Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.3.14

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「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

肥後小人徒党

   
 







    ○天保八丁酉五月肥後国八代郡鏡村辺小児結徒党候人数書の写
    大将吉蔵 十三才
    算術名人六左衛門 十二才
    弁舌者宗太郎 十四才
右三人此度頭分、
    吉蔵舎弟伝右衛門 九才
    猿平 八才
    恵五郎 十一才
    三郎治 十六才
    弥太八 十三才
    権九郎 十二才 是は青立寺弟子雲海が事なり
右の外内意の者凡三十人計り、小川村川股山に籠り、米五十俵計り用意致し、銀子一貫目・馬十七匹、其外刀・脇差・槍等銘々所持致し、毎夜山中にて篝火を焚き集会致し申候由、五月下旬に至り何事なく相鎮まり申候。
 
 








右の書付は大坂より彼地へ行合せし者、此騒動を目の当り委しく見分して、写来れる書付なり。同人がいふ。

比度大将となりし吉蔵といへるは、小児ながらも至つて器量逞しき者にて、何事も総ベて比者の指図なる由。六左衛門といへるは算法に委しく、四書位の素読せし者にて、至つて才子也。此者軍師となりて、川股山といへる深山の明神の社へ楯籠り、五十人計りの子供を語らひ、近き内に軍始り此所へも攻来れる様子なれば、何れも其用意すべしと申合せ、徒党を結びしといふ。中にも宗太郎といへる者は、至つて弁舌者にて、比者説客をなす。

青龍寺の小僧雲海と申す者密に之を聞出せし故、「何卒われらをも其中へ加へくるゝやうに」と申しぬれ共、何れもこれを許す事なければ大に残念に思ひ、「如何してかさ程に我を嫌ひぬるや」と尋ねけるに、「坊主は脇指なし、夫故の事なり。切れ物をも持たずして軍はなり難し」といへるにぞ、

雲海これを聞きて忽ち脇指を工面し来りしかば、早速其中間へ入れしにぞ、還俗して権九郎と改名せしといふ。

三郎治といへるは中にての年嵩なれ共、至つて鈍き男なれば、右三人の者の指図を受けて走り廻る。されども至つて大力にて、鉄砲をもよく打つといふ。右五十人計りの者共党を結びし上にて、何れも他に洩らすまじき由誓約をなして、これ誓紙に相記す。

小児生れ出ると其儘に、何左衛門・何兵衛抔いへる名を直に付て、之を生涯改めざる土風なりといへり。

此度一揆を催すに付いて、「我は源の義経になるべし。其方楠正成と名のれ。我は太閣秀吉になるべし。然らは此方は加藤清正と名乗るべし。我は源頼朝にならん、我は武田信玄になるべし」と、銘々に古人名将・勇士の聞覚えたる処の名に改めて、これを連判状に書記し、名前毎に血判せしといふ。

子供のせし事なれは、をかしき様に思はれぬれ共、大人にて斯様の事に及ばゝ、深く心を用ひし事といふべし。此子供等大抵は両親とも有る者共にて、一人も片親にても之なき者なし。只大将となりし吉蔵計りは二親共に之なき者なりといふ事なり。

五十人計りの者共銘々申合せ、大勢一度に山中に集りては忽ち露顕する事なれば、大抵十人程づつ一組に成りて、両親・世間等を憚り、昼は外方へ遊に行く様に偽り、夜は人の寝鎮る頃よりして、何れも家を忍出で、又は心易き人の方にて泊りし様に持てなして川股山に会合し、軍をなすには剣術・力業は申すに及ばず、学文もなくしては、なり難しとて、竹木を以て何れも剣術の真似をなして、気根限りに叩合ひ、又は角力を取る抔し、拝殿に於ては六左衛門、大学・論語抔の教をなす、何れも吉蔵が計らひなり。

 
 
 
 
 









