Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.17訂正
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大塩の乱関係論文集目次
「大 塩 事 件 と そ の 影 響」
その6
有働 賢造 (1907〜1945)
『江戸時代と大阪』 大阪宝文館 1943 所収
◇禁転載◇
六
乱が重大な意味を持つていただけにこれに対する批判にも亦様々なものが現れた。幕府がこれを見るに反逆罪を以てし、臨むに重刑を以てしたことは、自らそこに乱に対する批判の統一を帰一せしむべきものであつたが、事情は決して若く簡単ではあり得なかつた。そこに江戸時代末期に於ける政治的統一の脆弱性が認めらるると共に、乱が与へた特殊なる反響の考へらるるものがある。
乱に関してものされた幾多の諷刺にもそうした雰囲気は漂うてゐた。
大塩があまたの本をうりはらひ
これそまことの無ほんなりけり
おのがため人のためにもなりもせず
きりしたんやらなにしたんやら
平八郎の挙兵に対する嘲笑の意がここに見出される。
小人隠居為不善。 其名大塩平八郎。
天満起火夜如昼。 乱暴狼藉有誰防。
分限長者家忽毀。 橋々焼落更周章。
東西南北大騒動。 老若男女迷戦場。
在番殿様各消膽。 奥方及聞癪更強。
上意之趣大名畏。 出張用意人馬忙。
君不見天草正雪。 天罰不遁無程亡。
早斯張本獄門掛。 欲輝関東御威光。
平八郎を賊と見る思想の動くと共に、幕吏の醜態を嘲弄する諷意もそこに認められる。幕府は平八郎を目するに『古今無そうの大悪人』を以てし、死屍を曝すの重刑を科して世人を警むるところがあつたが、平八郎に対する人々の批判にも斯ふした幕府的取扱ひに一致するものもあったのである。『平八一俗吏耳、而嗜読書、稍識文字、自師其心、欲出于人之意表、其所奉之学、則陽儒陰仏、其所求之心、則功利名勢而己、故不得于其上、而不能反求之于己、一朝之怒亡其身、遂為賊焉。』とする「記塩賊」の評 *29、『初平為吏、断妖巫姦【髟/几】贓吏之獄 、深文厳酷、府下不寒而粟、名遂大著、文政庚寅致仕、読書教授以居、意盖在抜擢也、然官終不問、是以忿懣不能自遣、罵詈執政、誹謗時事、遂図不軌。』と書く「記賊焚」の言 *30、それらは全く平八郎に対する憎悪と貶刺に満たされてゐる。併しながら、平八郎の行為は決して当時の人々にこれを貶刺するの意のみを起させたのではなく、寧ろ彼に対する讃嘆の声すら聴かれたのである。そこに乱の影響としての最も積極的なものが生れてくる。乱後永い間大阪の入々が平八郎を呼ぶに大塩さん、平八郎様、先生といひ、火災に類焼したものさへ、単に先生と呼んでその名を呼ばず、以て敬重の意を致したといふことの如きは、平八郎が人々に如何に遇せられたかを卒直に物語るものである。平八郎の実子弓太郎は生後数月の身を乳母と共に獄に在つたが、天保九年佐渡に流すこととなつた時、これに贐する者数百人、市民涙を拭て離情に堪え難きを示したといふのも一に平八郎に対する感謝の意に発するものと考へられる。*31 大阪市東区八丁目寺町龍淵寺にある大塩一党秋篠昭足の碑文に、
天保丁酉春、大塩平八郎作乱于大阪、丈人素与大塩為戚属、初丈人与後肥大草僧善、僧因動娶于其郷五陵長岡氏、丈人乃与大塩父子及其他五人、泛海遁于天草、余皆自盡、居歳余、更航入清国、久之大塩父子避跡欧羅巴、丈人与其徒三人、還于長崎、以医業、往来天草島原間云々。
