Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.17訂正
2000.7.2

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 事 件 と そ の 影 響」
その6

有働 賢造 (1907〜1945)

『江戸時代と大阪』 大阪宝文館 1943 所収


◇禁転載◇

 乱が重大な意味を持つていただけにこれに対する批判にも亦様々なものが現れた。幕府がこれを見るに反逆罪を以てし、臨むに重刑を以てしたことは、自らそこに乱に対する批判の統一を帰一せしむべきものであつたが、事情は決して若く簡単ではあり得なかつた。そこに江戸時代末期に於ける政治的統一の脆弱性が認めらるると共に、乱が与へた特殊なる反響の考へらるるものがある。

 乱に関してものされた幾多の諷刺にもそうした雰囲気は漂うてゐた。

 平八郎の挙兵に対する嘲笑の意がここに見出される。  平八郎を賊と見る思想の動くと共に、幕吏の醜態を嘲弄する諷意もそこに認められる。幕府は平八郎を目するに『古今無そうの大悪人』を以てし、死屍を曝すの重刑を科して世人を警むるところがあつたが、平八郎に対する人々の批判にも斯ふした幕府的取扱ひに一致するものもあったのである。『平八一俗吏耳、而嗜読書、稍識文字、自師其心、欲出于人之意表、其所奉之学、則陽儒陰仏、其所求之心、則功利名勢而己、故不得于其上、而不能反求之于己、一朝之怒亡其身、遂為賊焉。』とする「記塩賊」の評 *29、『初平為吏、断妖巫姦【髟/几】贓吏之獄 、深文厳酷、府下不寒而粟、名遂大著、文政庚寅致仕、読書教授以居、意盖在抜擢也、然官終不問、是以忿懣不能自遣、罵詈執政、誹謗時事、遂図不軌。』と書く「記賊焚」の言 *30、それらは全く平八郎に対する憎悪と貶刺に満たされてゐる。併しながら、平八郎の行為は決して当時の人々にこれを貶刺するの意のみを起させたのではなく、寧ろ彼に対する讃嘆の声すら聴かれたのである。そこに乱の影響としての最も積極的なものが生れてくる。乱後永い間大阪の入々が平八郎を呼ぶに大塩さん、平八郎様、先生といひ、火災に類焼したものさへ、単に先生と呼んでその名を呼ばず、以て敬重の意を致したといふことの如きは、平八郎が人々に如何に遇せられたかを卒直に物語るものである。平八郎の実子弓太郎は生後数月の身を乳母と共に獄に在つたが、天保九年佐渡に流すこととなつた時、これに贐する者数百人、市民涙を拭て離情に堪え難きを示したといふのも一に平八郎に対する感謝の意に発するものと考へられる。*31 大阪市東区八丁目寺町龍淵寺にある大塩一党秋篠昭足の碑文に、 と記して大塩海外逃亡説をたててゐるのは、例へば川路聖謨が平八郎父子自害の報をうけた時、『面体等焼爛候由疑敷事也』*32 と疑惑を存したのとは趣を異にし、大塩崇拝の思想の斯くいはしむるものがあるのである。それは丁度城山に戦死した西郷隆盛の海外逃亡説が唱へられ、明治二十四年露国皇太子の来朝に同行して帰国するとの説が誠しやかに説かれたのと相似るものがある。西郷渡欧説が彼に対する崇敬に発したやうに、大塩海外逃亡説も亦彼を惜しむの念に基いてゐる。碑文は党与に同情する人によつて書かれたのであるから、それを以て直ちに一般の人々に同様の崇拝思想があつたとは断じ難いが、これに近い思想が少くとも世人の間に存し、平八郎の行為が大いに人々の同情を惹いたことが窺はれるのである。  梁川星巌は大塩の挙を謳つて斯く詠じたが、これこそ平八郎に棒げらるべき最もよき餞であつたらう。正しく彼の一挙は幕政の汚穢を浄め、人心をして更始せしむる天警となつたのである。天保八年正月六日(五月五日)、大阪市内各所に物騒な張札が何者かの手によつて張出され、『大塩平八郎内談之筋をも不相用、至つて不自由なる米を過分に江戸表へ積下し、夫故当地は米価大に貴く成りて、諸人飢餓の苦しみをなす。此故に難波橋筋より西南先達て焼かざりし処、悉く焦土となすべし、奉行出張せば其儘に差置かじ。夫を恐ろしと思はヾ速に関東へ立退くべし。若し此張礼引捲り候ばゞ、其町を一番に焼払ふべし。何れも城を目指して詰掛くる積りなり。』*33 云々と書いて幕吏を警めたのも、乱が与へた影響の一展開と見ることができる。これより先き、天保八年四月・備後三原に農民八百余人蜂起し、大塩平八郎門弟と書いた幟を立てて乱妨し、同七月摂津能勢に起つた農民一揆は大塩残党と称し、徳政大塩味方と記した幟を立てた。同年五月には、越後柏崎に於て生田万は大塩平八郎残党と号して乱を起した。この中生田万の乱は最も明白に大塩の影響を思はしむるもの、天保の乱後万は頻りに平八郎の遺文を蒐め、これを耽読した事実があり、萬が乱を起した時、大塩の一党が暴吏を懲し、窮民を救ふのであるから賑恤に預りたいものは附いてくる様にと揚言し、天保の乱そのままの行動を展開した。天警は幾多これに応ずる響を伴ひ、その影響は極めて深刻且つ積極性を帯び、歴史の進行に大きな波紋を投げ与へて行くこととなつた。