又軍をなすには武器は申すに及ばず、兵糧・軍用金の手当なくては叶ひ難しとて、槍・刀・鉄炮の類を盗取り、又は銘々の家々に所持せるを密に取出し抔して、明神の社へ取集め、鏡村より八代迄は二里計り隔りし所にて、常に人馬にて米穀の類ひを持運びぬるにぞ、途中に待伏し、馬士をば鉄炮にて打殺し、其死骸をば深く隠し、馬に付けし儘にて米を奪取り、又は常よりして八代より米を買入れぬる家の名を騙り、米入用なれは一駄の米を送るべしなど偽りて、これをそびき出し、嶮難の処にて前後共人家を離れぬる所にて、これを打殺して奪取り、人足にて持来れるは其者を打殺し、彼の力強き三郎治に命じて之を山中に取入れ、或は四五人もかゝりて米俵を引摺り行に、いつにに(ママ)時刻を考へ、八つ過る頃より鏡村を立出で、八代よりして米を持来りぬれば、大抵夜に入りて、彼待伏せし所へ程能く来やうになれる様になし、又米一駄送られよと八代に到り、夫々の家へ到りぬれ共、「今日は馬を牽いて行ける人なければ、明日に至りて送り遣すべし」といひぬるは、「夫にては間に合ひ難し、急に入用の米の事なれば馬をば、我等牽帰るべし」と申しぬるにぞ、何れも何某が子供等にて、よく顔を見知れる者共なれば、かゝることに及はんとは思ひも寄らざる事なる故、これがいへる儘に馬に米を附けて、子供等に之を托しぬる故、之を直に山中へ取込みぬ。

所々方々にて米を奪取られ、馬も人も行方を失ひ、又は鉄炮にて打殺されし死骸など谷底に陥り、川にかゝれる抔ありて、之れを見付けぬれども昨年来騒々敷時節故、山賊などの所為なら んと思へるのみにて、子供らが党を結びて、かゝる事あらんとは何れも思ひ寄らざりしといふ。

夏の事故、何れも深山の事なれば、山に行く人とてなかりしに、子供等も始の程は前にもいへる如く、忍びやかにせし事にて知るゝ事なかりしが、後には興に乗ぜし物と見えて、五十人計りの者共三四日も家を出て帰る事なく、昼夜山中に籠り、夜は大篝を焚連ねて騒ぎぬる故、其親毎に子供等の家出して帰来らざるを案じ、物騒の時節がら故、何れも之を尋ね廻りしに、川股山に大篝を焚連らね、大勢の循籠りし様なれは、此処に山賊集りて人を殺し、米を奪ひぬるものなるべし。

 
 








かゝる様なれば子供等が身の上も覚束なし、其辺に近寄りなば何れも命を失ふべければとて、この辺りへは一人も行く事なく、早々其由を熊本へ訴へ出しかば、直に其手当有つて、不容易事ならんと大勢の人数差向られしに、案の外なる事なる故、何れも呆れ果てしが、子供の事なれば一人も残らず之を召捕へ、「何故にかゝる事に及べるにや」と吟味有りしに、「近々軍始る故、其用意なり」と答へて、外に怪しき事なし。

彼連判状を取上て之を見れば、前文の通の事にて頓と分り難く、十七匹の馬は之をよく飼ひ立て、林の中に之を繋ぎ、五十俵の米は社内に積重ね、一貫目の銀子は地を穿ちて之を埋め、大石を其上に置きぬるといふ。

子供の所作にして、かゝる深山へかく取入れしも、よく心を用ひし事といふべし。五十俵の米と一貫目の銀子にて、兵糧・用金沢山のやうに思へる事に有らんかと思へるもをかし。此者共を悉く城下へ引行かれしかども、子供らの事にて何も取り締めたる事なく、党を結んで一揆すと雖も、未だ事をなすに至らず。されは迚天下の大禁を犯せし者を其儘にもなし置き難く、之を罪に行はんとすれば、頭人は漸々十三才にて、何れも之があと先にて、いづれも少年の者共なり。

 
 












之に依つて其処は申に及はず、此事を見聞せし者共迄深 く口留となりて、此噂する事をば厳しく停止申付られ、子供にしてかゝる事を思ひ立ぬる程なる者共なれは、程よく仕込置なば成人の後は、一がど用に立べき着共なるべしとて、一人づゝ家中の内にて之を召抱となりて、世間へは深く隠し、密に取治めしといふ事なり。

彼らが循籠りぬる節、明神の辺の掃除等立派に行届き、両便等も所を定め、少しも不浄にて其辺を穢したる処なしといふ。其外煮焚等の事迄もよく行届きぬる事、奇妙なりといふべし。こは全く時運の然らしむる事ならんと思はる。

    ○昨日は寛々奉得尊顔大慶不斜奉存候。彼是在方騒動の始末、今日先方より書状著、猶又昨日私方より飛脚差向け候処、漸く只今帰宅仕り、委細の訳相鎖り申候。誠以て騒動実説、近き内罷出御噺可奉申上候。先以て私共在方何れも無事安堵仕候。乍恐御休意被遊可被下置候。此程五日出の書状奉御覧候。御覧可被下置〔候脱。以上

      七日賀                中西用助

 
   


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