    見聞偶筆(新訂東湖全集 五五五頁)
*3 中斎大塩先生年譜  八〇頁
*4 岩波文庫「洗心洞箚記」  七六頁
*5 この詩は招隠記の最期に書かれ、普通招隠詩と呼ばれている。
    中斎大塩先生年譜 九一頁
*6 岩波文庫「洗心洞箚記」附録 四二一頁
*7 浮世の有様 三 二四八頁
*8 天保饑饉物語(中斎大塩先生年譜 二三一頁)
*9 中斎大塩先生年譜 二三二頁
*10 浮世の有様 三 一〇頁〜一六頁
*11 同    三 一一二頁
*12 大阪はわづか十万石なれ共、貯へ米いくらも有也、貯へ米多ふ有てなぜ米直段下らぬと云に、むだ米なき故なり、なぜむだ米なきといふに切手ある故也、あそこの蔵にも一ぱい米有、こゝの蔵にも米一ぱいあれども、皆主ある米にてむだ米にあらず、主はどこにあるといへば切手を持て居る也、大阪中の米切手百万石あれば、是百万石ありても皆主のある米と云もの也(中略)大阪にて米のきれると云事一向になき事なり、どの様なる貧なる物にても、米はもたいでも切手の一枚や二枚もたぬ者なし、切手あれば米はひもをつけてをく様な物なり、故に蔵ごとに米ありても浪人米と云米一粒もなき也、浪人米なふて皆主ある米故に、米の直段の下ると云事なき也。
  養蘆談(海保青陵遺著 六二頁)
*13 井上哲次郎博士『日本陽明学派之哲学』 四四二頁参照


井上哲次郎「大塩中斎」 その4
「大塩事件とその影響」目次その1その3

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