 天保の乱が同時代人若くは後世の人々に与へた思想的感化の深刻さは既述に於てその一斑を見たのであるが、更にこれを附言して乱の影響がその後の歴史に如何様に現れ又その進展に如何に作用するところがあつたかを窺つて見よう。その一例としてここに佐藤信淵をとる。信淵が本多利明等と共に江戸時代末期に於ける革新的思想家として知られ、「宇内混同秘策」等に展開される論策が如何に清新壮大の気に充ち満ちているかはここに改めて縷説を要しないであらう。彼の数多くの著述の中、前半期の著述は改良主義的傾向に於て特徴づけられるが、この傾向は天保五年頃に於て終結し、後半期の著述の特徴である変革的傾向が天保九年頃から漸く顕著となりそれは信淵の末年にまで及んだ。信淵と平八郎との関係の直接の証拠は存しないが、この変化は全く天保の乱の影響として考へられねばならぬ。北国の僻里にあつた信淵に乱は鋭く働きかけ、彼の批判に激しい情熱を伴はした。即ち檄文の冒頭の句『四海困窮天禄永終』の警語は、信淵の後期の著書に常に引用され、彼の論策をして生彩あるものたらしめている。明らかに信淵は平八郎に対する共感の意を示してゐる。乱の積極的影響の一例をここに見ることができる。*34

 天保の乱は確に時代の乱兆をこの一挙に力強く示したものであつた。その反幕府的色彩、並に檄文が眼目とする尊皇復古の主張――たとへそれは充分組織的な内客とはなつてゐないにしろ――それが幕末維新の勤皇討幕運動に一大刺激を与へたことはいふまでもないことであつた。而も維新志士の精神的支柱として彼等の行動主義を培つた陽明学は、実に平八郎に於て最も透徹したものが把持されたのであり、この学問系統の先後関係も与つて維新志士と平八郎との接近はより密接なものとなつたのである。西郷・大久保を始めとして薩藩の有志が如何に大塩の檄文を熱誦したかは想像の外にあつたと伝へられる。このことは独り薩藩のみならず、諸藩の勤皇志士に於て見られたところであつたに相違ない。橋本左内の「安政丙辰日記」五月二日條に、彼が京郡の宿舎に於て、同志と「大塩之咄」を交わしたことが記されている。何が如何様に語られたかの詳細は記録されていないが、国事奔走裡の左内が覊旅の物語に大塩之咄を上したことは極めて興味あることである。平八郎は斯くして志士の胸に新に蘇り、その行動と主張とは彼等によつて学びとられ、彼等の行動に強い刺激を与へて行つたのであつた。維新の大業は斯くして天保の乱に於て既に点火されたと謂はれねばならぬ。

 明治時代に入つて自由民権運動が熾烈化し、時の政府を目して一部派閥の専制政府と断ずる民党の反政府的行動が開始された時、平八郎の行動は再び人々の回顧するところとなつた。即ち彼の行動は徳川専制政府の暴政に封する義挙として理解され、称揚さるるに至つたのである。中島勝義は「俗夢驚談」に国賊叛民を釈義して曰く、

