Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.17訂正
2000.6.30
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大塩の乱関係論文集目次
「大 塩 事 件 と そ の 影 響」
その4
有働 賢造 (1907〜1945)
『江戸時代と大阪』 大阪宝文館 1943 所収
◇禁転載◇
四
乱に伴うた大火の影響は必然的に物価の暴騰を来し、浮説紛々として人心の帰趨は容易に鎮静を見ることができなかつたのである。
三月半ば頃に至りぬれば、米価次第に尊くなりて、悪き米一升二百五十文より外に出でぬるにぞ、貧窮の者は愈々口を糊する事能はざるに至りぬるにぞ、非人・乞食の類ひはいふに及ばず、諸人餓死する者少からずといふ。斯る有様なれば自ら人気も厚がましくなりて、届強の若者十人も十五入も一群になりて豪家へ到り、「空腹にて堪へ難し、食を与へられよ」と云ふ。この者共にあしく当らば忽ち大変に及ぶ(ふ)べき有様なるにぞ、何れも飯を与へ銭を与へ抔して、之に逆らはざる様にすといふ。何れも之に困りぬる様子なり。*19
茲に見るものは乱直後のものではないが、それだけ。乱後の処理が容易でなかつたことを知ることができる。乱後幕府は党与の追捕に努めるとともに、極力人心の鎭静を計り、世情の不安を釀す如き事象に対しては抑制を加へつつ、一方罹災民の救助に処置を急がねばならなかつた。剰へ二十日夜より翌日正午にかけて大風雨となり、罹災者の困苦は愈々甚だしく、大手前番場を指して集り来つた人々の呻吟の声は遠く玉造口土橋まで鬨の声の如く聞えたと伝えられる。二十一日幕府は、悪党所持の飛道具類残らず取上げた故安心する様にと町触して人心の鎭定を計らんとし、尚同日町触廻状を以て、手寄なき者は道頓堀芝居小屋へ来るよう、又銘々の渡世向日用差支へなきよう売買することを令して乱後應急の処置に尽くすとろがあつた。道頓堀芝居小屋を以て罹災者收容所とする外、火災を蒙らなかつた町々に命じて御救小屋を設けしめ、或は官金を頒つて難民に給する等、難民賑恤の処置が慌しく施されたのである。
四月中旬よりして別して米価上り、廿四五日の頃には二百四十匁余となリぬ。昨年以(已)来餓死者至つて多き事なりしが、騒動後より別けて多く往来するに、五人七人の餓死せし者見ざる日なし、道頓堀長町、日本橋、難波新地の辺は、仰山の事にて、日によりては角力場の辺に四五人許(計)りも一処に集め有りぬるに、其辺の犬之を喰ひ腸の出し有り、又橋の上にて飢え労れ弱りはてし乞食の著たるつゞれを外の乞食の逹者なるが之を剥取るあリ、昼夜共物貰ひの哀れなる声を致し、泣々内外をあるきぬるなど見るに、目もあてられず、聞くに耳を貫くが如し、昨日迄軒を並(竝)べし隣に住居せし者、今日乞食となれるも数多き事なりといふ。其上近来時候不順にてかゝる年柄なれば疫癘一統に流行て、毎家に大勢病臥せざるはなく、甚しきは五六日して死失せぬ。家に在りてさへ此の如き事なれば、御救小屋に在りぬる者などは悉く病臥して、日々人死する者多く、二便はたれ流しにて、一向に其辺には寄付き難き程の事にして、目も当て難き有様なりといふ。*20
御救小屋の閉鎖は実にこの年九月二十七日に及んでをり、この間災後の処置に対する官民の努力は、その中に富商の巨額に上る施与の美挙等を加へて漸次人気も鎭定し、米価も同年の大豊作を予想してヂリ下りに安定し、御救小屋閉鎖の頃には略々鎖静に帰したのであつた。
党与の検挙に対する幕府の苦心も乱後の処置の困難であつたことを物語つてゐる。乱後直ちにこれが追捕に着手し、人相書を配布し、四方に令して厳探に努めたが、それは『船にて九州路等へも逃行候哉と、津々浦々迄御吟味有之候 *21』と評する厳戒振りを示したのである。斯くして同月二十二日瀬田済之助が高安恩知山中にて自害せるを発見したのを手始めに、党類の捕縛・自首・自殺相踵いだにも拘はらず、首領平八郎父子の消息は沓として判明しなかつた。『右肝心の張本人未だ手廻り不申候故、衆人如何相成候哉と渡世向売買も余所に致し、銘々すはといはヾ疾く逃行く用意のみ致し、日夜危ぶみ居候事に候 *22』とはこの間の大阪市中の状態を写すものである。大塩父子の消息が不明であつたため、或は渡海といひ、又は甲山に楯籠といひ、或は切腹といひ、或は切利支丹の邪法を学び、妖法を遣って姿を隠したのだといひ、浮説区々として起つたのである。薩摩国へ落ち延び果ては平八郎が薩摩の軍勢と共に大阪城を攻むるとの風説さへ誠しやかに流布されたのであつた。斯うした状勢の下に幕府の探査も頓に緊張を加へた結果、三月二十七目幕吏は油掛町美吉屋五郎兵衛宅に潜伏する平八郎父子を襲つて、これを自決せしめたが、この間の緊張は噴飯すべき幾多の事件をも交へて、容易に世情の鎭静を見ることはできなかつたのである。平八郎父子の自害も従つて容易に信ぜられなかつた。
大塩平八郎未だ死なず、油掛町にて死たるは身代りの影武者なり。兼ねて内山彦三郎と心を合せ、諸人の難渋を救はんとて、自分は奉行を諫め、内山は中国・西国筋の諸侯を頼みて、米を漸々買出し来りしに、其米を直に江戸へ下して、当所の奉行を勤めぬる身分にて有りながら、その餓死するをも構ふ事なし、斯かる奉行は早く江戸へ引取るべしなどいひ、内山も之が為にすねて引込みて出勤せず、かゝる事にて江戸は却て米沢山に成りて、相場も大に下落し、其外の国々も至つて安し、当所許りかく米払底に及び、高価に及びぬる事は、全く奉行の業なりと言触らし、二代目の大塩平八郎米価を無上に引上げしを悪み、旗を樹て徘徊し堂島を焼討にすなど専ら言触せしが云々。*23
人心の不安想像の外なるものがある。九月十八日平八郎以下大阪に於て処刑され、乱は茲にその終局を迎へたとはいヘ、連累者の吟味は実にこの年終末に及んで尚完全な解決を見ないといふ状態であつたのである。
天保の乱に際しては、これが処刑に当たり特に罪三族に及ばざる寛典が施されたが、大阪市東区釣鐘町二丁目正福寺住職宗円(現住職の祖父)の妻ナオに関する事実はそのことを証する一事例となすことができよう。ナオは平八郎の妹であり、嫁して正幅寺に在つた。彼女は乱後奉行所に引かれたが、乱に関与するところがなかつたため免されて寺に帰つた。併し公儀を憚り、天満与力金井塚与四郎の好意により、その養女分として正福寺に入嫁するの方法をとり再び正福寺に帰住したのである。
註
*19 浮世の有様 三 一七三頁〜一七四頁
*20 同 三 二一九頁〜二二O頁
*21 同 四 一三頁
*22 同 四 一三頁
*23 同 三 二二六頁〜二二七頁
「御触」(乱発生後)その1
「大塩事件とその影響」目次/その3/その5
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