と記して大塩海外逃亡説をたててゐるのは、例へば川路聖謨が平八郎父子自害の報をうけた時、『面体等焼爛候由疑敷事也』*32 と疑惑を存したのとは趣を異にし、大塩崇拝の思想の斯くいはしむるものがあるのである。それは丁度城山に戦死した西郷隆盛の海外逃亡説が唱へられ、明治二十四年露国皇太子の来朝に同行して帰国するとの説が誠しやかに説かれたのと相似るものがある。西郷渡欧説が彼に対する崇敬に発したやうに、大塩海外逃亡説も亦彼を惜しむの念に基いてゐる。碑文は党与に同情する人によつて書かれたのであるから、それを以て直ちに一般の人々に同様の崇拝思想があつたとは断じ難いが、これに近い思想が少くとも世人の間に存し、平八郎の行為が大いに人々の同情を惹いたことが窺はれるのである。
蒹葭無際水悠々。 二百年来覇気收。
尚知金湯為保障。 誰名仁義弄犬矛。
清平有事是天警。 合党雖多非国讎。
君子厚情定功情。 賈紘妄誕豈春秋。
梁川星巌は大塩の挙を謳つて斯く詠じたが、これこそ平八郎に棒げらるべき最もよき餞であつたらう。正しく彼の一挙は幕政の汚穢を浄め、人心をして更始せしむる天警となつたのである。天保八年正月六日(五月五日)、大阪市内各所に物騒な張札が何者かの手によつて張出され、『大塩平八郎内談之筋をも不相用、至つて不自由なる米を過分に江戸表へ積下し、夫故当地は米価大に貴く成りて、諸人飢餓の苦しみをなす。此故に難波橋筋より西南先達て焼かざりし処、悉く焦土となすべし、奉行出張せば其儘に差置かじ。夫を恐ろしと思はヾ速に関東へ立退くべし。若し此張礼引捲り候ばゞ、其町を一番に焼払ふべし。何れも城を目指して詰掛くる積りなり。』*33 云々と書いて幕吏を警めたのも、乱が与へた影響の一展開と見ることができる。これより先き、天保八年四月・備後三原に農民八百余人蜂起し、大塩平八郎門弟と書いた幟を立てて乱妨し、同七月摂津能勢に起つた農民一揆は大塩残党と称し、徳政大塩味方と記した幟を立てた。同年五月には、越後柏崎に於て生田万は大塩平八郎残党と号して乱を起した。この中生田万の乱は最も明白に大塩の影響を思はしむるもの、天保の乱後万は頻りに平八郎の遺文を蒐め、これを耽読した事実があり、萬が乱を起した時、大塩の一党が暴吏を懲し、窮民を救ふのであるから賑恤に預りたいものは附いてくる様にと揚言し、天保の乱そのままの行動を展開した。天警は幾多これに応ずる響を伴ひ、その影響は極めて深刻且つ積極性を帯び、歴史の進行に大きな波紋を投げ与へて行くこととなつた。
天保の乱が同時代人若くは後世の人々に与へた思想的感化の深刻さは既述に於てその一斑を見たのであるが、更にこれを附言して乱の影響がその後の歴史に如何様に現れ又その進展に如何に作用するところがあつたかを窺つて見よう。その一例としてここに佐藤信淵をとる。信淵が本多利明等と共に江戸時代末期に於ける革新的思想家として知られ、「宇内混同秘策」等に展開される論策が如何に清新壮大の気に充ち満ちているかはここに改めて縷説を要しないであらう。彼の数多くの著述の中、前半期の著述は改良主義的傾向に於て特徴づけられるが、この傾向は天保五年頃に於て終結し、後半期の著述の特徴である変革的傾向が天保九年頃から漸く顕著となりそれは信淵の末年にまで及んだ。信淵と平八郎との関係の直接の証拠は存しないが、この変化は全く天保の乱の影響として考へられねばならぬ。北国の僻里にあつた信淵に乱は鋭く働きかけ、彼の批判に激しい情熱を伴はした。即ち檄文の冒頭の句『四海困窮天禄永終』の警語は、信淵の後期の著書に常に引用され、彼の論策をして生彩あるものたらしめている。明らかに信淵は平八郎に対する共感の意を示してゐる。乱の積極的影響の一例をここに見ることができる。*34