 斯かる思想に立つ自由民権主義が平八郎の行為に左袒するのは当然の帰結である。平八郎の行動の是認は彼等の反政府的行動の論理性に結びついたのである。明冶十二年刊、井上仙次郎著「大塩平八郎言行録」には、巻首に平八郎の像を掲げ、『乱世之英雄治世之姦賊』と記し、その裏に『先天下之憂而憂』の文字を配し、本論一頁には『今古民権開宗大塩平八郎言行録』と記し、本書が民権主義思潮を背景として生れたことを物語つてゐる。四十四頁の冊子に天保の乱の顛末を物語風に書いたもので、当時に流行した政治小説の色彩を持つた歴史小説といふべく、平八郎の行為を大丈夫の所為と賛辞を呈してゐる。明治十六年刊、柳窓外史著「二十三年未来記」は、一老翁を捉へて近く行はるべき国会開催につきこれに処すべき意見を開陳するの趣向であるが、その老翁に大塩平八郎を持ち来り、彼をしてその意見を吐かしめるといふ仕組になつてゐるが、同書が斯かる仕組をとるところにも平八郎を遇する世人の意図が窺はれてゐる。政府の保安條令によつて三年の退京を命ぜられた海南の民権論者島本仲道は、明治二十年「青天霹靂」の一書を著して大塩平八郎の事績を讃へたが、その巻首に と書き、彼の挙兵が愛民の義心に出る美挙であるとなしてゐる。明治二十二年刊、斎藤新一郎著「壮士論」には、第三章「時勢ト壮士ノ関係」に、壮士の活動のみがよく時勢を動かし、その進展の契機たるべきことを書き、大塩平八郎も亦その一人たることをいひ、 と述べてゐる。茲にも亦平八郎の挙を是認するの意が窺はれる。民の乱について、『古より民の乱を作すは其初め必ずしも乱を作すことを欲するに非るなり。蓋し民なる者は其最も暴悍なるものと雖も自ら好みて乱を作すに非ず、独り乱を作すことを好まざるに非ずして亦乱を作すことを畏るゝなり。彼れ其初め乱を作すことを畏れて而して遽に乱を作すに至る者は何ぞや、勢然らしむるなり。勢なる者は人心の自然に発すと雖も抑も在上の人の力其多きに居る、在上の人自ら夫の勢を激して民をして乱を作すに至らしむるときは是れ其罪民に在らずして在上の人に在るなり。』*39との解釈を下し、自由民権の主張を明らかにした中江兆民にも簡単ではあるが、平八郎を善しとする評言がある。  兆民の平八郎に対する賛意が茲に示されてゐる。大正期に入つて第一次欧洲大戦後のデモクラシー思潮の旺流はその附随的現象として天保の乱を回顧するの機縁を与へたのである。大正八年刊、相馬由之(相馬由也)著「民本主義の犠牲者大塩平八郎」はその一例となる。その書名が既に平八郎に同情するの意を示すものがあるが、同書に叙する大隈重信の文に、 と書いてゐるのは、正に平八郎の寃を雪ぐものであり、平八郎の行動は茲に美挙として讃美されてゐる。天保の乱が与へた影響が決して一時的のものでなく、時に応じ機に臨んで遥か後世の人々にも深い感銘を与へた事実がここに明瞭とならう。



*29 事実文編 第五 二四○頁
*30 同    第五 二四一頁
*31 中尾捨吉「大塩先生論伝」(陽明学七号)参照
*32 日本随筆大成 巻五 七六○頁
*33 浮世の有様 三 二二二頁〜二二三頁
(管理人註◆ 「五月七日巡見の積りなりしに、其前々日の事なりしが、堀江問屋橋の北角・・・・等へ張紙をなす。其文言は、」から続くので五月五日のことと思われる。)
*34 羽仁五郎「佐藤信淵に関する基礎的研究」二○四頁参照
*35 橋本景岳全集 上巻 二四二頁
*36 明治文化全集 第五巻 自由民権編 一四○頁
*37 青天霹靂 三頁
*38 壮士論 三四頁
*39 岩波文庫「兆民選集」六二頁
*40 同        一五九頁
*41 民本主義の犠牲者大塩平八郎 一頁〜七頁


        

む  す  び

 幕府政治に対する平八郎の攻撃的態度、富者に対する痛烈な糺弾、これらは幕府政治下の当時に在つて全く驚愕すべき行為であつた。彼が賊として取扱はれ、幕府のために重刑に処せられたことも亦避け難い運命であつた。新しき時代は彼に幸し、彼の行為と精神とに対する批判は、彼を遇した幕府政治への批判に向けられ、彼に対する敬崇の念は頓に昴揚した。併しながら、彼の行為は何時の時代に於ても適正し主張し得るものではなく、「天満水滸伝」が『抑も後素が願意は嘉すべきも、其行為の善らざるより、終に自滅を速くに至しなり、江湖の士、本編を繙く時は、宜しく此に猛省なし、凡そ志の嘉すべきも、苟且も其行の嘉すべからざる者は、乃ち之を為す勿れ。』*42 と評したのは聖代に生きる吾々が特に心すべき点である。併し彼の心中一点の私心なく、只救民愛国の赤誠に出でた行為であつたことは、高き称賛に値するところであり、これこそ広汎な意味に於て後代に影響するところがあつた重要な点である。大阪は乱によつて不慮の災禍を蒙つたとはいへ、平八郎の一挙が維新大業の先駆となり、それを導火点として爾後の歴史に光明と活力とを与へたことを思へば、その災禍に対してもこれを寛恕す」るに吝ではないであらう。



*42 天満水滸伝(明治十九年刊)序


井上仙次郎「今古民権開宗 大塩平八郎言行録
木村雅寿「記塩賊
安藤太郎「記賊焚
有働賢造「大塩事件とその影響」目次その5

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