Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.1.27

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『洗心洞箚記』 (抄)

その1

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

序 説

一 生 涯 (1)

 修己治人の儒学が詞章訓詁に膠着するに至つて、茲に性理学興り、性理学が末義形式に固滞するに至り、茲に陽明学興る。我邦に入つては中江藤樹之を学と徳との上に闡発し、熊沢蕃山之を実行の上に発揮す。既にして世運小康に就き、諸学勃興し、滔々たる余勢は道と遠ざかり、行と離れ、混々として頽唐的徳川文化の末季に流入せんとす。此の時に当り東に佐藤一斎を出だし、西に大塩中斎を出だしたるは頗る奇観に属す。而て一斎が順潮に棹せるに反し、中斎が変化狂瀾を捲く底の一生は、百年未だ公論の帰一を見ざるの感あり。吾人は仔細に其人を究めざる可らず。而て洗心洞箚記は、其の思想学説の中枢たり。今之を訳解せんとするに当り、先づ其の生涯・学風・著書等の大概を序読せんとす。

 中斎、姓は大塩、名は正高、後ち後素と改む、字は子起、始め連斎と号し、中斎と改む、平八郎は其の通称なり。またその家塾を洗心洞と名づけ、自ら洗心洞主人といへり。後素及び子起は之を論語に取り、連斎は魯仲連の義を慕ふに因り、洗心洞は易の繋辞に「聖人以此洗心、退蔵于密」とあるによる。父は平八郎敬高、母は某氏、其の先は今川氏に出づ。中斎を徳島藩の家老稲田九郎兵衛の臣真鍋市郎の二男にして、寛政六年阿波国美馬郡脇町(今の岩倉村字新町)の産となすは、祖父政之丞政余と混同せるもの、今これを取らず。

 中斎は寛政五年正月二二日大阪の天滴川崎四軒屋敷に平八郎敬高の二男として生る。七歳の時父に死別し、翌年母亦た永逝せり。幼にして英智慧敏の資質を備へ、長ずるに随ひ、読書を嗜しみ、武を好み、其の進歩亦た見るべきものありしも、一面荊棘の道を歩めるためにや、短慮過激の風あり。祖母之を患ひて住吉明神に起請すること三七日、古物商より古本大学外数本を購め、請ひにまかせて之を授け、其の読方を教へたるに、中斎之に耽りて粗暴の風漸く息みたりと。中斎と王子とが結ばれしは、此の時に始まるか。


『洗心洞箚記』目次/その2

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