天保の乱は確に時代の乱兆をこの一挙に力強く示したものであつた。その反幕府的色彩、並に檄文が眼目とする尊皇復古の主張――たとへそれは充分組織的な内客とはなつてゐないにしろ――それが幕末維新の勤皇討幕運動に一大刺激を与へたことはいふまでもないことであつた。而も維新志士の精神的支柱として彼等の行動主義を培つた陽明学は、実に平八郎に於て最も透徹したものが把持されたのであり、この学問系統の先後関係も与つて維新志士と平八郎との接近はより密接なものとなつたのである。西郷・大久保を始めとして薩藩の有志が如何に大塩の檄文を熱誦したかは想像の外にあつたと伝へられる。このことは独り薩藩のみならず、諸藩の勤皇志士に於て見られたところであつたに相違ない。橋本左内の「安政丙辰日記」五月二日條に、彼が京郡の宿舎に於て、同志と「大塩之咄」を交わしたことが記されている。何が如何様に語られたかの詳細は記録されていないが、国事奔走裡の左内が覊旅の物語に大塩之咄を上したことは極めて興味あることである。平八郎は斯くして志士の胸に新に蘇り、その行動と主張とは彼等によつて学びとられ、彼等の行動に強い刺激を与へて行つたのであつた。維新の大業は斯くして天保の乱に於て既に点火されたと謂はれねばならぬ。
明治時代に入つて自由民権運動が熾烈化し、時の政府を目して一部派閥の専制政府と断ずる民党の反政府的行動が開始された時、平八郎の行動は再び人々の回顧するところとなつた。即ち彼の行動は徳川専制政府の暴政に封する義挙として理解され、称揚さるるに至つたのである。中島勝義は「俗夢驚談」に国賊叛民を釈義して曰く、
国賊叛民トハ何ゾヤ、蓋シ一国人民ノ幸福安寧ヲ妨害障碍スル者ノ謂ヒ也。故ニ政府ナリ官吏ナリ農夫ナリ商人ナリ華族ナリ士族ナリ医者ナリ芸者ナリ何ナリ漢ナリ、其位階ノ高下ヲ論ゼズ其俸給ノ多少ヲ問ハズ、苟モ毒ヲ社会ニ流シテ同胞ノ幸幅ヲ妨害シ害ヲ世上ニ及ボシテ兄弟ノ安寧ヲ障碍シ斯良民ノ自由権理ヲ犯スガ如キ者アラバ、余ハ將ニ揚言シテ是等ノ人物ヲ国賊叛民ト称スベキ而己。
古来和漢ノ歴史ニ於テ屡々発スル所ノ国賊叛民ナル文字ハ、大ニ其意義ヲ異ニシタル者ノ如ク、動モスレバ政府ト議論ヲ東西ニシ官吏ト所見ヲ表裏ニスル者アルモ未ダ其何ガ故ニ議論を東西ニシ何ガ故ニ所見ヲ表裏ニスルヤノ一点ニ論及セズ、直チニ之ヲ認メテ国賊叛民トシタル者ノ如シ。而シテ其政府ニ残虐ヲ施シテ世上ノ安寧ヲ障碍スルト官吏ガ刻簿ヲ行テ社会ノ幸福ヲ妨害スルトニ至テハ嘗テ一人ノ之ヲ称シテ国賊叛民ナリト明言シタル者ナキノミナラズ、偶々之アルモ、其政府ニ抗抵スルヲ以テ直チニ死刑流罪ニ処セラレ、己レ却テ国賊叛民ノ汚名ヲ被ムルニ至ル。豈亦咄々恠事ナラズヤ。*36
斯かる思想に立つ自由民権主義が平八郎の行為に左袒するのは当然の帰結である。平八郎の行動の是認は彼等の反政府的行動の論理性に結びついたのである。明冶十二年刊、井上仙次郎著「大塩平八郎言行録」には、巻首に平八郎の像を掲げ、『乱世之英雄治世之姦賊』と記し、その裏に『先天下之憂而憂』の文字を配し、本論一頁には『今古民権開宗大塩平八郎言行録』と記し、本書が民権主義思潮を背景として生れたことを物語つてゐる。四十四頁の冊子に天保の乱の顛末を物語風に書いたもので、当時に流行した政治小説の色彩を持つた歴史小説といふべく、平八郎の行為を大丈夫の所為と賛辞を呈してゐる。明治十六年刊、柳窓外史著「二十三年未来記」は、一老翁を捉へて近く行はるべき国会開催につきこれに処すべき意見を開陳するの趣向であるが、その老翁に大塩平八郎を持ち来り、彼をしてその意見を吐かしめるといふ仕組になつてゐるが、同書が斯かる仕組をとるところにも平八郎を遇する世人の意図が窺はれてゐる。政府の保安條令によつて三年の退京を命ぜられた海南の民権論者島本仲道は、明治二十年「青天霹靂」の一書を著して大塩平八郎の事績を讃へたが、その巻首に
愛而近之則温其体、馴而弄之則焼其手民猶火也、勿言可悔トハ大塩平八郎ガ自ラ 火炉ノ屏風ニ題スル所ノ語ニシテ固ト短句隻章ニ過ギズト雖ドモ既ニ其人ノ愛民ノ情ニ切ナルヨリシテ幕吏ノ民を虐ゲ俗を蠧スルノ甚シキヲ憂ルノ寓意アル事ヲ知ルニ足リ、延テ以テ天保丁酉ノ挙ハ決シテ所以ナキノ暴挙ニアラズ、窮民ヲ救ント欲スルノ至情内ニ熟シテ黙止ス可ラザル者アリ、是以テ止ム事ヲ得ズ、一身ヲ犠牲ニ供シテモ為ス事アラントスルノ義心ニ発シタル者ナルヤ知ルベキナリ。*37
と書き、彼の挙兵が愛民の義心に出る美挙であるとなしてゐる。明治二十二年刊、斎藤新一郎著「壮士論」には、第三章「時勢ト壮士ノ関係」に、壮士の活動のみがよく時勢を動かし、その進展の契機たるべきことを書き、大塩平八郎も亦その一人たることをいひ、
泰斗ノ夢ニ沈睡シ上下挙テ宴安無事ニ忸レ、敵愾ノ気尚武ノ精神蕩然トシテ将ニ消亡セントスルノ日ニ際シ、慨慷淋漓家ヲ破リ財ヲ散ジテ天下ノ士ヲ嘯聚シ、青天ニ霹靂ヲ飛シ天ノ耳目ヲ聳動セシメタルハ大阪ノ一浪士大塩平八郎其人ニアラズヤ。*38
と述べてゐる。茲にも亦平八郎の挙を是認するの意が窺はれる。民の乱について、『古より民の乱を作すは其初め必ずしも乱を作すことを欲するに非るなり。蓋し民なる者は其最も暴悍なるものと雖も自ら好みて乱を作すに非ず、独り乱を作すことを好まざるに非ずして亦乱を作すことを畏るゝなり。彼れ其初め乱を作すことを畏れて而して遽に乱を作すに至る者は何ぞや、勢然らしむるなり。勢なる者は人心の自然に発すと雖も抑も在上の人の力其多きに居る、在上の人自ら夫の勢を激して民をして乱を作すに至らしむるときは是れ其罪民に在らずして在上の人に在るなり。』*39との解釈を下し、自由民権の主張を明らかにした中江兆民にも簡単ではあるが、平八郎を善しとする評言がある。
欧羅巴が勝りて亜細亜が劣るといふのは外で無い、欧の奴は思ひ切つた事を為る、亜の奴は何分にものろ臭い。唯だ亜には始皇、頂羽、豊公、佐倉宗吾、大塩平八なんどが一寸欧羅巴人に似て居るかと思はる。*40
兆民の平八郎に対する賛意が茲に示されてゐる。大正期に入つて第一次欧洲大戦後のデモクラシー思潮の旺流はその附随的現象として天保の乱を回顧するの機縁を与へたのである。大正八年刊、相馬由之(相馬由也)著「民本主義の犠牲者大塩平八郎」はその一例となる。その書名が既に平八郎に同情するの意を示すものがあるが、同書に叙する大隈重信の文に、
孺子の將に水に溺れんとするや、惻隠の心禁ずる能はず、之を救はんと欲して水に投じ、却て自ら溺れ死する者あり、是れ世に常に見る所なるが、大塩平八郎の大塩乱に於けるも亦偶此の加き者耳(中略)彼や時の為政者の為に焚余の醜骸を梟木にかけられ、大逆無道として暫く兇名を伝へられたりと雖も、而も泰平遊情の夢は是が為に一覚せられ、雷雨の一過の如く、朝に起りて夕に倒れたりと雖も、天下は是が為に塞膽しぬ。而かも幕府は家康の遺徳猶存せしが如く、松平越中守起つて政柄を握るに及び、倹素俗を率ゐて揮権の巨腕稱す可き者あり、志遂げずして中道に去りしを憾むと雖も、其積弊を刷新し、時艱を匡救したるの偉績は没すべからす、而して是には自ら平八郎の大阪乱の与つて大に力有りしを疑はずとば、彼も亦聊か以て地下に其懐を寛ふすべきを、而して幕府の余命は刻々に縮まり、爾来僅に三十年にして内憂外患の頻出に遭ひ、遂に大政を奉還して茲に皇政復古の新天地を現じ、久し専制政治の桎梏に苦み来れる我国民が、忽ち自由平等の大気中に遊泳し得たるを見ては、彼の志は大に酬いられたりと謂ふべく、従つて三十年前に一たび与へられたる其兇名は残りなく洗雪せられて、弱者を救ふ固有の義侠心の為に其犠牲たりしに外ならずとの真相を伝へらるヽに至つては、彼は又快然首肯して初めて瞑目しうべしと信ず、而して吾輩も亦毀誉の時と共に変ずるの玄旨に想倒して茲に無量の感慨なくんばあらざる也。*41
と書いてゐるのは、正に平八郎の寃を雪ぐものであり、平八郎の行動は茲に美挙として讃美されてゐる。天保の乱が与へた影響が決して一時的のものでなく、時に応じ機に臨んで遥か後世の人々にも深い感銘を与へた事実がここに明瞭とならう。
註
*29 事実文編 第五 二四○頁
*30 同 第五 二四一頁
*31 中尾捨吉「大塩先生論伝」(陽明学七号)参照
*32 日本随筆大成 巻五 七六○頁
*33 浮世の有様 三 二二二頁〜二二三頁
(管理人註◆ 「五月七日巡見の積りなりしに、其前々日の事なりしが、堀江問屋橋の北角・・・・等へ張紙をなす。其文言は、」から続くので五月五日のことと思われる。)
*34 羽仁五郎「佐藤信淵に関する基礎的研究」二○四頁参照
*35 橋本景岳全集 上巻 二四二頁
*36 明治文化全集 第五巻 自由民権編 一四○頁
*37 青天霹靂 三頁
*38 壮士論 三四頁
*39 岩波文庫「兆民選集」六二頁
*40 同 一五九頁
*41 民本主義の犠牲者大塩平八郎 一頁〜七頁
む す び
幕府政治に対する平八郎の攻撃的態度、富者に対する痛烈な糺弾、これらは幕府政治下の当時に在つて全く驚愕すべき行為であつた。彼が賊として取扱はれ、幕府のために重刑に処せられたことも亦避け難い運命であつた。新しき時代は彼に幸し、彼の行為と精神とに対する批判は、彼を遇した幕府政治への批判に向けられ、彼に対する敬崇の念は頓に昴揚した。併しながら、彼の行為は何時の時代に於ても適正し主張し得るものではなく、「天満水滸伝」が『抑も後素が願意は嘉すべきも、其行為の善らざるより、終に自滅を速くに至しなり、江湖の士、本編を繙く時は、宜しく此に猛省なし、凡そ志の嘉すべきも、苟且も其行の嘉すべからざる者は、乃ち之を為す勿れ。』*42 と評したのは聖代に生きる吾々が特に心すべき点である。併し彼の心中一点の私心なく、只救民愛国の赤誠に出でた行為であつたことは、高き称賛に値するところであり、これこそ広汎な意味に於て後代に影響するところがあつた重要な点である。大阪は乱によつて不慮の災禍を蒙つたとはいへ、平八郎の一挙が維新大業の先駆となり、それを導火点として爾後の歴史に光明と活力とを与へたことを思へば、その災禍に対してもこれを寛恕す」るに吝ではないであらう。
註
*42 天満水滸伝(明治十九年刊)序
井上仙次郎「今古民権開宗 大塩平八郎言行録」
木村雅寿「記塩賊」
安藤太郎「記賊焚」
有働賢造「大塩事件とその影響」目次/その5
大塩の乱関係論文集目次
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